人は自らの中に必ず可能性を持っているのです! 07-6月号 内田伸子インタビュー


内田 伸子(うちだのぶこ)
発達心理学者(学術博士)。お茶の水女子大学副学長。日本学術会議会員。21世紀COEプログラム<誕生から死までの人間発達科学(2002)>では拠点リーダーを務めた。城戸奨励賞(日本教育心理学会)読書科学賞(日本読書学会)など受賞。主な近著:「発達心理学—ことばの獲得と教育」岩波書店(1999)、「誕生から死までのウェルビーイング—老いと死から人間の発達を考える」金子書房 (2006)など
。
--------------------------------

八木 先生は公私にわたりたくさんの役割をこなしておられ、分刻みのスケジュールと拝察しますが、子育てではご苦労があったのではないですか?
内田 子育ては時間ではなくて心ですもの! 向き合える時には全力を傾注しました。読み聞かせに力を入れ、平和教育は必ずと思っていたので、フランクルの「夜と霧」を読んだらホロコーストミュージアムを一緒に訪ねたり。研究フィールドに連れて行くこともありましたよ。そして行き帰りの時間に様々な意見交換をしました。
八木 社会の仕組みが子育てしづらい世の中といわれて久しいですが?
内田 いま、子どもの育ちがおかしくなってきていますよね。この背景には、良く知られるように経済成長の翳りに伴う女性の生活時間の変化、塾と学校のWスクール、0歳児保育やベビーホテル、お弁当屋さんやコンビニの隆盛などが挙げられます。ほかほかのご飯は有り難いし結構なのですけれど、食べ物を買ってくるように教育もしつけもアウトソーシングするという指向になってき

たわけです。2歳くらいの自我が目覚める時期には、大切にされ愛される体験が大変重要なのですが、英語の早期教育などを受けさせ、それが大切にすることだという意識になっていますね。
八木 「大切」にし過ぎることが母子癒着、ひきこもり、いじめ、少年犯罪に関係しているともいわれますね?
内田 新潟少女監禁事件、酒鬼薔薇事件などを代表として、父親不在や家庭での父の居場所の無さが介在します。幼児期に母の愛を充分に受けて育った後、思春期は価値観が育つ時期。人生を共に歩む先輩といった態度の父親の存在が必要ですが、裁判官のように一方的に批判する、こどものトラブルを金で解決する、教育サービスを買うといった方法論しか持たないというふうに親自身の社会的孤立も大きい。こうした状況下では親自身に自尊感情が持てないので、こどもの自尊感情は育たないのです。
 ただ統計データと世の中の意識の齟齬もあります。少年犯罪について見ると一九七五年頃を境に、それまで年間四百件程度だったものがぐっと減ってきて、二〇〇五年では実は百件ほどになっている。この間に貧しさゆえの止むにやまれぬ犯罪から中産家庭の問題へと質の変化もありました。普通の家の子がという衝撃がマスコミに大きく取り上げられ、少年犯罪法の適用年齢の引き下げなどと相俟って凶悪化の印象が植え付けられていきました。実際には犯罪そのものが悪化したというよりモラルパニック現象ともいえるもので、得体の知れぬ不安が犯罪が増えたという感覚をもたらすのです。
八木 児童虐待相談件数のほうは、残念ながら増加の傾向をたどっています。
内田 虐待件数は一九八〇年頃は1千件程度だったのが、二〇〇〇年では1万件、二〇〇六年で3万4千件と上昇しています。虐待の多くを占めるネグレクトは、育児不安、母子関係不全が一番の問題といえます。虐待をしてしまう高学歴の母親達に共通の傾向として、育児書を読み、しっかり準備を整えてこどもを迎えたけれど、うちの子は本と違う、可愛いと思えない。また、自分にはしたいことがあるのにできない。その上泣かれるとイライラするといった連鎖です。こうした事例を探ってゆくと、親が育った経過の中にも必ず同様のことが見られます。
八木 先生は長年にわたって被虐待児の育ちの研究をなさっています。ご著書の中に、育児放棄から同時に救出された姉弟の間でその後の対人関係指向の差を決定づけたものに、母親に抱かれ授乳を受けた経験の有無がある、という部分がありました。身体教育の立場から見ると、身体的関わりの役割を物語る良い例だと考えますが?
内田 二十年間追跡した事例ですね。この事例に関わる中でわかってきたことの一つに、ヒトが生き延びるために進化の中で身につけたのではないかと思われる「ゲノムプログラムの凍結と解凍」があります。
 虐待事例でこどもの側に生じる特徴の一つに極端な発達遅滞があるのですが、PSD (psychosocial dwarfism)といってストレスで成長ホルモンが止まってしまい身長や体重、さらに知的な発達も止まってしまうのです。これは、母性つまり保護本能を刺激し続けるために小さいまま・弱いままでいようとする一種の防衛とも考えられます。
八木 生き残り戦術としては成功のように思いますが?
内田 ところが、母親の側でも愛着を深めてゆく肝心な時に、抱きつかない、自分に関心を示さない、といったことが起こるのです。すると可愛くないからネグレクトや身体的虐待にあう。栄養や愛情などが複合的に不足して発育不全に陥り、病院などにやって来て初めて虐待の存在が見えてくる。「健康」な育ちの場合、育ちに応じた適度なストレス(漸進的母子分離体験など)により、お母さんがいなくなる不安を泣いたりしがみついたりしてきちんと表現しつつ、戻ってくることを信じて我慢もできるといったストレス耐性ができる。つまり、情緒経験、対人感情、エピソード記憶などをコントロールする海馬や扁桃体内で、順序よく神経ネットワークがつくられてゆきます。しかしあまり早い時期で分離が強すぎると、一時的に細く柔らかい神経繊維ばかり繁ってしまう。その後軸索という防護壁が育ってネットワークが確定される時に十分太くないものは刈り込まれてしまい、逆に他者には関心を示さなくなる。運良く刈り込まれなくても、ひ弱で不安定なネットワークだけが残ってしまうのです。被虐待児の大脳辺縁系は12%も萎縮しているというデータもあります。
 先ほどの事例の場合、救出された時すでに5歳児と6歳児であったにもかかわらず、身長体重は1歳半程度。泣く時には声を出して泣けない、という状態でした。藤永保先生をチームリーダーとして、わたしたちはお茶の水プロジェクトチームを結成して、環境改善、各種療法、言語発達や数の概念の発達促進に取り組みながら、一般的社会的生活ルールを学んでもらう努力もしました。例えば、ボールのやりとりは、受けてくれる、返してくれるという信頼感がないと出来ないのですが、こうした運動発達との関わりでも運動生理学の阿久津先生にお願いして回復のための教授学習プログラムを展開しました。
 そして救出後から十八歳までの二人の身長の発達速度曲線を、男女それぞれの全国平均と重ねあわせてみると、生まれてから辿るべき伸び率の変化パターンをすべて辿りながら追いついているのがわかったの。身体発達だけでなく、社会的相互交渉の手段としての言語獲得のプロセスは、圧縮され、きわめて短期間に爆発的にほぼ平均的なレベルに追いつきました。その他永久歯の出現など、凍結していたプログラムが一気に解けて発動していったんです!!
八木 劇的ですね。まさに冬眠からさめたかのようです。しかし、外国語の習得などで知られるように、臨界期というのも存在するのでは?
内田 確かに、ある種の情報処理、たとえば生活の中で知らぬ間に身につけるような文法の変換ルールや語感のなかに、追いつけない部分も残されました。一方、保育者との相性という要因を見直すことで解決した事柄もありました。
 虐待メカニズムの解明と予後への介入・追跡の成果から、わたし達は大きく3つのことを学べると思うのです。一つは、大人との愛着の成立が言語コミュニケーションや対人的適応の準備段階として不可欠であること。次に、情報処理や認知には個人差があるので、こどもの特性に応じたアプローチが必要です。未知のものに出会った時に振り返って社会的参照を求める子には「大丈夫、恐くないよ」、じっと対象から目を離さない子には「何だろうね。面白そうだね」など、母親は子どもの個性や関心にあわせてことばかけを変えています。自発的に子どもに合わせているというのは素晴らしいことですね。そして三つめは、初期の環境のみが発達の決定因ではなく、やり直しや修正がきくということです。
八木 最後に読者へのメッセージをお願い致します。
内田 事例の姉は「私は暗記力がないのですぐには覚えられない。でも時間をかけて覚えられる」と書いていました。二人とも現在は素敵な家庭を持っているのですよ。そして心のこもったお手紙もくれるまでに成長しました。
 発達初期の栄養不給や遺伝的な負因などが原因で、たとえうまく発動しないプログラムがあったとしても個別の工夫や支援、意志の力で充分解決することができる、豊かな人間関係を育むことが出来るという、人間にはすばらしい可塑性と可能性があるのです。教育に携わる方々にもお母さんたちにも、どうぞ、いま目の前にいるこどもの育ちを喜びながら、こどもとの関わりを楽しんでくださいと伝えたいですね!! (二〇〇七年三月二十八日インタビュー)