わかちあい、ひとりたち、ときはなつ


集団、グループとは、ある共通の目標や目的を持つ個人が集まっている状態やその機能をいう。多様な個人の集合体であることから、ひとりではできないことが実現できる。所属の安心を与えてくれるが、「まとまり」があるほどそこに醸成されるノルム(規範)へのこだわりも強いものであるため、圧力も大きい。そしてこのノルムには、目に見えるものと目に見えないものがある。普段は意識しないことも多く、別の集団にであったとき、別の規範と衝突したときなどに初めて気づく。
 野山を駆け巡る、地域の遊び集団が健在だった頃、遊びの種類によって先頭となる子どもが交替していたように思う。また、インフォーマルな集団では事態が膠着すると、「しょうがないなぁ」などと誰かが音頭取りを始め、たとえその音頭取りが拙くとも、構成員自身がさらにこれを支えつつうまく音頭を「とられ」てゆく。集団は、構成員が望む状態へと集団を方向づけるように先導・伴走・後押しする行為、つまり「リーダーシップ」を生み、育てる。
 従来「学校」や「クラス」はノルムを伴う集団が持つ、「個を後おしする力」や、多様な個性が関わりあったときに生まれる「化学反応」などからなるグループの総合力を充分体験し、育てる場であった。その学校で、少々不思議な光景が見られる。
 大学2年生のアカデミック・プランニング・アドバイス面接での1コマ。
 「先生、うちの学生って、本を読まないと思いませんか?」「あら、そうなの。あなたはどう?」「えぇ。読みたいとは思うのですが、ひとりで本なんか読んでいると、雰囲気が悪いと言うか…。空気を読まないといけないので。」「読みたい本があっても、皆が読まないと読めないの? でも、個人の時間は自由じゃない。家で読めばいいわよ。」「先生、わたしルームシェアしているので、相手が本を読んでなければ、やっぱりダメです。」「……。」メールに即座に反応しなければグループから外される(気がする)。グループをまとめようとするとKYといわれる(おそれがある)。「グループの力」の一側面ばかりに押しつぶされそうである。
 地域に目を向けると、様々な生きづらさを持った人たちやそのサポーターたちの間での「グループの力」の見直しと活用が盛んである。人はひとりひとり固有の世界(観)に生きており、なかなか、その世界の景色を他者のそれと重ね合わせてみることができない。グループワークを進めてゆくと、あんなに「自分だけが…」と重荷に感じていたことにも多くの同感者がいたりする。逆にある条件について等質であるグループの中でも、1つの事象についての多様な受けとめ方があり、「思い込み」から解き放たれることも多い。
 上智大学・岡知史氏はセルフ・ヘルプ・グループのなかで展開されるプロセスを、「わかちあい・ひとりだち・ときはなち」と整理している。「わかちあい」では、グループで同じ体験をすることにより、メンバー間で気持ちや考え方を共有できる。次に、メンバーから寄せられた多様な選択肢から自分で選択ことで「ひとりだち」できる。更には、「わかちあい」で自分の受容と尊厳が体験され、「ときはなち」に繋がるという。こうしたグループにはファシリテーターやリーダー、ワーカーといったプロセス支援の専門家あるいは経験者が介在することが多い。我々が関わる身体教育の領域では、即興的・自発的表現を促進し、見る・見せる関係を豊かに活用することを通じて次のステップにすすむことを目ざす。そのためのヒントは、グループの力をどう理解するかということの中にも潜んでいそうである。

*岡 知史(1996)『セルフヘルプグループ―わかちあい・ひとりだち・ときはなち』星和書店