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オバマ勝つ

アメリカ大統領選で民主党候補のバラク・オバマが圧勝した。

オバマが生まれた1960年代、
「黒人のアメリカ合衆国大統領」はSF…というと語弊があるが、
空想未来小説のテーマでしかなかった。
(黒人大統領誕生を描いた「The Man」というアメリカ映画があったはずだ。)
それから40年あまり、黒人大統領の誕生は、ぼくの予想よりも遙かに早く現実となった。
テレビの画面を通じてではあるが、まさに「歴史的瞬間」に立ち会ったという高揚感を覚えた。

もちろん、オバマが…黒人だからという理由で…必ずしもアメリカ社会の「変革者」になるとは限らない。
アメリカを世界最凶の「ならず者国家」に導いたブッシュよりは遙かにマシなはずだが。
それでも、様々な既得権益が網の目のように張り巡らされているはずの巨大国家アメリカにおいて、
オバマに何ができるかは全くの未知数である。
ぼくはオバマが「アメリカの衰退」という世界史的な現実を受け容れ、
衰退へのソフト・ランディングを志向した政策を打ち出すことができれば、
彼は歴史に残る変革者、偉大な大統領になるだろうと考えている。
そこまではいかなくても、今回のアメリカ国民の選択は、「戦争に至る道」を回避した可能性が強い。
アメリカが風邪を引けば日本がくしゃみをするのが現実だから、期待はしないが、見守っていくしかない。
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後味が悪い“結末”

いわゆる「ロス疑惑」の三浦和義さんが自殺した。61歳だった。
ニュースを知って、ぼくはちょっとしたショックを受けた。
あってはならないことが起きた、と思った。

「ロス疑惑」が世を騒がせていた頃、ぼくは朝の奥様向け情報番組を担当していた。
三浦さんというのは(ぼくは一面識もないが…)実に奇妙な人、いま風に云うなら「困ったちゃん」で、
疑惑の渦中にありながら何かと派手に振るまい、敢えて衆目を集めるような奇矯な行動を続けていた。
彼が何かやらかすたびに、民放のワイドショーが大騒ぎし、ぼくらの番組の視聴率はがくんと落ち込んだ。
ひどく苦々しい思いで、「三浦和義という理解を絶した人物」を遠目に眺めていたことを思い出す。

しかし、彼がいくら「変な人」であったとしても、
そのことと彼が「有罪」であるかどうかは何の関係もない。
ぼくは自分が調べたわけではないから、彼の「妻殺し」が事実かどうかについて語るべき言葉を持たない。
むしろ、マスコミの報道でしか事件を知らない者が、
例えプライヴェートな場であっても妄りにそうした発言をすべきではないと考えている人間である。
ただ、ひとつだけ云えるのは、
明らかになった証拠から判断する限り、「彼を有罪にするのはとても無理だ」ということだ。
(事実、殺害事件に関しては、最高裁で無罪が確定した。)
三浦さんが実刑判決を受けて収監された「殴打事件」にしても、
確か証拠といえるものは「元女優」だとかいう女性の証言があったきりで、
これで有罪判決はいくらなんでも無理筋だろうと思ったものだ。
何がなんでも三浦さんを有罪に持ち込みたいという国家権力の意志、
最近なにかと問題になっている「国策捜査」と似た臭いをそこに嗅ぎ取ったのである。
念のために言っておくが、ぼくは「ロス疑惑」が「冤罪」だと主張したいわけではない。
「疑わしきは罰せず」という法の大原則がある以上、彼は「無罪」だと云っているに過ぎない。

だから、事件発生から27年もたって、アメリカで逮捕されたときには呆然とした。
三浦さんには何の義理もないが、そんなのありか、と腹立たしくさえ思った。
殺人罪については「一事不再理」の原則から云って訴追はできないが、
日本にはない「共謀罪」についてなら訴追が可能だという理屈は、詭弁というべきだろう。
三浦和義という人に関して云えば、
「疑わしきは罰せず」「一事不再理」という法の大原則がふたつながら無視されたことになる。
20年がかりの「疑惑」は三浦さんの自殺というかたちで幕を下ろしたが、後味が悪いことこのうえない。
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北京オリンピックの閉幕に思うこと

北京オリンピックが閉幕した。
いつもならオリンピックの中継などあまり見ることはないのだが、
今回は仕事もあり、また、オリンピックを機に突然“愛国心”に目覚めた妻の意向もあって、
(なんだか世界中の中国人がみんな突然「愛国者」になった気がする笑)
とりわけ開会式と閉会式はその一部始終を見ることになった。
張藝謀が演出した開会式は、とかくの批判もあるようだが、客観的にみて大成功の部類ではないか。
しかし、閉会式の方は(こちらも張藝謀の演出)、息切れしたのか、コンセプトの混乱が感じられた。
あの宙づりの「仮面ライダー」たちは、いったいなんだったんだろう…?
そして、ぼくが一番驚いたのは、
閉会の挨拶に立った大会委員長(中国人)が開口一番「尊敬する胡錦濤国家主席」と言ったことだった。

ぼくの(たぶん大多数の日本人の)感覚から云えば、
謝辞を述べるのにまず内輪の人間からという法はない。

中国ではそれが礼節に適うとされている、ということでもあるまい。
ひどく違和感を感じたのと同時に、
ぼくは、北京オリンピックにまつわるもやもやした感じが、この言葉で一瞬にして腑に落ちた気がした。
ウイグルやチベットの独立派(それが必ずしも多数派だとは思わないが…)に対する力づくの弾圧、
オリンピックの開催中にただ一件のデモも許可しなかったこと、
度重なった報道陣に対する取材妨害
そして、「不測の事態」に備えたのだろう、
マラソンの中継をリアルタイムより5秒、閉会式の中継を3秒遅らせて放送したこともあわせ、
(中国国内向けの放送のみを遅らせた。
 何か都合の悪いことが起きれば、即座にカットするつもりだったのだろう)

ぼくには、中国当局がなぜそんなことをするのか、まるで理解できなかったのである。
そうしたことをやれば、
国際的に批判を浴びたり顰蹙を買うことはあっても、
中国にとってプラスになることは何もないはずである(そして、事実その通りになった)。
後先を考えない(としか思えない)中国当局の対応の政治的な稚拙さに、ぼくは呆れ果てていたのである。

それが大会委員長の挨拶で、突然、理解できた。
彼ら(中国の当局者)にとって、国際的にどう思われようと、そんなことは関係なかったのである。
彼らが問題にしていたのは、内部=組織の上層部がどう評価するか、それだけだった。
これ、即ち、「官僚主義」である。

官僚主義に冒された組織では、物事は「本来の目的」の文脈では評価されない。
「何のためにやるか」は等閑にされ、組織の内部でのみ通用する「内向きの論理」が優先される。
多くの場合、「問題が起きない」ことが第一の優先事項で、つまり評価基準が減点法になる。
官僚主義社会においては、
積極的に評価されるべき何かを実現するより、「マイナスがない」ことの方が大切なのである。
だから、問題になりそうな芽は、(国際社会がどう思おうと)事前にすべて摘み取ってしまった。
大会委員長の挨拶は、
中国社会(とりわけ、その中枢部分)が、
上(その頂点には胡錦涛国家主席がいる)の顔色ばかりを見ている、
度し難い「ヒラメ人間」たちによって構成されていることを図らずも明らかにしなかったか。
権力は必ず腐敗する。
一党独裁の絶対的権力は絶対的に腐敗するのが道理である。
思えば、「社会主義がなぜ官僚化するのか」は、30年前に書いたぼくの卒論のテーマだった(笑)。
中国はいま、社会主義の最も悪いところを抱えたまま、資本主義化の道をひた走っている。
その矛盾が遠からず爆発するだろうと、華やかなセレモニーを見ながらぼくは予感していた。


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喜べない「勝訴」

きょう、「ETV2001(女性国際戦犯法廷)」の番組改編をめぐる最高裁の判決が出た。
結果はNHKの逆転勝訴で、
改変によって当初の説明とはまるで違う番組になってしまったとして
取材協力者の「期待権」を前面に立てた原告市民団体の主張は退けられた。
判決は「期待権」を原則的に認めず「表現の自由」を重視したもので、
NHK側とすれば「全面勝訴」といっていい内容だが、どうも素直には喜べない。

ぼくたちは番組の制作に際して取材対象との信頼関係を大切にする。
しかし、「期待権」を無闇に振りまわされると、
取材協力者の「期待」に応える番組、つまり「PR」以外の放送はできなくなってしまう怖れがある。
そうなればジャーナリズムは実質的に死ぬ。
「期待権」と「表現の自由(報道の自由)」とをどこでどう折り合わせるかが問題なのである。
そういう意味で、
NHK側の敗訴となった東京高裁(2007年1月29日)の判決は緻密な論理構成となっており、
ぼくたち制作現場の人間をも充分に納得させるものだった。
一般論としては「表現の自由」を「期待権」の上位に置きながら、
そのかねあいを個別具体的な事情のなかに求めたのである。
問題となった「ETV2001」においては、
NHKの当時の首脳部が政治家の「意図を忖度して」、
「できるだけ当たり障りのない番組にすることを考え」たと事実認定したうえで、
これは「憲法で保障された編集の権限を濫用し、又は逸脱したもの」であるゆえに、
このケースでは期待権の優先を認めるというものだった。

ぼくのような現場の人間には、
(新聞報道で名前の出た)中川昭一、安倍晋三といった政治家が
NHKに明示的な「圧力」をかけたかどうかは知る由もない。
しかし、当時のNHK首脳部が「圧力を感じていた」ことは間違いない。
そう考えなければ説明がつかないほど「異常」な対応であった…

通常、番組内容の最終的な決定はチーフ・プロデューサーが行う。
番組内容が微妙な問題を含んでいるときには、制作現場の責任者である部長が判断を下すこともある。
(従軍慰安婦問題を扱った「ETV2001」は明らかにこのケースだ。)
番組制作局長や放送総局長などの首脳部が、番組の試写を見たり、内容に介入することは通常はない。
部長がOKを出したものを首脳部の意向で改変させた「ETV2001」は極めて異例であり、
少なくともぼくは他にそうした例を知らない。
さらに、その改変にあたって、
場面のカットやナレーションの書き換えなどに中心的な役割を担ったのが、
制作ラインに属さない「国会対策担当の幹部」であったことも極めて「異常」なことである。
そして、そうして出来上がった番組を、
放送当日になって、今度は現場の人間を外したなかで、さらに3分間切った。
もはや音を整えるだけの時間的な余裕がなかったために、
数ヶ所で音がブツ切れになった、無残な「欠陥商品」として放送が行われたのである。
繰り返すが、こうした一連の経緯は極めて「異常」であり、通常では考えられないことである。
そして、「異常」は放送後も続いた。
当時のNHK首脳部は、こうした一連の対応を「通常の業務」だと強弁したのである。
書いてきたように、
「ETV2001」改変の経緯はNHKのなかで「普通に行われていること」では全くない。
それを「通常の業務」だというのは、内部の人間の目からみれば明らかに「嘘」である。
さらに、朝日新聞がこの改変問題を報じたときに、
「7時のニュース」のなかで10分以上もかけて反論し、記事を「虚偽報道」だと決めつけた。
この過剰としか言いようのない対応ぶりもぼくを驚かせた。
NHKのニュースがかくも“感情的”だった例をぼくは知らず、まさに「異常」だったといわざるを得ない。
そして、東京高裁の判決時のニュースがまたNHK側の見解のみを伝える一方的なものであり、
先日、BRC(放送と人権等権利に関する委員会)において、
「公平、公正を欠き、放送倫理違反」だと認定されたばかりである。
こうした「異常」な対応を繰り返してまでNHKの首脳部が守ろうとしたもの、
あるいは糊塗しようとしたものは、一体なんだったのだろうか?

今回の最高裁判決は、
こうした「異常」を「表現の自由」の名の下に追認してしまう可能性が強い。
取材協力者との信頼関係も、
現場の作り手の努力やこだわりとも関わりなく、
首脳部の恣意によって報道内容が捩じ曲げられてしまうのだとしたら、
そこに残った「表現の自由」には果たしてどれほどの意味があるのだろう。
もともと「表現の自由」とは「権力からの自由」であったはずである。
今回の最高裁判決は、法学の教科書に必ず記されているはずの「原点」を忘れ去ってはいないだろうか?


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憂国

映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題が議論を呼んでいる。
ぼくは、当初、自民党の稲田朋美議員らが事前試写を要求したときから、
こうした議員の言動が“なし崩しの自主規制”の連鎖を生み出すことを懸念していた。
残念ながら、いまのところ、事態は懸念した通りの経緯をたどっているようにみえる。
そして、今度は、有村治子議員が「映画に登場する刀匠は出演を承諾していない」と言い出した。
ぼくはドキュメンタリーの作り手の一人として、さすがにこれは黙っていられないので、この場に書く。

「靖国刀の最後の作り手」であるこの刀匠の姿を記録した映像は隠し撮りされたものではない。
ということは、明らかに「出演を承諾した」のである。
撮られることを承知していた以上、「肖像権」などという問題にはなり得ない。
これがまず議論の大前提である。
問題は「作品が(刀匠氏が)期待していたものとは違うものに仕上がった」ことの是非である。
一般論としていうが、作品が出演者の「期待とは違うものになる」ことはままあることで、
もっとはっきりいえば「当然のこと」である。
ドキュメンタリーは作り手の主観によって事態を切り取り、主観によって編集される。
「靖国」をめぐる議論のなかで「ナレーションがないので客観的」という評価があったように思うが、
とんでもない話で、ナレーションがあろうがなかろうが、ドキュメンタリーは「客観的」ではあり得ない。
出演者は云わば「素材」で、料理人(この場合は李纓監督)がそれを自在に料理して「作品」に仕上げる。
自己認識と他者による評価に落差があるのは当然のことなので、
作り手によって解体され、意味づけられた出演者が「作品は自分が考えていたものと違う」と思うのは、
ドキュメンタリーの現場では日常的に起こっていることだ。

では、出演者が「自分の期待と違う」と考えたときに上映(放送)を拒否できるか?
意外に思われる方もいるかもしれないが、基本的には「NO」である。
かた苦しい言葉でいうなら「編集権」の問題で、
これが保障されなければドキュメンタリー(「ジャーナリズム」と言い換えてもいい)は成立しない。
平たく云えば、
「出演者の期待通りに作るドキュメンタリー」などというものはそもそもない。
それはもはや「ドキュメンタリー」ではなく、「PR映画(番組)」なのである。
…おわかりいただけるだろうか?
だから、NHKでもどこでも、
出演者から「事前に(編集を)見たい」という要請があったときには断っているはずである。
事前に見せて上映(放送)していいかお伺いを立てるなどは表現者(ジャーナリズム)としての自殺行為、
むしろ「やってはいけないこと」だと考えられている。

もっとも、いうまでもないことだが、それは作り手が「何をやってもいい」ということを意味しない。
「自在に料理する」からこそ、出演者との信頼関係が大切だし、制作者の誠実さが問われる。
もちろん、嘘をついて(制作意図を偽って)出演させることが許されるわけではない。
そのあたり、実はグレーゾーンがかなりあるので、いつも微妙な問題になる。
「靖国」に即して云えば、
李監督が「靖国」の「や」の字も出さず、
「日本の刀鍛冶の仕事を記録したい」と出演交渉をしていたとしたら、それは問題だろう。
しかし、報道によれば、李監督は「靖国刀を作るところを撮りたい」ときちんと伝えている。
「靖国刀作りを撮りたい」と伝えているのであれば、
それが小泉元首相の靖国参拝の映像とモンタージュされようと「嘘」をついたことにはならない。
90歳の老刀匠氏には酷な言い方になるかもしれないが、
「靖国刀」には当然「靖国」ならではの政治性がつきまとうのであって、
「日本の伝統美術を映画にすると思っていた」(NHKニュースより)という言い方には無理がある。

さて。
長々と書いたが、実はここまでは序論…というか議論の前提を明らかにしたにすぎない。
問題はここからだ。
ドキュメンタリーが上に記したような性格を帯びているとするなら、
有村議員が刀匠氏に「出演を承諾したか」を訊くことにはそもそも何の意味もない。
繰り返すが、彼は明らかに「出演を承諾している」からだ。
出演した結果が「自分の意に沿わない」としても、それをもって「上映するな」とはならないからだ。
では、なぜ有村議員は、わざわざそのような無意味な質問をしたのか?
「国民の選良」たる彼女が理非を弁えない単なるマヌケだったということになるのか?
もっとはっきり言おう。
彼女(有村治子参議院議員)は、
国会議員が、自分たちが問題視している映画の出演者に「出演はあなたの意志か」と問うことが、
実質的な「圧力」になるとは考えなかったのだろうか?
もしそれを承知でこうした「パフォーマンス」を演じて見せたとするなら、極めて悪質である。
そんなことは考えもしなかったというなら…あまりにも程度が低過ぎる。

ぼくはこうしたレヴェルの人物が国会議員であるという現実を、この国のために憂えている。
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田中真紀子と鈴木宗男

参議院選挙で自民党が大幅に議席を減らした。
新聞各紙は「歴史的大敗」だと報じている。
ぼくは「小泉自民党の惨敗」だと思う。
もちろん思い違いでも書き間違いでもない。
一人区の議席を軒並み落としたことに象徴されるように、
自民党の金城湯池であった「地方」が叛旗を翻したのである。
これは三位一体改革など小泉政権の地方切り捨て政策に対して、
地方の有権者が遅まきながらノーを突きつけたことを物語っている。

昨夜の選挙報道のなかで面白かったのは、
TBSだったか、田中真紀子と鈴木宗男を同時に出演させたことである。
(鈴木宗男は中継での参加だったが…)
この二人の「元自民党有力政治家」は
小泉政権時代の外務省をめぐる対立からの不倶戴天の関係にあるが、
今回の選挙ではともに民主党と共闘した。
キャスターにそのあたりを問われた鈴木宗男は、
「大人の対応」をみせて田中真紀子に対して下手に出たが、
田中真紀子は鼻も引っかけずに黙殺した。
…やっぱり女はコワイや(笑)。

この二人は、
今回の選挙戦を自民党人脈の内紛、
つまり「旧田中派と旧福田派の戦い」として捉えていた点でも共通している。
田中真紀子は昨夜の番組でも
「積極財政の田中派 対 緊縮財政の福田派」だと語っていた。
この表現は多少乱暴だし、
田中真紀子の口から発せられると私怨のにおいを拭えないが、
動物的嗅覚に優れた人だけになかなか本質を穿っていると思う。

自民党を“本籍地”とする保守政治家のうち、
軍事外交的にはハト派で(例えば「親中国」的な姿勢)、
経済政策としてケインズ的な「地方への富の再配分」を推進したのが旧田中派で、
小沢一郎以下、現在は民主党に流れ込んでいる人が多い。
それに対して、
タカ派的性格(「反中国」意識が強く、改憲志向)が目立ち、
「地方・弱者切り捨て」の新自由主義的な経済政策を標榜するのが、
小泉純一郎、安倍晋三と連なる旧福田派人脈なのは間違いない。
民主党にはかつて田中派の宿敵だった旧社会党人脈も流れ込んでいるが、
実は「田中派」と「社会党」は一枚のカードの裏表みたいなもので、
配分の比率をめぐる争いはあったとしても経済政策の面ではさほど違わない。
(それだけ旧田中派の政策が「社会主義的」だったということでもある。)

田中真紀子や鈴木宗男風に云えば、今回の選挙は「田中派の勝利」である。
小泉的な地方切り捨て=弱肉強食政策は若干の修正を迫られるだろう。
しかし、もはや田中角栄的な、
公共投資による地方への富の再配分は有効性を失って久しい。
自民党の「歴史的大敗北」によって時代の闇が切り裂かれたという気はしない。

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