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ポスト冷戦時代のスパイ小説

ブライアン・フリーマントルの「殺人にうってつけの日」(新潮文庫)を読んだ。
出張に持っていくのに文庫本が欲しくて、羽田空港の書店で買い求めたものだ。
フリーマントルは「消されかけた男」('77)が面白かった“スパイ小説”の大家で、
「殺人にうってつけの日」は2006年に発表された新作である。
冷戦が終わって20年近くたって、フリーマントルがまだ現役を張っているのがなんとなく意外だった。

「殺人にうってつけの日」の主人公は二人の元スパイとその妻である。
ジャック・メイソンは元CIAの敏腕エージェントであり、実はKGBのWスパイだった人物。
それがバレて、ペンシルヴェニア州の刑務所で15年間服役した。
(小説の発表時期から逆算すると、冷戦終結の直前に逮捕されて服役したことになる。)
刑務所で鍛練を欠かさず、“鋼鉄の肉体”を得て出所してきたメイソンの目的はただひとつ、復讐である。
復讐の対象は、元KGBのスパイでメイソンの上司だったドミートリイ・ソーベリ。
メイソンの妻・アンを愛したソーベリは、
メイソンの正体を暴露することを手土産にアメリカに亡命した。
いまはCIA & FBIの「証人保護プログラム」にのっとってダニエル・スレイターと名前を変え、
アンと結婚してメリーランド州の片田舎の町で目立たないように暮らしている。
メイソンは自分を売った男と元の妻を捜し出し、苦しめたうえで殺害したいと考えている。

ストーリィを要約してみると明確だが、
メイソンの15年という服役期間が物語のミソで、
これは冷戦の申し子だった元諜報員たちが15年の空白の後にあいまみえる「冷戦の延長戦」なのである。
追うものと追われるもの…
情報戦の表も裏も知り尽くしたかつてのプロたちが、持てる技術のすべてを尽くしてわたりあうのである。
これが面白くならないはずがない…

ぼくはこの小説をマンハント(人間狩り)ものの変奏曲として、
「血わき肉躍る冒険小説」を期待しながら読み進めていった。
しかし、フリーマントルは、その期待を大胆かつ確信犯的に裏切っていく。
特にスレイターとアンの一人息子が○○○○あたりから、展開は暗く拗けていく。
二人の「元スパイ」は、
かつての凄腕の片鱗をみせながらも(特にスレイターが現役CIA局員を手玉に取るシーンが面白い)、
次第にどこかで「冷戦を引きずっていて」時代の変化についていけないという現実を露呈していく。
塀の中で15年間、
憎しみだけを純粋培養してきたメイソンは一種のパラノイアであり、
本人は気がついていないが、もはや現実社会には適応できなくなっている。
一方、スレイターは、
自分が「ジャック・メイソンを恐れている」という事実を認めたくないばかりに、
みすみす危険信号を見逃し、対応が後手に回ってしまう。
かくして二人の「元プロ」の対決は、微妙にずっこけながら、後味の悪い結末を迎える…

こうしたストレイトならざる物語の捩じれが、
「冷戦後の現実」に対するフリーマントルの批評であることはいうまでもないだろう。
とても面白く読んだし、「消されかけた男」をもう一度読みたくなった(幸い手元に文庫本がある)。


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楊逸「時が滲む朝」

今年の芥川賞を受賞した楊逸(ヤン・イー)の「時の滲む朝」を読んだ。
中国(上海)出身の妻が読みたがっていたので、単行本で買ってきたものだ。
日本に来てから20年近くなる妻は、
日常会話にはまず不自由しないが(それでも時々ミョーなことを口走ったりする…笑)、
日本語できちんとした文章を書くことなど考えられないので、
日本語で日本の文学賞をとるという楊逸の「快挙」に憧れにも似た感情を抱いたのだろう。

楊逸の文章は、一言でいえば「初々しい」ものである。
文章を飾る形容句はむしろ多彩で、
中国風の言い回しなのだろう、随所に馴染みのない表現が出てくる独特のものだ。
にも拘わらず、そこに技巧的な印象はなく、あくまで素朴でみずみずしい。
それは「外国語で表現する」という行為につきまとう初々しさなのか。
その文体が、
ひょんなことから民主化に憧れて天安門事件に連座し、
夢破れて日本に流れてくるイノセントな主人公の心象によくマッチしている。
異国にあっても夢を棄てきれない主人公と
現実を受け入れて生きていくことを選択するかつての仲間たち、
その対比が図式的にならず、「みずみずしさ」を保ったままで物語られていく。
その底には、淡いがくっきりとした喪失感が刻み込まれている。
声高に語られることのない喪失感の深さが、初々しい文章を「文学」にまで高めているのだろう。
久しぶりに、心の底に澱が静かに沈みこんでいくような読後感の小説を読んだ。


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佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」

歴史上で最も興味のある人物を一人だけあげるとすれば、ぼくの場合、甘粕正彦である。
関東大震災のどさくさに紛れて、アナーキスト・大杉栄らを虐殺した(とされる)元憲兵大尉。
出獄後は満州に渡り、満州事変の陰で暗躍し、
ラストエンペラー・溥儀の担ぎ出しにも一役買った謀略家。
最後は満映(満州映画協会)の理事長として「満州の夜を支配する帝王」と呼ばれ、
日本の敗戦とともに
「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」というやけっぱちみたいな辞世の句を遺して自殺した。

ぼくの父の従兄弟は、
一旗揚げようとして満州に渡った、いわゆる「大陸浪人」だったという話を聞いたことがある。
終戦の混乱のなかで関東軍の軍人を刺してお尋ね者になったというから、まァ、「やくざ者」である。
戦後、堅気の我が家とは交流が途絶えていたから、ぼくは会ったことがない。
しかし、DNAというのはあるんですかね、
年齢を重ねるとともに「満州」のことをもっと知りたいという気持ちが強くなってきた。
「満州」には近代日本の一筋縄ではいかない闇が凝縮している気がする。
戦後は、
満州を日本帝国主義の汚点として全面的に否定する左翼と、
植民地支配を美化しようとする右翼とのイデオロギー対立の狭間で、
「満州」は、一種のタブーとして、闇のままに捨て置かれてきたように思う。
その「満州の闇」を象徴する人物が、甘粕正彦である。

ぼくが甘粕正彦という人物に俄然興味を持ったのは、
5年ほど前に「『仁義なき戦い』を作った男たち」という番組の取材で、
日本映画史上の傑作「仁義なき戦い」に至る東映映画の系譜を調べたときのことである。
知る人ぞ知る話だが、東映は満映の残党たちが作った会社である。
「大杉殺し」の下手人でごりごりの国家主義者として知られる甘粕の下で、
内田吐夢ら、日本にいられなくなった左翼(くずれ)の映画人が多く働いていた満映は、
日本映画史の戦前と戦後をつなぐ、言わばミッシング・リンクである。
「仁義なき戦い」シリーズを撮ったカメラマン、吉田貞次さんも終戦まで満映で仕事をしていた。
その吉田さんにお話をうかがったときに、理事長だった甘粕正彦の陰影に富んだ実像を知ったのである。
宴会の最後には必ず「海ゆかば」を歌わせたという国家主義者(天皇絶対主義者)としての顔と同時に、
甘粕には「五族協和」という満州建国のスローガンを本気で信じていたらしい一面もあり、
満映の中国人労働者の待遇改善に尽力したと吉田さんはいう。
そのためか中国人労働者に慕われ、
甘粕が自殺したときには、彼らも日本人の社員と一緒にすすんで棺をかついだというのである。
番組では、時間的な制約もあってそのあたりの話にまでは触れることができず、
そのため、ぼくは番組と同名の本を書いて(山根貞男さんとの共著・日本放送出版)、
吉田さんの聞き書きを記録に残すことにした。

さて、佐野眞一の「甘粕正彦 乱心の曠野」は、丹念な取材を重ねて甘粕の実像に迫ろうというものだ。
思い入れ過剰でときにウェットに流れる文体はぼくの好みではないが、
大杉栄殺しの真犯人が甘粕ではないという「真相」を次第に明らかにしていく過程は読みごたえがある。
どうも甘粕が直接の下手人ではないらしいというのは様々な状況証拠から推論できることだが、
佐野さんは、最後に、二人の関係者の遺族からそれぞれ決定的とも言える証言を聞き出している。
著名なアナーキストであった大杉栄夫妻(と幼い甥)殺しは
関東大震災の混乱に乗じて「反国家分子」を抹殺しようとした憲兵隊の組織的な犯行であり、
事件が明るみに出たときに、
組織(と部下に大杉殺害を命じた司令官)を守るために
殺害には無関係でいわば中間管理職的な地位にあった甘粕が
「あくまで個人的な犯行」だと「自白」してスケープゴードに立ったというのである。
佐野さんは、
その後の甘粕の矛盾を裡に抱えた人となり、そして行動を、
無実の罪を着て、汚名を背負って生きる運命を受け入れた人間の後半生として読み解いていく。
日本の近代史上最も陰影に富んだ人物の人間ドラマとして面白く、かつ刺激的なルポルタージュである。
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霧と原野へのノスタルジア…高城高「墓場なき墓場」

高城高全集の第一巻「墓場なき墓場」(創元推理文庫)を読み終えた。
高城高は、帯の惹句を引用するなら「日本ハードボイルドの礎を築いた伝説の作家」。
1970年以降、去年まで、
30年以上新作を発表することなく沈黙を守ってきた「幻の作家」である。
ハードボイルド小説を好むぼくにして、不覚にも、その存在さえ知らずにいた。
作品を読むのは、この「墓場なき墓場」(昭和37年発表の唯一の長編)が初めてである。

「墓場なき墓場」は根室沖での運搬船沈没事件に端を発するミステリで、
ストイックで無駄のない文体に惹かれながら読んだ。
例えて云うなら、クリント・イーストウッドの映画にも似た硬質な語り口。
よくあるタイプのハードボイルド小説のように、
主人公が後ろからいきなり殴り倒されたりはしない。
事件の鍵を握る妖艶な美女とベッドをともにすることもない。
もちろん犯罪がからむのだが、暴力とSEXの匂いは意外なほど希薄だ。
ロス・マクドナルドの「さむけ」のように、
意表をついてなお余韻を残す、鮮やかなどんでん返しが用意されているわけでもない。
ないない尽くしのこの小説にあるのは、
事件を追う新聞記者(「ブン屋」という方がぴったりくる)の日常のリアリティ溢れる描写と、
克明に描き出される昭和30年代の釧路や根室…霧に覆われた東北海道の風土感だ。
そして、それだけで、この小説は充分に魅力的なのである。

高城高は、昭和32年、北海道新聞に入社。
駆け出しの新人記者として釧路支社に配属されている。
そのキャリアを考えれば、
夜討ち朝駆けの新聞記者の暮らしはまさに自分の経験そのものであり、
釧路根室の風土も身をもって体験しただけに、描写が克明にして的確なわけだ。
ぼくは高城氏に20年遅れて、昭和54年、新人TVディレクターとして釧路に配属された。
つまり、この小説の舞台には「土地鑑がある」わけだ。
地方都市の骨格は20年やそこらでそう大きく変わるものではないから、
この小説に出てくる地名はすべて光景がまざまざと目に浮かぶ。
大町など、ぼくの頃には飲み屋街だった面影さえなかったが(漁港の移転によって寂れた)。
ちなみにこの小説の「犯人」の住む家は現在の我が家の近所で(笑)、
その家がどこにあったのか、ほとんどピンポイントで指摘できるほどだ。

この小説が書かれた昭和30年代、釧路や根室の漁港はサンマの大漁に沸き返っていた。
サンマの漁獲はやがて減っていき、昭和40年代にはサバが獲れた。
そして、ぼくが赴任した昭和50年代は、イワシの時代だった。
そのイワシもやがて姿を消し、
現在は、かつての大漁とは比べるべくもないとはいえ、再びサンマの時代になっている。
海は人知を超えたリズムをもって流転するのである。
この小説にも描写されたような、
肌にまとわりつくような濃霧(「じり」と呼ばれていた)は滅多に出なくなってしまった。

「霧と原野へのノスタルジア」とはこの本に添えた高城氏の後書きのタイトルだが、
ぼくがこの土地に惹かれて釧路に家まで建ててしまった理由は、まさにその一言に尽きる。
この本には、ぼくが愛した釧路や根室の風土が蠱惑的なまでに濃密に描き出されているのである。

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コーディ・マクファディンの「戦慄」

コーディ・マクファディンの「戦慄」を読み終えた。
「傷痕」でデビューしたマクファディンの、これが第二作だという。
これがまた…面白い!
最近、ぼくは海外ミステリには当たりがいい、というか“連戦連勝”である。

ジェイムズ・カルロス・ブレイクや
カール・ハイアセンの面白さが「ミドル級」のスピード感だとするなら、
コーディ・マクファディンの場合は、疑いもなく「ヘビー級」だ。
一撃必殺のKOパンチを次々に繰り出してくるド迫力。
過去に連続殺人魔によって夫と娘を目の前で殺され、
心と体に手酷い“傷”を負ったヒロイン(FBIの敏腕捜査官)が、
またしても、
人間のもつ底知れない闇の深淵を覗き込まなければならない事件に遭遇する。
上下二巻の長い本(ヴィレッジブックス)だが、あれよあれよの一気読みだ。
怖くて、そして面白い。

厳密にいうなら設定に「?」というところもあって、
真犯人が自ら姿を現したと見せて実は…という大詰めはいささか企み過ぎ。
過去の元警官殺しが、
その手口の残忍さにも関わらず、充分究明されていないらしいのも疑問だ。
さらに、ラスト、被害者の少女はなぜ…って、まぁいいや(笑)。
些細な欠点はあるとはいえ、これほど面白い小説はそうあるものではない。
「傷痕」も読まなくっちゃ…。
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カール・ハイアセン

長い出張には文庫本のミステリを携えていくことが多い。
2〜3時間も電車やバスを乗り継いでいく今回のような出張では、
いつも仕事のことばかり考えているのも辛いし、
第一、取材メモを整理しようにも、パソコンのバッテリーが保たない。
(ぼくは取材した内容はすべて愛用のMacBookに記録している。)
本が手放せないわけだが、
着替えやパソコン、カメラと一緒にスーツケースに入れて歩くには、
ハードカバーではかさばるし、重くなりすぎる。
内容の堅い本では気分転換にならない。
そうなると、一番いいのは文庫本で、それもミステリがいい。
刑事や探偵が捜査を通して犯人に迫っていく過程が、
取材に歩きまわっているときの気分にマッチするのである。

旭川から新千歳空港に向かう特急のなかで
カール・ハイアセンの「ロックンロール・ウィドウ」を読み終えた。
文春文庫から出ているもので、
最近はなぜか文春文庫を持っていくことが多い。
一時は、ハヤカワ・ポケットミステリが定番だったのだが…。
ハイアセンの新作「復讐はお好き?」(これも文春)が面白かったので、
旧作に遡って読んでみた。
主人公は「左遷されて死亡記事ばかり書かされている」新聞記者で、
ロック・シンガーの不振な死の真相に迫っていく。
こう書くとなんだかハードにみえるが、実はかなりユーモラスで、可笑しい。

「復讐はお好き?」とも共通するハイアセンの特質は…

1. プロットの鮮やかさ
2. 脇のキャラクターの面白さ、厚み
3. 独特のちょっとシニカルなユーモア

というところだろう。
この作品でも、
消えたはずの死体が再び現れるどんでん返しなど、
きちんと複線が張ってあるにも関わらず大変に意外であり、
さらに、なんというか…人を喰ったものである。
ヤラレタ!…と思わず笑い出してしまうほどの鮮やかさだ。

ぼくはいささか古風な美意識の持ち主で、
喜劇役者が自分から笑ってしまうが如きは下の下だと思っている。
だから、「なんだっちゅうの」などという“いまふうの言葉”を頻発する和訳には
それこそ「なんだっちゅうの」と云いたくなるのだが、
そこさえガマンすれば、面白さは文句のつけようがない。
また読むぞ!…カール・ハイアセン。
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ジェイムズ・カルロス・ブレイク

音威子府から旭川に向かう特急列車のなかで
ジェイムズ・カルロス・ブレイクの「無頼の掟」を読み終えた。
ミステリ・ファンには「何をいまさら」と嗤われるだろうが…これは面白かった!
実はブレイクの次作「荒ぶる血」を先に読んでいて、
これがなかなか面白かったので「無頼の掟」に触手を伸ばしたのだが、
こっちの方がより面白い、というか滅多矢鱈、空前絶後に面白いのである。

時は1920年代(ローリング・ツウェンティだ!)、
舞台はルイジアナからテキサスにかけてのアメリカ南西部。
血が騒ぐに任せて悪党の道を突っ走る若き主人公と、
彼に強盗のノウハウを手ほどきする二人の叔父、
そして彼らを取り巻くすこぶる魅力的な女たちの物語である。
キャラクターが脇役に至るまで立っていて、
特に無頼に生きる男たちが見せる一抹の優しさと、
仲間うちの信義を何より大切に生きようとする絆の強さには、
最良のサム・ペキンパ映画に一脈相通じる男臭いテイストがある。
(ブレイクは巻頭辞にペキンパ「ワイルドバンチ」の台詞を引用している。)

石油景気に沸くテキサスでの主人公たちの強盗行脚を中心とした物語に、
主人公に息子を殺され(不慮の事故なのだが)、
復讐のために行方を追ってくる保安官補のサブ・ストーリィが絡んでくるのだが、
この保安官補の執念深さ、残虐さ、怖さがただごとではない。
そして、荒廃した油田の町で、稲妻が閃く嵐の夜、
町を焼き尽くす業火のなかというまるで地獄のようなシチュエーションで、
追う保安官補と追われる(本人は追われていることを知らない)主人公が遭遇する、
その一瞬のクライマックスの凄まじさ!
さらに、それに続くエピローグの、ニヤリとするような切れのよさ!!

大恐慌の時代を刹那的に生きざるを得なかった
ボニーとクライド(「俺たちに明日はない」)など1930年代のギャングと違い、
被害者意識のかけらもないまま、
ひたすら生き急いだローリング・ツウェンティのギャングたちに贈る挽歌。
…ぼくはジェイムズ・カルロス・ブレイクをもっと読みたくなった。
「無頼の掟」「荒ぶる血」(ともに文春文庫)以外には
日本ではまだ出版されていないのだろうか?

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ぼくたちの好きな山田風太郎

荒山徹の「柳生大戦争」を読み終えた。
満州族の興した清が
漢族の明に替わって中原を支配せんとする17世紀、
勃興する帝国・清に呑み込まれようとする朝鮮半島を舞台に、
柳生十兵衛、柳生友矩兄弟が対決するという気宇壮大な伝奇小説。
こういうのが大好きなぼくには堪えられない面白さだ。

「こういうのが大好き」なぼくが敬愛してやまない作家が山田風太郎である。
隆慶一郎が逝ってしまった以上、
風太郎の衣鉢を継ぐものは、まずこの荒山徹をおいて他にない。
荒山さん自身も山田風太郎が大好きなのだろう、
その傾倒ぶりが文章の端々からうかがえる。
巨大な“風太郎宇宙”のなかでも
最も記憶に残る鮮烈なキャラクターである柳生十兵衛へのこだわり、
柳生卍兵衛(「魔岩伝説」)だの柳生悪十兵衛(「柳生大戦争」)だの、
隻眼の剣豪を次から次へと登場させていることからもそれは明らかで、
「柳生大戦争」のラストの仕掛けなどは、
はっきり言えば風太郎晩年の傑作「柳生十兵衛死す」に似過ぎている。
もうひとつ云えば、
敢えてやるトンデモナイ脱線…
お下品、お下劣な枝葉末節をさも嬉しそうに描写しているのも、
荒山さんの風太郎へのオマージュ以外の何ものでもないのだろう。
「高麗秘帖」で
妖しげなSEX忍法を操る海女軍団が出てきたときにもニヤニヤしたが、
「柳生大戦争」の「○○なし芳一」には思わず爆笑してしまった。
格調高くやろうと思えばできるところを、
敢えてぶち壊すのが風太郎流の「かぶく」精神というものである。

そして、
この「柳生大戦争」は、
作中にときおり作者自身が顔を出して、
先輩諸作家の作品を引用したり批評したりという破格の構成をとっている。
もちろん山田風太郎も(いささか、よそよそしく)引用されるのだが、
それ以上に印象的なのは、
荒山さんが司馬遼太郎を心底から嫌っているらしいことである。
…実は、ぼくも司馬遼太郎が「大嫌い」である。
というか、自慢ではないが、司馬の小説は一冊も読んだことがない(笑)。
つまり、「読まず嫌い」というヤツである。
なぜ、読まないのか…?
山田風太郎が大好きなぼくは司馬遼太郎を好きになれそうもない、
という確信めいた予感があるからだ。
もっといえば、風太郎と遼太郎は「倶に天を戴かない」はずなのである。
韜晦の奥底にまつろわざる反逆精神が透けて見える風太郎と、
一皮剥けば権威主義以外の何ものでもなさそうな「大家」・遼太郎。
云わば、民衆が語り伝えた「稗史」と権力の手による「正史」の違いか。
山田風太郎が好きな人間は、司馬遼太郎は「嫌いでなければならない」…。

「司馬遼太郎嫌い」らしいことで、ぼくは荒山徹がますます好きになった(笑)。
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「談志絶倒 昭和落語家伝」

ちょっと高い本(2600円)だったが、それだけの価値はある。
談志
談志の文章が、
先達である噺家たちへの敬愛にあふれていて(芸には批判的である場合も)いい。
そして、田島謹之助の写真が素晴らしい。
昭和30年前後(ぼくが生まれた頃)の落語家たちの、
誰もがなんといい貌(かお)、立派な貌をしていることか。
日本人は豊かさと引き換えに「いい貌」を失ってしまったのではないかと、
つい場違いなことまで考えてしまうほどだ。

この本に紹介された噺家は26名。
ぼくが生で高座を聴いたことがあるのは、馬生と小さん、2人きりである。
思うに、生まれてきたのが遅過ぎたのだろう。
また、地方都市で生まれ育ったことがハンディになったことも間違いない。
僕はいっぱしの落語狂を気取っていて、
我が家には落語のCDやらテープやらがごろごろ転がっているのだが、
文楽、志ん生を中心に円生、可楽、三木助、金馬、
時代が下って馬生、志ん朝、小三治といったところで(談志もある)、
この本で紹介された柳枝、右女助、円馬…といった人たちの声は聴いたことがない。
八代目と九代目の文治、小柳枝らは、
他ならぬ談志が編纂したアンソロジー「ゆめの寄席」に一席ずつあるだけである。

我が家は女房、息子(高二)がまるで落語を解さないので、
(落語に出てくる日本語自体があまりよく聞き取れないようだ…)
僕が独りでいるとき以外はなかなか落語を聴けないでいる。
してみれば、やはり生まれてくるのが遅過ぎたのだろう。
この本を読んだら無性に落語、
それも文楽、志ん生ら「名人」以外の噺家が聴きたくなってしまった。
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西原理恵子「毎日かあさん・4」

R0010684
離婚した夫・鴨志田穣がアル中病棟から戻ってきた。
再び始まる家族4人の暮らし。
しかし、そのとき既に鴨志田の肉体は癌に冒されていた…

お涙頂戴の絵空事(メロドラマ)より哀しい現実。
この本、涙なくしては読めません。
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田中森一「反転」が凄い。

元特捜検事の田中森一が著した「反転」を読み了える。
田中さんは検事を辞めて後、
大阪で山口組やバブル企業の顧問弁護士を務めた人物で、
石橋産業事件に絡んで手形の詐取で逮捕され、一審二審と有罪判決を受けた。
反転
この「反転」は、
司法によって狙い撃たれた「知り過ぎた男」の告白(告発)の書であり、
同じ目に遭った佐藤優の「国家の罠」にインスパイアされたものと思われる。

佐藤優は自分が逮捕され起訴されるまでのいきさつを
鈴木宗男つぶしを目的とした「国策捜査」だと批判したが、
田中森一に云わせると、あらゆる捜査はすべて「国策捜査」である。
事実を調べた結果が「犯罪」なのではなく、
あらかじめ決めたストーリーに事実をあてはめていくのが「捜査」だという。
そうだとすれば、
誰でも突然「犯罪者」とされる可能性があることになる。
元特捜検事が書いていることだけに、説得力があって、怖い。

この「反転」で一番面白いのは、
もはや怖いものなしの田中さんがぶちまける政財官界の裏話である。
特捜検事時代、上層部の判断でつぶされた疑獄事件について、
田中さんは、事件潰しに動いた検察上層部を名指しし、
背後にいた政治家の名前を実名で暴いている。
中曽根、竹下、安倍晋太郎、三塚、森…
幾人もの総理経験者を含む政界の実力者たちが
“黒い資金”をめぐって蠢いていた様子が赤裸々に描き出される。
噂話としては囁かれてきたことにせよ、
捜査に当たった検察官自らが書き残した生々しさは凄まじいばかりだ。
そして、
弁護士に転じてから深い関係を結んだ「バブル紳士」たちの行状、
彼らのホラ話としか思えないような金の使い方、
その金に群がる政治家たちの生態…これらもすべて実名入りで記述される。
なかでも、
一時は「政界の牛若丸」と呼ばれた(自称した?)
山口敏夫元労相の図々しさ、いい加減さ、金に対する汚さなど、
これでもかというほどに描き込まれている。

…いやはや、救いがない「日本の闇」の深奥を覗き込んだ気分になる。
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佐藤優「国家の罠」

「マイブーム」という言葉があるが、
ぼくで云えば、最近のマイブームは「佐藤優」である。
「自壊する帝国」があまりに面白かったので、
大慌てで「国家の罠」を読み、もう次の本(「地球を斬る」)も買ってある。
「自壊する帝国」にせよ「国家の罠」にせよ、
平易で面白く、しかも知的興奮に充ちたノンフィクションである。

「国家の罠」は、
外務省職員であった佐藤氏が2002年「背任」と「偽計業務妨害」で逮捕され、
一審で有罪判決(執行猶予付き)を受けるまでの記録である。
上司の許可を受けたうえで業務として行ってきたことが、
ある日突然「犯罪」として指弾される。
云わば、カフカ的な「不条理」の世界である。
しかし、佐藤氏は情報収集と分析の専門家だから、
この「不条理」を客観的に分析し、何が起こっているのかを記録しようとする。

検察官は、これが「国策捜査」であり、
真のターゲットが鈴木宗男であることを隠さない。
外務省のなかでもとりわけ鈴木宗男と近かった佐藤さんは、
鈴木宗男を陥れるためのスケープゴードとして選ばれたわけだ。
外務省は佐藤さん他一名の職員を“トカゲの尻尾”として切り捨てることで、
外務省という組織全体にまで累が及ばないようにと画策する。
「情報の専門家」である佐藤さんが見ることになるのは、
ともに働いてきた外務省の同僚たちが責任回避と保身に走る姿である。
それまで必死で鈴木宗男にすり寄っていた幹部が、突然、鈴木批判を始める。
本来の責任者である上司は、外務省中枢の意向を受けて海外に「避難」をする。
官僚だけではない。
それまで佐藤氏と協力関係にあり、
様々な便宜を図ってもらっていた著名なロシア研究者は、
検察に迎合し、佐藤さんを「売る」ことによって我が身の安泰を図ろうとする…
追いつめられたエリートたちがさらけ出す赤裸々な姿を、
佐藤さんは感情的になることなく、冷静に書き記している。

佐藤さんは外務省の官僚機構の中枢から外れた「ノンキャリア」である。
しかし、ロシアに豊富な人脈(=信頼関係)を築きあげ、
卓越した情報収集・分析能力ではキャリアの追随を許さない「実力者」だ。
思うに、こういう人物は「狙われやすい」。
外務省中枢(キャリア官僚)にとってみれば、
如何に実力があろうと「たかがノンキャリ」との軽侮があり、
逆に「ノンキャリのくせに(実力者ぶりやがって)」という嫉妬もからむ。

佐藤さんは、拘置所の独房にいながら、
なぜ鈴木宗男が狙われたのか、プロとしての分析を開始する。
(自分が陥ることになった状況を客観的に検証しようとするクールさが凄い。)
彼が導き出した結論は「戦後保守政治のパラグラムの転換」である。
鈴木宗男が体現する(田中角栄以来の)「富の地方・弱者への再分配」から、
弱肉強食・格差肯定の新自由主義への転換。
そして、鈴木宗男が師匠格の野中広務から引き継いだハト派的国際協調路線から、
北朝鮮の拉致問題などにみられる排外主義的なナショナリズムへの転換。
自民党政治の転換期だったからこそ守旧派・鈴木宗男が狙われたというのである。
この時期、「構造改革」の名の下に何が行われていたか…
佐藤さんの分析は、いまとなっては一々思い当たることばかりである。

そして、佐藤さんは(…注意深く読めばわかるのだが)、
一連の「ムネオ潰し」の背景には、
鈴木宗男の政治生命を抹殺しようとする
時の宰相・小泉純一郎の意志が働いていることを暗示している。
「敵」を叩き潰すためには手段を選ばない小泉純一郎の「怖さ」を、
ぼくたちは例の「刺客」騒ぎで思い知ることになるのだが、
それはこの事件はもとより、この本の出版よりも後の話なのである。
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佐藤優「自壊する帝国」

現在、背任などの罪で起訴されて休職中の外務官僚(分析官)、
佐藤優氏の「自壊する帝国」を読み了えた。
自壊する帝国
…これは面白い!
久々に知的興奮を覚えるノンフィクションである。
ゴルバチョフを軟禁してのクーデター計画が引き金をひいたソビエト連邦の崩壊、
そこに至る経緯、まさにタイトル通り巨大な国家が「自壊」していくさまを、
当時モスクワの日本大使館に勤務していた佐藤氏の目で生々しく記録したもの。
情報専門家(「インテリジェンス」)として、
クーデターを起こした共産党守旧派にも
エリツィン側近の改革派政治家にも人脈を築いていた
佐藤氏ならでは窺い知ることができた“事態の深層”が描き出されている。
これが面白くないはずがない。

そして、何より強烈な読後感として残るのは、
激動の時代を生きることになった有名・無名のロシア人たちの人間像である。
佐藤氏は「ソ連崩壊」という大状況を、
一人一人の人間のドラマとして再構築しているのである。
日本の政争を描いた多くのノンフィクションにおいて、
登場する政治家たちのキャラクターが講談調でフラットなのに対し、
この「自壊する帝国」の登場人物たちはいずれも陰影があって重層的である。
さすがドストエフスキーを生んだ国だと感心するのだが、
それを的確に掬い上げることができたのは、
佐藤さんがそのキャリアを通して磨き上げてきた
「情報収集」と「分析」に裏打ちされた深い人間観ゆえであるに違いない。

…あまりに面白かったので、すぐに同じ著者の「国家の罠」を読み始めた。
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船戸与一「満州国演義」…傑作の予感。

船戸与一の新刊「満州国演義」、
第一巻「風の払暁」、第二巻「事変の夜」を一気に読み了えた。
満州国演義
1931年9月、関東軍の謀略によって「満州事変」勃発、
反発する欧米列強の目をそらせるために
再び謀略によって「上海事変」を引き起こすまでの物語である。
つまり二巻を費やしてようやく「満州国成立前夜」までを描いたわけで、
このまま満州国の崩壊まで物語るとすれば、どれほどの長編になるのだろうか。
船戸さんにとっては、これはライフワークとなる仕事かもしれない。

1980年代後半から90年代にかけて、ぼくは夢中で船戸与一を読んだ。
第三世界の煮えたぎる政治状況を背景に置いた冒険小説はどれも面白く、
ぼくは船戸さんを「ダシール・ハメットの最も正統な後継者」だと位置づけていた。
(傑作中編「山猫の夏」は、ハメット「血の収穫」の見事な換骨奪胎である。)
ただし、作品のプロットはどれも大同小異で、
アメリカ帝国主義とその走狗たる現地権力、蜂起した先住民という対立の構図に、
日本社会のはみ出し者である主人公が巻き込まれていくというもの。
登場人物のキャラクターもいたって型通り(ステレオタイプ)である。
それだけに、船戸作品の魅力は、
背景に据えた政治状況のアクチュアリティーに大きく依存したものだった。
小説ではあるが、ルポルタージュのような臨場感で勝負していたといってもいい。
そのためだろう、
冷戦構造が崩れた1990年代に入ると、
船戸さんは“現実感の方向性”を見失ったのか、長いスランプに陥ってしまう。
しかし、そうしたなかで船戸さんはもうひとつの鉱脈を掘り当てていた。
歴史小説…「蝦夷地別件」('96)である。

「蝦夷地別件」を読んだとき、最初の1ページでのけぞってしまった。
記憶で書くのだが、
「今年は栗の花が満開だから鮭は豊漁だろう」といった意味の記述があるのである。
「鮭」にはご丁寧に「サクイペ」とルビが振ってある。
ぼくが「のけぞってしまった」理由はごく単純で、
栗の木の北限は北海道の南西部で、
この小説の舞台となった厚岸から千島にかけての地域には栗の木はない。
そして、
「サクイペ」は直訳すると「夏の食べ物」だから、秋に川を遡る鮭ではありえない。
たぶんサクラマスか、さもなければカラフトマスだろう。
主人公の一人である武士が「ハマナスの茎を噛みしめた」などという描写もあって、
マゾヒストかよ、と突っ込みたくなった(ハマナスはバラ科の木、トゲだらけだ)。
つまり、「蝦夷地別件」には、
ぼく程度の初歩的な知識の持ち主でもわかるアイヌ語、アイヌ風俗の間違い、
そして北海道の自然風土に対する無知がてんこ盛りなのである。
しかし、その一方で、
1789年の「寛政蝦夷の乱」(思うところあって、あえてこう記述します)と
フランス革命が同じ年の出来事であることに着目し、
物語の背景に
ユーラシア大陸の両端における
「近代国家の成立」を見据えようとした構成の雄大さ、骨太さは比類がない。
つまり、「蝦夷地別件」は「間違いだらけの傑作」ともいうべき類稀な作品だった。
(第二版でアイヌ語の間違いはすべて修正されたと聞くが、ぼくは読んでいない。)

「満州国演義」は「蝦夷地別件」に続く船戸さんの歴史小説で、
日本現代史の深い闇とも云うべき「満州」を正面から描こうとするものだ。
主人公は外交官、馬賊、軍人、元左翼学生からなる架空の「敷島四兄弟」で、
彼らの運命を翻弄するメフィストテレス的な存在である特務機関員が出没する。
しかし、そうした船戸さんが創作した人物以上に、
石原莞爾や板垣征四郎、甘粕正彦、
さらには「ラストエンペラー」溥儀や「東洋のマタハリ」川島芳子といった、
直接描写されることはなく、
登場人物の会話の中にのみ登場する実在の人物たちが、
奇妙なまでに生々しく、リアリティに充ちた存在感を持っているのである。
ぼくは「満州」に少なからぬ関心を持っていて(大伯父が大陸浪人だったらしい)、
いままで満州を描いたノンフィクションを何冊も読んできたが、
この「満州国演義」は
ノンフィクションを超える現実感を持った虚構を提出することに成功している。
今後どう展開するのかわからないが、
これは凄まじいまでの傑作になるのではないかという確かな予感があって、
久しぶりに船戸作品に心が震えているのである。
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「ロング・グッドバイ」について

レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を読み了えた。
村上春樹による、およそ50年ぶりの新訳である。
ロング・グッドバイ
ぼくは清水俊二訳の「長いお別れ」(ハヤカワ)を読んでいるが、
それも、まぁ、20年かそこらは昔の話である。
ぼくは酒飲みだから「ギムレットには早過ぎる」という名台詞を覚えてはいたが、
それがまさに決定的な瞬間での台詞だということは迂闊にも失念していた。

主人公のフィリップ・マーロウは所謂「ハードボイルド」ものの探偵としては、
人気、知名度ともにナンバーワンだろう。
この作品では、「42才」と年令が明示されている(意外と老けてたんだなあ…)。
タフでシニカル、
女に結婚を迫られて断わるときの台詞なんざ、
俺も一度云ってみたかったと思わせるほどのカッコよさだ(もう手遅れだけど…)。
しかし、タフな外見の裏側には都会的なセンチメンタリズムが貼り付いていて、
そのセンチメンタリズムの甘さが独特の魅力を醸し出している。
こうしたチャンドラーの持つ「甘さ」があまりに魅力的だっただけに、
一方で、ダシール・ハメットが創出したハードボイルドというジャンルの牙を抜き、
「都会的な風俗小説」の一種にまで堕落させる元凶にもなったとぼくは考えている。
そういう意味で、
チャンドラーという作家の魅力と限界が、
この「ロング・グッドバイ」には純度高く結晶している。
村上春樹のスタイリッシュな新訳で読むのは、愉しく、刺激的な読書体験だった。
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