24 August 2008
雷雨
2008/08/29 Fri 格納先: Personal
あまり雨が降らなかった梅雨の復讐戦かと思うほど、ここのところ、毎日の雨だ。
9月下旬並みに気温が下がって、ちょっと肌寒く感じられた日まである。
今日の午後はよく晴れて、ようやく“梅雨明け”かと思った矢先、雷雨になった。
ぼくは雷が好きである。
なぜかは判らないが、若い頃から大好きだ。
稲妻が走って夕空を切り裂き、腹に響くような雷鳴が轟き始めると、
どういうわけだか興奮してしまって、居ても立ってもいられないような気分になる。
テラスに出て、青白く染まる空を飽かず見つめていることもしばしばだ。
よくもまぁエネルギーが続くものだと、なんだか感心しながら空を見上げる。
きょうの雷は、カリカリカリッと大気を引き裂く落雷の音ではなく、
重低温でずしんずしんと空気を震わせる遠雷だった。
夜、仕事で遅くなったかみさんから、駅まで迎えに来いと電話が入る。
雷が怖いのだという。
ぼくが迎えに出たところでどうなるわけでもないが、
雷が落ちれば死なばもろとも、みたいな物騒なことをいう。
土砂降りのなかを迎えに出れば濡れ鼠になってしまうのは明らかだが、
迎えに行かないと今度はかみさんの雷が落ちる。
そちらの雷はあまり好まないので、しょうがない、出かけることにした。
おりからバケツをひっくり返したような雨である。
激しく路面を叩く雨、水しぶきがまるで一面の噴水のようだ。
時おり、稲妻がその噴水を青く浮かび上がらせて、ぼくは思わず快哉を叫ぶ。
ぼくが喜んでいる傍らでかみさんは恐怖に竦んでいるから、妙な取り合わせだ。
自転車に乗った若い女性が一人、
まるでかみさんの肩を持つかのように「怖い、怖い」と呟きながら追い越していった…
9月下旬並みに気温が下がって、ちょっと肌寒く感じられた日まである。
今日の午後はよく晴れて、ようやく“梅雨明け”かと思った矢先、雷雨になった。
ぼくは雷が好きである。
なぜかは判らないが、若い頃から大好きだ。
稲妻が走って夕空を切り裂き、腹に響くような雷鳴が轟き始めると、
どういうわけだか興奮してしまって、居ても立ってもいられないような気分になる。
テラスに出て、青白く染まる空を飽かず見つめていることもしばしばだ。
よくもまぁエネルギーが続くものだと、なんだか感心しながら空を見上げる。
きょうの雷は、カリカリカリッと大気を引き裂く落雷の音ではなく、
重低温でずしんずしんと空気を震わせる遠雷だった。
夜、仕事で遅くなったかみさんから、駅まで迎えに来いと電話が入る。
雷が怖いのだという。
ぼくが迎えに出たところでどうなるわけでもないが、
雷が落ちれば死なばもろとも、みたいな物騒なことをいう。
土砂降りのなかを迎えに出れば濡れ鼠になってしまうのは明らかだが、
迎えに行かないと今度はかみさんの雷が落ちる。
そちらの雷はあまり好まないので、しょうがない、出かけることにした。
おりからバケツをひっくり返したような雨である。
激しく路面を叩く雨、水しぶきがまるで一面の噴水のようだ。
時おり、稲妻がその噴水を青く浮かび上がらせて、ぼくは思わず快哉を叫ぶ。
ぼくが喜んでいる傍らでかみさんは恐怖に竦んでいるから、妙な取り合わせだ。
自転車に乗った若い女性が一人、
まるでかみさんの肩を持つかのように「怖い、怖い」と呟きながら追い越していった…
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荻窪・繁寿司
2008/08/28 Thu 格納先: Food &
Drink
荻窪に暮らすようになって、今年の暮れで4年になる。
当初は、「どこにでもありそうな店」が並んだ、いい酒場のない街だな、と思った。
ところが、地元に腰を据えて捜せば、ある、ある、ある…。
“穴場”とでも云うべき酒場や食堂の多いところで、酒飲みには居心地のいい街だということが解ってきた。
きょうは、初めて、駅の南口にある「繁寿司」を覗いてみる。
存在は知っていたが、看板がなんの変哲もなさ過ぎて、入ろうと思ったことはない店だった。
風の噂(=ネット情報)で「とてつもなく古い店」だと知って、入ってみる気になった。
なるほど、新しいのは看板だけである。
高度成長から取り残されたような建物で、
いかにも建て付けの悪そうな古い木の引き戸が開け放たれていて、入りやすい。
入ってみると、L字型のカウンターだけの店で、
カウンターの向こう側にも同じような引き戸があって、そちらも開け放たれている。
冷房がなく、風を通すことで涼をとっているのである。
当然、虫も出入り自由で、ぼくは手首を蚊に刺されてしまった。
常連らしい先客がいて、ぼくが初めてだと知って、「ここは昭和23年開業ですよ」と教えてくれる。
今年でちょうど「開業60周年」ということになるわけだ。
付け場には、豆絞りの手ぬぐいを巻いた老人が一人で立っている。
常連客との会話を聞くともなく聞いていると大正12年の生まれらしい。
当年とって85歳、関東大震災の年の生まれということになる。
どうやら、根っからの土地っ子らしい。
そのうち、幼なじみらしい人物が「町内の若い衆」を連れて現れる。
若く見えるが、大正14年生まれだという。
おのずと、土地の古い人たちの噂話になる。
「後家さんのところに一人で上がり込んじゃいけないよ。疑われちゃァいけないから」
…いまさら誰も疑わねェだろ、とぼくは内心ニヤニヤしながら酒を飲む。
高級感はないが味はまっとうで、今年はもう諦めていたシンコを食べられたのが収穫である。
シンコや鯵のたたきを肴にお銚子を三本飲んで、軽く寿司をつまむ。
勘定を払う段になって老主人は「ちょっと、いっちゃいましたね」と恐縮する。
それで4200円…すべてが古く草臥れているが、悪くない店である。
当初は、「どこにでもありそうな店」が並んだ、いい酒場のない街だな、と思った。
ところが、地元に腰を据えて捜せば、ある、ある、ある…。
“穴場”とでも云うべき酒場や食堂の多いところで、酒飲みには居心地のいい街だということが解ってきた。
きょうは、初めて、駅の南口にある「繁寿司」を覗いてみる。
存在は知っていたが、看板がなんの変哲もなさ過ぎて、入ろうと思ったことはない店だった。
風の噂(=ネット情報)で「とてつもなく古い店」だと知って、入ってみる気になった。
なるほど、新しいのは看板だけである。
高度成長から取り残されたような建物で、
いかにも建て付けの悪そうな古い木の引き戸が開け放たれていて、入りやすい。
入ってみると、L字型のカウンターだけの店で、
カウンターの向こう側にも同じような引き戸があって、そちらも開け放たれている。
冷房がなく、風を通すことで涼をとっているのである。
当然、虫も出入り自由で、ぼくは手首を蚊に刺されてしまった。
常連らしい先客がいて、ぼくが初めてだと知って、「ここは昭和23年開業ですよ」と教えてくれる。
今年でちょうど「開業60周年」ということになるわけだ。
付け場には、豆絞りの手ぬぐいを巻いた老人が一人で立っている。
常連客との会話を聞くともなく聞いていると大正12年の生まれらしい。
当年とって85歳、関東大震災の年の生まれということになる。
どうやら、根っからの土地っ子らしい。
そのうち、幼なじみらしい人物が「町内の若い衆」を連れて現れる。
若く見えるが、大正14年生まれだという。
おのずと、土地の古い人たちの噂話になる。
「後家さんのところに一人で上がり込んじゃいけないよ。疑われちゃァいけないから」
…いまさら誰も疑わねェだろ、とぼくは内心ニヤニヤしながら酒を飲む。
高級感はないが味はまっとうで、今年はもう諦めていたシンコを食べられたのが収穫である。
シンコや鯵のたたきを肴にお銚子を三本飲んで、軽く寿司をつまむ。
勘定を払う段になって老主人は「ちょっと、いっちゃいましたね」と恐縮する。
それで4200円…すべてが古く草臥れているが、悪くない店である。
「名演技」とは何か
2008/08/26 Tue 格納先: Cinema
京橋のフィルムセンターでマルセル・カルネの「天井桟敷の人々」をみた。
1944年のフランス(つまりドイツ占領下)で作られた上映時間3時間あまりの大作で、
19世紀のパリ「犯罪通り」に生きる人々の愛憎を描いて映画史上に残る名作として名高いものだ。
ぼくは大学時代に一度テレビで放送されたものを見始めたが、
ヒロインのアルレッティが「おばさん」にしか見えなくて、
なぜ男たちが彼女に夢中になるのか、肝心のところでのれなくて途中で投げ出している。
調べてみれば、アルレッティはこの映画に出演したとき既に40代半ばで、
若いぼくから「おばさん」に見えたのは当然である。
その後ぼくも人生の年輪を重ね、
「おばさんの魅力」も多少は解るようになったので(笑)、今回は素直に作品に没入することができた。
いかにもフランス映画らしい、文学的な香気あふれるもので、登場人物の存在感が隅々まで粒立っている。
そして、なかでも圧倒されたのが、パントマイムの芸人に扮したジャン=ルイ・バローの演技である。
演技の究極は「眼」だとぼくは思っている。
泣いたり喚いたりの演技は「下の下」、
ことさらに表情を歪めてみせる演技は「下」である。
(だからぼくはジャック・ニコルソンを「名優」だとは思わない。)
「中」の演技が台詞回しの巧さなら、「上」の演技は全身の表情で感情を物語ること。
クローズアップが可能な映画の場合、「上の上」の演技は眼の色だけで深い感情を表現するのである。
顔の表情を変えず眼だけで悲しみや絶望を表現した名優たちをぼくは知っている。
しかし、眼で、切ないまでにつのる恋心、女性に対して抱く深い憧れを表現した男優は、
この映画のジャン=ルイ・バローをおいて他にない。
もちろん、彼が劇中劇で見せるパントマイムも素晴らしいものだが、
このとうてい文字では表現しきれない「眼」が、映画を見終わってなおくっきりと残像を結んでいる。
1944年のフランス(つまりドイツ占領下)で作られた上映時間3時間あまりの大作で、
19世紀のパリ「犯罪通り」に生きる人々の愛憎を描いて映画史上に残る名作として名高いものだ。
ぼくは大学時代に一度テレビで放送されたものを見始めたが、
ヒロインのアルレッティが「おばさん」にしか見えなくて、
なぜ男たちが彼女に夢中になるのか、肝心のところでのれなくて途中で投げ出している。
調べてみれば、アルレッティはこの映画に出演したとき既に40代半ばで、
若いぼくから「おばさん」に見えたのは当然である。
その後ぼくも人生の年輪を重ね、
「おばさんの魅力」も多少は解るようになったので(笑)、今回は素直に作品に没入することができた。
いかにもフランス映画らしい、文学的な香気あふれるもので、登場人物の存在感が隅々まで粒立っている。
そして、なかでも圧倒されたのが、パントマイムの芸人に扮したジャン=ルイ・バローの演技である。
演技の究極は「眼」だとぼくは思っている。
泣いたり喚いたりの演技は「下の下」、
ことさらに表情を歪めてみせる演技は「下」である。
(だからぼくはジャック・ニコルソンを「名優」だとは思わない。)
「中」の演技が台詞回しの巧さなら、「上」の演技は全身の表情で感情を物語ること。
クローズアップが可能な映画の場合、「上の上」の演技は眼の色だけで深い感情を表現するのである。
顔の表情を変えず眼だけで悲しみや絶望を表現した名優たちをぼくは知っている。
しかし、眼で、切ないまでにつのる恋心、女性に対して抱く深い憧れを表現した男優は、
この映画のジャン=ルイ・バローをおいて他にない。
もちろん、彼が劇中劇で見せるパントマイムも素晴らしいものだが、
このとうてい文字では表現しきれない「眼」が、映画を見終わってなおくっきりと残像を結んでいる。
北京オリンピックの閉幕に思うこと
2008/08/24 Sun 格納先: News
北京オリンピックが閉幕した。
いつもならオリンピックの中継などあまり見ることはないのだが、
今回は仕事もあり、また、オリンピックを機に突然“愛国心”に目覚めた妻の意向もあって、
(なんだか世界中の中国人がみんな突然「愛国者」になった気がする…笑)
とりわけ開会式と閉会式はその一部始終を見ることになった。
張藝謀が演出した開会式は、とかくの批判もあるようだが、客観的にみて大成功の部類ではないか。
しかし、閉会式の方は(こちらも張藝謀の演出)、息切れしたのか、コンセプトの混乱が感じられた。
あの宙づりの「仮面ライダー」たちは、いったいなんだったんだろう…?
そして、ぼくが一番驚いたのは、
閉会の挨拶に立った大会委員長(中国人)が開口一番「尊敬する胡錦濤国家主席…」と言ったことだった。
ぼくの(たぶん大多数の日本人の)感覚から云えば、
謝辞を述べるのにまず内輪の人間からという法はない。
中国ではそれが礼節に適うとされている、ということでもあるまい。
ひどく違和感を感じたのと同時に、
ぼくは、北京オリンピックにまつわる“もやもやした感じ”が、この言葉で一瞬にして腑に落ちた気がした。
ウイグルやチベットの独立派(それが必ずしも多数派だとは思わないが…)に対する力づくの弾圧、
オリンピックの開催中にただ一件のデモも許可しなかったこと、
度重なった報道陣に対する取材妨害…。
そして、「不測の事態」に備えたのだろう、
マラソンの中継をリアルタイムより5秒、閉会式の中継を3秒遅らせて放送したこともあわせ、
(中国国内向けの放送のみを遅らせた。
何か都合の悪いことが起きれば、即座にカットするつもりだったのだろう)
ぼくには、中国当局がなぜそんなことをするのか、まるで理解できなかったのである。
そうしたことをやれば、
国際的に批判を浴びたり顰蹙を買うことはあっても、
中国にとってプラスになることは何もないはずである(そして、事実その通りになった)。
後先を考えない(としか思えない)中国当局の対応の政治的な稚拙さに、ぼくは呆れ果てていたのである。
それが大会委員長の挨拶で、突然、理解できた。
彼ら(中国の当局者)にとって、国際的にどう思われようと、そんなことは関係なかったのである。
彼らが問題にしていたのは、内部=組織の上層部がどう評価するか、それだけだった。
これ、即ち、「官僚主義」である。
官僚主義に冒された組織では、物事は「本来の目的」の文脈では評価されない。
「何のためにやるか」は等閑にされ、組織の内部でのみ通用する「内向きの論理」が優先される。
多くの場合、「問題が起きない」ことが第一の優先事項で、つまり評価基準が減点法になる。
官僚主義社会においては、
積極的に評価されるべき何かを実現するより、「マイナスがない」ことの方が大切なのである。
だから、問題になりそうな芽は、(国際社会がどう思おうと)事前にすべて摘み取ってしまった。
大会委員長の挨拶は、
中国社会(とりわけ、その中枢部分)が、
上(その頂点には胡錦涛国家主席がいる)の顔色ばかりを見ている、
度し難い「ヒラメ人間」たちによって構成されていることを図らずも明らかにしなかったか。
権力は必ず腐敗する。
一党独裁の絶対的権力は絶対的に腐敗するのが道理である。
思えば、「社会主義がなぜ官僚化するのか」は、30年前に書いたぼくの卒論のテーマだった(笑)。
中国はいま、社会主義の最も悪いところを抱えたまま、資本主義化の道をひた走っている。
その矛盾が遠からず爆発するだろうと、華やかなセレモニーを見ながらぼくは予感していた。
いつもならオリンピックの中継などあまり見ることはないのだが、
今回は仕事もあり、また、オリンピックを機に突然“愛国心”に目覚めた妻の意向もあって、
(なんだか世界中の中国人がみんな突然「愛国者」になった気がする…笑)
とりわけ開会式と閉会式はその一部始終を見ることになった。
張藝謀が演出した開会式は、とかくの批判もあるようだが、客観的にみて大成功の部類ではないか。
しかし、閉会式の方は(こちらも張藝謀の演出)、息切れしたのか、コンセプトの混乱が感じられた。
あの宙づりの「仮面ライダー」たちは、いったいなんだったんだろう…?
そして、ぼくが一番驚いたのは、
閉会の挨拶に立った大会委員長(中国人)が開口一番「尊敬する胡錦濤国家主席…」と言ったことだった。
ぼくの(たぶん大多数の日本人の)感覚から云えば、
謝辞を述べるのにまず内輪の人間からという法はない。
中国ではそれが礼節に適うとされている、ということでもあるまい。
ひどく違和感を感じたのと同時に、
ぼくは、北京オリンピックにまつわる“もやもやした感じ”が、この言葉で一瞬にして腑に落ちた気がした。
ウイグルやチベットの独立派(それが必ずしも多数派だとは思わないが…)に対する力づくの弾圧、
オリンピックの開催中にただ一件のデモも許可しなかったこと、
度重なった報道陣に対する取材妨害…。
そして、「不測の事態」に備えたのだろう、
マラソンの中継をリアルタイムより5秒、閉会式の中継を3秒遅らせて放送したこともあわせ、
(中国国内向けの放送のみを遅らせた。
何か都合の悪いことが起きれば、即座にカットするつもりだったのだろう)
ぼくには、中国当局がなぜそんなことをするのか、まるで理解できなかったのである。
そうしたことをやれば、
国際的に批判を浴びたり顰蹙を買うことはあっても、
中国にとってプラスになることは何もないはずである(そして、事実その通りになった)。
後先を考えない(としか思えない)中国当局の対応の政治的な稚拙さに、ぼくは呆れ果てていたのである。
それが大会委員長の挨拶で、突然、理解できた。
彼ら(中国の当局者)にとって、国際的にどう思われようと、そんなことは関係なかったのである。
彼らが問題にしていたのは、内部=組織の上層部がどう評価するか、それだけだった。
これ、即ち、「官僚主義」である。
官僚主義に冒された組織では、物事は「本来の目的」の文脈では評価されない。
「何のためにやるか」は等閑にされ、組織の内部でのみ通用する「内向きの論理」が優先される。
多くの場合、「問題が起きない」ことが第一の優先事項で、つまり評価基準が減点法になる。
官僚主義社会においては、
積極的に評価されるべき何かを実現するより、「マイナスがない」ことの方が大切なのである。
だから、問題になりそうな芽は、(国際社会がどう思おうと)事前にすべて摘み取ってしまった。
大会委員長の挨拶は、
中国社会(とりわけ、その中枢部分)が、
上(その頂点には胡錦涛国家主席がいる)の顔色ばかりを見ている、
度し難い「ヒラメ人間」たちによって構成されていることを図らずも明らかにしなかったか。
権力は必ず腐敗する。
一党独裁の絶対的権力は絶対的に腐敗するのが道理である。
思えば、「社会主義がなぜ官僚化するのか」は、30年前に書いたぼくの卒論のテーマだった(笑)。
中国はいま、社会主義の最も悪いところを抱えたまま、資本主義化の道をひた走っている。
その矛盾が遠からず爆発するだろうと、華やかなセレモニーを見ながらぼくは予感していた。