釧路の休日は“家事”に追われながら…

きのう二ヶ月ぶりに釧路に帰ってきた。
思ったほど寒くはなかったが、陽が沈むとストーブが恋しくなる。
水曜日から夕張への出張(ロケ)なので、
このまま東京には戻らず、千歳空港でロケ・クルーと合流するつもりだ。

たまにしか帰ってこないので、掃除や草刈りなどの“家事”に追われることになる。
特に草刈りは「きりがない」ので、前回帰ってきたときに玄関の前に煉瓦を敷き詰めた。
舗道
家が草に覆われると廃屋じみた印象になってしまうので、
煉瓦で草の侵入を防ぐとともにエントランスを洒落た雰囲気にしようという一石二鳥を狙ったものだ。
こうしてみると、なかなか効果的だったと思う。
雑草
しかし、よく見ると、雑草は隙間を狙って早くも侵入を試みている。
さっそく除草剤を買ってきてかけてやる。
本当は除草剤を使うのは嫌なのだが、雑草との終わりなき戦いに疲れ果てて、前回から使い始めた。
除草剤の効果
これが家の裏庭で、ハルニレの樹の周囲を残して2ヶ月前に除草剤を撒いた。
除草剤を散布したところはすっかり枯れていて、かなりの効果を上げていることが判る。
今回は玄関前の煉瓦をもっと増やし、この裏庭にも敷くつもりで、120個注文した。
1個138円だから、経済的には馬鹿にならない。

午後は二階(吹き抜けになっている12畳大のスペース)のフローリングにワックスをかける。
和商市場まで行く時間がなくなったので、
近所のちいさなスーパーで1匹78円で売っていた特大の秋刀魚を買ってきて夕食。
脂がのっていて家中が煙だらけになったが、美味しかった。
秋の釧路は、ともかく秋刀魚が安くて旨いのが何よりである。
|

伊豆海洋公園・ブリマチの根

台風一過、きょうは伊豆海洋公園に潜る。
祝日だというのに客はぼく一人、
ガイドの鈴木美智代さんによれば、みんなお墓参りに行ったというのだが、本当だろうか?

ワン・ツー・マンのダイビングなので、鈴木さんは「ブリマチの根」に連れて行ってくれた。
その名の通り、ブリの大物が現れるポイントなのだが、
それよりも水深30〜40mの深場に咲き乱れるソフトコーラル(トゲトサカなど)が美しく、魚影が濃い。
ブリマチの根
伊豆海洋公園のポイントとしては文句なく一番面白いのだが、
なにせ遠くて(10分以上泳ぐことになる)深い(1本目の最大水深は40mを超えていた)ので、
どうしてもエアを食ってしまうのがツライところだ。
二本ともエクジットしたときには随分エアの残りが心細くなっていた。
魚群(ブリマチの根)
きょうも水中の浮遊物が多くいまひとつ抜けが悪いが、魚の多さには圧倒される。
ウミウチワがまるでネンブツダイの「笠」をかぶっているようだ。
ソーシハギ
こちらは途中の浅場にいたソーシハギ、全長50cmを超える大物である。
それにしてもこの尻尾の大きさは、少々バランスを逸しているような気がするのだが
|

映画「終着駅」の面白さ

DVDでヴィットリオ・デ・シーカ監督の「終着駅」をみた。
1953年のアメリカ=イタリア合作。
つまり、ぼくが生まれる前に作られた映画である。
題名は高校生のときから知っていたが、見るのは今回が初めて。
メロドラマの類いを好まないぼくは、名作とは知りながらも、いままで触手が伸びなかったわけだ。
(今夜は、メロドラマ好きの妻への「家族サービス」の一環としてDVDを買い、一緒に見たのである。)

映画は、ジェニファー・ジョーンズ扮する人妻がローマ市内のアパートを訪ねるシーンから始まる。
彼女はフィラデルフィアに夫と幼い娘を残してバカンスに訪れたローマで、
モンゴメリー・クリフト扮する教師(アメリカとイタリアとの混血児)と出会い、恋に落ちた。
不倫の恋を清算しアメリカの家族のもとに戻るつもりで、
別れを告げるために男のアパートを訪ねてきたのだが、ドアの前まで来て躊躇ってしまう。
結局、男には会わないまま、
「Terminal Station(=この映画の原題)行」のバスに乗って立ち去っていく。
夜7時にTerminal Station、つまりローマ駅を出る列車に乗るつもりなのである。
ところが、列車の出発直前に男がホームまで追ってきて、彼女を引き止め、考え直すように迫る。
後ろ髪引かれる思いの彼女は、とうとう列車に乗り遅れてしまう。

この映画は、それから女が8時半の列車に乗ってローマを去るまでの二人の時間を克明に描く。
さすがにネオ・リアリスモの旗手だったデ・シーカの作品だけあって、凡百のメロドラマではない。
冒頭のアパートのシーンを別にすれば、カメラはローマ駅のなかから出ない。
7時の列車が出る少し前から8時半の列車が出てゆくまで1時間半あまり、
それを1時間29分の映画に仕立て上げているわけだから、
映画は省略を最小限にして、ほぼリアルタイムに近いかたちで進行する。
この話法が実にストイックである。
ぼくが驚いたのは、
二人が出会って恋の炎を燃えあがらせた1ヶ月という時間(劇中の台詞で判る)、
それが、出会いの回想も含めて、映像では一切物語られることがないという点である。
男と女がなぜ惹かれあったのか、二人で過ごした時間がどれほど情熱的なものだったか、
それは台詞の端々から窺い知るしかない。
カメラはただひたすら二人…
心が揺れ、未練に引きずられ、しかし、遂に別れを決意するまでの恋人たちを現在進行形で見つめ続ける。

そして、ぼくがこの映画で一番面白く、印象的だったのは、
画面に一瞬現れては消えていく、「脇役」とすらいえない、ローマ駅を行き交う老若男女の存在感である。
リアリティがあるというか…こうしたエキストラたちが醸し出すある種の雰囲気によって、
主人公二人が生きている世界(戦禍の記憶を残しながら復興しつつあるローマ)がまるごと伝わってくる。
こうした気分は、優れたドキュメンタリーを見ているときとよく似ている。
これはぼくの(映像のプロのはしくれとしての)“独断と偏見”なのだが、
ドラマとドキュメンタリーとを問わず、優れた映像作品ほど物語に直接関係のない細部が豊饒である。
ストーリィのアウトラインを追うことに汲々とするのではなく、現場の空気感を写し取るのである。
映像のリアリティを担保するのは、こうした「余白」の部分だとぼくは信じている。

「終着駅」の監督であるヴィットリオ・デ・シーカは、
第二次世界大戦後に勃興したネオ・リアリスモ(イタリアン・リアリズム)を代表する監督で、
ドキュメンタリー・タッチで戦後の荒廃を描いた「自転車泥棒」などを撮っている。
(ぼくはこの傑作を、若い頃、自主上映やTVで何度も繰り返し観た。)
さすがに腐っても鯛というか(失礼)、
ハリウッドの大スターを迎えてメロドラマを作っても「リアリズム」の魂が脈々として全編を貫いている。
ぼくはそこに惹かれ、
男と女が別れようが別れまいが「どーでもいい」と思いながらも、
デ・シーカが織りなす豊かな映画的な時間に心を奪われ、面白くみた。
|

走る

かみさんが、突然、週に1回くらい家族で走ろうと言い出した。
B型女の常で、ときどき思いつきでトンデモナイことを云う。
訊けば、職場の同僚が東京マラソンの出場を目指して走り始めたのだという。
だからといって、何故ぼくが走らなければならないのか、よくワカラナイのだが…。
どうせやっても「二日坊主」(三日モタナイ…笑)に決まっているので相手にしないでいたら、
「走らないと千円の罰金」だと理不尽なことをのたまう。
そんなわけで、かみさんと息子(高校三年生)と3人で近所を走るハメになった。
電車に遅れそうなので駅まで走る…などというのを別にすれば、本格的に走るのは二十数年ぶりだ。

走り始めれば、予想されたことながら、かみさんは遅い。
遅すぎて「とてもついていけない」ので、息子と二人でさっさと先を走る。
あまり間隔が開くと、やむを得ないので同じところをぐるぐるまわって、かみさんが追いつくのを待つ。
我が家から住宅街を抜けて善福寺河畔に出て、川沿いの小径を走って往復した。
距離にすれば、「ぐるぐるまわって待った」のも含めて4kmくらいのものだろうか。
それを20分あまりかけて走ったのだから、ま、楽なものである。
かみさんと受験生で運動不足の息子は途中から疲れて歩いたので、最後まで走ったのはぼくだけだった。

先日の日記にも書いたが、ぼくは健康に神経質な方ではない。
五十を過ぎているのに人間ドックなど一度も受けたことがなく、
懇意にさせていただいている村上智彦医師(予防医療に力を入れている)にはきっと叱られるだろう。
しかし、妙な言い方になるが、「健康」には無頓着でも「体力」にはこだわっている。
テレビ・ディレクターの仕事というのは結局は体力勝負で、
兵隊と同じで「走れなくなったらオシマイ」だと思っているからだ。
(もうひとつ云えば、「徹夜がきかなくなったらオシマイ」でもある。)
軟弱者とは云え高校生の息子と互角以上に走ったのだから、まだしばらくは「現役」で通用しそうだ。

最近は食事も節制を心がけていて、
食べる量を減らして、炭水化物は専ら液体(アルコール)のかたちで摂取している。
その甲斐あって、ここ数日は体重が63kg台と十数年前の水準をキープしている(身長は約171cm)。
きょうは走った後に映画に行って、
池袋の新文芸坐で成瀬巳喜男の「めし」と「山の音」の二本立てを観た。
夕食(ラムしゃぶ)の後には、かみさんの求めに応じてDVDでデ・パルマの「アンタッチャブル」。
太股に少々張りを感じてはいるが、体力的にはまだ余裕がある。
|