リベラルの土性骨…レッドフォード「大いなる陰謀」

見ている最中にはとても面白く、エキサイトしていながら、
映画館を出た瞬間から印象が急速に色褪せていく映画がある。
例えば、最近なら「バンテージ・ポイント」がそう。
そういう映画を否定する気はないが、
ぼくにとって、映画は単なる時間潰しの慰藉ではないのでどこか物足りない思いが残る。
逆に、見ているときはそれほど面白いとは思っていなかったにも関わらず、
映画館を出て、時間が経つにつれて、ある種の“感銘”が自分の裡でくっきりと像を結んでいく映画もある。

ロバート・レッドフォードの新作「大いなる陰謀」は典型的な後者の映画である。
映画をみている最中には、レッドフォードが随分理屈っぽい映画を撮ったものだなと考えていた。
「面白さ」が感じられない理由は、
ワシントンとアフガンとカリフォルニア大学…
三つの地点で同時進行的に物語られていくストーリィの“接点”がなかなか見つけられないこともある。
そういう意味では決して「親切な」映画ではない。
しかし、
将来の大統領候補とも目される野心家の上院議員と、
世界と積極的に関わろうとした結果が酷寒のアフガンでの“犬死に”になってしまう二人の若い兵士、
そして無力感にさいなまれながらも次の世代への語りかけを続けようとする大学教授…
三つの人間ドラマが焦点を結ぶとき、そこに浮かび上がってくるものは、
巨大化して、もはや人間の手に負えなくなり始めている「国家」というシステム(リヴァイアサン)、
その怪物に対する無力な個人の必死の異議申し立てである。

アメリカでは「リベラル」が政敵を罵倒するための言葉となって久しい。
大統領候補のそれぞれが
自分が「リベラル」であることを否定しようと躍起になっているさまは滑稽ですらある。
そうしたなかで、レッドフォードの揺るぎない「リベラル」としての土性骨を見せてもらった気がする。
スクリーンの向こう側に垣間見える、
時代がどうあれ自分の歌を歌い続けようとする映画作家の姿が、
映画を見終わって時間が経過するとともに、ある感銘とともにぼくの記憶の裡に刻み込まれていく…
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