19 October 2008
セーフティネットの“網の目”
2008/10/25 Sat 格納先: Medical
10月4日の土曜日の夜、
東京都内で脳出血を起こした妊婦が7つの病院に受け入れを断られ、
都立墨東病院で出産後、脳出血の手術を受けたものの3日後に死亡したという“事件”が起きた。
きのう舛添厚生労働大臣が墨東病院を視察、
責任の所在をめぐって舛添厚労大臣と石原都知事の非難合戦が巻き起こっている。
責任の押っつけ合いなどは論外にしても、
例によってマスコミによる「犯人捜し」が始まっているのが気になる。
「医療崩壊がついに東京にまで及んだ」という論調もあるようだが、そういう問題なのか。
もちろん患者の死という結果は不幸であり、気の毒としか言いようがない。
しかし、そもそも「当然に助かるべきケース」だったのかどうか、冷静に検証する必要があると思う。
以下にぼくの考えを書く。
専門家ではないので細かい間違いがあるかも知れないが、大筋では間違っていないと思う。
まず、“事件”の経緯を客観的に把握するため、タイムテーブルに起こしてみる。
複数の新聞報道を組み合わせると、当夜の経緯は以下の通りである。
18:45 江東区内に住む出産まぢかの主婦が頭痛と吐き気などを訴え、区内のかかりつけ医に運ばれた
19:00 かかりつけ医は緊急手術ができる病院を探し始める
(「空きベッドがない」などの理由で、7病院に受け入れを断られた)
19:45 最初に連絡を受けた墨東病院が急きょ受け入れを決める。
(この時点で墨東病院は自宅にいる産婦人科医、脳外科医を呼び出したはずである)
20:18 女性が墨東病院に到着
21:30 帝王切開で出産
22:00 脳出血の手術開始
女性が最初にかかりつけ医を訪れてから、帝王切開が始まるまでの時間はおよそ2時間45分である。
かかりつけ医が受け入れ病院を探し始めてから墨東病院に運び込まれるまでは1時間半かかっていない。
この女性の場合、出産に脳出血が重なるという難しいケースで、
受け入れるためには、産婦人科医のみならず、脳外科医がいることが前提になる。
脳出血の存在については、
かかりつけ医と連絡を受けた各病院との間で情報が混乱していたようで、
もし産婦人科医のみの対応で患者を受け入れる病院があったとすれば却って悲惨な結果になったと思うが、
その問題はここでは置く。
ぼくたちが冷静に考えなければならないのは、
当直医を除いて医師が病院にいない土曜日の夕方という時間帯において
患者搬入までに要した1時間半弱という時間は「容認できないほど長すぎるのか」ということだ。
言い換えれば、
「脳出血を起こした妊婦」が「いつでもどこでも1時間以内には病院に運ばれる」ことを、
私たちの社会は「当然の権利」として求めているのかを議論すべきだと思うのである。
これは社会の安全保障の問題であり、
具体的に云えば「セーフティネットの網の目の大きさをどの程度にするか」ということだ。
セーフティネットは最低保障であるから、誰もが等しく保障されなければならない。
都市の住民は保障されるべきだが地方在住者はその限りにあらず、という話にはならない。
例えば、ぼくは来週末、医療シンポジウムに出席のため北海道の羅臼町に行くことになっているが、
この町には産科医も脳外科医もいない。
「脳出血を起こした妊婦」はたぶん釧路市まで運ばなければならず、車を飛ばしても2時間半かかる。
これは多少極端な例かも知れないが、
産科医と脳外科医が揃った病院に1時間ちょっとで運ばれた今回のケースは、
全国的に見るなら、むしろ「幸運なケース」というべきではないかと思うのである。
「幸運なケース」ではあっても、不幸にして患者の命が助からないことはある。
そうであれば、このケースには捜すべき「犯人」はいない。
もうひとつ指摘しておかなければならないのは、「当直医」についてである。
朝日新聞は今朝の朝刊で「墨東病院の産婦人科の当直医が一人だったこと」を非難しているが、
「当直医」とはそもそも入院患者の容態の急変に備えるために病院に詰めているのであって、
外からの救急患者を受け入れるためにいるのではない。
当直医は「万一の場合」に対応することだけを求められているので、
基本的に「労働時間はゼロ」、つまり「働かない」のが労働基準法上の原則なのである。
しかし、それでは必要とされる医療水準を維持できないから、
現場の医師の犠牲のうえに、
30時間を超える連続勤務などの脱法状態を見て見ぬふりをして救急を受け入れているのが現実である。
朝日新聞は
「24時間体制で産科を担当する『複数の医師』が勤務していることが望ましい」という
墨東病院などの「総合周産期母子医療センター」に対する都の指定基準を引用しているが、
それを厳密に求めるなら、
労働基準法違反の「当直医による対応」ではなく、
三交代制などによって緊急事態を専門に対応する医師を配置するべきだろう。
そんなことはできっこないので(都内であってもそれほどの数の医師の確保は困難である)、
都も「望ましい」などという曖昧な表現に留めていると考えられる。
こう考えてくると、今回のケースは「医療崩壊」でもなんでもないのではないか。
私たちの社会のセーフティネットの網の目はそこまで細かくは設定されていない、ということなのである。
もちろん、これは「命の問題」だから網の目をもっと細かくすべきだという議論は成立する。
しかし、全国津々浦々にそうしたネットを張るためには、現在の何倍もの数の医師が必要だろう。
それに伴う社会的なコストは膨大なものになる。
そして、そうしたコストは、保険料や税金のかたちで私たち自身が負担するしかない。
例え現在より遙かに負担が大きくなったとしてもそれだけのセーフティネットを張るべきか否か、
必要なのは国民的コンセンサスの形成であり、そこを曖昧にしたままで「犯人捜し」をしても意味はない。
いや、強いて「犯人」を捜すとしたら、それは私たち自身だったということにならないだろうか。
東京都内で脳出血を起こした妊婦が7つの病院に受け入れを断られ、
都立墨東病院で出産後、脳出血の手術を受けたものの3日後に死亡したという“事件”が起きた。
きのう舛添厚生労働大臣が墨東病院を視察、
責任の所在をめぐって舛添厚労大臣と石原都知事の非難合戦が巻き起こっている。
責任の押っつけ合いなどは論外にしても、
例によってマスコミによる「犯人捜し」が始まっているのが気になる。
「医療崩壊がついに東京にまで及んだ」という論調もあるようだが、そういう問題なのか。
もちろん患者の死という結果は不幸であり、気の毒としか言いようがない。
しかし、そもそも「当然に助かるべきケース」だったのかどうか、冷静に検証する必要があると思う。
以下にぼくの考えを書く。
専門家ではないので細かい間違いがあるかも知れないが、大筋では間違っていないと思う。
まず、“事件”の経緯を客観的に把握するため、タイムテーブルに起こしてみる。
複数の新聞報道を組み合わせると、当夜の経緯は以下の通りである。
18:45 江東区内に住む出産まぢかの主婦が頭痛と吐き気などを訴え、区内のかかりつけ医に運ばれた
19:00 かかりつけ医は緊急手術ができる病院を探し始める
(「空きベッドがない」などの理由で、7病院に受け入れを断られた)
19:45 最初に連絡を受けた墨東病院が急きょ受け入れを決める。
(この時点で墨東病院は自宅にいる産婦人科医、脳外科医を呼び出したはずである)
20:18 女性が墨東病院に到着
21:30 帝王切開で出産
22:00 脳出血の手術開始
女性が最初にかかりつけ医を訪れてから、帝王切開が始まるまでの時間はおよそ2時間45分である。
かかりつけ医が受け入れ病院を探し始めてから墨東病院に運び込まれるまでは1時間半かかっていない。
この女性の場合、出産に脳出血が重なるという難しいケースで、
受け入れるためには、産婦人科医のみならず、脳外科医がいることが前提になる。
脳出血の存在については、
かかりつけ医と連絡を受けた各病院との間で情報が混乱していたようで、
もし産婦人科医のみの対応で患者を受け入れる病院があったとすれば却って悲惨な結果になったと思うが、
その問題はここでは置く。
ぼくたちが冷静に考えなければならないのは、
当直医を除いて医師が病院にいない土曜日の夕方という時間帯において
患者搬入までに要した1時間半弱という時間は「容認できないほど長すぎるのか」ということだ。
言い換えれば、
「脳出血を起こした妊婦」が「いつでもどこでも1時間以内には病院に運ばれる」ことを、
私たちの社会は「当然の権利」として求めているのかを議論すべきだと思うのである。
これは社会の安全保障の問題であり、
具体的に云えば「セーフティネットの網の目の大きさをどの程度にするか」ということだ。
セーフティネットは最低保障であるから、誰もが等しく保障されなければならない。
都市の住民は保障されるべきだが地方在住者はその限りにあらず、という話にはならない。
例えば、ぼくは来週末、医療シンポジウムに出席のため北海道の羅臼町に行くことになっているが、
この町には産科医も脳外科医もいない。
「脳出血を起こした妊婦」はたぶん釧路市まで運ばなければならず、車を飛ばしても2時間半かかる。
これは多少極端な例かも知れないが、
産科医と脳外科医が揃った病院に1時間ちょっとで運ばれた今回のケースは、
全国的に見るなら、むしろ「幸運なケース」というべきではないかと思うのである。
「幸運なケース」ではあっても、不幸にして患者の命が助からないことはある。
そうであれば、このケースには捜すべき「犯人」はいない。
もうひとつ指摘しておかなければならないのは、「当直医」についてである。
朝日新聞は今朝の朝刊で「墨東病院の産婦人科の当直医が一人だったこと」を非難しているが、
「当直医」とはそもそも入院患者の容態の急変に備えるために病院に詰めているのであって、
外からの救急患者を受け入れるためにいるのではない。
当直医は「万一の場合」に対応することだけを求められているので、
基本的に「労働時間はゼロ」、つまり「働かない」のが労働基準法上の原則なのである。
しかし、それでは必要とされる医療水準を維持できないから、
現場の医師の犠牲のうえに、
30時間を超える連続勤務などの脱法状態を見て見ぬふりをして救急を受け入れているのが現実である。
朝日新聞は
「24時間体制で産科を担当する『複数の医師』が勤務していることが望ましい」という
墨東病院などの「総合周産期母子医療センター」に対する都の指定基準を引用しているが、
それを厳密に求めるなら、
労働基準法違反の「当直医による対応」ではなく、
三交代制などによって緊急事態を専門に対応する医師を配置するべきだろう。
そんなことはできっこないので(都内であってもそれほどの数の医師の確保は困難である)、
都も「望ましい」などという曖昧な表現に留めていると考えられる。
こう考えてくると、今回のケースは「医療崩壊」でもなんでもないのではないか。
私たちの社会のセーフティネットの網の目はそこまで細かくは設定されていない、ということなのである。
もちろん、これは「命の問題」だから網の目をもっと細かくすべきだという議論は成立する。
しかし、全国津々浦々にそうしたネットを張るためには、現在の何倍もの数の医師が必要だろう。
それに伴う社会的なコストは膨大なものになる。
そして、そうしたコストは、保険料や税金のかたちで私たち自身が負担するしかない。
例え現在より遙かに負担が大きくなったとしてもそれだけのセーフティネットを張るべきか否か、
必要なのは国民的コンセンサスの形成であり、そこを曖昧にしたままで「犯人捜し」をしても意味はない。
いや、強いて「犯人」を捜すとしたら、それは私たち自身だったということにならないだろうか。
|
無声映画「忠次旅日記」の衝撃
2008/10/23 Thu 格納先: Cinema
最近は古い日本映画ばかり観ている。
10月にみた映画は…
「からみ合い」(1962・小林正樹)、「しとやかな獣」(1962・川島雄三)、
「東京暮色」(1957・小津安二郎)、「早春」(1956・小津安二郎)、「王将」(1948・伊藤大輔)、
「彼奴を逃すな」(1956・鈴木英夫)、「春婦傳」(1965・鈴木清順)…
出張のあいまを縫ってよくもまァ観ているものだと思うが、
そのすべてが日本映画の旧作であることに我ながら驚く。
外国映画や新作に興味を失っているわけではないが、
見たい映画から優先順位を付けていくと自ずとこういうことになってしまう。
そして、きょうはその“極め付け”を観た。
伊藤大輔=大河内伝次郎の「忠次旅日記」…1927年(81年前だ!)に作られた無声映画である。
「忠次旅日記」は日本映画黎明期の名高い傑作だが、フィルムは現存していないといわれてきた。
それが広島県の民家で発見されたのが1991年、
ただし、それも完全ではなく、第二部「信州血笑篇」のごく一部と第三部「御用篇」の大部分である。
今回ぼくが観たのは、東京国立近代美術館フィルムセンターで欠落部分を字幕で補い修復したものである。
実は一昨日も観たのだが、
欠落が多くストーリィをたどり辛いのと「全く音がない」単調さもあって、
途中…主人公の国定忠次が造り酒屋の番頭に身をやつして、主の娘に惚れられるあたり…で寝てしまった。
しかし、捕り手に追われ、中風を病んだ忠次の落魄老残を描いた後半の迫力は凄まじく、
戸板に乗せられて横たわったまま、もはや刀を抜くことさえできない忠次の無残な姿が目に焼き付いた。
忠次を守ろうと銃を構えて寄り添う情婦・お品に扮するヴァンプ女優・伏見直江の眼光炯々として、
押し寄せる捕り手を前に忠次のいる土蔵の扉を開けさせまいとする子分・清水の岩鉄の悪戦苦闘ぶりを
土蔵の中から開いたり閉じたりする扉越しに捉えた長いカットが鮮烈である。
こうした表現を見ると、
映像の文法というものは80年前の無声映画の時代にすでに基本的に完成されていて、
昨今のSFXなどというものはいかさまの進歩でもない…
あるいは、ある意味で「退歩」ですらあることが身にしみて実感されてしまうのだ。
そして、それがぼくが古い映画ばかりを好んでみる理由でもあるのだろう。
「忠次旅日記」の映像は夢魔の如くぼくの脳裏にこびりついていて、
矢も盾もたまらず、もう一度フィルムセンターに出かけた。
今夜は澤登翠さんの「活弁」に柳下美恵さんのピアノ伴奏がつく豪華バージョン、
そのためもあってかフィルムセンターは満席札止めの盛況だった。
(ぼくは上映の30分以上前に着いたのだが、既に行列が建物の地下まで延びていた。)
少なくとも日本の無声映画は活弁との組み合わせによって真価を発揮することが納得できる出来で、
澤登女史の名調子が加わると映像がなおいっそうの光芒を放つ。
(欠落部分を耳で補うことができるので、ストーリィを追うことが格段に容易になった。)
何千本という映画を観てきたぼくだが、
今夜は「貴重」といって過言ではない映画的な体験をさせてもらった。
上映が終わったときには、
フィルムセンターがスタンディング・オベーションに近い雰囲気に包まれていましたね。
夕張の本間きくのさんの亡くなった御主人(活動写真の弁士だった)も、
かつての浅草で満員の観衆を前に「忠次旅日記」を語ったことがあるのかな…ふとそんなことを考えた。
10月にみた映画は…
「からみ合い」(1962・小林正樹)、「しとやかな獣」(1962・川島雄三)、
「東京暮色」(1957・小津安二郎)、「早春」(1956・小津安二郎)、「王将」(1948・伊藤大輔)、
「彼奴を逃すな」(1956・鈴木英夫)、「春婦傳」(1965・鈴木清順)…
出張のあいまを縫ってよくもまァ観ているものだと思うが、
そのすべてが日本映画の旧作であることに我ながら驚く。
外国映画や新作に興味を失っているわけではないが、
見たい映画から優先順位を付けていくと自ずとこういうことになってしまう。
そして、きょうはその“極め付け”を観た。
伊藤大輔=大河内伝次郎の「忠次旅日記」…1927年(81年前だ!)に作られた無声映画である。
「忠次旅日記」は日本映画黎明期の名高い傑作だが、フィルムは現存していないといわれてきた。
それが広島県の民家で発見されたのが1991年、
ただし、それも完全ではなく、第二部「信州血笑篇」のごく一部と第三部「御用篇」の大部分である。
今回ぼくが観たのは、東京国立近代美術館フィルムセンターで欠落部分を字幕で補い修復したものである。
実は一昨日も観たのだが、
欠落が多くストーリィをたどり辛いのと「全く音がない」単調さもあって、
途中…主人公の国定忠次が造り酒屋の番頭に身をやつして、主の娘に惚れられるあたり…で寝てしまった。
しかし、捕り手に追われ、中風を病んだ忠次の落魄老残を描いた後半の迫力は凄まじく、
戸板に乗せられて横たわったまま、もはや刀を抜くことさえできない忠次の無残な姿が目に焼き付いた。
忠次を守ろうと銃を構えて寄り添う情婦・お品に扮するヴァンプ女優・伏見直江の眼光炯々として、
押し寄せる捕り手を前に忠次のいる土蔵の扉を開けさせまいとする子分・清水の岩鉄の悪戦苦闘ぶりを
土蔵の中から開いたり閉じたりする扉越しに捉えた長いカットが鮮烈である。
こうした表現を見ると、
映像の文法というものは80年前の無声映画の時代にすでに基本的に完成されていて、
昨今のSFXなどというものはいかさまの進歩でもない…
あるいは、ある意味で「退歩」ですらあることが身にしみて実感されてしまうのだ。
そして、それがぼくが古い映画ばかりを好んでみる理由でもあるのだろう。
「忠次旅日記」の映像は夢魔の如くぼくの脳裏にこびりついていて、
矢も盾もたまらず、もう一度フィルムセンターに出かけた。
今夜は澤登翠さんの「活弁」に柳下美恵さんのピアノ伴奏がつく豪華バージョン、
そのためもあってかフィルムセンターは満席札止めの盛況だった。
(ぼくは上映の30分以上前に着いたのだが、既に行列が建物の地下まで延びていた。)
少なくとも日本の無声映画は活弁との組み合わせによって真価を発揮することが納得できる出来で、
澤登女史の名調子が加わると映像がなおいっそうの光芒を放つ。
(欠落部分を耳で補うことができるので、ストーリィを追うことが格段に容易になった。)
何千本という映画を観てきたぼくだが、
今夜は「貴重」といって過言ではない映画的な体験をさせてもらった。
上映が終わったときには、
フィルムセンターがスタンディング・オベーションに近い雰囲気に包まれていましたね。
夕張の本間きくのさんの亡くなった御主人(活動写真の弁士だった)も、
かつての浅草で満員の観衆を前に「忠次旅日記」を語ったことがあるのかな…ふとそんなことを考えた。
久しぶりの浅草
2008/10/20 Mon 格納先: Walk/Food &
Drink
久しぶりに浅草を歩いた。
夕張の村上智彦医師の“特命”を受けて、
本間きくのさんの97歳の誕生日のプレゼント(10月16日の日記参照)を探しに行ったのである。
本間さんが東京にいたのは1930年代までだと考えられるから、まだ東京タワーなど影も形もない時代だ。
「その頃の東京らしいプレゼント」というのはなかなかの難題で、
かつて本間さんのご主人が働いていた浅草を訪ねることにしたのである。
丸ノ内線から銀座線を乗り継いで東京横断。
浅草に着くと、まずは腹拵えである。
浅草といえば、やはり「並木薮」の蕎麦が食べたくなる。
喉ごしのいい蕎麦を「もり」で三枚、ずるずるずるッ…と一気にたいらげる。
ぼくはかつて「人間バキューム」と異名をとったほどの蕎麦ッ喰いである。
まだ新蕎麦には早かったようで
蕎麦の香は鮮烈というほどでもなかったが、
名物の「辛い蕎麦つゆ」(蕎麦の尻尾だけちょっと付けて食べる)の風味のよさは比類がない。
平日だというのに、仲見世は観光客で大賑わいである。
「外人のおのぼりさん」の姿が目立つが、
それに混じってけっこう若いカップルがいたりするのが不思議である。
ぼくが初めて浅草を訪れた30年ほど前には、寂れて、荒廃の気配さえ漂わせた「元繁華街」だったのに。
活動写真の弁士だった本間さんの御主人が働いていた浅草六区。
寄席こそ残ってはいるが、東京一の興行街だったという面影はない。
数年前に、六区の古い映画館に入って昔の東映やくざ映画を観ていたら、
隣で遊び人らしい風体の初老の男が厚化粧をした水商売らしい中年女を殴り始めた。
女は泣きながら二人分のコーラかなんかを買いに行ったが、
ぼくは暗澹として、映画を観る気分ではなくなってしまった。
六区は、場外馬券売り場もあって、
「どうみてもマトモに働いてはいない人たち」の吹き溜まりと化しており、
どこか饐えた雰囲気の人たちと外国からの観光客が同居しているのは一種異様な光景である。
奇妙な「江戸情緒」を売りものにした浅草では
なかなか気の利いたプレゼントを見つけることができず、
ぼくはあらためて谷中の「いせ辰」(和紙でできた品物を売る老舗)に行ってみることにした。
夕張の村上智彦医師の“特命”を受けて、
本間きくのさんの97歳の誕生日のプレゼント(10月16日の日記参照)を探しに行ったのである。
本間さんが東京にいたのは1930年代までだと考えられるから、まだ東京タワーなど影も形もない時代だ。
「その頃の東京らしいプレゼント」というのはなかなかの難題で、
かつて本間さんのご主人が働いていた浅草を訪ねることにしたのである。
丸ノ内線から銀座線を乗り継いで東京横断。
浅草に着くと、まずは腹拵えである。
浅草といえば、やはり「並木薮」の蕎麦が食べたくなる。
喉ごしのいい蕎麦を「もり」で三枚、ずるずるずるッ…と一気にたいらげる。
ぼくはかつて「人間バキューム」と異名をとったほどの蕎麦ッ喰いである。
まだ新蕎麦には早かったようで
蕎麦の香は鮮烈というほどでもなかったが、
名物の「辛い蕎麦つゆ」(蕎麦の尻尾だけちょっと付けて食べる)の風味のよさは比類がない。
平日だというのに、仲見世は観光客で大賑わいである。
「外人のおのぼりさん」の姿が目立つが、
それに混じってけっこう若いカップルがいたりするのが不思議である。
ぼくが初めて浅草を訪れた30年ほど前には、寂れて、荒廃の気配さえ漂わせた「元繁華街」だったのに。
活動写真の弁士だった本間さんの御主人が働いていた浅草六区。
寄席こそ残ってはいるが、東京一の興行街だったという面影はない。
数年前に、六区の古い映画館に入って昔の東映やくざ映画を観ていたら、
隣で遊び人らしい風体の初老の男が厚化粧をした水商売らしい中年女を殴り始めた。
女は泣きながら二人分のコーラかなんかを買いに行ったが、
ぼくは暗澹として、映画を観る気分ではなくなってしまった。
六区は、場外馬券売り場もあって、
「どうみてもマトモに働いてはいない人たち」の吹き溜まりと化しており、
どこか饐えた雰囲気の人たちと外国からの観光客が同居しているのは一種異様な光景である。
奇妙な「江戸情緒」を売りものにした浅草では
なかなか気の利いたプレゼントを見つけることができず、
ぼくはあらためて谷中の「いせ辰」(和紙でできた品物を売る老舗)に行ってみることにした。