初めての「泊まり勤務」

次回作が決まらないまま、
遊んでいるわけにもいかないので、北京オリンピックの手伝いに入った。
朝のニュース用に、
夜になってから入ってくる取材映像(例えば、帰国した競泳選手団の記者会見)を編集したり、
その日の競技の見どころを紹介するVTRを作るという仕事である。
そんなわけで、昨夜は、朝までぶっ通しで仕事をする「泊まり勤務」に従事した。
編集やナレーション原稿を書くために「結果として徹夜になった」ことは何度もあるが、
最初から「徹夜が前提」(形式上は仮眠時間が定められているが、実際は眠れない)の勤務は、
30年に及ぶTVディレクター生活で初めてのことである。

いま、自宅に帰って2時間あまり眠ってから、この日記を書いている。
(日記を書き終えたら、もう一眠りしようかと思う。)
「徹夜」自体は若いときから散々やってきたので驚かないし、
「明け」のきょうはゆっくり休めるので、
翌日も仕事が待っている普段の「徹夜」に比べれば体力的には楽なものだ。
しかし、ドキュメンタリーの制作現場とニュースの現場では、
仕事の進め方が「これが同じ会社かいな」と思うくらいに違っていて、戸惑いの連続だった。
例えていうなら、
ルールを知らないで野球をやっているようなもので、
ヒットを打っても一塁に走ればいいのか三塁に走るべきかを知らないから(笑)、
いちいち誰かに訊いて確かめながらプレーしなければならないのである。
こうなるといくらベテランとはいえ「お客さん」のようなもので、
かえって現場の若い人たちに迷惑をかけたのかもしれない。

例えば、
インサイダー取引に悪用されたことで有名になった、
記者が書いたニュース原稿を放送前に読むことができるデータ端末がある。
いままで触ったことがないから、操作のしかた自体がまずよく判らない。
そして、ニュース・デスクによって原稿がチェックされ認められた瞬間に、
全スタッフが基本的にその原稿の表現に拘束されるいうルールがあることを初めて知った。
デスクの認可を得たものが「組織が認めた表現」になるわけで、
そのままでは解りにくいと思ったとしても勝手に書き直すことは許されていない。
(もしかしたら違うのかもしれないが、ぼくが理解したのはそういうことだ。)
また、記者会見での選手のインタビューを編集するとき、
ぼくの普段の仕事の進め方からいえば、
まず取材VTRをすべて見ることから始めて、
どこがポイントかを判断し、構成(ストーリィの組み立て)を考える。
ところが、ニュースの現場では、
記者会見に出席した記者が談話の要旨を原稿にまとめていて、
その記者の(そしてデスクが認めた)まとめに従ってインタビューを切り出していくのが原則だ。
なるほど。
一種の分業システムとして確立していて、
スタッフの個性や感性などでニュースの内容が大きく左右されることがないように作られている。
「ニュースの正確さ」(あるいは「公正中立」)をそのようにして担保しているのだろうし、
実際、限られた時間のなかで、間違いのないニュースが出ていくためには、合理的なやり方である。
しかし、インタビューで語られた「言葉の内容」と同じくらい、
あるいは場合によってはそれ以上に、
口調や表情も重要な情報だと考えているぼくのような人間には、なかなか馴染めないシステムだ。
これは「テレビ(=映像メディア)ではない」と思ってしまうのである。
ニュースの現場は、ぼくのような一匹狼的な気風の強い人間にはとても務まらないのだろう。
あらためて「ニュースと番組とは事実上の別会社」だと認識するとともに、
「これはこれで、いい経験をしたなあ」と思った。
ニュースでの勤務は今週いっぱい続き、土曜日の夜にはもう一度泊まることになる。


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楊逸「時が滲む朝」

今年の芥川賞を受賞した楊逸(ヤン・イー)の「時の滲む朝」を読んだ。
中国(上海)出身の妻が読みたがっていたので、単行本で買ってきたものだ。
日本に来てから20年近くなる妻は、
日常会話にはまず不自由しないが(それでも時々ミョーなことを口走ったりする…笑)、
日本語できちんとした文章を書くことなど考えられないので、
日本語で日本の文学賞をとるという楊逸の「快挙」に憧れにも似た感情を抱いたのだろう。

楊逸の文章は、一言でいえば「初々しい」ものである。
文章を飾る形容句はむしろ多彩で、
中国風の言い回しなのだろう、随所に馴染みのない表現が出てくる独特のものだ。
にも拘わらず、そこに技巧的な印象はなく、あくまで素朴でみずみずしい。
それは「外国語で表現する」という行為につきまとう初々しさなのか。
その文体が、
ひょんなことから民主化に憧れて天安門事件に連座し、
夢破れて日本に流れてくるイノセントな主人公の心象によくマッチしている。
異国にあっても夢を棄てきれない主人公と
現実を受け入れて生きていくことを選択するかつての仲間たち、
その対比が図式的にならず、「みずみずしさ」を保ったままで物語られていく。
その底には、淡いがくっきりとした喪失感が刻み込まれている。
声高に語られることのない喪失感の深さが、初々しい文章を「文学」にまで高めているのだろう。
久しぶりに、心の底に澱が静かに沈みこんでいくような読後感の小説を読んだ。


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なんてったってアイドル(中華風)

かみさんと夫婦50割引で中国映画「雲南の花嫁」をみる(新宿「K's cinema」)。
中国映画には、
一連の張藝謀の作品群や「山の郵便配達」、最近では「トゥヤーの結婚」など、
辺境部の日常生活に材を求めたリアリズムの秀作が多い。
勝手に名付けるとするなら「辺境映画」が、
ひとつのジャンルとして成立しているといってもいいかもしれない。
この「雲南の花嫁」もそうした一本だろうという予断で観に行って、大いにずっこけることになった。
これは、紛う方なき「アイドル映画」である。
中国でも、
1960年代から70年代にかけての日本映画のように、
「アイドル映画」がジャンルとして成立しているらしい。
だから云うのではないが、
主演の張静初(チャン・チンチュー)はアイドル時代の小泉今日子とそっくりである。

雲南省の少数民族・イ族の風習に題材を得た映画で、背景となる中国奥地の風景はあくまでも美しい。
しかし、
イ族の人々がきらびやかな民族衣装(明らかに晴れ着だ)を着て、
日常生活はおろか、農作業まで行っている描写に思わず目を剥いてしまった。
例えて云うなら、日本を舞台にした映画で、振り袖を着て田植えをしているようなものだ。
床の間に神社の鳥居があるような描写、と言い換えてもいいかもしれない。
(効果音として、中国風の銅鑼が鳴ったりする…笑)    
それはないだろう、と思ったのだが、
始めからリアリズムを問題としていない「アイドル映画」だとするなら、それはそれでいいのだろう。
張静初は可愛くって、ちょっとお転婆で、魅力的だ。
このヒロインを始め、主立った登場人物は、
設定こそイ族だが、明らかに漢族の俳優が演じているように見える。
(中国生まれのかみさんに確かめてみると、台詞は全編北京語だということである。)
マジョリティである漢族の美男美女が少数民族に扮して、その“文化”のハレの部分を演じてみせる、
それが中国における民族問題、疎外の新形態だと指摘することは簡単だが、どうも大人気ない気もする。
なんてったってアイドル…なのだから。
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