「幸福の黄色いハンカチ」は北海道の墓碑銘である。

11月22日は、語呂合わせで「いい夫婦の日」なのだという。
ぼくも渋谷でかみさんと「デート」。
かみさんの洋服を選び、映画のDVDを買い、二人で宮崎地鶏を食べた。
帰宅して、高校生の息子に食事をさせ、買ってきたばかりのDVDをみる。
山田洋次の「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」('77)。
ぼくは大学時代に封切りで観ているが、それ以来30年ぶり。
この映画に記録されているはずの、かつての夕張の姿を見たくなったのである。
考えてみると、この映画は夫婦愛をテーマにしたもので、「いい夫婦の日」にふさわしい。

映画は失恋した武田鉄矢がフェリー「まりも」で釧路にやって来るところから始まる。
当時建設中の釧路西港の風景がちらっと映るが、驚いたのは釧路の街が賑やかなことである。
たくさんの人が歩いていて、街には活気が溢れている。
現在は、形容矛盾のようだが「いたって閑散とした繁華街」なので、今昔の感を拭えない。
この映画が作られた1977年と云えば、日本が2百カイリの漁業専管水域を宣言した年である。
各国による漁業資源の囲い込みが行われ、北洋漁業の衰退がすでに始まっているのだが、
釧路はまだ漁業基地としての隆盛を失っていなかったのである。
(ぼくが駆け出しのTVディレクターとして着任した2年後には、少し淋しくなり始めていた。)

赤いマツダを駆る武田鉄矢は、網走で桃井かおり、刑務所を出所してきた高倉健と出会い、
阿寒湖温泉(浴場のシーンはお湯が白濁しているところからみて阿寒ではない)、
陸別、帯広、新得、岩見沢を経て、高倉健がかつて倍賞千恵子と暮らしていた夕張に向かう。
東から西へ北海道をほぼ横断するロードムービーで、三人の目に映る早春の北海道の風景が印象的だ。
そして、たどり着いた夕張…!
いまの夕張しか知らないぼくの目には、
商店が軒を並べ買い物客でごった返すかつての夕張は、
何処と判る町並みが出てくるにも関わらず、まるで見知らぬ町のようだ。
酔った高倉健がちんぴらを叩きのめして殺してしまう場所は、
ぼくが夕張にいるとき毎晩のように飲んでいるところのすぐ傍で、どこで撮ったのかすぐ判った。
夕張
この写真で「日本侠客伝 浪花篇」の看板がある右側、
隣の家とのあいだにある細い階段(青い屋根がかけてある)が“殺人現場”として使われている場所だ。
意識してのことかどうかは知らないが、
「日本侠客伝」と「新網走番外地」、すぐそばに高倉健主演の映画の看板が二枚飾ってあるのが面白い。
この階段を上ったところが本町の飲み屋通りで、
いまは火が消えたような場所だが、当時はネオンが眩いそれなりの歓楽街だったわけだ。
(酔って歩く高倉健の背景に「グレース」など現在もある店のネオンがちらっと写る。)

北洋漁業が衰退し、炭坑も壊滅して、北海道は寂れた。
この映画が記録したのは、貧しいながらに元気だった時代の終わりの北海道である。
映画には、作家が意識しているかどうかに関わらず、
ある時代、ある土地の空気感を写し取ってしまう属性がある。
「幸福の黄色いハンカチ」は、
山田洋次が結果としてスクリーンに彫り込むことになった、北海道の墓碑銘である。
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柳葉魚は生干しの♂に限る

東京に帰ると柳葉魚(シシャモ)が待っていた。
11月3日に釧路の和商市場で注文したものが届いたのである。
いつも魚を買う丸栄田村商店に「半乾きの状態で」と指定して送ってもらったものだ。
一度生干しの柳葉魚を食べてしまうと、カラカラに乾いたものは食べる気にならなくなってしまう。
それほど、旨い。
一年に一度、秋のししゃも漁の季節にしか手に入らないご馳走である。
柳葉魚
柳葉魚というと全国的には「鵡川産」が有名だが、
近年は壊滅的な不漁で、今年は不漁といわれた去年に比べても半分以下の水揚げしかなかった。
いまや市場に出回る「北海道産ししゃも」の8割までが釧路産で、
「鵡川のししゃも」として出荷されるなかにも釧路から送ったものが少なくない。
であれば、釧路で買う方が、鮮度の面でも値段の面でも「お得」なわけだ。
親戚友人へのお土産を含めて7串注文していたが、
かみさんの強い意向で6串
は♂だけの串(1串10本で600円)にした。
♂♀混じりの串(750円)は1串、ということは♀の柳葉魚は5本だけだ。
「子持ちししゃも」というが、実は♂の方が身に風味があって圧倒的に旨い。
上海生まれのかみさんは、何度か釧路に通ううちに、生意気にも味をしめてし
まったわけである。

柳葉魚はこんがり焼いてはいけない。
さっと炙る程度に焼くのが美味しく食べるコツだ。
ネットで注文しておいた「雅山流 楓月」(純米大吟醸)の封を切り、柳葉魚を食べる。
美味、至福。
年に一度の愉しみだが、あっというまに食べ尽くしてしまった…
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ゴールなきマラソン

きょうから再び夕張ロケ。
空港まで迎えに来てくれた夕張第一交通のOさん(運転手)が、
「もう知ってるかもしれないけど、Sさんが亡くなりましたよ」と教えてくれた。
夢にも思わぬことだったので、一瞬言葉を失ってしまった。
13日に撮影させていただいたばかりである。

Sさんは88才、若い頃は浅草で「広沢虎造の孫弟子だった」という浪曲師だった。
戦後は奥さんと一緒に旅回りの一座に加わり、浪曲や剣劇、夫婦漫才までやったという。
昭和36年に芸の世界から足を洗って、奥さんの故郷である夕張に落ち着いた。
脳梗塞を患い、体が不自由である。
81才の奥さんと二人暮らしの、いわゆる「老老介護」のケースであった。
10月に体調を崩して夕張市立診療所に入院、
2週間で老人保健施設に移り、13日に退所して自宅に戻ったばかりだった。

老人保健施設にいたときもリハビリにはとんと興味を示さず、
毎日、施設の入り口に近いところに陣取って、奥さんが見舞いに来るのを待っていた。
どちらかと云えば気難しい爺さんだったが、
奥さんが手料理持参で見舞いに来たときと、
十八番だったという「清水次郎長伝」や「忠次旅日記」の話をするときには、
「可愛い」と表現したくなるようないい笑顔を見せてくれた。
13日に自宅に帰って、しみじみと幸せそうに大好きなタバコをくゆらす姿を撮影したのだが、
それが思わぬ“遺影”になってしまった。
14日の夜に友だちが集まって退院祝いを盛大にやってくれて、
赤飯やイカの刺身をたくさん食べたと云う。
「早く家に帰って一杯やりたい」と繰り返していた人だから、
あるいは大好きな焼酎をいくらか飲んだのかもしれない。
翌日になってちょっと戻したのが気管に入って、窒息されたようだ。
救急車で夕張市立診療所に運ばれ、村上智彦医師が対応したが、
そのときには既に心肺停止の状態だった。

村上医師と話したのだが、
…ちょっと誤解を生む表現かもしれないが…
「これでよかったのかもしれない」と先生は云い、ぼくもそう思う。
帰りたくてしょうがなかった自宅に帰ることができて、
病院や老健では吸えなかったタバコを心ゆくまで味わって…。
そして、さして苦しまずに亡くなられたのだから。
奥さんによると、亡くなる直前まで普段の通りだったという。
ちょっと苦しいと云うので背中をさすってあげたりしているうちに、
突然ソファの上でのけ反って、そのままになった。
村上医師によれば死に顔は安らかだったという。

こうした死を許容できず、
「医療」の名の下に死に至る可能性を減らそうとすれば、
病院で厳重に管理して点滴につなぎ、栄養は経管摂取で…ということになりかねない。
Sさん自身にとって、いったいどちらが幸せだったか。
村上医師が「医者は、死は敗北だと考えすぎるんです」と呟くように言った。
医療には「ゴールなきマラソン」のようなところがある、
死をゴールだと考えない限り、いつまでも走り続けるしかない、それは患者にとって辛い…と。

15日の日記に書いたことと重なってしまうのだが、
ランナーが無事(…という言い方は妙だが)ゴールまでたどりつくのを支える医療が必要だ。
人は誰でも「100%の確率で死ぬ」のだから。
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