カール・ハイアセン

長い出張には文庫本のミステリを携えていくことが多い。
2〜3時間も電車やバスを乗り継いでいく今回のような出張では、
いつも仕事のことばかり考えているのも辛いし、
第一、取材メモを整理しようにも、パソコンのバッテリーが保たない。
(ぼくは取材した内容はすべて愛用のMacBookに記録している。)
本が手放せないわけだが、
着替えやパソコン、カメラと一緒にスーツケースに入れて歩くには、
ハードカバーではかさばるし、重くなりすぎる。
内容の堅い本では気分転換にならない。
そうなると、一番いいのは文庫本で、それもミステリがいい。
刑事や探偵が捜査を通して犯人に迫っていく過程が、
取材に歩きまわっているときの気分にマッチするのである。

旭川から新千歳空港に向かう特急のなかで
カール・ハイアセンの「ロックンロール・ウィドウ」を読み終えた。
文春文庫から出ているもので、
最近はなぜか文春文庫を持っていくことが多い。
一時は、ハヤカワ・ポケットミステリが定番だったのだが…。
ハイアセンの新作「復讐はお好き?」(これも文春)が面白かったので、
旧作に遡って読んでみた。
主人公は「左遷されて死亡記事ばかり書かされている」新聞記者で、
ロック・シンガーの不振な死の真相に迫っていく。
こう書くとなんだかハードにみえるが、実はかなりユーモラスで、可笑しい。

「復讐はお好き?」とも共通するハイアセンの特質は…

1. プロットの鮮やかさ
2. 脇のキャラクターの面白さ、厚み
3. 独特のちょっとシニカルなユーモア

というところだろう。
この作品でも、
消えたはずの死体が再び現れるどんでん返しなど、
きちんと複線が張ってあるにも関わらず大変に意外であり、
さらに、なんというか…人を喰ったものである。
ヤラレタ!…と思わず笑い出してしまうほどの鮮やかさだ。

ぼくはいささか古風な美意識の持ち主で、
喜劇役者が自分から笑ってしまうが如きは下の下だと思っている。
だから、「なんだっちゅうの」などという“いまふうの言葉”を頻発する和訳には
それこそ「なんだっちゅうの」と云いたくなるのだが、
そこさえガマンすれば、面白さは文句のつけようがない。
また読むぞ!…カール・ハイアセン。
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天塩川

名寄をでて幌延に向かう。
宗谷本線は天塩川の流れに寄り添うように北に延びている。
窓の外を眺めていると、どこか郷愁にも似た思いがぼくの心を染め上げる。
天塩川残照
10年ほど前、カヌーに夢中だった時期がある。
ぼくは運転ができないので、
折り畳み式のファルトボートを担いで汽車に乗り、川を下った。
天塩川は一番好きな川で、三度下ったことがある。
宗谷本線の名寄駅か智恵文駅に降りて、カヌーを組み立て、漕ぎ出す。
一度は河口を越えて海にまで出たが、あとの二回は幌延までだったと思う。
ぼくは専らソロ・ツーリングで、
途中、河原でキャンプをしながら、5日〜1週間くらいかけて下っていく。
水はお世辞にもきれいとは言えないが、
人里離れた、茫漠たる風景が続くところが好きで、
自然と向きあうときの孤独感が最高の御馳走だった。

一度は台風が近づいてきたので、予定を切り上げて雄信内(幌延町)であがった。
集落から駅までがけっこう離れていて、
20kgもあるカヌーを背負って、キャンプ用具を脇に抱え、
ヨタヨタしながら歩いたことなどを思い出す。

東京に転勤し、
結婚して家族ができ、
一人一週間かけて川を下るようなことはできなくなった。
だけど、こうして懐かしい川の風景を眺めていると、
もう一度、そんな暮らしをしてみたいという思いに駆られる。
それは郷愁なのか、喪失感なのか…。


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ステレオタイプの「報道」について

夕張医療センターのブログで、
T先生が北海道新聞の記事に怒り狂っている。

http://blog.livedoor.jp/yubariishiblog/archives/432507.html

温厚なT先生がここまで激しい文章を書いたからには、
よほど腹に据えかねる思いをされたのだろう。
文章のなかに「某テレビ局のディレクター」とあるのはぼくのことかと思われ、
だとすれば、ぼくの考え方をいくぶん誤解されているようでもある。
そこで、問題の記事をまな板に載せつつ、ぼくなりの考えを書いてみたい。

ぼくはこうした医師(医療機関)批判とも受け取れる記事を書く記者に、
そもそも「悪意」はないと思っている。
それはT先生が「某テレビ局のディレクター」の言葉として引用された通りだが、
いくらなんでも、この世界で30年ちかく飯を食ってきて、
「見たまま、聞いたままを書く」などと素朴に考えているわけはない。
というか、
「見たまま、聞いたままを書く」などというのはあり得ないことなのである。
取材した内容を記事なり番組にする段階で、
集めた膨大で多義的な「事実」のなかから取捨選択をし、
そうして選び出した素材を組み立てて、ひとつのストーリィに構成をする。
そのなかに記者なりディレクターの主観や価値判断…
誤解を怖れずに云えば「作為」が入るのは当然のことである。

ただ、ここで重要なのは、
この「ストーリィの組み立て方」にふたつの方法があるということだ。
(いうまでもないが、話をわかりやすくするために単純化している。)
ひとつは、取材を通して、
事実に「内在」するストーリィをつかみ出してくるやり方。
もうひとつは、
あらかじめ用意されたストーリィに事実を当てはめていくやり方である。
ぼくは前者こそがジャーナリズムの本来の姿だと考えているが、
現実の記事や番組の多くは、
例え無意識的にではあっても、後者の方法で作られている。
「事実に内在するストーリィ」を発見するためには、
ある程度の取材の絶対量が必要で、
それだけ手間暇とコストがかかって「無駄」も多い。
ぼくなどは、もう一ヶ月以上、北海道をほっつき歩いているが、
最終的に番組のかたちで日の目を見るのは、
こうして集めた膨大な「事実」のほんの一部にすぎないのである。
限られた人員、取材期間で、締切りに追われまくる現実のなかでは、
ステレオタイプにあてはめただけの
「インスタント記事」が蔓延るのは経済原理からいっても当然のことだ。

ここで、もうひとつ指摘しておかなければならないのは、
「あらかじめ用意されたストーリィ」の典型は、
「住民(患者)=弱者=被害者=善」
という図式を前提として成り立っていることである。
これはマスコミの半ば無意識的な思考の「型」なのだろう。
このスタイルに従ってさえいれば、
鋳型に素材を流し込むようなもので、
あまり考えずにすみ、取材が楽だという側面も否定できない。

で、問題の道新の記事だが、
ぼくが読む限り、
「あらかじめ用意されたストーリィ」にはめて書いた典型だと思う。
T先生が怒り狂っている
「“命の格差”まで生じかねない状況がある」という結びは、
ありがちな、云わば「決まり文句」であって、
取材を通してたどりついた結論だとはぼくには思えない。

「ある高齢者が充分な救急医療を受けられなかった」
→「夕張の財政破綻が無辜の住民を犠牲にしている」
→これでは「“命の格差”まで生じかねない状況がある」

というストーリィ(図式)は、
無意識のうちにかもしれないが、
記者氏の頭の中に最初からあったものと思われる。
このストーリィの流れを妨げかねない「事実」は、
記事の流れには「関係がない」こと、
もうちょっと意地悪く云えば、
むしろ「邪魔」だという無意識的な判断が働いたのではないか。
そう考えない限り、市立診療所に確認の取材を怠ったという事実を説明できない。
「事実」をきちんと踏まえて記事を書こうとするなら、
診察にあたった医療機関のウラを取っていないなどあり得ないことだから。

だからといって、
この記事を書いた記者氏が
夕張市立診療所に悪意を持っているとはぼくは思わない。
むしろ、T先生の怒りにきょとんとしているというのが現実ではないか。
そして、その“鈍感さ”はこの記者氏の属人的な問題ではないだろう。
こうしたステレオタイプ思考が骨絡みになったマスコミが、
一方では、
「村上医師は夕張の救世主」といった
裏返しのステレオタイプ報道を大量生産しているわけだから…。
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