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白山登拝の記

一九九八年八月三日、ついに白山に登れり。
ほんとうは、登ろうと思っていなかった。この歳で、とても高い山へ登れる体力があるとは思えなかった。しんどい思いをして何故に山へ登らなければならないだろう、とさえ考えていた。だから、白山は仰いだままで一生終わると思っていたのに・・・。
「お蔭様で白山に登ることができました」
それは、いったいどなたの『お蔭様』だったのか。
「今年は塾の子供たちと白山に登ろうか、と話しているんですよ」
と斉藤正宏さんが、おっしゃった瞬間から、どなたかの見えない力が働き始めたのだと思う。その力はまず私に「それはいいですね。行きましょう」と斉藤さんに即答させた。口から滑り出たその一言を「しまった」とは思わなかった。山登りはしんどいという思いはどこへやら、今かえりみると、そう答えた時から、私の身は白山へ白山へといざなう『お蔭様』に包まれたと確信する。
私が平泉寺の白山神社へ来てから御縁を得た、斉藤さん、仏母寺の田原興基和尚様、石川県からカメラマン枡野正博さん、中学生の大六洋平君、片岸幸子さん、松本聖司郎君、わがやの子供たち直美、紀房、美佳、十人がいっしょに白山へ登ることになった。
斉藤さんの手で、オールカラーの白山の植物図鑑や、白山山頂から見える星の図までついたすてきな-『しおり』が作られた。
皆といっしょに白山へ登る日が楽しみで、一年ぶりに里帰りした九州との別れもつらくはなく、博多から『のぞみ』に乗り二時間半で新大阪の駅に着いたのは、八月一日だった。中一日をおいて、あわただしく山登りの支度を整え、迎えた八月三日の朝はどしゃぶりの大雨だった。
「大雨で地盤がゆるんだ山に、命懸けで子供たちを連れて行くことはない」
という家人の心配もあり、なるほどそうだと思って、まず金沢から出発の準備をしているに違いない枡野さんに、中止の電話をした。勝山を出発する組については、七時に集合した時点で斉藤さんの最終決定に従えば良いと判断した。
斉藤さんは
「まず別当出会まで行ってみて、登れる所まで登ってみましょう。無理せずに、途中で引き返すということで・・・」
斉藤さんの決行の弁に、大きな忘れ物をしそうな気がした。先刻、登山中止の電話をしてしまった金沢の枡野さんだ。
「枡野さんにもう一度電話してみたら」
そう勧めてくれたのは、松本知子さんだった。白山神社下の白山亭の前から、枡野さんへ再び、前言撤回、登山決行を告げた。
「十時には別当出会に行けると思います」
枡野さんの快いお返事に、安らぎを得たところで、子供たちと斉藤さんは、平泉の御神水をいただいて神社から下りて来た。
勝山を出発し、途中、谷峠で、戦国時代の終りから織田豊臣の頃、難攻不落であった谷の部落についての歴史を斉藤さんに聞く。
白峰に着くと、枡野さんとの合流までの時間の余裕を利用して、林西寺の白山本地堂で、白山の山頂から下ろされ、明治初めの頃の廃仏毀釈からかろうじて救われた仏像を拝する。仏像を救った住職は山を売って、仏像を下山させるための莫大な費用に当てたというが、信仰厚い村人が法外な人夫賃を住職に要求したとも思えず、おそらくは、仏像が壊されることなく下山することを見逃してもらうための明治政府側諸役人への口封じの費用になったのではないか、などと考えてしまった。その後林西寺の本堂にお参りしたが、正面を厳めしく飾る欄間の竜の彫り物は、職人たちの凄まじい執念の結晶に見えた。
白峰から車で三十分走り、別当出会に着いた。初めての道、初めての山、雨水を集めてゴウゴウ流れる手取川が待っていた。
九時四十五分、枡野さん到着。皆、合羽を着たり、リュックをしょったりして支度を整える。最期に友安正先生から皆に頂いたアカザという草でこしらえた登山の杖を手に手に持って、いざ出発。
別当出会の案内所は、山から下りて来た人、これから登る人でごったがえしている。雨は落ちていない。大雨で登れるのか、登れないのか心配されたのが余所事であったかのように、ここに居る人たちは皆、登るのが当然という感じ。むしろ、さあ登るぞ、という気に満ちて居たので、我々一行もすっかり、その気に呑まれた。
別当出会の手取川にかかるつり橋を渡る時、ある感動を覚えた。頑丈なスチールロープが渡された橋は、誰かが一歩前へ進むたびに、ゆらゆらと揺れる。この橋を渡る人たちの一歩一歩だ。これから白山に登る私たち十人だけではなく、白山に登る人たち、下りてきた人たちの一歩一歩でもある。皆の足取りが橋を渡っている私の体に響く。つり橋の揺れが、白山をめぐる人々との思いがけない一体感を私にもたらしてくれた。それは、たくさんの仲間の確かな足取りであった。
山道をすれちがう人たちとかわす挨拶に、子供たちは驚いたらしい。
「こんにちは」
「いってらっしゃい」
「・・・ちは」
「がんばってね」
「ご苦労さんです」
擦れ違いざまかわす声に、坂道を登る一歩一歩の力を得る。
山を登りながら考えたこと;息をはずませ、息をきらして、ゆっくりゆっくり休みながらしか進めない私は、しりとりやクイズに興じながら軽やかに登っていく子供たちより、いつも遅れぎみだ。山登りをしながら考えた。よく山登りは重荷を負ってゆく人生にたとえられるが、なぜ好きでもないのに山に登るのか自分でもよく分からない。けれど、山に登り始めたら登るしかない。ただ、一歩一歩前へ足を進めることしかできない。楽になるためには、一歩一歩を積み重ねて頂上へ着くしかない。それも誰の力を借りるわけにはいかず、自分の足だけがたよりで、他者への甘えが存在する余地はない。心通う仲間が幾十人居ようと、一人でしか立てないし、一人でしか登れない。そのことが山に登りながら厳然と身にしみた。
山は、時雨れながら霧にすっぽり覆われていて、自分の足元だけしか見えない。足の下に流れる雨水。浮いている石。滑りそうな粘土質の土。自分にとって、最も確実な次の一歩のみしか考えない。ようやく人が擦れ違える幅の道の両脇には、霧に見え隠れしながらゆたかな植物や木々が茂り、坂道を登る身に励ましと安らぎをもたらしてくれる。一歩一歩登るしかない。誰もが同じ。誰もが室堂を目指して登っている。おとなも子供も、一歩一歩、右足、左足、杖と単純な動作を繰り返して登るのみ。
すべてが霧に覆われている世界の中で、今自分に許されるのは、先へ進むということだけだ。遠い峰も高い崖も、純白の霧のベールがかかり、今自分の居る場所は見当もつかない。だからこそ、無心にただ登る。すると見えないということは、慈悲なのだと思えてきた。どうして山へ登るのか?ということなど、つゆほども問題ではなくなっていた。この一歩で室堂に近付く。この一歩がなければ、お山の頂上は望めない。一キロメートル・・一、五キロメートル・・・三キロメートル、ここが中間点。雨が激しくなり、山小屋に雨宿りして表も裏も濡れてしまった合羽を気休め程度に干す。二十人くらいが、むっとする小屋で休憩しながら、雨音に耳を傾けていた。小止みになったところで出発。
途中、道の右手に『さあどうぞ腰掛けてお休み下さい』と誘うように、ゆるやかなカーブの幹のダケカンバ大きな木が二本、双子のようにたたずんでいた。思わず幹に触りながら囁いた。
「あなたたちにお目にかかれてうれしいです」
この時、ふとあることに気がついた。そう、この山に一歩踏み入れた時から感じていたことだ。ダケカンバだけではない。この山は、優しさに満ちている。それを登りゆく私たちに語りかけてくるのは、木々や草花そして霧。山の高みから、音高く流れ落ちる水が教えてくれる。
「この水をもってあなたたちを潤します」
そうなのだ。私たちは、母なる山の水によって生かされていたのだ。山があるから、生きてこれたのだ。水上に住む者は、下に住む人々へ、この清い水を分かたねばならない。母なる山の裾野に暮らす、すべての生き物への責任を、ごうごうと声をあげて歌いながら水の流れは山をかけ下りてゆく。
ウグイスが鳴く。斉藤さんの鳥寄せの笛に森の奥から答える小鳥。やがて木々が姿を消し、植物の背丈はぐんと低くなる。高度が上がってきたのだ。霧の中に垣間見るカライトソウの色の美しさ。さすがに、女神様の山だ。
突然、急な石の坂道が終り平原が開けた。弥陀が原。平原の入り口にあるひときわ大きな黒ぼこ岩は、極楽浄土の門に見えた。千二百年前、白山を開いたといわれる泰澄大師もこの平原に達した時、必ずやそうつぶやかれたにちがいない。ハイマツやつつましく風に揺れる一面の花々。ここは、極楽浄土・・・弥陀が原。
「ここまでくれば、室堂はあと一息」
斉藤さんの声に、うれしさがふくらむ。
とうとう来られたのだ。たくさんのお蔭様が私の身だけには収まりきれず、あふていく陶酔感。身は慣れぬ登山に疲れているのかもしれないのだが、疲れなどまるで感じてはいない。ただ、幸福に包まれて、早、到着して室堂のビジターセンターにリュックを下ろした六人の子供たちの元気な顔がまぶしく思えた。
今、まいりました。
見えない御方に向かい、白山奥宮で拝礼申し上げる。
斉藤さん、枡野さん、仏母寺様、皆様のお蔭様、そして今日この地へ私を導かれ、お迎え下さった御方へ心から感謝申し上げるばかり。暖かくストーブの焚かれた白山奥宮の参籠殿に、二部屋宿を頂いた。白山ひめ神社の御配慮に感謝しつつ、ストーブのまわりに各々濡れた衣類を干して、一息つくと食堂へ、
「山の食事は期待できませんよ」
と言われていたけれど、牛丼ときのこのおつゆ、アロエのデザートはとても美味しかった。
午後八時、発電機が止まり電灯が消される。
吹きすさぶ風の声を聞きながら明けた八月四日。
霧と風の朝。何も見えない。
朝六時から日供祭に参列する。祭主様の心のこもった祝詞に、共に登った十人ひとりひとりの名前を読んで頂き有り難かった。巫女さんの末広舞は無心の境に舞われ、限りなく美しかった。
下山前。仏母寺様が懐中に奉持されて、二百年ぶりに山へ里帰りを果たされた聖観音の御像の前に、皆で般若心経を唱和した。
八月四日、偶然にもこの日は、私が八歳のおり結核で他界した父の三十三回忌でもあった。田原興基和尚様の御先導で、早朝白山山頂に向い御供養していただいく。父は何よりも私や子供たちが、聖なる白山の上でお蔭様に包まれて、魂の清い方々と共にあることを、笑覧しているに違いない。
子供たちは、斉藤さんの指導のもと、手紙を書いたり、花をスケッチして色を塗ったりしている。私は、七、八通手紙をしたためて、山頂郵便局のポストへ入れた。
白山奥宮の神官や巫女の方々に見送られて、出発。
「最高の登拝でしたよね」
斉藤さんの、溶けるような笑顔。
下山もゆっくりのペース。子供たちは、相変わらずしりとりに声を弾ませながら、元気に下りてゆく。時々すべったり、尻餅をついたりする私を、前を行く紀房が「これは、お母さんの滑りそうな石だ」などと、注意してくれる。友安先生の杖のお蔭で、皆、無事下山することができた。
いよいよ白山を下り終えたところで、別当出会の吊り橋の上から、和尚様のご指示に従い『本成院宗導日正居士、志方正和』と父の名を記して下さった紙を、弥陀が原で拾った小さなヘンマ岩に巻いて、ごうごうたる流れの手取川に流させていただいた。枡野さんは、白山での最期の写真にその様子をそっとカメラに納めて下さった。
枡野さんが、雨と霧の中で撮影して下さったたくさんの写真は、白山でのすばらしい時間を蘇らせてくれる。そのたびに、白山の山にみなぎっていた優しさに満ちた気が、私のうちから湧いてくるかのように思える。
お蔭さまで、白山に登ることができました。
みなさま、ほんとうにありがとう。
(了)



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