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| 大阪陸軍幼年学校こぼればなし | | 作成日時: Dec 12, 2004, 11:58 PM |
桂ちゃんのクラス担任であるS生徒監は、十四歳から十五歳の小さな士官候補生たちを、厳しく、そして時に優しさ溢れるまなざしで訓育した。他の教官が体罰を生徒に加えても、S生徒監は生徒たちを殴ったりせず、指で生徒の鼻先をはじいて叱った。士官候補生から見れば階級の低いラッパ手へ対して「常識ある丁寧な態度で接するように」と指導したところなど、S生徒監の人柄の一端を知られよう。S生徒監は、当時新婚間もなかった。桂ちゃんら49期生は、終戦まで百五十日ほどしか、大幼(大阪陸軍幼年学校)に学べなかったのだが、『その学び舎での記憶は、その後の何十年の人生より忘れ難い』と述懐する同窓生もいる。S生徒監は、終戦後自衛官として、幕僚長、陸将となり定年を迎えられた。
幼年学校での制服や持ち物は、すべていつもきちんと整理し、皆一様に棚へ並べておくようにしつけられ、時々、その数を点検された。けれど、紛失したりすることもあり、その時、苦し紛れに誰かの物を拝借してしまう事態も生じた。運の悪い拝借された誰かが、注意を受ける災難に遭遇した。ともかく教官に叱られないように、常に桂ちゃんたちは緊張していた。緊張のせいか、たまに寝小便をして、叱られる生徒もいた。
授業外の寮生活ではクラスに数人の上級生の模範生徒がついて、一年生に手本を示した。桂ちゃんらの模範生徒はTさんだった。夜九時の点呼の時、模範生徒は朝拝を怠った者や、規則に反したり不始末をしでかした一年生に注意を行う。また、この点呼の時、廊下に整列している生徒は「キケー」という号令を発すれば、発言してもよいことになっていた。
幼年学校の日課は、ラッパ手の吹く曲によって営まれていた。朝の起床から食事、行進(頭右)、突撃、就床と、ラッパの音によって行動する。ラッパ曲には、生徒達の歌い文句がある。
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起床 新兵サンモ古兵サンモ、ミナ起キロ、起キナイト隊長サンニ叱ラレル
食事 カキコメカキコメ、カキコメ麦メシ、カキコメカキコメ麦メシヲ (正露丸のコマーシャルソング)
就床 新兵サンハカワイソウ、マタ寝テ泣クノカネ
退避 ソラキタゾー、ソラニゲロー
突撃 トテチテター
行進(頭右) 大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、特務曹長、曹長、軍曹、伍長、三兵、カシラミギ
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終戦の日、桂ちゃんたちは空襲がひどくなっていたので、近くの勧心寺へ疎開していた。『生徒は学校へ戻るように』という命令で、学校の校庭に整列したのだが、そこで、いわゆる玉音放送というのが始まった。ところが、不明瞭な放送は、桂ちゃんたちに、あまり聞き取れなかった。
「今の陛下のお話、分かったか?」
「分からん。もっと、国民こぞって、がんばって戦えということじゃないか?」
生徒たちのささやきとは裏腹に、声を押し殺して身を震わせ泣いている数人の教官の姿が、桂ちゃんたちには不可解だった。
日本が負けた。生徒達が事態を理解し納得するには、まだまだ時間がかかる。けれど陸軍幼年学校は、その日のうちに解散せよ、という命令だ。出て行かねばならない、ということは帰らなければならないということだ。生徒達は、ともかく身の回りの荷物をまとめた。
その時だ。
模範生徒のTさんが「キケー」と声を張り上げた。一年の生徒たちは直立不動の姿勢で、注目する。
「日本は、必ず復活する。
ドイツを見ろ。第一次世界大戦で負けたが、みごとに復活した。
わが日本も、必ず・・・」
Tさんは、涙をためた真剣な眼で皆を見回した。
皆、同じ思いで深くうなずいた。数時間後、生徒達は幼年学校を後にして、家路についた。
桂ちゃんは、それから二年後、東京でTさんに偶然再会した。
「アッTさん。Tさんじゃないですか」
電車の中で、桂ちゃんは思わず声をあげた。
「ぼく、今から試験を受けにいくとこなんです」
「どこを受ける?」
「東京美術学校の建築です」
「そうか、がんばれよ」
「ハイ」
後から分かったことだが、Tさんも建築の勉強をしていたのだ。
戦後の混乱に揉まれながら、だれもが懸命に生きていく。
桂ちゃんも、Tさんも、百五十日、寝食を共にした幼年学校の仲間たちも・・・。 |
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