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八月十六日、快晴。大平宿へ…
個人新聞“たじみより”1996.9.23第卅七号掲載;文・横田 文孝
その日は朝から快晴で、一日中強い陽射しが予想された。
今年注のお盆商戦は、一週前の十一日の日曜日がピークだった。(注)執筆時の1996年
それでも、日本の基幹産業たる自動車産業を中心に、工業生産系の企業では、今年も恒例となったお盆時季の長い休みが続いていた。
その昔は、商家などでも「薮入り」と称して盆の十六日前後には休暇がもらえるのが通例だった。奉公人が従業員となり、商家が大規模小売店舗になった現在、小売業の従業員がお盆や正月に休みを取るなど以ての外の雰囲気がある。これは進歩なのか、はたまた後退なのか、は良く判らない。しかし、そんな環境の中、一度は諦めかけた大平おおだいら行きであったが、辛うじて十六日に休みを取ることができた私は、前の晩から、いや、十六日に休めると決まった十日ほど前から、心は既に大平宿にあった。
大平宿
長野県飯田市の市街地から見て西方に連なる山々の中に大平宿はある。
『飯田市の、中央アルプス(木曽山脈)南部に位置する大平おおだいらという部落は、木曽谷との境の大平峠に近く、他の部落からは遠く孤立していた。標高1100メートル余。それでも縄文時代の遺物が出るほどだから、基本的にはひとの住みよい土地なのであろう。』(『そして我が祖国・日本』本多勝一著;朝日文庫;ISBN4-02-260810-2 ¥540-)
と、本多勝一氏がそのルポで書いている通り、私が訪れた夏の真っ盛り、暑さを感じさせない爽やかな風を感ずることができる地であった。しかし冬は厳しい寒さと、降り積もる雪に閉ざされるであろうことは、その地の自然環境を目の当たりにすれば、容易に想像がつく。『それでも、基本的にはひとの住みよい土地』であると言うことは、様々な意味を含んだ重い表現として、私には納得できる。
大平宿は今年1996年で村ができてから245年になる。この宿場は、木曽谷にある妻籠つまご宿と伊那谷で最大の城下町・飯田とを結ぶ脇街道にある。飯田と妻籠は二つの峠を挟み約十里(40キロ)。そのほぼ中央、飯田から街道を登って来ると、飯田峠を過ぎ道を下り気味にきた処にある。
この脇街道が最も賑わいを見せたのは、明治の末期から大正の初期である。丁度この時期に、国鉄中央線が敷設され、三留野みどの駅(現JR南木曽なぎそ駅)が開業したのである。国鉄中央線が走る木曽谷と、鉄道の無い伊那谷とを結ぶ交通の要衝としてのこの地に、多くの物と人とが集中した。主には木曾/伊那の山々を背景にした林業による木材が中心であったようだ。
無住の村・大平
こうした歴史的背景を持つ大平宿のある村は、実は現在は無住の村なのである。この村が無住となったのは、今から二十六年前。昭和45(1970)年11月30日、『その前日から降り続く、時ならぬドカ雪の中、真新しい集団移住記念碑の前で離村式が行なわれ』注たのである。(注)吉田桂二氏、絵・文「峠の村のものがたり」より引用
この村がどのように無住の村になって(させられて)いったのかは、先の本多勝一氏の著書『そして我が祖国・日本』に詳しい。
その無住の村に多くの人が集い、二泊三日泊まり込みで、生活の原体験を共有し、協働し、話し合う。そんな場が開催されることを知らせてくれた友がいた。そこに今年「本多の勝っちゃんが来るから、行けば会えるよ」。彼女の手紙にはそんな言葉が踊っていた。勿論“本多の勝っちゃん”と言うのは、本多勝一氏のことである。
「本多勝一」と言う名を知らない人のために
本多勝一(ほんだ かついち)。ジャーナリスト。1932年信州・伊那谷生まれ。元、新聞記者。現在、「週間金曜日」編集長。(注)当時、1999年1月現在は編集委員
主に朝日新聞社の記者時代に、多くのルポルタージュを書き、世界的にその名を知られたジャーナリスト。その視点は常に鋭く、論理的に、強い者(殺す側)の持つ構造に向けられ、その構造の持つ恐ろしさが日常の我々の生活に知らず知らず(知らされず)多大な影響を及ぼしていることを、簡潔な文章と克明な取材の元に知らせてくれる。
比較的読み易い著書として『日本語の作文技術』がある。
本多勝一ファンの愛読書としては『殺す側の論理』『殺される側の論理』がある。『NHK受信料拒否の論理』によりその名を知った人も多い。
横田個人に最も影響を与えたルポは『中国の旅』『アメリカ合州国』。
本多勝一と民家再生を結ぶ点と線…そして面へ
大平が無住の村となった昭和45年11月から然程間も無い昭和46年6月、名古屋の観光業者による「中京のふるさと」大平の別荘地分譲開発が始まった。この開発に反対の烽火を挙げたのが「大平の自然と文化を守る会」であったと聴く。
結局この別荘分譲地開発は、その年の秋のオイルショックによる名古屋の観光業者の倒産により、終わった。ちなみに、このオイルショック後の昭和49年頃、伊那谷三市(飯田・伊那・駒ケ根)は相次いでビッグ・ストアの来襲をうけることとなる。ビッグ・ストアとは、「名古屋の」注ユニーであり東京の西友である。(注)本多氏の前掲書よりの引用。現在は本社が愛知県稲沢市に移り「稲沢のユニー」
建築家、吉田桂二氏が本多勝一氏と出会ったのは、大平が無住の村となってから六年の歳月が流れていた1976年5月のことだと、『夢追う者』の著者は記している。
ここに大平宿再生への原点をこの著者は見出している。
本多氏に案内されて廃村となった大平の地を訪れた吉田氏は、この村に強く興味を引かれた、と著者は続ける。この後、もう一つの原点である「大平の自然と文化を守る会」の運動との連携で、二つの点が線として結ばれたのである。
今年で第三回を迎えた「大平建築宿」は、この線がさらに複雑に点を抱合していった結果生まれた面であると私は理解している。
複雑というのは色々な意味がある。点と点を結んでできる線によって絵を浮き上がらせる、dot-to-dotという子供絵の手法がある。そこに出来上がる面は絵である。コンピュータという点を無数に結んで出来上がるインターネットと呼ばれる面がある。これは仮想的であり、かつ線と線が絡まったように入り組んでいて、面を作り上げている。
恐らく「大平建築宿」も個人と個人が作る線が、非常に複雑に織りなす面としての性格を多いに持っていると考える。
面としての「大平建築宿」
先にも書いたとおり、「大平建築宿」は今年で第三回を迎えた。主催;生活文化同人・共催;歴史環境設計会議・後援;日本ナショナルトラスト、建築思潮研究所、建築知識、飯田市役所。
この集いが、どのようにして始まり面としてどんな性格を持つものなのかは、以下に引用した吉田桂二氏の言葉が最もよく語っていると思う。
『山村宿場の遺構を残す大平宿は、1970年に住民が集団移住した後、飯田市民を中心とするボランティア運動で保存再生を図ってきました。当初からこの運動に多くの人達と関わってきた一人としては、飯田市が実施した今回の保存改修事業は、大平もようやくここまできたか、という感慨がひとしおです。しかしまだ保存再生の永続的なレールが敷かれたわけではありません。今年はその第1回を企画し、これを毎年開催してゆこうと考えている「大平建築宿」は、大平の保存再生をより確かなものにすることを狙いとしてますが、このイベントそのものの目的としては、歴史的な遺構を残す集落という願ってもない環境の中で、風土の一部をなす建築のあり方を、保存と創造の問題としてとらえ、そうした永遠のテーマについて討論し、自分たちの仕事の質を向上させたいところにあります。大平宿の過去と現在については、詳しくは「住宅建築」誌の5月号に特集されていますが、今回の保存改修事業に関わった「大平宿設計会議」が事業の完結をもって解散し、新しく「歴史環境設計会議」として、より広い分野で活動しようとしています。このイベントを主催する「生活文化同人」は、メンバー的にはこれとかなりダブっておりますが、建築とか設計とかの範囲を超え、もっと広い生活文化という視点で活動している団体です。大平建築宿についての興味からでも結構ですし、歴史的環境についての関心、あるいはまた風土と建築の関わり、そうした中で建築はどうつくるべきか、などなど、人によって関心や中身の程度はさまざまですが、2泊3日合宿してのこのイベントはきっと楽しいものになるはずです。』“第1回大平建築宿へのお誘いより”を第3回大平建築宿資料より引用
第3回大平建築宿には約150名の参加者があったようである。私のように一日目のトークショウを聴いて日帰りした人も、二三人は居たようであるが、大半の方々は一泊乃至二泊の民家宿泊をされている。
泊まらなかった私が言うのは相応しくないのだが、恐らく、この民家での二泊の体験は、今の都会・都市での生活を振り返るには余りにも大きなインパクトを持つのではなかろうか?と言うのも、この大平宿に着いてから、大まかにではあるが、保存改修が行なわれた民家が立ち並ぶ街道を見て歩き、一番に感じたのは夜の暗さである。昼間歩いて夜の暗さを感じたなど嘘を言っているようだが、本当の話である。
都市では当たり前の街路灯が無い。周囲は、後に植えられたと聴く木立に囲まれ、勿論街の光などの届かぬ山の中。家々から漏れる薄明かりが恐らくは道を歩く者の目印ではないかと思われる。周囲を見渡せばそれを容易に想像できる環境なのである。
丁度この集いが行われたのは十六日(旧暦の七月三日)で、雨の降らない快晴の日が続く夏空が拡がっていたから、夜空には三日月が顔を覗かしていただろうが、山奥の集落は深い闇に包まれていたことだろう。
夜も光の溢れている都市が良い環境、住みやすい処なのか、山里離れた夜の星に近い、闇に包まれる大平の地が住みやすいのか?“良い”“住みやすい”とはいったどんなことを指すのだろうか?そんなことを考えるのがこの面としての大平建築宿の意味なのだと私は理解している。
点としての「私」
大きな会社の中で、唯単なる点としてしか存在できていないことを自覚していた私は、この大平にきて、そうした考え方こそが誤っており恥ずべきことなのだということを教えられた。
やはり点としての存在が無ければ線も面も出来上がらない。ごくごく当然のことの意味がやっと判ったような気がした。問題なのはどんな面を作るかだ。単に金儲けのために面を作るのか、あるいは自分の満足のために面を作るのか?そして何よりも自分自身は何のために存在しているのか!そうした自覚をもう一度呼び覚ましてくれたのが、大平建築宿であった。
世の中には色々な人がいる、とは良く使われる言葉であり、誰でも知っている言葉である。が、色々の中身となると、会ってみなければ、行ってみなければ、決して判らない。単なる逃げ言葉としての色々な人ではなく、真剣に人生を生きている色々な人、と会って私がもらった“元気”をほんの少しでも伝えたくてこの“たじみより”に紹介してみました。
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