■ 個人新聞“たじみより”>吉田桂二さん >峠の村のものがたり >十一頁

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木炭の売れ行きはまず安値として現れました。その頃からチェンソーが使われ始め、生産量は急増したのですが、つくればつくるほど値が下がったのです。

木炭がダメなら原木に手をつけるしかありません。パルプ材にする原木の伐採は、見る見る山を裸にしてゆき、後数年というところまでに追い込まれてゆきました。

木材ばかりに頼っていたのではありません。高原野菜、高野豆腐、養鱒、料理屋、機会の下請工場など。しかし転身は成功しませんでした。 人口の流出が急増しました。小学校の生徒数は10年ほどの間に50人から数人にまで減っています。昭和44年、集団移住の相談が始まりました。