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大師山 佛母寺 |
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江戸・元禄年間の創建。
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所在地:911-0811 勝山市片瀬 0779-88-2510 |
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このページは、佛母寺の御好意により資料の転載をお許しいただいております。
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佛母寺について私の知っていること;
まず、佛母寺は「ぶつもじ」と読みます。「佛母」とは、「如来の知恵」を指す言葉だそうです。キリスト教における聖母・マリア、つまり「キリストの母」、と言う意味で「佛の母」を言うのではないのです。 佛母寺は今は「佛母寺」と言う名ですが、現存する古い版木からおこされた延命地蔵大菩薩のお札、このページ全体の背景に使用していて、このページの下の方で実物大で表示しているお札、には「勝山片瀬佛母院」とあります。「佛母寺」と「佛母院」どちらが正しいのか、と言う正誤の問題ではなく、時代によってその呼び名に変遷があったと理解して下さい。そして「佛母院」の方が古い時代の呼び名です。 佛母寺はお寺ではありますが、皆さんが想像するようなお寺ではありません。「お寺」と言うよりは「庵(いおり)」と呼ぶほうが相応しい、小さなお寺です。「庵」は『(いほり)〔僧・世捨て人などがすむ〕草や木で屋根や壁を作ったそまつな小屋。いお。【『学研現代新国語辞典』株式会社 学習研究社】』と言う意味ですが、佛母寺は小さいながらもお寺なのです。ただ、お寺としては少々異風な点があります。 それはまず、佛母寺には檀家がない、と言う点。「檀家がない」と言うことはつまり「寺に経済的基盤がない/収入の道がない」ことを意味します。と同時にお墓もありません。ですからお葬式などのお務めもないのです。この点が、佛母寺を非常に特徴づけているのですが、実は佛母寺が果たしてきた歴史的・文化的役割を能く物語っている点なのです。 佛母寺は古くから文化人の集うところであったようです。西洋のサロンの様な役割を果たしてきたということです。と言ってもお寺ですからサロンとは違いますが、佛母寺の経済的な支えの幾許かは、そうした文人墨客からの浄財にあったわけです。しかし単にそうした浄財だけではありません。日常の経済的な支えは、実は僧自らが行う「托鉢(たくはつ)」にあったのです。と言った過去形ではなく、現在も「托鉢」にあるのです。 「托鉢」というのは『僧や尼が修行のため、経をとなえ鉢を持って家々をめぐり歩き、米や金銭のほどこしをうけること。』とあります。このことは、佛母寺で戴いた「関 大徹老師」と言う小冊子に詳しいのですが、後に紹介したいと思います。 現在の御住職、「方丈さん」と親しみを込めて呼ばれてみえますが、も托鉢をされるそうです。無論妻帯もなされていないし、肉食もされません。言ってみれば、僧の原風景がここにはあるようです。「方丈さん」の「方丈」とは、『(1)一丈(=約三・〇三メートル)四方。(2)寺院の中にある住職の居所。転じて、住職。』と言った意味で、寺の御住職を親しみを込めて呼ぶ呼び方なのです。 先に書いた通り、佛母寺は福井県勝山市片瀬と言う処に在ります。片瀬の南東1.5キロメートル程離れた処には、平泉寺白山神社があります。片瀬は、その昔は平泉寺四至内といって、平泉寺の寺域内に含まれる土地柄であったそうです。そうした事を考えると、平泉寺と佛母寺とは何等かの関係があるように、素人考えには思えてくるのですが、実はつい最近までは、平泉寺と佛母寺とは関係が無いような理解がされていたようです。と言うことは、裏を返せば、最近になって平泉寺と佛母寺とは深い御縁で結ばれていると知られるようになったのです。その御縁というのが、佛母寺の御本尊である「延命地蔵菩薩像」であると言うのです。 平泉寺白山神社は古くから白山信仰の拠点で、壮大な勢力として繁栄をしていたのですが、天正二年の一向一揆で、全山が焦土と化し、その折に多くの宝物が焼失、離散してしまいました。そうした平泉寺の宝物のうちの一つが、佛母寺の御本尊の「延命地蔵菩薩像」ではないか、と思われるのです。詳しくは『勝山市・仏母寺木造地蔵菩薩立像について −山林仏教の遺品として−』と題する福井県立博物館の長坂一郎氏の論文があります。(東京国立博物館美術誌 No.517 掲載) 佛母寺の御本尊である延命地蔵菩薩の御開帳は三十三年に一度。平泉寺の式年大祭が三十三年に一度。ともに三十三年に一度の大行事であり、最近では平成四年に時を同じくして双方のこの大行事が行われている。この事一をとって両者を結びつけるには無理があるように思われるが、専門家の研究によれば、平泉寺・佛母寺双方の大行事が時を同じくして挙行されるのは故あってのことだというのである。そしてその故というのが「延命地蔵菩薩像」にあるという。 「延命地蔵菩薩像」は平安時代初期の作であるという。その特徴は、まず頭部にあり、側面から見たときの頭部が四角である。こうした四角の頭部というのは、仏(ホトケ)を現すよりは神(カミ)を表す様式だという。次に、左手に宝珠を持つが、右手は掌を表(正面)に向け下に垂らしている。一般的には、右手には錫杖(しゃくじょう)を持っている。またこの仏像の顔相は、我々がよく知る仏像に見られる柔和な表情とは異なり、厳しい表情を持っており、また童顔のその面は非常に人間の表情に近いものを持っている。こうした点(勿論、これ以外にも数多の特徴)によって、この像は神仏習合の典型であり、この地にあっては白山信仰の最も古い遺物であると考えられるわけである。 |
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延命地蔵菩薩縁由 えんめいじぞうぼさつえんゆ 抑抑(そもそも)、当寺の本尊として安置し奉たてまつる延命地蔵菩薩は、そのかみ注1、行基菩薩が衆生済度(しゅじょうさいど)の大願を以て、一刀三礼(いっとうさんらい)注2の敬度を捧(ささ)げ彫刻し玉ふ世に倫たぐいひまれなる尊像にして、これぞ行基菩薩が大願の結晶なり。 夫れ、この地蔵菩薩の本願を尋ぬるに、六道能化(ろくどうのうげ)注3の大導師にして、殊に如来のみまえにて、我は毎日諸の地獄に入りその中の衆生に代りて苦を受け、無佛世界に衆生を済度し、今世後世ともに能くみちびかんと誓ちかいを立てられ、如来よりは、己れ世をさりて後の未来悪世の衆生は汝に附嘱す、今世後世よくみちびきて弾指(だんし)注4の間も悪趣に堕さず、況んや地獄無間の苦に堕することなかれとの玉ふて末世の我等を地蔵菩薩に附嘱注5せられたり。 然れば、末世無佛世界の今日の我等衆生は、この地蔵菩薩に信頼してこそ救わるゝこと経文に明らかなり。 この由来尊とうとき地蔵菩薩に参詣し結縁(けちえん)注6せらるゝ人は、無上の幸福にして現世は安穏、後世は浄土に生ずること疑ひなし。 伏して世の人に勧すすむ、徒いたずらに悲嘆多き物質の街に栄曜栄華の享楽を争ふのみを事とせず、時に辺際(へんさい)注7窮(きわまり)なき佛願の台に不退不転の歓喜を獲得せんことを発起せられよ。
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