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音楽ばかりでなく、風景、香り、味、人間など、
フランスに関係したあれこれを、
さわやかな風とともにお伝えするページです。
50. 号外!クリスティ単独来日 [2002年8月30日]
フランス・バロック音楽を代表するウィリアム・クリスティが来年の公演(2003年2月)に先立って単独来日しました。27日にマスタークラス、29日に講演、そして各日とも朝9時から45分きざみでインタビュー。全部で10社ほどあったそうです。
*ウィリアム・クリスティ:1944年ニューヨーク生。幼少からチェンバロなどを学び、ハーバード大学で美術史を専攻後、イェール大学でチェンバロを専攻。71年からヨーロッパに移り、76-80年ヤーコプス主宰のコンチェルト・ヴォカーレで通奏低音を担当。その後、レザール・フロリサンを創設。今年は、ベルリン・フィルの定期演奏会に客演するなど、広範囲にわたり精力的に活躍中。
藤壺は、マスタークラスでの通訳、『レコード芸術』誌のインタビュー、そして日仏学院での講演司会と3日連続のおつきあい。
*マスタークラスと講演については、古楽情報誌『アントレ』(掲載号未定)をご覧ください。またインタビューは『レコード芸術』(予定が早くなり、10月末発売の11月号)に掲載予定。
オペラシティ・リサイタルホールでのマスタークラスでは、藤壺の通訳のテンポとリズムが良かったとほめてくださいました
(^.^; インタビューは、フランス語で直接。通訳なしですから、1時間といえば、普通の倍の内容。でも、いつのまにか時間が過ぎて、巻きが入りました (^.^; [雑誌の人が、後5分と大書した紙を広げて注意を喚起]
問題はテープ起こし!いちいち通訳していないので、自分で聞き取らねばなりません(T.T) だから、いつも大変なんです。1時間ほどで原稿用紙にほぼ40-50枚。でも、素晴らしい演奏家とお話できる機会なんて、普通なら望めないことですから嬉しい悲鳴と言えるかもしれません(^.^)
講演は、あらかじめ準備した原稿を読むのはしないということで、質疑応答になるはずでした。ところが、最初の質問をしたら、延々と話し続けるのです。そんな、そんな(T.T) しかも短く切ってくださるのは良いのですが、展開が読めません(T.T)
以前、ヘレヴェッヘの時に客席からの質問の調整がうまくいかなかったので、今回は事前に質問を書いていただきました。結局は、演奏についての問題と今後の録音予定についてがほとんど。結局クリスティの希望もあって、客席からの質問を受け付けることに
(^.^; ところが、日仏学院に集まってくださった方々は非常にレベルが高く、質問の言葉も簡潔でした(^.^) こんなことなら、もう少し客席との質疑応答を入れれば良かった!
終わってみると、90分の予定が12分(T.T) さすがの藤壺もぐったり(T.T) でも、まだ解放されたわけではありません。日仏学院の庭にあるフレンチ・レストランでディナー。もっとも、フランス大使館の幹事や関係者などでフランス語を話せる人もいたので、通訳をしなくてもすみました。
この日のメニューは、オードヴルが魚のカルパッチョかフォワグラのソテー。メインは子羊のローストか鯛のポワレ。デザートは、チョコレートケーキ、アイスクリーム、シャーベットの盛り合わせでした。これに赤ワイン(ボルドー)、食前にリエットをフランスパンに塗ったもの、そして食後にエスプレッソ\(^
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■公開マスタークラス(ソロ、デュオ、合唱)
2002年8月27日(火)18:30開演
東京オペラシティリサイタルホール 全自由席◎¥2,000
◎受講者 上杉清仁(東京芸術大学古楽器科大学院在学)
【曲目】 アンドレ・カンプラ: 『カンタータ』より
◎受講者 懸田奈緒子(東京芸術大学古楽器科大学院在学) 野々下由香里(同大学助教授)
【曲目】 フランソワ・クープラン:『聖水曜日の為のルソン・ド・テネーブル』より
チェンバロ伴奏 くわがた亜樹子
◎受講者 合唱団「スコラ・カントールム」(主宰者:野中裕)
【曲目】 ヘンデル:オラトリオ『メサイア』より
*やむを得ず、内容が変更となる場合がございます。予めご了承ください。
通訳:関根敏子(音楽学)
【チケット取扱い・お問合せ】 アスペン03-5467-0081
東京オペラシティチケットセンター03-5353-9999
主催:アスペン/(財)東京オペラシティ文化財団
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<ウィリアム・クリスティを囲む会>
【日時】 8月29日(木)19:00〜
【場所】 東京日仏学院
【聴講料】 ¥1,000
【お問合せ】 アスペン03-5467-0081
司会:関根敏子(音楽学)
★クリスティー &レザール・フロリサン 速報!
2003.2.16[日]東京オペラシティ コンサートホール 開演:15:00
・パーセル/歌劇《妖精の女王》(抜粋) ・ラモー/歌劇《優雅なインドの国々》から「未開人」(第4幕)
S:\10,000 A:\8,000 B:\6,000 C:\4,000 D:\3,000
一般発売:10月11日[金]
東京オペラシティチケットセンター:03−5353−9999
*パーセルとラモーのプログラムは日本で1回だけ!!
2003.2.12[水]東京オペラシティ コンサートホール 開演:19:00
ヘンデル:メサイア 全曲
49. ポム・ド・テール [2002年6月21日]
最近、地元のタウン誌にポム・ド・テール(pomme
de terre じゃがいも)の話が出ていました。その中にフランスの場合も。時はルイ16世の頃。
「フランスでは、アントワーヌ・オーギュスト・パルマンティエがドイツでの経験からじゃがいもに注目。国王ルイ16世の援助を得てパリ郊外にじゃがいも畑を作りました。昼間は王の兵士が厳重に警備して好奇心をそそり、夜になると兵士をひきあげさせて盗むに任せる奇策で、人々になじませるようにしむけます。同時に、名士たちを招いてじゃがいもづくしの晩餐会を催したり、じゃがいもの花を国王の胸や王妃マリー・アントワネットの髪に飾ったりと話題作りも。じゃがいもは一般に広まってきました。この功績によって、彼は男爵の位を授けられ、パルマンティエの名は多くのじゃがいも料理に残されたのでした」(国分寺マイタウン情報、5月号、料理が楽しくなるキッチンメモより)
そこで、さっそく17.18世紀に関する辞典(Dictionnaire
du Grand Siecle)を調べたところ、パルマンティエ(1737-1813)が広めたのではない!とのこと。以下、辞典(p.1220)の要約です。
じゃがいもに関する最初の言及は1586年(イギリス人のGerade)。次は1600年の
O. de serres。でもcartouffleについての記述は、菊芋と混同しているとか。こうして1535年に発見された新しい野菜は、チリからスペイン、そしてイタリア、ベルギーへ。そこから1588年にウィーンへと伝わって、帝国領土に広まっていきます。1613年にはルイ13世(1601-43)の「国王の肉」の中に登場。パリ市内でも、ゆでたものが街頭で売られていたとか。
名称自体も、いろいろと変化しています。今でもpatateと呼ばれますが、この言葉はアメリカインディアンのバタータに由来。cartouffleの方はドイツ語のKartoffelから。文法学者は、pomme
de terre(文字どおりに訳せば、土のりんご)という名を嫌っているとか。ちなみにpommeは林檎、pomme
d'amour(愛のりんご)はトマト。そう、スパゲッティでおなじみのポモドーロです(^.^)
17世紀フランスでは、国王の植物園のリストにSolanum
tuberosum esculenumという名で記されていて、あちこちで栽培されていました。でも「食べると病気になる」と言われたり、様々な種類があって、水っぽかったり、味がなかったり、苦かったりして。実際、場合によっては有毒のものもあったりして。だから、家畜や貧しい農民とか、施療院などでしか食べていなかったようです。でも、そのおかげで食料不足から救われたりして(豊かな市民たちは敬遠)。1764年の百科全書の中にも記述がありますが、栄養補給程度のものとして扱われています。それ以後も、改良は続けられ、そのおかげで多くの人が飢饉から救われることになりました。
このようにパルマンティエ以前にも、じゃがいもはすでにフランスに存在しており、2世紀にもおよぶ努力があったのですm(_
_)m
ここまで書いて、ふと思いついてパリの地名辞典を調べました。というのも、地下鉄の駅に同じ名前があったのを思い出したからです。そうしたら、ありました! それも、藤壺がいたレピュブリック広場の近くに、アヴニュ・パルマンティエが。そして地下鉄の駅も。パルマンティエさんの名前にちなんでつけられたのは確かなのですが、どうしてかはわかりません。
でも、それに続いて悪夢の思い出が蘇ってきたのです(T.T)。3月のある晩、珍しく音楽会がなく、図書館→ルーヴル美術館→本屋などをまわって疲れた藤壺は、カルチエラタンからバスに乗りました。ペールラシェーズ墓地を通っていく路線は初めてでしたが、土地勘もあり、何とかなるだろうと思ったのです。でも墓地を過ぎた後、ユダヤ人街や治安のよくないところを通っていくではありませんか。そんな、そんな…(T.T) 地下鉄の駅に近いバス停を探したのですが、よくわかりません(T.T)
必死で車中の停留所リストを見ていたら、パルマンティエの名前が。そこに地下鉄もあったのを思いだし、数人の女性が降りたので大丈夫だろうと、藤壺も降りました(^.^; ところが、地下鉄の駅が見当たりません(T.T) そんな、そんな(T.T) あたりには人がいませんし、うかつに道を訪ねるのも危険(T.T) そこで大通りをしばらく歩いていると、少し見覚えのある風景やお店が。ようやくレピュブリック広場に通じることが判明(^.^; 結局、タクシーをつかまえて、運転手にこんな近いところをと文句を言われながら、無事に帰宅することができました\(^
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48. サン・シュルピス教会 [2002年6月1日]
カルチエ・ラタン、リュクサンブール公園、サン・ジェルマン・デプレ教会からそれほど遠くないところにあります。メトロだったら、サン=シュルピス駅。クリュニー美術館の前からバスも。サン・シュルピス広場の近くには宗教書専門や美術関係などの書店などがたくさん。
この教会は、聖シュルピスに捧げられています。本来はサン・ジェルマン・デプレ大修道院の領地の農民のための教区教会として建立されました。古い小さな教会の壁や柱は地下に残っています。中世には、この地域はパリの市壁の外。
*シュルピス(570-647)はローマの血を引く一族出身で、聖職者になりたかったが、両院の反対で6歳から国王ゴントラン(クロヴィスの孫)に仕えた。16歳で故郷に戻り、父親の仕事(農園の監督など)を手伝う合間に聖書を読み、信仰を深めていく。40歳の時に、ブールジュ大司教を知ったことで、シュルピスの運命は好転する。パリを支配する国王に引き合わされ、フランス初の軍隊付き司祭に任ぜられる。6年後ブールジュ大司教の死に際して、聖職者や人々に請われてその後を継ぎ、病院を建てたり、住民を苦しめていた悪税を廃止させるなど、病人や貧しい人々のために数々の貢献を果たした。
現在の教会の建築が始まったのは1646年からで、完成は半世紀後。堂々とした正面に並ぶ柱の奧には神学における徳などを象徴する彫像があります。内部も広く、ミシュランによれば奧行113m(教会の案内書では119.)、間口58m、高さ37m。身廊の右側の礼拝室にはドラクラワの壁画が描かれています(1849-61)
藤壺が聴いたコンサートの演奏者は、シュザンヌ・シェーズマルタンという女性。プログラムはヴィドールの「交響曲第4番」からトッカータ、アダージョ、終曲。(ちなみに10時15分からのミサでは、ヴィエルヌ、バッハ、メンデルスゾーンを演奏)。
シェーズマルタンさんは、サントギュスタン教会の専属オルガニストを長くつとめていた人で、現在80歳目前とか(*.*) とても、そんな風には見えません(^.^; おしゃれな服装、素敵な靴! 写真をお見せできないのが残念です。だって、だって、カメラを日本に忘れてきたのですもの(T.T) しかも、それに気付いたのが、この時だなんて(T.T) もう、おそすぎます! 日曜日だから、教会のまわりのお店も閉まっています。
ここでオルガン・ファンの方に重要なお知らせ(^.^) この教会ではコンサートが終わった12時頃、正面から入ってすぐ右の柱あたりにいると、オルガン席にのぼって楽器をそばで見ることが出来るのです! ここのオルガンは、パリでも屈指の名器。外側のケースは1776年シャルグランによって設計されたもの。半円形、8つのコリント式柱があり、ダビデ王がハープを弾いている彫像を中心として、両側には楽器や花瓶をもった女性像が並んでいます。
ここに1781年、フランスを代表するバロック・オルガン製作家F−H.クリコ(Clicquot、1732-90)によって、5つの鍵盤と64のストップを備えた楽器が置かれました。そして1857-61年、やはりフランスを代表するロマンティック・オルガン製作家A.カヴァイエ=コル(1811-99)がこの楽器を改造したのです! 1781年に名工が製作した名器を、19世紀の名工が改造して新しい名器に(^.^)鍵盤の両側には多数のストップを操作するボタンが半円形に並んでおり、まるで飛行機のコックピットのよう!
歴代オルガニスト−−18世紀のN.セジャン、19世紀のルフェビュール=ヴェリ、続いてC−M.ヴィドール、そして20世紀にはM.デュプレと、まさにフランスを代表する素晴らしいオルガニストたち−−が触れてきた楽器です。それを間近で見た時はさすがの藤壺も興奮(^.^) おまけに、ナノンがそばにいて、シェーズマルタンに紹介してくださったので、ふつうならわからない楽器の仕組みの説明付き。たとえばストップの組み合わせ、ペダルのそばにある特殊な仕掛け等(^.^)
そしてナノンは、降りる途中にある隠し小部屋(ウソ!)へ。そこはオルガニストの一種の控え室。本当に素敵な調度品や絵が並んでいるんです。あのシュヴァイツァーもこの部屋にいたことがあるとか\(^
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47. パリ娘の生活(その2) [2002年5月6日]
空港からナノンの車で昨年夏に引越した彼女の家へ。そこは北駅のすぐそばで便利なところですが、エレベーターなしの5階(T.T) 狭い階段を2人で荷物を一生懸命に運び上げてm(_
_)m ドアを開けると、すぐにカウンター式の小さな台所、その奧の仕事部屋には出版編集用のコンピュータ2セットなどが、サロンには応接セットとオルガン(といっても練習用の小さな楽器)、その他に寝室とバスルームなどもあります。でも、さすがパリジェンヌ! さりげないけれど、どこも個性的なセッティングで、とてもシック(^.^)
ナノンは最近メシアンで有名なトリニテ教会の副オルガニストをつとめるとともに、サン・シュルピス教会などパリのあちこちでコンサートもおこなうなど、演奏家としての活動も増えています。それとともに、19世紀末から20世紀初頭のフランス・オルガン・レパートリーの楽譜出版も。今年の静岡での音楽学会では、現在整理中のパリ管所蔵の楽譜(といっても19世紀)について発表予定なのですが、補助が出ないのでどうするか迷ってます(T.T)何か講演や演奏会ができると良いのですが…(どなたか、11月2-5日前後にそのような機会を提供できるという方がいらっしゃいましたら、藤壺にご連絡くださいm(_
_)m)
ひと休みして乾杯! その後、荷物を詰め替えて再び出発。アニェスの家へ。そこも6階でエレベーターなし! えっ、さぞかし運動(=エネルギーの消費)になるだろうですって? そんな、そんな(T.T) 確かに滞在中は1日2・3往復(^.^; だから***の数字はそれほど変わらなかった??? ともかく、この日はナノンも一緒に夕食をとって就寝。
アニェスの家は夜11時になると寝静まります。その代わり、ご主人は朝が早い。午前7時半頃に起きていくと、もうピアノを弾いてます。前にも書きましたが、泊めてもらう代わり、ご主人にレッスンをするという約束。とにかく熱心で、出張の列車の中でも楽譜を広げています。練習が近所迷惑にならないよう、去年クラヴィノーヴァを買ったくらいですから(^.^;
まずは「ボン・ジュール!」。次に「(ピアノの練習の)調子はどう?」と言ったら、待ってましたとばかりに、ここがわからないと、次から次へ(T.T) そんな、そんな、藤壺はまだ朝御飯も食べていないのに(^.^; あっ、どなたですか、「朝飯前でしょう」などとおっしゃるのは(T.T) そんな親父ギャグなんて、藤壺と縁はございません! えっ!「言っているではないか」ですって? そんな、そんな…m(_
_)m
翌日は日曜日。サン・シュルピス教会で午前11時30分からオルガン・コンサートがあるというので出かけました(詳細はまた別の時に) 帰りは、ナノンの車でアニェスの家へ。というのも、昼食パーティーがあったから。招待客のおふたりは以前にも食事を一緒にしたことがありました−−ひとりは、ジェラール・レーヌに似た男性、もうひとりはイタリア系だけれどちょっとエキゾチックな女性。豪華な食事ではないけれど、心のこもったお料理と楽しいおしゃべり。
ひととおり食事が終わると、アニェスのご主人が何か弾いてと(^.^; そこで幻想曲「さくらさくら」(平井康三郎作曲)を。こんな時のために、日本から楽譜をもってきてアニェスの家に置いてあるのです(^.^; 指が酔払っていますので(本当はあまり練習していないからなのですが)、難しいところは適当にごまかしてアドリブ。次に、前回ジェラール・レーヌ似の男性からリクエストのあったF.クープランの「神秘の障壁」を−−以前にもフランス人男性からリクエストされたことがあります(^.^;
今回は日本からシャンソンなどの楽譜を何冊か持っていったので、フランス(雪が降る、枯れ葉)や日本の歌(上を向いて歩こう、いい日旅立ち、サザンの歌とか)を初見で次から次へとリクエストに応じて…。それで、ふと気がついたのですが、昔のお抱え音楽家って、こんな生活だったのかしら? つまり、ご主人さまの時間にあわせてレッスンしたり、注文があれば演奏したり…(^.^;
でも、藤壺は現代にいますから、ちゃんとお客様と一緒にお食事できますし、服装も自由です。、それに昨晩到着したばかりで時差のせいか眠くなって、5時頃には失礼して、30分ほどぐっすり(_
_) 再び元気を取り戻した藤壺は、午後7時から始まるランジュレさんのチェンバロ・リサイタルへ出発\(^
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46. パリ娘の生活(その1) [2002年4月4日]
今回のパリ滞在最後の夜に見たのは、オッフェンバックの「パリの生活」。原語は、「La
vie parisienne」。パリジェンヌ(実際にはパリジエンヌのエをはっきりと発音)は、パリ娘ではなく形容詞の女性形(パリの)で、ヴィ(生活)が女性名詞だから(^.^; あっ、どなたですか? そう、それでタイトルは駄洒落なのねとおっしゃるのは。そんな、そんな、駄洒落だなんて(T.T)でも、でも、その通りなんです(-.-) ごめんなさいm(_
_)m
実を言うと、オッフェンバックのオペレッタを見たのは、今度が初めてでした。昨年だったか、「美しいエレーヌ」が上演されていたのですが、日程の関係で見ることはできませんでした。それだけに楽しみにしていました。今回も、可能なのはこの日だけ。連日でちょっと大変だったのですが、どうしても経験しておきたかったので(^.^;
物語は、パリを訪れた外国人をからかう話。新演出ということで、幕が上がると、そこはオルセー駅(1900年7月14日完成、現在のオルセー美術館)を思わせる場所。意味もなくカンカンが突然に出てきて、派手に前や後ろへとスカートを上げたり、エプロンをつけたメードの後姿は…。フランス語のセリフが入り、字幕もありませんが、見ているだけでほぼ理解できます。とにかく本当に楽しくて…。これがウイーンのオペレッタ→ニューヨークのミュージカルとなっていくのが納得というくらい(^.^)
劇場はオペラ・コミック座。オペラ座の近く、メトロのリシュリュー=ドゥルオー駅から1分の由緒ある建物。藤壺がいたのは平土間から一段高いバルコニー席の2列目。これでちょうど真中くらいの料金(約3200円!) ちょっと見にくいけれど、雰囲気は最高。隣りのボックスにいた上品な年配の女性なども大きな声をあげて笑ってました。
数日前に同じ劇場で、クリスティが指揮するモンテヴェルディ「ウリッセの帰還」も見ました(^.^) すでに演奏会版は2年前にボーヌ音楽祭で聴いています(エクサン・プロヴァンス音楽祭で舞台上演後だったので、少し動きは入ってました)。でも、その時は突然の雷雨で、上演場所が教会に変更、脇の席で舞台はテレビで補いながらという悪条件。だから今回は楽しみにして、劇場に45分も早く着きました。そうしたら前の広場で「先生!」という声。なんと、S音大の元教え子で、今はパリ留学中とのこと。音楽史の授業は楽しかったと言ってくれました(^.^;
クリスティの場合は、他の上演よりもかなり料金が高く、ヴィオラ・ダ・ガンバを演奏している友人のフランス人たちは天井桟敷。藤壺はもう少しガンバって4階の中央、前から2列目。これで上から2つ目のランク(約11.000円)。一番高いのは17.000円くらいでした。それでも満員で、しかも古い劇場なので空調がうまく行っていなかったせいか、それとも上の方の席だったせいか、暑くてボーっとなりそう! というわけで、休憩時間にアイスクリームを食べて頭を冷やして(^.^;
上演が終わったのは真夜中の12時に15分前(T.T) 実は、これには原因があったのです。海の神ネプチューンが下から出てきて歌っていた時のこと。途中から黙って立ったまま。ウリッセも動きません。でも、オーケストラは演奏を続けていたので、演出かなと思っていました。ところが、チェンバロ席にいたクリスティが、突然に立ち上がって、観客に話し始めたのです(*.*)
「神さまが降りてこない!」−−えっ、こんな時に神の名が出てくるなんて、さすがヨーロッパ、基督教世界!ですって? いえ、そうではありません(T.T) バロック・オペラを上演していた当時はよくあったそうですが、本当に神さまが降りてこれなかったのです。そう、機械仕掛けの故障(T.T) 10分ほど待たされて、海の神は歩いて舞台裏へ。ウリッセも元の位置に倒れて…。再びネプチューンが歌い始め、今度は無事にジュピターが天から降りてきました\(^
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45. ガレット・デ・ロワ [2002年1月26日]
1月6日は「御公現の祝日Epiphanie」。東方の三博士(王)が星に導かれて、幼子イエスを訪れたことにちなむ祝日です。フランスでは古くからの習慣で、この日は皆で集まり、ガレット・デ・ロワというお菓子を食べます。王様のケーキという意味ですが、日本人にはパイと言った方が近いでしょう。
この伝統的なお菓子は、丸い大きなパイの中にアーモンドクリームが入っています。クリームといっても生クリームやカスタードのように柔らかいものではなく、栗餡のような(^.^; でも、このパイには、特別な秘密があるのです。それは、中に陶器の小さな人形(フェーヴ)がひとつ入っていること。昔は空豆のこともあったとか。でも、食べる時には気をつけて。陶器が歯にあたったら大変!
パイは、切り分けて皆で食べます(^.^) 切り分けた断片の中には、ひとつだけ、豆か人形の入った一片があるはず。それが当たった人には、この1年、良いことがあると言われています。その人は、当日の王様roi(ロワ)[女性なら王妃さまreine]として、相手の王妃[または王]を指名し、紙製の王冠をかぶり、2人でパーティーの主役に。
ところで最近は、東京でもこのガレットが売られるようになりましたね(^.^)その日だけでなく、1月下旬まであるとの記事が掲載されていたので、藤壺は今年こそ買おうと楽しみにしていたのです。新聞によれば、新宿の小田急デパートのトロワグロ。ここはフランスのパン、ケーキ、お総菜や肉などが美味しいところ←えっ! 結局は食べるもの全部ではないか、ですって? そんな、そんな(^.^; でも、実際そうなんですもの(-.-) たまに買いますが、どれも美味しい! 以前、御礼にと、黒こしょうをまぶしたハムをいただいたことがあり、とっても美味しかったのを覚えております。でも自分で買うには…(T.T)
他に売っているところとして、銀座のプランタン・デパートが挙げられていました。ここはフランスに本店があるので、当然と言えば当然? ちなみにパリの本店は、オペラ座から徒歩数分のところにあります。藤壺が留学していた頃は、当時のパリ音楽院のあったマドリッド通りからサンラザール駅の前を通ってすぐ。そしてデパートのところからメトロに乗って下宿に帰れば一直線(^.^;
先日、銀座に行くチャンスがありました。ガスホールで長唄の発表会があり、東京日仏学院での日本音楽紹介レクチャーコンサートに出演してくださる住田長十郎先生ご一家の演奏も聴けるというので。余談ですが、邦楽もピアノ発表会も同じようなものですね(^.^; でも、ひとりかふたりの素人さんに大勢のプロ(唄、三味線、笛、鼓、太鼓)が伴奏するので大変そう…。逆に気持ちがよいのかもしれませんが。先生は素人の会なのでと恐縮しておられましたが、プロとの差や普通の公演ではわからないところも出てきたりして、それなりに勉強できましたし、楽しめました(^.^)
*1月22日のレクチャーコンサート、無事に終わりましたm(_
_)m 第一若葉さんや中悪魔さんも駆けつけてくださって感激(^.^) それに中悪魔さんはHPでも素晴らしい言葉を寄せてくださって、ありがとうございました。
発表会が終ると外は暗くなっていました。隣りのヤマハで歌舞伎音楽の参考書やフランスの友人用にシャンソンの楽譜を買ってJR有楽町駅へ。ふと思いついて、プランタンへがレットを探しに。地下売場を探すと、確か3つのお店と新聞にあったのですが、2つしか見当たりません。ひとつは、見た目が私のイメージとは違っていました(T.T)
もうひとつのお店は、ビゴBigot。いかにもおいしそうなパン・ド・カンパーニュが並んでます。がレットには紙製の色付き王冠も付いてます(^.^) 値段はちょっと(-.-)でしたが、この際だからガンバって(?)−−
大事に持ち帰って、効能を並べた後、ナイフを入れた瞬間、カチッという音が(*.*) えっ、そんな、そんな(T.T) 誰に当たるか楽しみにしていたのにーーーーー! つまり、ナイフの下に陶器の人形があったのです。でも、でも、ということは、ナイフを入れた藤壺に当たったのと同じ? それならば、藤壺にはこの1年良いことがあるはず\(^
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44. 太ったカトスの結婚(その2)[2001年12月20日]
このマスカラードの原題は”Le Mariage de la Grosse
Cathos”。まずは、Cathosの発音。日本語はカタカナにしなければならないので不利ですね。英語訳ならスペルをそのままにしておけば良いのですから。音楽文献目録でも、国際版に掲載するために文献資料を送付する際、日本語の漢字をローマ字化しなければならず、調査に手間暇がかかります(T.T)
フランス語では最後を発音しないという常識がありますが、例外もかなりあります。語尾がosとある時、chaosはカオですが、pathosはパトスと発音します。os(骨)は、単数ならオス、複数ならオ。ということは、カト、カトスの両方とも可能(^.^; まわりのフランス人にたずねても、人によって違います(T.T) 音節数は、どちらをとっても変わりません。となれば、語感の問題?
この言葉を見て、ひとりのフランス人が面白い意見を言いました。もしかしてCathosは、カトリックのことでは。えっ! そんな発想があるなんて(*.*) でも、ありそうな話ですよね。しかも太っているのですから。映画「王は踊る」でも、モリエールが「タルチュフ」で聖職者の実態を喜劇にして、母妃や教会当局者を立腹させ謹慎させられた場面がありましたね(^.^; 当時の貴族の家では、長男が後を継ぎ、次男は高位聖職者になるというのもよくある話。
本当にそうなら、カトだと、カトリックそのもの。それに、カトとむきだしの発音よりは、カトスの方が上品。形容詞の「太った」の原語はgrosse。これはグロス以外にありえないのは確か。この劇ではカトスは女性で、grosseはgros(発音はグロ)の女性形。「太った」も訳すかどうか迷いました。グロス・カト、グロス・カトスとした方が固有名詞としては良かったかもしれません。それだとグロス・カトも悪くないのですが(^.^; でも、それだと太ったというイメージが出ません。、最後の方にも主人公ふたりが「太鼓腹が好き、踊りが好き、いつも美味しいワインが憂さを晴らしてくれる」と歌うところがありますから。
そうそう、歌詞訳を渡してから別の仕事で、ニューグローヴ音楽事典のオトテール一族の項を見ていたら、出身地がクテュール(正式にはラ・クテュール=ブセ)(*.*) 何をそんなに驚いたのかですって? だって、だって、カトスが結婚する相手の名は、ラ・クテュールなんですもの。でも、それとオトテール一族とどんな関係があるのかですって? 実はあるのです(^.^)
オトテール一族は、フィリドール一族と肩を並べてルイ14世の宮廷で活躍していた管楽器奏者です。もうひとりの登場人物、デュ・プレシ神父の名前も、当時デュ・プレシと呼ばれていたオーボエやファゴットの奏者と無関係ではなかったはずです。この作品の作曲者であるアンドレ・ダニカン・フィリドール(1647-1730)にとっては同僚と言えましょう。
*アンドレ・ダニカン・フィリドール(1647-1730):ルイ13世の頃から宮廷で活躍していた管楽器奏者一族の出身。自身は大厩舎付き楽団(大きな音が出る野外用の音楽中心で管楽器、太鼓、ヴァイオリン族の演奏家が所属)でクルムホルン、トロンバ・マリーナ、太鼓を担当。後に王室礼拝堂付き楽団やシャンブル付き楽団(室内楽)でオーボエ、バス・クルムホルン、ファゴット奏者をつとめる。またファンファーレを数多く作曲。音楽史的には、現在フィリドール・コレクションとして知られる貴重な手稿譜資料の作成者。このコレクションは、国王の楽譜司書として宮廷で演奏されたレパートリーを含んでいる。
重要なのは、この作品を伴奏するのがオーボエバンドだということ。つまり演奏するのは、オーボエとファゴットだけ。とすれば、楽士の中にはフィリドール一族、オトテール一族、デュ・プレシなどがいたにちがいありません(^.^)「太ったカトスの結婚」は内輪の宮廷娯楽で、しかも喜劇ですから、同僚の出身地を主人公の名前にしてからかうにはピッタリ\(^
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43. 太ったカトスの結婚(その1)[2001年12月8日]
1688年2月にヴェルサイユ宮殿の一室で上演されたコミック・マスカラード「太ったカトスの結婚」が、300年ぶりに舞台で復活しました。それも日本で−−ヴェルサイユの祝祭 III 〜「踊る国王」ルイ14世の栄光(2001.11.29. 紀尾井ホール)。試験的な演奏はアメリカで一度(1991)あったようですが、ワークショップのようなもので本格的な上演は今度が初めてとか。
この作品の手稿譜とそのファクシミリなどは、すでにマーシュが分厚い研究書として発表しています。それを見ると、楽譜や振り付けはもちろん、歌手や楽士の舞台上の動きまで克明に記されているのです。監修の浜中康子さんは、今回の公演のために何度も渡米し、共演のベアードとボーベスの2人とともに、難解な台本や舞踏譜の解読につとめました。
*Musical Thieatre at the Court of Louis XIV "Le
Mariage de la Grosse Cathos " (Cambridge University Press, 1994)
アメリカにいた浜中さんから突然ファックスをいただいたのは、今年の3月頃だったでしょうか−−ファックスはご主人経由で日本からでしたが(^.^; そこには今回の公演を企画していること、ついては台本を訳してほしいとありました。帰国した浜中さんと吉祥寺でお会いして、資料を見ながら美味しいケーキを食べて…。えっ、順番が違うですって? そんな、そんな(T.T) でも、本当なんです。だって浜中さんはグルメなので、いつも素敵なところに連れていってくださるんですもの(^.^) それに、この日は本当に打ち合わせだけでしたから…。
その時、第2場を日本語にしたいとのお話もありました。ちょうどその前に新国立劇場でのマスネのオペラ「ドン・キショット」(ドン・キホーテ)を見て、劇中劇だけを日本語のセリフで役者さんがしていて観客を楽しませていたのを体験していたので大賛成。でも、まずは粗筋がわかる程度に訳すことに。それはよかったのですが、その後から歌われる第1場と第3場の日本語訳が長くて大変。しかも、ちょうど音楽文献目録委員会の準備、そしてフランスにおける国際会議と続く時期(T.T)
結局、日本にいる間に第3場が終わらずパリへ持参(^.^; 会議後に国立図書館で不明だった古語などを調べ、さあ仕上げる段になって日本語の辞典がなく、ボキャブラリーの少ない藤壺は困ってしまいました(T.T)そこで古典舞踏の研究家でフランス滞在10年という友人の石川弓子さんに泣きついて、お宅にうかがい辞典類を参照させていただくことに(^.^; 藤壺が無い知恵を絞り出している間に、弓子さんは手料理まで作ってくださって…感謝m(_
_)m
その頃、浜中さんは夏休みを返上してアメリカで公演準備。内容をよりよく理解するためには絶対に日本語が必要と言われていたので、出来上がった訳文はフランスからアメリカにメール(^.^)こんな時、メビウスがあって良かった\(^
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42. 芸術の交差点パリ [2001年11月25日]
先週の日曜日、藤壺の司会解説で「芸術の交差点パリ」という演奏会がおこなわれました。ピアニスト6人による競演で、充実した舞台に(^.^) まずはプログラムを−−いつものように舞台では藤壺がコメントをつけながら紹介していったのですが、ここではパリとの関係を一言だけ。どれも時空を超えて意外な音楽や音楽家がパリとつながっていることがおわかりいだけると思います。
ラヴェル:「マ・メール・ロワ」(連弾)より「眠りの森の美女のパヴァーヌ」「パゴダ の女王レドロネット」「妖精の園」 17世紀フランスのおとぎ話に基づく作品。
モーツアルト:「ピアノ・ソナタ イ短調 K310」 18世紀、2度目のパリ訪問(1778、 23歳)で作曲出版。この時に母親が亡くなり、サントゥスタッシュ教会で葬儀をしています。
F.プーランク:ノクターン第1番、インプロヴィゼーション第5番、ノヴェレット第3番、「3つの小品」よりトッカータ 18世紀のフランスのクラヴサン音楽を愛した小粋なパリ っ子。サティ、ストラヴィンスキ、ヴィニェス(初期作品の初演ピアニスト)の影響。ノヴェ レット第3番はファリャ「恋は魔術師」からの主題に基づいた曲。ファリャも同じ頃パリで過 ごしています。トッカータは、ホロヴィッツの演奏で有名に(最近ではブーニンも弾いている とか)。
ドビュッシー:12の練習曲集より「組み合わされたアルペッジョのために」、前奏曲集第2巻より「花火」 練習曲集(1915)は晩年の作品で、ショパンに献呈。前奏曲集(1910-12) は円熟期の作品で、曲の最後に標題が置かれています。「花火」は第2巻第12曲で、むしろリ スト風の輝かしい技巧曲、最後の国歌ラ・マルセイエーズの引用は、革命記念日(7月14日) の花火を連想させます。
サティ:ジムノペディ第1番、「梨の形をした3つの小品」(連弾)より「開始のひとつのやり方」 ドビュッシーと親しかった頃(1891-1916)の作品。ジムノペディ第1番(1888) はもっとも有名。タイトルは古代ギリシャの舞踊から。「梨の形…」は、「形式がない」とい うドビュッシーの非難に答えた作品。でも、どこが形式?
ショパン1810-49:練習曲集 作品25より 第1、8、9、11番 父親はフランス人(ポー ランド在住)。21歳からパリに住み、リスト、ドラクロワ、マイエルベール、ハイネ、バルザ ックなどが友人に。葬儀はマドレーヌ教会で、ペールラシェーズ墓地に埋葬。練習曲集第2巻 (1832-36)はマリー・ダグー(リストの恋人、小説家)に献呈。シューマンの前で演奏も。
平尾貴四男:ピアノソナタより第1楽章 平尾貴四男(1907-53)は1931年にパリ留学(当時 はドイツ音楽主流でフランスは珍しい)。池内友次郎と同時期。6年後に帰国。メシアン『わ が音楽語法』の翻訳も。46歳で没。ピアノ ソナタは1948年作曲。作曲家自身によれば、「第 2次世界大戦後のきびしい生活や社会不安を 反映したもので、第1楽章は苦悩と不安に戦う 魂のたたかい、一瞬かがやく抒情的な陽光も暗 い嵐の雲で覆われていまう」。ところが、そ れは表向きで、実は前作初演者への恋と決別し、 ソナタの初演者である夫人への告白として 作られたものだとか(*.*)
ストラヴィンスキー1882-1971:「ペトルーシュカ」3つの断章よりロシア舞曲 ロシア に生まれ、フランス滞在を経てアメリカに移住。ロシア・バレエ団主催者ディアギレフの委嘱 による三大バレエで成功。「ペトルーシュカ」は第2作(1911初稿、改訂1946)。パリのシャ トレ座で初演。アルチュール・ルビンシュタインのために編曲、ピアノの和声的・打楽器的可 能性を追求したもの。
フォーレ:組曲「ドリー」作品56(連弾)より「ミアウ」、「スペインの踊り」 ピアノ をサン=サーンスに学び、その後を継いでマドレーヌ教会オルガニストに。後パリ音楽院の作 曲科教授、院長 勲章、1920退職(耳が聞こえない)。国葬。「ドリー」(1893-96)は エン マ・バルダック(後にドビュッシーの再婚相手)の娘に。
ところで、サティの曲は休憩の終了合図とともに舞台を暗くしておき、演奏者2人が弾き始めると照明をつけるという趣向。なぜって、ひとりは藤壺なんですもの!だから大袈裟に登場するなんて(-.-)本当なんです〜舞台で弾くなんて何年ぶりでしょうか。I
教授の家の記念コンサート以来?
舞台では腕が固くなっているのを感じました。さすがに、学生時代のようにあがってしまうことは(^.^; 1曲目は普通のピアノ曲の譜面を見ながら連弾、2曲目では両手が一緒にすばやく前打音を弾くところで左右が同時に鳴らないなど、冷や汗いっぱい! でも、でも、何とか最後まで無事に(^.^) 優しくお相手してくださった三谷温先生に感謝。コンサート終了後、すてきな音色、色彩感があって良かった、などと皆さまから好意的なお言葉が…\(^
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41. ラヌラグ通り [2001年8月28日]
映画「王は踊る」関係、まだ話題は尽きないのですが、ちょっとひと休み(^.^;
ヴェルディ没後100年ということでヴェルディの伝記を読み直したことは、すでに藤壺日記に書きましたが、そこで、ひとつ大発見(^.^) 35歳のヴェルディは、1848年の夏をパリで過ごしていますが、ある資料に「ラヌラグ通り」に家を借りてと記されていたのです。
えっーーーーーーーーーー!!! それって、藤壺がフランス留学していた時、3年間住んでいたところ(*.*)
ラヌラグ通りrue Ranelaguはパリの16区にあり、セーヌ川とブローニュの森を結ぶ道で、途中モーツアルト大通りと交差します。日本ならば麻布のような閑静な住宅街。モーツアルトがお茶会に出たパッシー地区(当時は有名な別荘地)、現在ならばモネで有名なマルモッタン美術館、バルザックの家、放送局ラジオ・フランスの建物、ミラボー橋、自由の女神像などが近くにあります。そうそう、アルセーヌ・ルパンがこのあたりにいたことも(^.^;−−物語にひとつ横の道が出てきます。
せっかくだからと、通りの歴史を調べてみました。開通したのは1824年。ラヌラグという名称は、1750年、イギリス貴族で音楽愛好家のラヌラグ卿夫妻に由来。夫妻はロンドン近郊にあるチェルシーの領地内の公園に、オーケストラによる公開演奏会用の場所を作り、2人の死後も催しは舞踏会や祭りなども加えて引き継がれていきました。1772年、そこを訪れたフランス人士官が、許可を得て、フランスでダンス・ホール、カフェ、レストラン、コンサートや芝居のための同様な場所を作って、ラヌラグと名付けたのです。その場所に行くための道が、ラヌラグ通り。
1780年にマリー=アントワネットや宮廷女性が訪れたことで人気が高まり、屋根も作られますが、革命後は維持が困難に。でも、ロベスピエールも1790年にここで政治的な晩餐会を開き、テニスコートの誓い一周年を祝ったとか。王政復古時代に再び賑わいを取り戻しますが、1860年頃に姿を消し、以後は市民の散歩用に芝生だけが残されたそうです。
ラヌラグ通りの84番地では、1935年に作曲家のポール・デュカが70歳で世を去っています(以前は近くのサンジェ通りに住んでいたとか)。藤壺の下宿は87番地でしたから、すぐそばだったのですね\(^
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