重く沈んだマザーシップ
昨日久しぶりに読んだ小説の中にあった一文に「生きてる作家になんてなんの価値もないよ」というセリフがあって、おいおい、いくら何でもそれは言い過ぎだろうと思うのだけど、いや、よく考えてみると結局のところそれは正しいのであって、つまり、自分が書いたことって生きているあいだはいくらでも修正可能であり、たとえば昨日書いたことが今朝になってみると間違っていることに気付いて、あわてて目覚めのコーヒーをガブ飲みしながら書き直すなんてことが出来るからで、あなたがいま生きている作家の書いたものを読んで何かしらの感銘を受けたとしても、それはすぐに改訂されてしまう運命を持ったなんの価値もないものかもしれません。いやむしろ、書き直したいと考えるような生きた作家という人種にはまったく価値がないということなのかもしれませんが。逆に死んじまった作家の書いたものというのは、当然のことながら本人による改訂が不可能なわけで、ようやくそこで真の価値が決定されるのか。 一方で、生きている音楽家にもまったく価値がないということを、自らが身をもって思い知っているにもかかわらず、それが分からぬ奴らから商売人とか守銭奴とか揶揄されているミュージシャンも存在していて、そのミュージシャンの評判といえば、死んでしまったグループメンバーの遺産を食いつぶしているだけの死に損なったご老体に過ぎないというもの。 彼らが産み出したロック・ミュージックというジャンルそのものは、その死者とともにすでに埋葬されてしまっているわけで、つまり、音楽自体は死滅してしまっているのに、自分だけが生きているという手持ち無沙汰の状態で、商売人や守銭奴ですらないことを充分に自覚しているこの人物、その当の人物の最近の仕事というのは、ベストアルバムのための選曲とかリマスターだったりするのだけど、それが実際のところ非常に勇ましい仕事で、ロックがもうとっくに死んでしまっていること、そして生きている音楽家になんてなんの価値もないことを、世の中にもういちど宣告しているように思えます。
そうとは気付かれないようなフリで狂人役を演じながら、その実すでにみんなにバレバレだということも充分承知済みで、まるで現代のドン・キホーテとでも言うべきこの人物、槍の代わりにギブソンのダブルネックを高々と掲げるのだけど、それは決して誇りを持ってというのではなく、逆に自虐的な、いやむしろ「オレは何も間違ってないよ、何もかもあいつらの所為なんだぜ」などというような言いわけ的な卑屈さが垣間見られて、その憎まれ役が一回りくるっと裏返って、最終的には実に人間味のある好感の持てる人物像を形作っている。 そして、この世で生活している多くの人々の心の奥底にもやっぱりこのような卑屈さがちゃんと息衝いていて、自分だけのおしゃれなバイブルどおりの生活を実践しようとして、あちらこちらを右往左往しつつも、いやはやまったくヒトって奴はなんと愚かな、且つなんと愛すべき動物なんだろうと感じさせられるのもまたこの音楽。 安っぽい紙に粗悪なインクで刷られたパルプフィクションを、まるでこの世に二つとないバイブルのように崇拝し、すべては他人の所為だと逃避し、同時にそんな自分を忌み嫌うあまりに、自らの命を絶とうと試みたりもする、そんな人たちに対してのみこの音楽は未だ有効です。ドン・キホーテは今も生きている。地中奥深くへ重く沈み、相も変わらず迷走している自分にはなんの価値もないけれど、すぐそばには沈着冷静なベーシストや従者サンチョが立っていて、そうして常にこちらを見守ってくれるはず。 日々の日記@カテゴリ、ヤマタツ生きてます。重く沈む1500文字余り。
Posted: 水 - 11 月 21, 2007 at 02:55 午前