午前三時のさよなら通り
いやぁ、もうね、そういうことですな。まったくもってその通りです。一から十までおっしゃるとおりだ。何から何までそういうこと。隅から隅までそういうこと。東から西までそういうこと。ゆりかごから墓場までそういうことなんです。
ご存知のとおりこのわたくし、ワンセンテンス、一文、ひとつの文をどれだけ長くできるかということに命を燃やしておりまして、それは主に錯綜する情報群の迷走に対して手を貸そうかという腹づもりがもちろんあるわけだけど、一方で、これは正直に告白すると最近改めて気付いたことに、このニセモノ感漂う、そう、言ってみればこのニセブログ上において、見事ニセモノ道を全うしたいという気持ちのなせる技でありまして、同時に冒頭の決まり文句とそれから多用されるこのわたくしといった一人称も、間違いなくその企てに加担するための小道具であるわけです。
そうは言っても、当のその一文がファンタジーの彼方にフェードアウトしていくのではなく、常にこちら側の世界、つまりこのわたくしやこれをお読みになっているあなたが普段歩いているおもて通りの、いつも通りの見慣れた場所にその句読点を打ちたいのです。
これはとりもなおさず、このわたくしがいわゆるフィクション(もちろんすべての文章はフィクションであると言えますが、最初からこれ創作、虚構ですと名乗り出ているいわゆるフィクション)というものを創り出す能力に欠けているからで、結局のところはその点とか丸とかを打つ場所をあちこち探し続けて通りを行ったり来たりする毎日。揚げ句の果てにはなるべく人に見られないように、蕎麦屋のテーブルの裏側や、あるいはコンビニの出入口に置いてある灰皿の中や、コーヒーショップの飲み残しのカップの中、場外馬券場の窓口の脇、寂れた本屋の店先に平積みされている雑誌のあいだ、カウンターで飲むヒューのコースターの下、そんなところにこっそりと句読点を打っているのはあまり公言したくない事実。
ところが、そのおかげで今日も何とか現実の世界でこうしてキーボードを打つことが出来るとも言えるわけで、したがってこの句読点を打つ場所というのは常日頃から万全の注意を払って見つけ出しておくことが肝要です。
一方、優れた才能を発揮して書かれたものの一部は、その句読点も遥か彼方の見知らぬ架空に打たれているにもかかわらず、突如として自分の最も近いところ、自分のマインドの中に直接打たれていると気付かされるもので、明らかにニセモノ感漂う、一歩間違えばうさん臭い文章がまるで殉教者におけるバイブルのように心を捉えて離さないという事態になることがあるのは、書いた人の能力が人並み外れて飛び抜けているおかげ。
そんな、一見薄っぺらいニセモノ感と奇妙な親近感(むしろ既知感と言った方がいいかもしれない)とをあわせ持つフィクションを、このわたくしは一冊知っていて、それは寓話のようでいてまるでそんなものではなく、かといって、他人のマインドに無理矢理語りかけようとするいわゆる「文学」でもなく、はたまた“風”のようでもあり、“歌”のようでもありながらそのいずれでもなく、やっぱり普通の言葉と呼ぶしかないもので、紙に書かれた(印刷された)本というしかないものです。
この本では最初から時空は歪んでいて、はるかな太古から現在まで、故郷から地球の裏側まで、まさかそんなところにまでという勢いで句読点が打たれています。憎たらしいまでにあざといまでに。ところがそれらはやっぱり今歩いているこの通り道に打たれているのです。難しい単語は何ひとつない代わりに心に響く言葉もありません。読者はただひたすら、そこかしこに打たれている句読点を拾い集めるしかなく、しかもせっかく集めた点や丸もポケットからポロポロとこぼれ落ちるので、来た道を引き返さなければならないこともしばしばあるという具合。
さてと・・・。
夜が明けてきましたな。近ごろは夜中の三時ころまで起きていると、あるいはとうに寝ていたのにちょうど午前三時頃に目が覚めたりすると、本当に夜が明けるんだろうかと不安になることがあります。窓を開けて、時には外に出て、真っ黒い空を見上げることもあります。
この本の最後には、アメリカ生まれのある作家について書かれている箇所があります。ヘミングウェイやフィッツジェラルドと同じ時代に生きたというこの作家の墓には「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」というニーチェの言葉が刻まれていて、やはりその作家自身がヘミングウェイでありフィッツジェラルドなのではと思わせます。少なくとも同じ人種、夜明けを待ちきれず、午前三時にさよならを言ってしまう人種。昼の光が夜の闇を知り得ないのと同様、夜の闇にとってはあの昼の光の残酷さが理解できないという孤立感を抱え込む人種。
ふぅーっ・・・。
このわたくし、今夜もまた午前三時にふと、さよなら通りを歩き、タバコと泥水のような缶コーヒーを買い、コンビニの出入口に置いてある灰皿の中などに句読点を打つのです。冒頭で一つの文をどれだけ長くできるかなんてことを書きましたが、結局は句読点をどこに打てばいいのか分からずに、やっぱりダラダラと駄文を垂れ流すしか能がないというのが正直なところなのです。しかしながらこのカテゴリ、さよならを言うところから始まっています。句読点から始まっている。
日々の日記@カテゴリ、ヤマタツ生きてます。このわたくし、こちらで生きております。
Posted: 金 - 11月 9, 2007 at 04:22 午前