ベニー・プロフェイン(V.ノート)
「V.」を再解読してみる、と書いてしまったのでとりあえず始めてみますかね。
「V.」という小説に限らず、トマス・ピンチョンの作品はすでに読まれることよりも語られることの方がはるかに多いわけですが、どの評論を読んでもその全体像はなかなかはっきりしません。
おぼろげながらようやく全体が見通せるのは松岡正剛氏の千夜千冊の解説です。
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「物語の進行はあきらかにエントロピー増大の法則にしたがっている。エントロピー増大とは情報が過多になり、本来の秩序が失われて混乱が拡張していくことで、生命的なるものの喪失をもたらしていく。
(中略)
そもそも情報というものの本体がいまなお特定できないのだし、その情報はたえず事態の見方に従って相転移的に創発してくることが多いのだから、その現場を描くことはそうとうに面倒になる。
が、ピンチョンはそれを引き受けた。『V.』とは、そういう誰も引き受けなかった試み、アンリ・ポアンカレやアラン・チューリングやディヴィッド・マーならば当然引き受けた科学思考の試みを、ひたすら文学で引き受けた"実験"なのである。
(中略)
トマス・ピンチョン以降、われわれは「情報創発文学」というものがありうることを知ったというべきだった。」
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これで少なくとも「V.」について書かれた他の解説の意味がようやく分かります。「V.」の時系の捉え方や、この小説をポスト・モダンとする論評の意味がです。物語を破壊し、メタフィクションたるべき小説として「情報創発文学」がありうることもなんとなく理解はできます。
では、「V.」そのものは本当に「情報創発文学」なのでしょうか。そして情報過多とともに生命的なるものは失われているのでしょうか。
プロフェインのストーリーは表面上はそう見えます。彼は少しずつ自我が崩壊しているようにも思えます。
1955年のクリスマス・イブ、バージニア州ノーフォークの東本通りという舞台から「V.」第一章は始まります。
黒デニムのズボン、スエードの上衣、スニーカー、カウボーイハットという恰好のベニー・プロフェインが通りを歩いています。彼は第二十二駆逐艦隊の処刑台号の元乗組員でしたが、今では海軍を除隊になり道路工事に従事しています。
一人の下士官が54年型パッカード・パトリシアンの燃料タンクの中に小便を流し込もうとしています。老流しが唄をうたい、海兵隊の新入りがゲロを吐き、憲兵が新兵をぶち倒し、黒人の甲板手がわめき、「船員墓場」という酒場では水兵と海兵が喧嘩騒ぎをしています。
この大騒ぎの第一章で主要人物の半分が登場し、プロフェインが小説を通して悩まされる生命なきモノたちが示され、東本通りの街灯の列がアンバランスなV字型になっていることで、小説タイトルのメタファが明らかにされます。(つづく・・・いつの日か)
Posted: 木 - 10 月 14, 2004 at 11:01 午後