|
| 「狭き門」アンドレ・ジッド(1909年)/新潮文庫 | | 作成日時: Oct 14, 2004, 09:08 PM |
今日、たまたま酔っぱらっているからと云うわけでもなく、彼女が話しかけてくれたからご機嫌と云うわけでもなく、不意に思い出した小説がある。
「狭き門」アンドレ・ジッド (1909年、明治42年)
ちょうど夏目漱石が「門」の連載を始めたのが1910年(明治43年)、日本最高の知識人が活躍していた頃とちょうど時を同じくしている。
この小説、はじめて読んだ頃は理解できなかった。それは、わたしが全くと云っていいほどキリスト教に無知であったからだろうな。それでも、アリサの手紙が何故に書かれ、彼女の至高の願いを成就することになったか、僅かずつでも読み解く努力をしたと思う。わたしはアリサの様な生き方や信仰を信じないが、そういう考え方を人間としての導きと信じて実行したということに、ただ言葉も無く感動するだけだった。だから、わたしは「プロテスタンティズム」を別の考えに代入することで理解に努めたのだ。ジッドがプロテスタンティズムの達すべき道を語ったのなら、わたしのような読者はアリサとは別の達すべき道があるだろうと。そう、千差万別、個人それぞれの願いと信ずることを、これほどまでの熱き想いで実行する精神は、常に感動と共感をもたらすものだということと理解した。それは簡単な言葉としては、恋する人や、子供達、家族への無垢な「愛」に違いないと思う。それ以外にも様々なな「理想」があるだろう。そして、それが簡単な言葉でありながらも、実行するには、まず常人では成し得ない理想そのものであると。理想は最高のものであればあるほど、そこに達するには困難であり、危うくば挫折をともない、二度と顧みないものなのだ。だからこそ、アリサは人間が掲げる理想を達し得た一個人としていつまでも記憶に残ることになる・・・。
ある日わたしは心に思ったことがある。
もし、わたしに娘が出来たなら、その娘の名は「ありさ」と名付けてあげようと。共感の精神と、愛に満ちた子供に成長することを願い。 |
|
|