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杏飴 そして大嘘つき (四)

四 花見の頃

中学入学の春、上野公園で工務店の親方が盛大な花見を催した。わたしは身体に合わないだぶだぶの学生服を着て、入学式が終わった後、両親と駆けつけた。親方は既に顔が真っ赤で猿みたいに見えた。口に出しては言わなかったが。コップになみなみと日本酒を注ぎ、わたしに飲めと言い、それから大声で笑いはじめた、「おまえは猿みたいだ」と月賦を交えながらわたしに言い、コップに注がれた酒を一気に飲み干した。そして、また笑いはじめた。
わたしは親方の奥さんが作ってきた料理を二三口つまみ、頭の上の桜を眺めた。淡い風になびき、その度に花びらが散っては、空に舞っている。少し汗ばむような陽が西の楚良にまだ残っていた。
きょろきょろしていたわたしに、父はコップにビールを注ぎ渡した。「母さんには内緒だぞ」 少しだけビールを飲んで、買ったばかりの上着を脱ぎ、わたしはポケットに手を突っ込んで人混みの中に入って行こうとした。「遊んでくるよ」 と、親方は、「さあ、これで女でも買ってこい」、そう言って怒鳴るように大声で笑いはじめ、そして、咳き込んだ。親方の奥さんは、「この酔っぱらい、なんて事言うの」と言って、親方の頭に平手打ちを浴びせ、そして咳き込む彼の背中をたたいていた。わたしは、親方がくれたくしゃくしゃの千円札を受け取る、父は笑いながら頷いていた。母は若い職人達にせっせと料理を取ってやり、酒を注ぎ回っていた。

誰か遊び仲間がいないかと出店の並ぶ桜並木を歩いていたとき、噴水の前でミナコが飼い犬とじゃれていた。
「この犬、スカって名前だろ?」 彼女は頷き、二十種くらいの血の混じった雑種の頭をたたいて、座らせようとした。
「顔赤いよ、風邪ひいた?」
わたしは、少しビールを飲んだと答えた。ミナコは、ふううん、といった表情で立ち上がった。彼女はわたしより少し背が高く、少し茶色の瞳をしていた。
「制服のまま来たのね」
わたしは、黙って頷いた。
彼女とは英語塾で知り合った。中学受験を試み、東女か日女かだが、どれも最後のくじ引きで落ちた運の悪い娘だった。そもそも知識を運で選択することもおかしな話だが、それでも、公立のとんでもなく頭の良い中学に越境で通うはずだった。わたしは、スカの頭を撫でてやった。
「利口そうな犬だね」
「でもね、肝心なときに馬鹿なの」
そう言って、はあはあと舌を出しているスカに、溢れんばかりの愛情のこもった眼差しを送っていた。
わたしにとって、彼女は塾での先生であり、そして勉強以外の点でも先生であった。確かあの時、彼女と桜の舞う道を歩来ながら話したことは、彼女はビートルズが好きだと言うこと、(「兄のレコード、黙って借りて聴いているの」)、ピアノを小学校四年生までやっていたこと(「チャイコフスキーのコンチェルトが弾けるまで、本当はやりたかったんだ」)、小学校の頃の家庭教師は東大生だったこと(「とても太ってて、いつも汗かいてた、でも、声が女の人みたいに高かったのよ」)
わたしはおもしろおかしく相づちを打っていた。
露店の前で、親方から貰った千円で何か買おうかと思い、彼女に聞いてみた。
「これ食べる?」
串に刺さった杏に水飴をまぶした真っ赤な飴を指さして言った。。ミナコはにこりとした。スカはそんなものよりも、焼き鳥の方がお好みのようで、彼女を炭火で煙の立つ屋台へ引っ張ってゆこうと懸命だった。
わたし達は、杏飴をなめながら、西洋美術館の前のベンチに座った。既に閉館した門の前に、セザンヌの静物画が描かれたポスターが貼られている。
「この絵知ってる?」
当時のわたしは、セザンヌを知るほどには文化的ではなかった。
「今度見に来ようよ、とても素敵なんだよ」
彼女はいつでも、わたしに何かを教えてくれた。
「いいよ、その時、やっぱりスカも連れて?」
「うん、当然!」

(「五 新しい楽器」 につづく)

 




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