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| 杏飴、そして大嘘つき (三) | | 作成日時: Jan 13, 2005, 09:38 PM |
三 思い出その二
鹿児島出身のわたしの父は中学を出てすぐに東京に来た。入谷の工務店に大工として勤め、十八歳の時巨人軍の入団テストを受けたが失格した。それ以来父は巨人嫌いを通している。父はとんでもない速球を投げることが出来るピッチャーだったが、入団テストの前年、まだ十七歳の時、電気ノコギリで利き手の親指と中指、小指を切断してしまった、それで指だけではなくボールコントロールも失った、悲しいことだ。
工務店の親方は田舎出の指の欠けた薩摩訛りの男に嫁を世話した。言うまでもなく、それがわたしの母親である。
母は、戦後鳥取に住んでいた。郵便局勤めだった母の両親が、大陸帰りの左腕の無い情緒不安定な男に包丁で刺され殺された後、東京の大学に通っていた兄の元にやってきた。その兄の夜昼無しのアルバイトの収入で、商業高校を東京で卒業することが出来た。卒業後、たまたま学校が紹介してくれた就職先が、親方の工務店と取引のある平井の木材屋だったのだ。
同年代であった二人は二年後に結婚し、親方が探してくれた千束のアパートで生活をはじめる。そこから親方の店までは自転車で五分とかからない場所だった。父は自分の暮らす街の風景に仰天し、感動しただろうが、母はとんでもなく不安で、嫌だっただろう。それはそうだ、貧乏暮らしの生活には、その街の夜の風景は、恐ろしくも不気味で近寄りがたいものだったからだ。
一九六四年、東京オリンピックの開会式の次の日、わたしは青戸の日赤病院で生まれた、正午頃だった。その時、父は赤坂御所で浩宮の子供部屋を改装していた。その後、わたしが物心ついた頃から、酔っぱらってはそのことを自慢げに話すようになる、「宮様の部屋を作ったんだぞ」、そして「オレは巨人の投手になるはずだったんだぞ」、そのフレーズは何度も繰り返され、父の輝かしい思い出になってしまった。
(「四 花見の頃」につづく) |
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