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| 螺旋の哀しみ (その四、了) | | 作成日時: Dec 30, 2004, 07:08 PM |
(小林秀雄が死去した年、友人と鎌倉の東慶寺に・・昔の駆け込み寺だ・・墓参りにいったことがある、彼の墓石は手の加えられていない自然石をそのまま置いてあるようななんとも飾らない墓だった)
嘆き悲しむことを美化して表すことだけが重要なのではない。それだけが美しく文学的だなどとのたまうことは愚の骨頂。そして、それ以上に実生活において傷つき嘆き悲しむことが美化されることに辟易する。ところが、過去、多くの「傷つく」人間は素晴らしい詩を書いた。しかしいずれ傷は癒される、そして哀しみと嘆きの詩と、永遠に訣別することが出来る。
ヴェルレーヌは離別の悲しみに耐えかねて十九歳の若者に向け銃を放った。若き天才詩人ランボーは、その時から三十七歳で死ぬまで一篇の詩も残していない。わたしは詩人としてよりその後世界を渡り歩いた商人/冒険者としての彼を信ずる。悲しみや苦しみを彩る言葉を書き綴るよりは「生きる」ことを選んだ男を。
傷ついたなら、詩を創造し若きランボーの亡霊を見るべきだ。彼は必ず次のような忠告を与えてくれるだろう。
「苦しみや悲しみはわたしの詩の糧であったが、生命ではなかった。」と。
(了) |
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