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| 螺旋の哀しみ (その三) | | 作成日時: Dec 28, 2004, 11:14 PM |
わたしたち人間は他の生物以上に感情を作用させる。人類が文明を興してから数千年の間に、人間の感情は複雑に進化してきたが、複雑な物ほどその基底は非常に単純な土台で出来ているものだ。素晴らしき天才達が書き綴った人間精神の解釈は、それはまた彼らの遺伝に関する解釈でもある。しかし、高尚であることが、人間として優れているということには決してならない。
わたしは植木等の映画を観て感動した、主人公は文学などとは一向に縁がなく、酒と女と金に対する単純な感情の反応を機敏に示すだけだ。しかし、そこには「生きる」ことに対し、更には「種の保存」に対する明確な行動様式があらわれている。彼は人間という生物の遺伝にかかわる精神作用を、日常の生活の中に忠実に実行する男なのだ。その真実の人間像が極端であり見るものに笑いを起こさせる、しかし、そこには「生きる」ことにただただ熱心な男と自分との比較によって生じる嫉妬なのだ。
この人間の根源を見せる男と全く逆なのが、太宰治。彼は笑いなど何処にも存在しない世界を描いた。笑いどころか読むほどに不愉快と嫌悪を催す。作品が太宰治の精神作用に深い関わりを持つほどに作品は悲しく、傷ついてしまう。「晩年」では、単純な感動があった。「人間失格」は美しくもなく、感動もなく、ただ読むことに辛いだけだ。そんな作家を初夏の彼の命日、「桜桃祭」の日、多くの読者が三鷹の禅林寺を訪れる。墓石に彫られた彼の名前の溝には色付いたサクランボウが埋め込まれる。「生きる」ことに誠実ではなかったこの作家の読者達はそれほどに多く熱心だ。すぐ近くには、森鴎外の墓もある、しかしそこにいったいどれだけの読者の墓参りがあるのだろう。
(以降 その四へ) |
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