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螺旋の哀しみ (その一)

螺旋の哀しみ その一

植木等が若かった頃の映画、昭和三七年作『ニッポン無責任時代』、『ニッポン無責任野郎』。わたしが今まで見てきた映画の中でこれほどに無邪気に生きる主人公を描いた映画は記憶がない。いや、記憶に残るほどに感動する無邪気な人間を捉えた映画が無かっただけのことだ。それほどにわたしはこの映画に感動した。我が愛すべき『C調男』に。中原中也を諳んじ、小林秀雄の死を嘆き、ジョン・レノンを敬愛する男がだ。ふむ、どうも嘘臭い、どでもいいさ、そんな戯言。

人間は誰もがその人生の中で嘆き悲しみ苦しんでいる。数ある文学はその形式においても、主題においても人間のっこれらの精神作用の表現のために多くの語彙を費やしてきた。そこに描かれる主人公達は栗シミや悲劇に対峙しては、涙を流し、罵り合い、哀しみに暮れている。ラスコリニコフ、ソーニャ、彼らの嘆き。何かに傷つき苦悶する主人公達はありきたりに言えばわたしたちの精神作用の代弁者であり実践者だといえる。文学は長い歴史の中で人間の精神作用の解明をその時代の科学力以上に行ってきた。そしてそれらは素晴らしい成果を残した。悲しみの原理を探り、傷つく人間の心理を明かし、不条理を受け入れ、エクスタシーを表現し、人々は文学により精神作用に対する理解を深めることが出来たのだ。ファウスト、オフェーリア、アリサ、ムルソー達は人間の様々な精神作用の法則として永遠の主人公として描かれた。しかし、文学、哲学、心理学などは総てにおいてひ弱な精神の産物でしかない。そんな精神により生まれた物が、それ自体の存在理由、精神作用の原理を説明することが出来るのだろうか。私は訝しむ。『人間は何かが原因で傷つき哀しむ』。知れらはこう表現できるにとどまる。それでは、『哀しみ』とはいったい何なのだ、『傷つく』とは。

(以降 その二へ)

 




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