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| 「シーシュポスの神話」 山を超えた先 | | 作成日時: Nov 30, 2004, 10:02 PM |
カミュの「シーシュポスの神話」を久しぶりに読んでみる。
ここ一週間で、朝のニュースしか見ないのに、2件の集団自殺の報道、彼らはみな若い。
この本は小説ではなく、不条理について紐解く解説書のようなもの。不条理な論証という最初の章の第一節、「不条理と自殺」において、
「絶望していたこの男の友人が、よそよそしい口調でかれに話しかけたのではなかったか。その友人にこそ罪がある。そんな口調で話しかけられただけで、それまではまだ宙に浮いていた怨恨や疲労のすべてが、一時にどっと落ちかかることがありうるのだから。」(清水 徹訳)
ニュースを聞いていたときに、真っ先に浮かんだのはこの文章だった。人間は一時の苦痛は、それが終わることを知っているから耐えることが出来る、しかし毎日毎日、昨日と変わらない彼ら一人一人の「苦悩」とともに目覚めることが、どれほど鬱な気分になるかを、わたし達は少なからず経験している。たまたまなのか、誰かが助けてくれたのか、それとも自分で何らかの働きがけをしたのか、その「繰り返し、そして何ら変化しない苦悩」を断ち切ったが故、今もこうして生活している。もし、個人個人の苦悩が永遠に続くと知ったら、それを解決する手段を自ら得られず、そして他人からも与えられなければ、人は生きてゆくことが出来るとは思えない。
神々がシーシュポスに与えた刑罰は、巨大な岩を山頂まで転がして運び上げること、しかし岩は頂に着いたとたん転がり落ちてしまう。そして、シーシュポスは山を下り再度岩を転がす・・・永遠に。神話における神は、希望もない、無益な行為を最も想い刑罰としたのだ。
だた、その神話において、シーシュポスは(カミュのいう)不条理を背負いながらも岩を押しあげ続けている。そして、カミュは彼を不条理の英雄とたたえる。シーシュポスは自分の悲惨な有様を十分に理解している、それなのに岩を押し続けた原理は、「見下す」精神だった。神を見下す精神を得たからこそ、彼は英雄であると。
神話の中の英雄とおなじことが出来るほど、人は強くはない。しかし、一度、自分の苦悩の原因と思われるものに、罵声を浴びせてみよう。映画の真似をして中指をたててみるのも良いかもしれない。その行為に、取り巻く「苦悩」は少し後ずさりするはずだから。そして翌日も更に、気合いを入れて。 |
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