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PART2 ─ 高知県佐川町の記録 ─
3月8日(月)
(場所)恵比寿
(時刻詳細不明)ひろせの会社、アイ・エヌ・ジーの方からひろせの葬儀の日程に関する連絡が来る。
通夜は、3月9日(火)19時より。告別式は、3月10日(水)14時から15時まで(15時出棺)。喪主はひろせのお父さん。いずれも場所は高知県佐川町にあるひろせの実家にて行われるということだ。
9日の通夜は難しいが、10日の告別式には行けそうである。9日の夕方、高知へ向かい、10日の夜帰京することにする。
3月9日(火)
(場所)恵比寿
(14時過ぎ)会社には事情を説明して、早退させてもらうことにする。 恵比寿駅前の「びゅうプラザ」で高知行きの最終便の航空券を購入する。羽田発18時55分の全日空である。家での準備の時間が意外に少ないことを知る。その後、遅めの昼飯を食べる。
(場所)三鷹
(15時40分頃)恵比寿駅から約1時間ほどで自宅に戻る。昨夜は実家に宿泊したため、ここに戻るのは二日ぶりである。病院の霊安室で着ていたコートからであろう、部屋中に線香の匂いが充満していた。
17時頃には出発しなければならないが、香典の用意、喪服・靴の準備、予備校仲間へのメール送信など、やるべきことがたくさんある。時間がない。シャワー、着替えなどを大急ぎでする。
友人Fから電話が来る。香典を用意して欲しいとのこと。慌ただしく応対してしまう。
(17時10分頃)自室を出る。17時20分頃発の中央線に乗る。I氏からの香典を18時に浜松町で受け取ることになっていた。その時間には間に合いそうである。
(場所)浜松町
(18時頃)I氏と会って、香典を受け取る。本来ならば昨夜にでもゆっくり会って受け取るのが筋であろうが、私の方に時間がなかった。ギリギリの受け渡しである。I氏の職場が浜松町でなかったら、この再会は実現しなかったことである。
モノレールの駅前で、高知便のチェックインをした。その間にI氏がモノレールの切符を買ってくれていた。
(場所)羽田空港
(18時30分頃)羽田空港に到着。モノレールの駅から荷物検査などを済ませていると時間の過ぎるのはあっと言う間である。搭乗口にたどり着いたときには、搭乗もほぼ終わりに近づいていた。座席に着くと間もなくドアが締まり、ボーイング767は滑走路へ向けて移動を始める。19時。ほぼ定刻の出発である。
(場所)高知空港
(20時30分頃)機内でかき集めた週刊誌を読み漁っているうちに767は着陸していた。ここから高知駅までバスに乗り、高知から佐川まではJR土讃線に乗っていく。通夜が終わっていても今日、一度は佐川に行き、ご家族に挨拶しようと考えていた。先発隊のテラオ、キムラ、ミヤザキ、コガも佐川にいるはずである。
到着ロビーに着いてバスの時刻を確かめると20時30分発が最終のバスだった。すでに出てしまったかと諦めたが、券売機で切符は売られており、外を見るとバスがちゃんと待っててくれたので乗ることにする。最終便の客が乗れるように待っているようだ。
20時47分頃、高知駅へ向けてバスが出発。
(場所)高知駅
(21時20分頃)バスが高知駅前に着く。先発隊がいるはずの佐川に向かうため、改札前の時刻表を見ていると、2〜3分後に佐川方面行きの特急「あしずり」が発車することを知る。切符を買う余裕がないので改札の駅員に乗車証明をもらって跨線橋を渡る。
車内に入ってから、予備校仲間のキムラの携帯に電話をかけてみる。いま「あしずり」に乗ったことを告げると、
「え、いまから佐川に行くんですか?もう、われわれは高知に戻って来ちゃったんですよ」
と言われる。こちらもびっくりして、
「え、うそ、ホント? じゃ、降りるー!!」
と叫びながら降りる。車内のおばちゃん数人に「はよ、降りないと」笑われてしまう。
その後、キムラと携帯電話で連絡を取り合って、無事ホテルにたどり着く。
(場所)高知駅前のビジネスホテルと居酒屋「土佐」
(22時頃)コガと再会。テラオ、ミヤザキは部屋にこもっているようだ。キムラ、コガ、私の三人はまだ食事をとっていないので、先に食事だけしに行くことにする。ホテルの人に教えてもらって、道の向かいにある「土佐」という居酒屋に入る。
食べ始めてしばらくすると、浴衣の上にコートを羽織った怪しげな男二人が「土佐」にやってくる。見れば、テラオとミヤザキであった。ミヤザキとは今回が初対面である。
鰹のタタキが美味しかった。
(場所)高知駅前のビジネスホテル
(23時頃)「土佐」を出て、テラオの部屋である207号室へ五人が集まる。しばらく酒を飲み、ひろせについて語り合う。
(翌日1時15分頃)私だけ自分の部屋に戻って就寝。
3月10日(水)
(場所)高知駅前のビジネスホテル
(8時30分頃)起床。仕度をする。
(10時頃)チェックアウトを済ませる。帰りの航空券の予約をする。
(場所)高知駅ビル内の喫茶店
(10時30分頃)一時はりまや橋(高知の中心街)へ行くという話もあったが、高知駅ビル内の喫茶店で朝食をとることにする。約1時間余りここに居座るうちに、今朝東京を発ったウスイが合流。もう一人大阪から車でやってきたひろせらと同級のA君も合流。その間、私はモーニングセットとカキフライ定食を食べる。
(場所)ひろせの実家
(11時48分頃)ウスイ、コガたちと佐川方面へ向かう普通列車に乗車。一部はA君の車で移動したはずだが、どのように別れたのか覚えていない。列車の中では居眠りをする。12時半過ぎに西佐川駅に到着。ひろせの実家へは佐川駅より西佐川駅の方が近い。タクシーでひろせの実家へ。
(場所)高知から佐川へ
(12時40分頃)佐川はなだらかな山に囲まれた盆地にある町である。高い建築物はなく、空が広い。葬儀会場でもあるひろせの実家にやって来る。建てて何年も経っていないだろうと思われる新しい家である。玄関からあがるとまもなくお母さんと妹さんが出てきて挨拶をする。二人とも黒の和服を着ていた。通夜欠席の非礼を詫びる。
玄関を入った左側の広間が祭壇になっていて、その前に棺桶が配されていた。壇に向かって左側が頭になっており、ひろせが眠っている。盛岡では五分五分の確率で諦めていたひろせとの再会である。 お母さんが、
「また、あの時より顔が変わってるやろ。……ちょっと、むくんだ感じになって」
と私に話しかけてくる。見るとたしかに、一回り大きくむくんだようになっていた。移動するときにドライアイスなどをあてたためであろうか、余り目立ちはしないが、頬の辺りには縦に線がついてしまっていた。顔色は前よりも一層白く澄んでいるように見えた。いつまで見ていても、ひろせは胸の前で両手を組んで、じっと眠っていた。
祭壇の中央にはひろせの写真が飾ってあった。四角い枠の中でひろせは素直に、にっこりと笑っている。祭壇の脇にはお母さんと妹のさおりさんが座っていて、お母さんが誰に言うともなく、
「写真も、いい写真で。会社の人が送ってくれてねえ」
と言うと、さおりさんが、
「本当にねえ。最近の写真みたいでねぇ」
と言った。
しばらくして、テラオがお経を読み始めた。長い合掌をする。
お父さん、アイ・エヌ・ジーのヨシナガさん、キムラなどが弔電の整理を始めていた。
(14時頃)スーツだけではやや肌寒い、南国の春の日であった。やがて時が来て、葬儀が始まった。僧がお経を読み、焼香が始まる。家の脇にある庭への通路には、北野武、テリー伊藤、中田英寿、高田純次らからの花が並んでいる。列は長い。私たちは焼香台のある庭でその様子を見守っていた。
家族、親族の焼香が済み、お経の声が止むと、テラオが弔辞を読み始める。涙をすする音があちらこちらに聞こえてくる。ウスイも顔を真っ赤にして泣いていた。
やがて棺桶が広間の中央におかれ、最後の別れの時が来た。
コガ、私も広間にあがって再びひろせの顔を見た。ひろせはじっと動かない。両手の爪の先が内出血しているのか紫色になっていた。枕元に花がまかれ、足元に手紙やウルトラマンの絵本、Nゲージの特急電車などがおかれていた。私は手元にあった予備校仲間の会員報を特急電車の脇に置いた。これでいつでも連絡が取れると思った。
親戚のおばさんと思しき人がひろせの顔を両手で抱えて泣き始めていた。お母さんもひろせの顔を両手でさすりながら涙を流していた。お母さんが涙を流しているのを見たのはこれが始めてであった。さおりさんは棺桶の縁に両手を置いてひろせの顔を覗きながらいつまでも泣いていた。お父さんも、弟のけんじくんも目を真っ赤にしていた。葬儀屋の人達がそれらを遮るようにして棺桶に蓋をして計八本の釘を打ち始めた。が、一番右端の一本だけはなかなか素直に蓋に打ち込まれないでいた。
釘を打ち終わると棺は一旦庭に置かれ、そこから霊柩車までは友人たちが運ぶことになった。たまたま庭に立ちつくしていた私も手伝うこととなり、十人位で表の通りへと向かった。焼香を済ませた参列者が道に沿ってずらりと並んでいた。玄関の前に霊柩車があり、足の方から車の中へと滑らしていった。
ひろせのお父さん、アイ・エヌ・ジーのヨシナガさんから、参列者へ向けて挨拶があった。いずれもひろせの偉業を讃えるものであった。
(15時20分頃)霊柩車が火葬場へ向けて走り出した。私たちもタクシーで後を追った。
(場所)佐川町の火葬場
(15時30分頃)火葬場は町のはずれの少し山間に入ったところにある。タクシーを降りて、階段を昇ったところにある炉の前の一室に通される。コンクリートやタイルで覆われた薄暗い部屋である。棺がすでに入口の正面に配され、その前に簡単な焼香の台がある。一堂、再び焼香を済ませると、動作の機敏な火葬場の職員がやってきて棺に対して深々とお辞儀をする。焼香台を片づけ、その上にあった花束やフルーツ、キャンディなどを棺の上に置き始める。ここに並んだ人達も黙々とそれに続いてキャンディなどを棺の上にばらまく。
(15時43分頃)棺がカラフルに彩られると、白い大きな箱は火葬場の職員の手によって、部屋の左側にある炉の中へと運ばれていった。白い箱が暗くて深い穴の中に納まるとみるみるうちに幾重もの扉が下から、左右から閉ざされていく。最後に何か言おうとしたが、声にも、言葉にもならなかった。
間もなくゴーというボイラーの音が山に重く響き始めた。
焼き上がるには二時間ほどかかるという。飛行機の時間を考えるとそれまでは待っていられなかった。近くにいたさおりさんにそのことを伝えると、さおりさんが
「こんな遠くまでわざわざ来てくれて、ありがとうございました」としっかりとした口調で言ってくれた。
「本当にこんな山奥でねえ……」
見れば、この周囲は山ばかりである。
「ええ、ちょっとびっくりしました。結構、山が多くて」
「こんな山奥で育ったから、山が好きになったんですかねえ」
「そうですねえ……」
「あ、来週の火曜日……、お話し聞いてますか?」
翌週の3月16日には東京でひろせを偲ぶ会というのが行われることになっていた。
「はい。聞いてます。じゃあ、また、その時……」
再びタクシーに乗って一旦、ひろせの実家に戻ることにする。タクシーの中でウスイが「もし、食事とか誘われたら一杯ぐらいはいただいて行こう」と言った。
(場所)ひろせの実家
(16時頃)戻ってくると、ついさっきまでひろせの棺が置かれていた広間はテーブルが二列並んでいて、酒肴がもてなされていた。キムラ、ウスイ、コガ、私らはその角に座ってビールを飲み始めた。お腹もだいぶ空いていた。弟のけんじくんと話をする。まだ高校生位にも見える25歳の自衛隊員である。盛り上がりついでに日本酒も入って、15分位のつもりが30分も留まることになった。部屋の反対側からはお父さんの甲高い声が聞こえてきていた。
もう一度、さおりさんに暇を乞う。
「一度、来年にでも雫石に行きたいと思っているんです」
とさおりさんは言う。
「いつでも案内できますよ。……その木の枝の形はじっと見て覚えておきましたから」
と伝えた。さおりさんはまた涙ぐんで来てしまったようだ。そして最後にご両親に挨拶をする。
「何にも、力になれなくて」と言うと、
「何言ってるんや、あんたがああして伝えてくれたから、さっと盛岡に着けたんや」
とお父さんは言ってくれた。お母さんも、
「本当に嫌な役をさせてしまって、申し訳なかったねえ」
と言ってくれた。はっとしてお母さんの目を見た。私は初めて救われた。
(場所)ひろせの実家から西佐川駅へ
(16時35分頃)ひろせの家を辞し、A君の車で西佐川駅へ。ものの5分で駅に着く。列車の時間は17時1分。まだ20分以上時間がある。
(場所)高知駅
(18時頃)17時50分頃列車が高知駅到着。ウスイの発案でタクシーで空港に向かうことにする。はりまや橋でコガを降ろし、キムラ、ウスイ、私の三人が空港へ向かう。
(場所)高知空港
(18時30分頃)空港到着。ターミナル2階のレストランで食事をとる。
(場所)高知から羽田へ
(19時55分頃)東京行きの最終便日本航空126便に搭乗。座席に着くなり熟睡。
(場所)羽田から新宿、そして三鷹
(21時25分頃)羽田空港のロビーに到着。荷物を預けたキムラと別れる。ウスイと二人で新宿行きのリムジンバスに乗ることにする。
(22時10分頃)道は比較的すいていて30分程で新宿駅着。ウスイに下北沢まで飲みに行こうと誘われたがさすがにもう体力が続かないのでやめておく。小田急線の改札の前でウスイと別れる。中央線で三鷹へ。
(22時50分頃)三鷹の自室に着く。部屋にはまだ線香の匂いがたちこめていた。
     *     *     *     
ひろせは二八歳で死んだ。もう、三年になろうとしている。
彼と私とは予備校の仲間を通じて知り合った。
当時、彼は「天才たけしの元気が出るテレビ」という番組に、
東大受験生として何度も出演し、日本一有名な浪人生として知られた。

ひろせはついに二十一世紀を見ることがなかった。
そのことが未だに、私にとっては、信じられない。



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