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文旦紀行




 高知の佐川から一枚の葉書が届いた。一昨年(一九九九年)事故死した友人広瀬君の実家からである。今年は彼の三回忌にあたり、三月十一日日曜日、佐川の家にて法要がとりおこなわれるという。
 佐川町は高知市の西方三○キロ程に位置し、銘酒「司牡丹」の醸造元があることでも知られる山に囲まれた小さな町である。せっかくだから一泊ぐらいしたかったが、土曜日も用事が入っていて、月曜からは会社にも行かなければならず、どうにもならなかった。朝一番に羽田を出る全日空561便で高知まで行き、帰りは最終の日本航空126便で羽田に戻ってくるという慌ただしい行程となった。
 良い天気の朝だった。羽田へ向かうモノレールから真っ白な富士山がくっきりと見えた。空からの眺めはさぞかし良いだろうと気分も浮かれて来た。
 羽田空港には7時半頃着いた。朝飯を食べていなかったので、ターミナルビルのコンビニでおにぎりとお茶を買った。ゲートを抜けて、真っ先に飛行機に乗り込んだ。12Gという右窓側の座席だ。機内はほぼ満席の状態で、私がおにぎりを食べ終わってもまだ客が乗り込んで来た。
 8時30分、時間通りに飛行機は出発し、滑走路へ進んで離陸した。
 ボーイング767は、急な坂道を登るようにしてぐんぐん高度を上げてゆく。快晴である。空気も澄んでいる。京浜工業地帯、横浜港、三浦半島、江ノ島、相模湾、伊豆半島……まるで大きな地図を見おろしたかのような風景が広がっている。そしてその先にすっかり雪化粧した富士山がちょこんと鎮座している。伊豆を越えると駿河湾、大井川、牧ノ原台地。ここには新しい空港が建設されているらしく、一本の滑走路が黒々と横たわっていた。そして御前崎、天竜川、やがて知多半島が見えてきて、緑が波打つ熊野の山々を見るうちに眠くなってしまった。どすんという衝撃で目を覚ますとすでに高知空港だった。
 南国とは言え、まだ風は冷たかった。到着ロビー前のバス停から高知駅行きのバスに乗った時、飛行機の中に文庫本を忘れたことに気がついた。慌ててロビーに戻り、無線を持った女性にそのことを伝えると、しばらくお待ちくださいと言って、探す手続きをとってくれた。一○分ほど待つとまた別の女性が出てきて、一冊のちいさな本を渡してくれた。私は彼女にお礼を言った。
 急いでバス乗り場に向かったが、10時20分のバスは出発したばかりだった。いま停まっているのは40分発だという。「そんなに急がんでも、いいよぉ」と運転手はのんびり煙草を吸っていた。

 バスが高知駅に着いたのは11時15分頃だった。広い道路とバス乗り場の反対側にある高知駅の改札前を通り過ぎると、「須崎行き普通列車、まもなく発車します」とのアナウンス。駅のトイレに行こうと思っていたところだったが再び改札まで戻ると、向こう側のホームから二両連結のディーゼルカーが発車するところだった。11時18分発の、乗れれば一番早く佐川に着く列車だった。
 諦めて、腹も減ったのでうどんでも食おうかと思ったが立ち食いのうどん屋がない。しかたなく喜多方ラーメンの店に入る。高知でなぜ喜多方ラーメンなのか、しかもなぜとんこつラーメンがあるのか、不思議に思いながらとんこつラーメン五○○円也を注文すると、これがなかなかうまかった。
 次に佐川方面に向かう列車は、11時54分発の特急あしずり3号宿毛行きである。特急料金が勿体ないと思ったがその次の普通列車だと午後一時からの法要にぎりぎりになってしまうので仕方がない。三両編成の列車の一番後ろに乗り込むが時間になっても発車しない。案内放送があって、岡山からの南風1号の到着が遅れているので接続待ちをするという。しばらくすると隣の一番線にアンパンマンがやって来た。びっくりした。どうも最近は飛行機やら列車やらの車体にアニメのキャラクターをペイントするのが流行っているらしい。アンパンマンからの客を何人か乗せて、あしずり3号が発車した。
 四国の鉄道は雰囲気がなぜか小作りだ。まるでローカル私鉄なのである。急カーブが多かったり、軒先を列車が走ったり、理由はいくつか考えられるが本当のところはわからない。そんなレールの上を、振り子機能を備えたディーゼルカーはエンジンを轟かせ、スイスイと走り抜けてゆく。あっという間に佐川に着いた。12時16分頃到着。
 ホームに降りたら、広瀬君の中高時代の友人である園田君が場内踏切のところに立っていた。昨夜は大阪に泊まったらしい。アンパンマンに乗るのがちょっと恥ずかしかったと言う。一緒にタクシーに乗る。旧街道の宿場を思わせる商店街を抜けて、広瀬宅に着く。玄関先で広瀬君の親父さんがホースで水を撒いていた。
 家の中に上がる。左手の座敷には座布団がまばらに置いてあり、法事の準備がされていた。右手台所の手前にあるこたつで吉永さんが文旦を食べていた。広瀬君が勤めていたベンチャー企業の社長で、佐川には昨夜到着したという。ご両親への挨拶もそこそこに、早速園田君と私も文旦を食い始める。文旦は夏みかんのような、さっぱりと甘い果物で、ここ高知の名物である。冬から春が季節らしい。一つ食べてみる。うまい。もう一つ、また一つ。三人で「うまいうまい」と言いながら、あっという間に食べ尽くした。テーブルの上をふと見ると、小さな壺の中に少し水が入っていて、ミドリガメが壺から脱出しようと必死になってもがいていた。吉永さんがどこかで拾ってきたものらしい。彼は壺の中からどんな世界を眺めているのだろう。園田君が亀を見て「つらそやなぁ」とつぶやいた。


 法要までまだ時間があるので、一人地下室に降りて本棚を眺めに行く。生前広瀬君が集めていた本が大量に棚に並んでいる。そのすべてを読んだのかどうかはわからないが、実にいろいろな分野に興味を持っていたのだと来る度に感心する。これを見て私は古本屋に本を売るのをやめた位だ。中でも一番多いのは鉄道関係で、「鉄道ジャーナル」誌に至っては死の直前の一九九九年三月号まで毎号が揃っている。全部読むのに一体何年かかるだろう。このいろいろな本を眺めるのが私の高知行きの秘かな楽しみになっている。
 地下室からスロープを上がると裏庭に出る。そこには広瀬君の墓として設計された石碑がある。秋田新幹線の前でピースをする姿、スキーをする姿。二枚のカラー写真がレリーフ右側に配されている。中央には戒名と名前が書かれ、左側には彼の人生を綴った親父さんの舌足らずな文章が記されている。

  昭和四十五年八月十五日 英祐、千恵子の長男として出生。翌年の高知県赤ちゃん優
 良十傑に選良される。若草保育園時より、図画、旅、鉄道に異常な才能を示し、佐川小
 学校時において、全国の駅名を空んじダイヤグラフに興ずる。
  中学高校は、松山市の愛光学園に学び、寮長を務め、特異なキャラクターが目立ち始
 める。東大文I目指し上京受験するも、連続して失敗する。
  この間二年以上、日本テレビの人気番組「天才たけしの、元気の出るテレビ」に「東
 大へ勉強して入ろうね会」を「河合塾L1クラス」仲間を集め結成、企画、出演する。
 反響は大きく、日本全国にファンが出現する。
  この頃から、サークル「ウイング」総裁、河合塾「GFC」会員、「花火師」として、
 講師、講演、対談、司会、イメージキャラクター、著作出版、花火大会などに活躍する。
 又、小学校時代から熱狂的タイガースファンでもあったし、心に残る恋いも残す。
  慶應義塾大学経済学部で、広告企画を専攻し学士を修得。(株)アイ・エヌ・ジーに
 あって、パソコンを駆使し、クチコミプロモーションのニューメデアを確立。数多くの
 大手企業などの商品開発販売を企画し、多方面に連続しての「ヒット商品」や「ブーム
 の仕掛人」としての存在が、次第に世間に広がりだした。矢先。
  あろうことか十四年間、最も親しみ得意のスキーで、平成十一年三月七日、岩手県
 「雫石スキー場、メンズダウンヒルコース」を滑降中、不可解にも立木に激突死すると
 は。
  すべてにおいてこれからだと云う時に「二十八歳は早過ぎますよ」の弔辞に送られた。
 伸哉を偲び、家族と共に友人有志一同、記念碑を建てる。
                                (全文ママ)

 変な墓である。園田君もやって来て、二人で変な墓だと言い合う。「親父もお袋も死んで、知ってる人がおらんくなったら、この墓見てどう思うんやろ」。

 座敷に戻ると、広瀬君のガールフレンドだった勝屋さんが来ていた。彼女に会うのは久しぶりだ。そして、妹のさおりちゃん、さおりちゃんの婚約者の斎藤君、弟の健司君、両親と、何度か見た顔の親戚達。庭には紅白の梅の花が咲いている。
 脱サラしたといういつもの和尚さんが寺からやって来てお経を唱え始める。正座していると足がだんだん痺れてくる。途中で足を崩す。お経が終わると説教になる。「『人間死んだらゴミになる』という本があるが、そう考えるのと、人間死んだら仏になる、と考えるのとでは、人生はどれだけ異なることだろう。管から外を見るようでは周りは見えないが、もっと視野を広げれば、たしかにその世界はあって、人間は死んだら、その世界で仏になるのである。死ぬことは決して虚しいことではない」という内容だった。毎回新しいネタを持って来るこの和尚の説教はまた、高知での楽しみの一つである。
 そして最大の楽しみはと言えば、間違いなく、法事の後に必ず供される鰹のタタキである。一同大急ぎでテーブルを持ち出し、料理を持ち出し、酒を持ち出して、飲み、そして食う。鰹のタタキの前に陣取って食う。やはり鰹のタタキは高知で食うに限る。東京で食べるのとは、身の締まりが違う。
 しばらく食べているうちに、広瀬君のお母さんがやって来て、言う。「ごめんなぁ、今日は鰹がなかったんよ」。
 いま、鰹のタタキだと思って食べていたものは、一体何なのだろう。私たちはしばし茫然とした。そう言えば、いつもと比べて身の赤みが足りないなと思いつつ、しかし気がつかない位だからいいのだ、と各自納得するに至り再び食べまくる。
 ビールを飲み、「司牡丹」を飲み、食べまくる。高知は誰もが酒飲みだ。宴は延々夕方まで続く。
 帰りの飛行機は19時55分発である。空港までタクシーで送ってくれるという。ありがたいことだ。ここを17時半頃出ればいいらしい。いい気分のところへ車がやって来る。東京へ帰るのは、吉永さん、園田君、勝屋さん、そして私。さおりちゃんも埼玉に住んでいるがもう一泊して帰るという。「また来てや」と父が涙ぐむ。「いつも、わざわざ遠くまで来てくれてありがとう」と母が言う。私たちが帰り、妹弟が帰り、親戚が帰れば、この家はまた夫婦二人切りになるのだろう。
 家族親戚一同見送りの大騒ぎの中でタクシーに乗り込み出発する。太陽は佐川の町を囲む山の向こうに隠れてしまった。動き始めて間もなく、吉永さんが「あ、亀、忘れた」と叫んだ。園田君が、「もう一度、あの見送りの中に行くんかい」と返すと車内は笑いに包まれた。





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