孝 女 曹 娥 碑 〔注1〕
 三国魏の邯鄲淳の作 
晋の王羲之の臨書 
【本 文】 【補 注】
 孝女・曹娥は、上虞の曹盱の女なり〔注2〕。其の先は周と[⺬+虘]を同じうす。末冑 荒沈し、爰に来たりて適居す〔注3〕。盱は能く節を撫(う)ち歌を安じ、婆娑して神を楽ましむ〔注4〕。漢安二年五月の時を以て、伍君を迎へんとして、濤に逆ひて上るも、水の淹(ひた)す所と為り、其の屍を得ず〔注5〕
  • 〔注1〕世説新語・捷悟篇に、「魏武 嘗て曹娥碑下を過ぎりしとき、楊脩 従ふ。碑背上に『黄絹幼婦、外孫[(柹−木)+次+韭]臼』の八字を題作するを見る。魏武の脩に謂ひて曰く、『 解するや不や』と。答へて曰く、『解す』と。魏武の曰く、『卿 未だ言ふ可らず、我の之を思ふを待て』と。行くこと三十里、魏武の乃ち曰く、『 吾 已に得たり』と。脩をして別に知る所を記さしむ。脩の曰く、『黄絹は、色糸なり。字に於て〈絶〉と為す。幼婦は、少女なり。字に於て〈妙〉と為す。 外孫は、女(むすめ)の子なり。字に於て〈好〉と為す。[(柹−木)+次+韭]臼は、辛を受くなり。字に於て〈辤〉と為す。 謂ふ所は〈絶妙好辞〉なり』と。魏武も亦た之を記すに、脩と同じ。乃ち歎じて曰く、『 我が才の卿に及ざること、乃ち三十里なるを覚る』と」という説話を載せ、また劉注に、「『会稽典録』に曰く、『孝女・曹娥は、上虞の人。父の盱は、能く節を撫ち歌を按じ、婆娑として神を楽ましむ。漢安二年、伍君神を迎へんとして、濤を泝りて上るも、水の淹す所と為り、其の尸を得ず。娥 年十四、号慕して盱を思ひ、乃ち瓜を江に投じ、其の父の尸を存(と)ひて曰く、〈父 此に在れば、瓜 当に沈むべし〉と。旬有七日、瓜 偶ゝ沈めば、遂に自ら江に投じて死す。県長・度尚 其の義を悲憐し、之が為(ため)に改葬し、其の弟子・邯鄲子礼に命じて之が為(ため)に碑を作らしむ』と。按ずるに曹娥碑は会稽中に在り、而して魏武・楊脩は未だ嘗て江を過ぎざるなり。『異苑』に曰く、『陳留の蔡邕 難を避けて呉を過ぎりしとき、碑文を読み、以為へらく詩人の作、詭妄無きなりと。因りて石旁に刻みて八字を作(な)す。魏武 見れども了する能はざれば、以て羣僚に問ふに、解する者有ること莫し。婦人の汾渚に浣ふもの有りて曰く、〈第四車 解す〉と。既にして禰正平なり。衡は即ち離合を以て之を義解す。或は此の婦人は即ち娥が霊なりと謂ふ』と」とある。
     
    後漢書・列女伝に、「孝女・曹娥は、会稽・上虞の人なり。父の盱は、絃歌を能くして、巫祝を為す。漢安二年五月五日、県江に於て濤を泝り、婆娑として神を迎へんとするも溺死し、屍骸を得ず。娥 年十四、乃ち江に沿ひて号哭し、昼夜 声を絶たず。旬有七日、遂に江に投じて死す
    (李注1)。元嘉二年に至り、県長・度尚 娥を江南の道傍に改葬し、為に碑を立つ(李注2)」とある。
     李注1:娥 衣を水に投じ、祝
    (いの)りて曰く、「父が屍の在る所、衣 当に沈むべし」と。衣 流れに随ひ一処に至りて沈む。娥 遂に衣に随ひて没す。「衣」字 或は「瓜」に作る。項原の『列女伝』に見えるなり。
     李注2:『会稽典録』に曰く、「上虞の長・度尚の弟子・邯鄲淳、字は子礼。時に甫
    (はじめ)て弱冠にして異才有り。尚 先に魏朗をして曹娥碑を作らしむるに、文 成るも未だ出ださず。会ゝ朗 尚に見えしとき、尚 之と飲宴し、而して子礼 方に至りて酒を督す。尚 朗に碑文の成りしや未だしやを問ふ。朗 辞するに不才もてし、因りて試みに子礼をして之を為さしむるに、筆を操りて成れば、点定する所無し。朗 嗟歎して暇あらず、遂に其の草を毀つ。其の後 蔡邕は又た八字を題して曰く、『黄絹幼婦、外孫虀臼』と」と。
     晋書・隠逸伝
    (夏統伝)には、「又た孝女・曹娥は、年 甫て十四、貞順の徳は梁・宋に過越す。其の父 江に堕ちて尸を得ざれば、娥は天を仰ぎて哀号し、中流に悲歎し、便ち水に投じて死す。父子の喪尸、後に乃ち倶に出づれば、国人 其の孝義を哀み、為(ため)に河女の章を歌ふ」とある。
     『芸文類聚』
    (以下、「芸文」という)巻四には『会稽典録』を引いて、「女子・曹娥は、会稽・上虞の人。父は絃歌を能くして巫を為す。漢安二年五月五日、県江より濤を泝りて波神を迎へんとするも、溺死して尸骸を得ず。娥 年十四、乃ち江に縁りて号哭し、昼夜 声を絶たず。七日にして遂に江に投じて死す」と。また巻87に『幽明録』を引いて、「曹娥の父 溺死す。娥 瓜の浮ぶを見て屍を得」と見える。
  • 〔注2〕「上虞」は、揚州・会稽郡に属する県。後漢書・郡国志四の李注に、「漢末に南郷を分ちて始寧県を立つ」と。
  • 〔注3〕「曹」はもと周の武王の弟・叔振鐸の封じられた国。
     「
    [⺬+虘]」は、漢書・五行志上に、「明年、屈釐 復た祝[⺬+虘]に坐して要斬し、妻 梟首するなり」とあり、顔注に「[⺬+虘]は、古への詛字」と見えるが、ここでは「祖」に同じ。
  • 〔注4〕「婆娑」とは、詩陳風・東門之枌篇に、「東門の枌、宛丘の栩。子仲の子、其の下に婆娑す」とあり、毛伝に「子仲は、陳の大夫氏なり。婆娑は、舞ふなり」と見える。詩序にも、「男女 其の旧業を棄て、亟〻道路に会し、市井に歌舞するのみ」と言う。
  • 〔注5〕漢安二年は、西紀143年。後漢の順帝の治世。
     「伍君」は呉の伍員子胥のこと。伍子胥の故事はそもそも左伝哀公十一年伝に、「呉の将に斉を伐たんとするに、越子 其の衆を率ゐて以て朝す。王及び列士、皆な饋賂有り。呉人 皆な喜ぶ。唯だ子胥のみ懼れて曰く、『是れ呉を豢
    (やしな)ふものなるかな』と。諌めて曰く、『越の我に在るは、心腹の疾なり。壌地 同じうして我にせんと欲する有り。夫れ其の柔服は、其の欲を済さんと求むればなり。早(すみや)かに事に従ふに如かず(中略)』と。聴かず。斉に使するに、其の子を鮑氏に属す。王孫氏たり。役より反るに、王 之を聞き、之に属鏤を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、『吾が墓に檟を樹へよ。檟は材となる可きなり。呉 其れ亡びんか。三年にして、其れ始て弱まらん。盈つれば必ず毀くるは、天の道なり』と」とある。
     また国語・呉語に、「申胥の剣を釈きて対へて曰く、『吾 先王の世に輔弼の臣となる有り、以て能く疑を遂し悪を計り、以て大難に陥らず。今 王は黎老を播棄して、孩童 焉に比謀す。
    (中略)員 疾を称して辟易し、以て王の親ら越が擒と為るを見るに忍びざるなり。員 先に死せんことを請ふ』と。遂に自殺す。将に死せんとして曰く、『以て吾が目を東門に懸けよ、以て越の入りて、呉国の亡びるを見ん』と。王の慍りて曰く、『孤 大夫をして見ること有るを得ざらしむるなり』と。乃ち申胥の尸を取り、盛るに鴟[夷+鳥]を以てして、之を江に投ぜしむ」とある。また『呉越春秋』夫差内伝に、「呉王 子胥の怨恨を聞くや、人をして属鏤の剣を賜ふ。子胥 剣を受くるや、徒跣にして裳を褰げて堂を下り、中庭にて天を仰ぎて呼怨す。曰く、『吾 始め汝が父の忠臣と為り、呉を立て謀を設けて楚を破り、南は勁越を服し、威は諸侯に加はり、霸王の功有り。今 汝は吾が言を用ひず、反つて我に剣を賜ふ。吾 今日死すれば、呉宮は墟と為り、庭は蔓草を生じ、越人 汝が社稷を掘らん。安んぞ我を忘れんか。昔 前王は汝を立つるを欲せず、我 死を以て之を争ひ、卒に汝の願ひを得、公子 多く我を怨む。我 徒だ功を呉に有するも、今 乃ち我が定国の恩を忘れ、反つて我に死を賜ふは、豈に謬たざらんや』と。(中略)子胥 剣を把り、天を仰ぎて歎じて曰く、『我が死してより後、後世 必ず我を以て忠と為し、上は夏・殷の世に配して、亦た龍逢・比干と友と為すを得ん』と。遂に剣に伏して死す。呉王 乃ち子胥の屍を取り、盛るに鴟夷の器を以てし、之を江中に投じ、言ひて曰く、『日月に汝の肉を炙り、飄風 汝の眼を飄(ふ)き、炎光 汝の骨を焼き、魚鼈 汝の肉を食ふ。汝の骨 形を灰に変ずれば、何の見る所か有らん』と。乃ち其の躯を棄て、之を江中に投ず。子胥 因りて流れに随ひ波に揚がり、潮に依りて来往し、蕩激して岸を崩す」と見える。
     さらに史記・伍子胥列伝に、「
    (前略)呉王 之を聞きて大に怒り、乃ち子胥の尸を取り、盛るに鴟夷の革を以てし、之を江中に浮ばしむ。呉人 之を憐み、為(ため)に祠を江上に立て、因りて命(なづ)けて胥山と曰ふ」とある。
     なお、『呉越春秋』闔閭内伝によれば、伍子胥と江水の関係は深く、「子胥等 溧陽の瀬水の上を過ぎるに、乃ち長太息して曰く、『吾 嘗て此に飢へしとき、食を一女子に乞ふ。女子 我を飼
    (やしな)ひ、遂に水に投じて亡ず』と。将に百金を以て報ひんと欲すれども、其の家を知らず。乃ち金を水中に投じて去る。頃有り、一老嫗の哭を行ひて来たる。人の問ひて曰く、『何ぞ之を哭して悲む』と。嫗の曰く、『吾に女子有り、居を守ること三十にして嫁せず。往年 綿を此に撃ちしとき、一の窮途の君子に遇ひて輙ち之に飯す。而して事の泄るゝを恐れ、自ら瀬水に投ず。今 伍君の来たれるを聞き、其の償ひを得ずんば、自ら虚く死するを傷む。是の故に悲むのみ』と。人の曰く、『子胥 百金を報ひんと欲するも、其の家を知らざれば、金を水中に投じて去れり』と。嫗 遂に金を取りて帰る」と見える。
     『呉越春秋』と碑文とには類似する表現が見られることから、『呉越春秋』が碑文の素地の一部になっていることが窺われる。
 時に娥は年十四。号慕して盱を思ひ、沢畔に哀吟すること旬有七日。遂に自ら江に投じて死す。経ること五日、父が屍を抱きて出づ。

 漢安より元嘉元年―青龍 辛卯に在り―に迄(いた)るまで、之を表すること有る莫し〔注6〕。度尚 設けて之を祭り、之に誄す〔注7〕。辞に曰く、
  • 〔注6〕「青龍」の二字は竄入か。他書に見えず、文意にそぐわない。史記・天官書に「東宮は蒼龍、房・心なり」とあり、芸文・巻一に引く晋の成公綏の『天地賦』に、「青龍は尾を鰐・房に垂れ、玄亀は首を女・虚に匿す」とある。
  • 〔注7〕後漢書・列伝第28に度尚伝あり。「度尚 字は博平、山陽・湖陸の人なり。家 貧しく、学行を修めざれば、郷里の推挙する所と為らず。困窮を積み、乃ち宦者 同郡の侯覧が為(ため)に田を視、郡の上計吏と為り、郎中を拝し、上虞の長に除す」と。
     「誄」は
    者におくる弔文。文選・曹植『王仲宣の誄』に、「誄は生時の徳行を積累するを謂ふ」と言う。論語・述而篇に、「(前略)子路の対へて曰く、『之有り。誄に曰く、〈爾を上下の神祇に祷る〉と』と」と見え、左伝・哀公十六年伝に、「夏四月己丑、孔丘 卒す。公の之に誄して曰く、『旻天 弔まず。憖(しばら)く一老を遺し、余一人を在位を以て屏はしめず、煢煢として余 疚みに在り。嗚呼、哀きかな、尼父。自ら律る無し』と」とある。
 伊(こ)れ惟(こ)の孝女、曄曄の姿、偏として其れ返り、而して令色 孔だ儀あり〔注8〕。窈窕たる淑女は、巧笑 倩たり、其の室家に宜しからん〔注9〕。洽の陽に在り、礼を待ちて未だ施さず〔注10〕
  • 〔注8〕漢書・叙伝下に、「世宗 曄曄、思ひを祖業に弘くし、疇(たれ)にか煕載を咨らんとすれば、髦俊 並びに作(た)つ」とあり、顔注に「曄曄は、盛んの貌なり」と見える。
     
    論語・子罕篇に、「唐棣の華、偏として其れ反せり」とある。
     詩大雅・烝民篇に「令儀令色」の語あり。
  • 〔注9〕詩周南・関雎篇に、「関関たる雎鳩は、河の洲に在り。窈窕たる淑女は、君子の好逑」とあり、毛伝に「窈窕は、幽間なり。淑は、善なり。逑は、匹なり」と見える。
     詩衛風・碩人篇に「巧笑 倩たり、美目 盻たり」とあり、論語・八佾篇に、「子夏の問ふて曰く、『巧笑 倩たり、美目 盼たり、素 以て絢と為すとは、何の謂ぞや』と」と見える。
     詩周南・桃夭篇に、「桃の夭夭たる、灼灼たる其の華。之
    (こ)の子 于(ゆ)きて帰(とつ)がば、其の室家に宜しからん」とあり、毛伝に「宜しく以て室家を有(たも)つべし」と解く。
  • 〔注10〕詩大雅・大明篇に、「洽の陽に在り、渭の涘に在り」とあり、毛伝に「洽は、水なり。渭は、水なり。涘は、涯なり」と見える。「洽」は「合」に同じ。漢書・地理志下に、「蒼梧郡、(中略)猛陵。龍山は、合水の出づる所、南は布山に至りて海に入る」と見える。後漢書・郡国志五の同郡・同県にも李注に、「『地道記』に曰く、『龍山は、合水の出づる所』と」とある。
     詩鄭風・東門之嘽篇の詩序に、「男女 礼を待たずして相奔る者有るなり」とある。また国語・越語上に、「女子の十七にして嫁がずんば、其の父母に罪有り。丈夫の二十にして娶らずんば、其の父母に罪有り」とあり、韋注に「礼に、三十にして娶り、二十にして嫁す。今 礼を待たざる者は、育民に務むればなり」と見える。
 嗟、喪へり。蒼たるは伊れ何ぞ、父無くんば孰をか怙まん〔注11〕。神に訴へて哀を告げ、江に赴きて永号す。死を視ること帰るが如し、是を以て眇然として軽絶し、沙泥に投入す〔注12〕。翩翩たる孝女、乍ち沈み乍ち浮ぶ〔注13〕。或は洲嶼に泊り、或は中[氵+不]に在る。或は湍瀬に趨り、或は波濤に還る〔注14〕。千夫 声を失ひ、悼痛するもの万余。観る者 通(みち)を填(うづ)め、路衢に雲集し、涙を[氵+不](なが)し涕を掩ひ、国都を驚慟せしむ〔注15〕
  • 〔注11〕詩秦風・黄鳥篇に、「彼の蒼たる天、我が良人を殲す」とあり、毛伝に「殲は尽、善は良なり」と、鄭箋に「蒼たる天を言ふは、之を愬(うつた)ふるなり」と解く。
     詩小雅・蓼莪篇に、「父無くんば何をか怙まん、母無くんば何をか恃まん。出でゝは則ち恤を銜み、入りては則ち至る靡し」とある。
  • 〔注12〕呂覧・審分覧に、「平原広城、車は軌を結ばず、士は踵を旋(めぐら)さず、之を鼓して、三軍の士の、死を視ること帰るが如くするは、臣 王子城父に若かず。請ふ 置きて以て大司馬と為さんことを」とあり、管子・小匡とほぼ同じ。また史記・蔡沢列伝に、「是の故に君子は義を以て難に死し、死を視ること帰るが如し。生きて辱めらるゝは死して栄あるに如かず」とある。
     荀子・勧学篇に、「蓬も麻中に生ずれば、扶けずして直く、白沙も涅に在れば、之と倶に黒し」とある。
     「眇然」は遠くはるかで見えにくいさま。漢書・王褒伝に、「何ぞ必ずしも偃卬詘信すること彭祖の若く、呴嘘呼吸すること僑・松の若くし、眇然として俗を絶ち世を離れんや」とあり、顔注に「眇然は、高遠の意なり」と解す。また楚辞・九歌篇
    (湘夫人章)に「目は眇眇として予を愁へしむ」とあり、王逸注に、「言ふこゝろは 堯の二女は儀徳美好、眇然として絶異、又た帝舜に配して、乃ち命を水中に没す」とある。「眇眇」、宋の洪興祖の補注には「微なる貌」と解く。
     礼記・緇衣篇に「貧賤を絶つを軽しとして富貴を絶つを重しとす」と、楚辞・九歌篇
    (湘君章)に「恩 甚だしからずんば軽絶す」とある。また漢書・鼂錯伝に、「人命を軽絶して、身自(みづか)ら射殺す」と見える。
  • 〔注13〕詩小雅・四牡篇に、「翩翩たる鵻、載ち飛び載ち下り、苞栩に集る。王事 盬(もろ)きこと靡し。父を将(やしな)ふに遑あらず」とある。
  • 〔注14〕楚辞・九章篇(抽志章)に「長瀬・湍流、江潭を泝る」とあり、王逸注に、「言ふこゝろは 己が思ひは君命を得て、湍瀬の流れに縁り、江淵を上泝して、郢に帰ることなり」と見える。
  • 〔注15〕公羊伝・宣公十二年伝に、「楚王 鄭を伐ち、皇門に勝ち、路衢に放つ」とあり、何休の注に、「皇門は、鄭の郭門なり。路衢は、郭内の衢なり。道の四達するを之を衢と謂ふ」と見える。また後漢書・宦者列伝(侯覧伝)にも、「済北の相・滕延 一切を収捕し、数十人を殺し、尸を路衢に陳ぬ」と見える。
     史記・秦始皇帝本紀に、「木を斬りて兵と為し、竿を掲げて旗と為せば、天下 雲集饗応して、糧を贏
    (つゝ)みて景従し、山東の豪俊 遂に並びに起ちて秦が族を亡せり」とある。また文選・「西都の賦」にも「浮沈 往来し、雲集 霧散す」と見える。
     「驚慟」は、用例としては下るが宋書・劉穆之伝に、「高祖 長安に在り、問を聞きて驚慟し、哀惋すること数日」とある。
     「
    +不」は「流」の古字。
 是を以て哀姜 市に哭せば、杞は城隅を崩し、或は面を剋せんとして鏡を引き、耳を剺(き)らんとして刀を用ひ、台に坐して水を待ち、樹を抱へて焼かるゝ有り〔注16〕。於戯(あゝ) 孝女、徳は此の儔より茂(さか)ん。何となれば大国は礼を防ぎて自ら脩むるも、豈に況や庶賤の露屋・草茅にして、扶けずして自から直く、鏤めずして雕(きざ)むをや〔注17〕。梁を越え宋に過ぎ、之に比すれば殊ること有るも、此の貞厲を哀むこと千載 渝らず〔注18〕。嗚呼、哀しき哉。
  • 〔注16〕(1)「哀姜」は杞梁氏の妻・孟姜のこと。その哀号のさまから「哀姜」と称せられた。所謂「孟姜女」。左伝・襄公二十三年伝に、「斉侯 帰り、杞梁の妻に郊に遇へば、之に弔はしむ。辞に曰く、『殖に罪有れば、何ぞ命を辱(かたじけな)くせん。若し罪を免かるれば、猶ほ先人の敝廬在る有り。下妾 郊の弔を与るを得ず』と。斉侯 諸を其の室に弔ふ」と見え、杜注に「梁 戦死し、妻 行きて喪を迎ふ」とあり、凛然たる戦国の世の妻を伝えるエピソードになっている。
     礼記・檀弓下篇では、「杞梁 死せり。其の妻 其の柩を路に迎へて、之を哭すること哀し」となり、哭礼の人に変化する。
     説苑・善説篇では、「昔 華舟・杞梁 戦ひて死すに、其の妻 之を悲み、城に向ひて哭せば、隅 之が為
    (ため)に崩れ、城 之が為(ため)に阤(くづ)る」(同書・立節篇も略同じ)となり、破壊的号泣の人となっている。
     『列女伝』貞順篇も同様に、「杞梁 死し、其の妻 帰する所無ければ、其の夫の屍を枕にして城下に哭す。十日にして城崩る」
    (黄暉『論衡校釈』所引)とある。
     論衡・感虚篇には、「伝書に云ふ、『杞梁氏の妻 城に嚮ひて哭せば、城 之が為
    (ため)に崩る』と。此の言 杞梁 従軍して還らず、其の妻 之を痛み、城に嚮ひて哭せば、至誠 悲痛、精気 城を動す。故に城 之が為(ため)に崩るなり。夫れ城に嚮ひて哭すと言ふ者は、実なり。城 之が為(ため)に崩ると言ふ者は、虚なり」と批判している。
    (2) 梁の寡婦・高行の故事も『列女伝』に見える。「梁寡・高行は、梁の寡婦なり。早に寡となるも嫁せず。梁の貴人 争ひて之を取らんと欲するも、得る能はず。梁王 之を聞き、之を相聘せしむ。高行の曰く、『妾の夫、不幸にして犬馬に先んじて溝壑を填む。妾は宜しく身を以て棺槨を薦(し)き、幼孤を守養すべくんば、意を専らにするを得ず。妾聞く 婦人の義は、一たび往けば改めず、以て貞信の節を全うすと。義を弃てゝ利に従ふは、以て人と為る無し』と。乃ち鏡を援(ひ)きて刀を操(と)り、以て其の鼻を割く。曰く、『妾 已に刑余の人、殆ど釈つ可し』と。王 其の節を高しとし、号して高行と曰ふ」と。「梁寡の高行は、色に栄に、行ひに敏たり。梁王 聞きて之を聘す。乃ち鏡を援(ひ)きて鼻を割く。王 其の行ひを高しとし、号して高行と曰ふ」(以上、芸文所収)と。「梁寡・高行の曰く、『妾の夫、不幸にして早に死し、犬馬に先んじて溝壑を填む』と」(文選「太宰碑を立つるを求むる表」李注所引)と。
    (3) 後漢書・列女伝に、「沛の劉長卿の妻は、同郡の桓鸞の女なり。鸞は已に前伝に見ゆ。一男を生むも五歳にして長卿 卒す。妻 嫌疑を防遠し、肯て帰寧せず。児 年十五、晩くに又た夭歿す。妻 免かれざるを慮り、乃ち予め其の耳を刑して以て自ら誓ふ。宗婦 相与に之を愍み、共に謂ひて曰く、『若し家 殊にするも它意無けん。仮令 之有るも、猶ほ姑姉妹に因りて以て其の誠を表す可く、何ぞ義を貴び身を軽んずることの甚しきかな』と。対へて曰く、『昔 我が先君の五更、学は儒宗たり、尊は帝師たり。五更已来、歴代替(すた)れず、男は忠孝を以て顕はれ、女は貞順を以て称あり。詩に云ふ、〈爾が祖を忝しむる無かれ、厥の徳を聿脩せん〉(詩大雅・文王篇)と。是を以て予め自ら刑翦し、以て我が情を明かにす』と。沛の相・王吉 高行を上奏し、其の門閭を顕はし、号して『行義の桓釐』と曰ひ、県邑 祀有れば必ず膰せり」とある。毛詩の引用、通行本は「無念」に作る。「念」「忝(=本字「[天+心]」)、音近く、字形も近し。
    (4) 楚の貞姜の故事は、三国志・文徳郭皇后伝に、「昔 楚の昭王 出游し、貞姜は漸台に留まる。江水 至るも、使者 迎ふれども符無ければ、去らずして、卒に没す」と引用されている。
     また『列女伝』に、「楚昭の貞姜は、斉侯の娘、楚の昭王の夫人なり。昭王 出遊し、夫人を漸台の上に留めて去る。王 江水の大に至れるを聞き、使者をして夫人を迎へしむるも、符を持するを忘る。使者 至り、夫人に出づるを請へば、夫人の曰く、『大王 宮人と約す。命に曰く、〈宮人を召すに必ず符を以てす〉と。今 使者は符を持さず。妾 敢て使者に従ひて行かず。妾 之を聞く。貞女の義は、約を犯さず。勇者は死を畏れず、節を守るのみと。妾 使者に従はゞ必ず生き、留まれば必ず死するを知るなり。然れども妾は敢て約を弃て義を越えて生くるを求めず』と。大水 至りて死す。乃ち号して貞姜と曰ふ」と。「楚の昭王の貞姜は、斉女なり。昭王 出遊し、夫人を漸台の上に留む。江水 大に至れば、使者をして夫人を迎へしむるも、符を持するを忘る。夫人 出づるを肯んじず。使者 還りて符を取るも、未だ及ばずして、台 已に壊ち、水に流れて死す」
    (以上、芸文所収)と。
    (5) 宋の伯姫の故事は、左伝・襄公三十年伝に、「或とき宋の大廟に叫びて曰く、『譆譆、出でん出でん』と。鳥の亳社に鳴きて、『譆譆』と曰ふが如し。甲午、宋 大に災す。宋の伯姫 卒す。姆を待てばなり。君子の謂ふに 宋の共姫は、女にして婦ならず。女は人を待つも、婦は事を義(よろ)しくするなり」と。
     荀爽の女誡に、「礼に非らずんば動かず、義に非らずんば行はず。是の故に宋の伯姫は火に遭ふも堂を下らず。必ず災を為すを知るも、傅母の来たらざれば、遂に灰に成る。春秋 之を書きて以て高しと為すなり」と分析する。
     また漢書・五行志上に、「董仲舒の以為へらく 伯姫 宋に如き、五年にして宋の恭公 卒す。伯姫 幽居して節を守ること三十余年、又た国家の患禍に憂傷して、陰を積み陽を生ずれば、故に火 災を生ずるなりと」と見える。
  • 〔注17〕儀礼・士相見礼篇に、「在野は、草茅の臣を曰ふ」と見える。
     また後漢書・徐穉伝に、「著は三輔に於て礼義の俗に長じ、所謂『扶けざるも自ら直く、鏤めざるも自ら雕む』なり」と見える。
  • 〔注18〕梁は前出の孟姜女、宋は伯姫を指すか。
 乱に曰く、金石に銘勒して之を乾坤に質し、歳数に暦祀して丘墓に墳を起し、后土に光きて、天人に顕照す〔注19〕。生の賤しく死の貴きは、義の利門なり。何ぞ華の落つるを悵みて、雕零 早に分かれ、葩艶 窈窕として、永世 神に配す〔注20〕。堯の二女の、湘夫人と為るが若く、時に彷彿を効ひ、以て後昆に招(あらは)さん〔注21〕
  • 〔注19〕楚辞・離騒篇の王逸注に、「乱は、理なり。詞指を発理して、其の要を総撮する所以なり」と見える。賦辞の結びの文。
     史記・武紀に、「間者
    (このごろ)河 溢れ、歳数 登(みの)らず、故に巡りて后土を祭り、百姓の為(ため)に穀を育むを祈る」とある。
     「暦祀」は季節ごとの祭祀。時代は下るが、晋書・后妃伝下に、「昔 皇帝の幼沖なるを以て、羣后の議に従ふも、既に闇弱にして、又た極艱に丁ふを以て、恤を歴祀に銜み、沈憂して疚ひに在り」と見える。
  • 〔注20〕「華落つ」の語は、戦国策・楚策一に、「財を以て交はる者は、財尽れば交絶ち、色を以て交はる者は、華落つれば愛渝る」と見え、詩衛風・氓篇の詩序に、「男女に別無く、遂に相奔誘し、華落ち色衰ふれば、復た相棄背す」とある。また焦延寿の易林に、「秋風 哀を生じ、華落ちて心を悲ましむ」(芸文所収)と見える。
     「雕零」は「凋零」に同じ。蔡中郎集・「童幼胡根碑」に、「如何なるか昊天、此の短齢を降し、繁華の方に□せんとするに、厳霜に望みて凋零するを惜む」とある。また用例としては新しいが、梁書・儒林伝にも、「若し枯れゝば即ち是れ栄え、栄ゆれば即ち是れ枯る。応に栄ゆる時に凋零し、枯るゝ時に実を結ぶべきなり」と見える。
     「葩艶」は、傅玄の「紫華賦」に、「葩艶は碧枝に挺し、煥若たり珊瑚の萃英」
    (御覧巻八百七所収)と見える。
  • 〔注21〕「堯の二女」、すなわち湘君・湘夫人の説話は、そもそも尚書・堯典に、「時(これ)に女(めあ)はせ、厥の二女に刑るを観る。二女を嬀汭に釐降し、虞に嬪す」とあるのに始まり、楚辞・九歌篇に「湘君」「湘夫人」の章あるに至る。王逸注に、「言ふこゝろは 堯の二女 娥皇・女英は、舜に随ひて反らず、湘水の渚に没し、因りて湘夫人と為る」という。礼記・檀弓上篇に、「舜 蒼梧の野に葬らる。蓋し三妃は未だ之に従はざるなり」とあり、鄭注に「『離騒』の歌ふ所の湘夫人は、舜の妃なり」と見える。
     「彷彿」は形状が似ているさま、あるいはぼんやりとして判じがたいさま。文選・甘泉賦に「猶ほ彷彿として其れ夢の若し」とあり、李善注に「説文に曰く、『彷彿は、相似て、視れども諟
    (つまびら)かならざるなり』と」と解す。
 漢の議郎・蔡雍、之を聞きて来たりて観る〔注22〕。夜闇なれば、手もて其の文を摸して之を読む。雍の文を題して云はく、「黄絹幼婦、外孫韲臼」と。
  • 〔注22〕「蔡雍」は「蔡邕」に同じ。後漢書に列伝(列伝50下)あり。
 又た云はく、「三百年の後、碑冢 当に江中に堕つべし。当に堕つべくして堕ちずんば、王匡に逢はん」と〔注23〕
  • 〔注23〕この「王匡」は三国志に視える「河内太守・王匡」か。三国志・武紀の裴注に、「『英雄記』に曰く、『匡 字は公節、泰山の人。財を軽んじ施すを好み、任侠を以て聞ゆ(中略)』と。謝承の『後漢書』に曰く、『匡は少くして蔡邕と善し(中略)』と」と見える。
     なお桃山艸介氏は、「王の匡すに逢ふ」と解するが、採らない。
 昇平二年八月十五日、之を記す〔注24〕
  • 〔注24〕昇平二年は西紀358年。東晋の穆帝の治世。
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◆ 通  釈 ◆
 孝女の曹娥は、会稽郡・上虞県の曹盱の娘である。その始めは曹に封じられた叔振鐸であるから、周と祖先を同じくする。その末裔が衰えて、この地に流れ着いたのである。曹盱は節を打って歌を歌うことが巧みで、舞を舞っては土地の神々を慰め(る巫覡であっ)た。漢安二年五月の季節の祭の日に、伍君神をお迎えするため、折しも波立った長江に漕ぎ出したが、水をかぶって舟が覆り、溺死したものの遺体が見つからなかった。
 ときに曹娥はちょうど十四歳。父・曹盱を思って号泣し、長江のほとり哀哭しながらさまよい歩くこと十七日。とうとう自分も長江に投身すると、五日後に父の遺体にしがみついた形で浮かんできた。
 漢安よりこのかた、元嘉元年(歳星が青龍に位置にある、辛卯の歳)に至るまで、ずっと曹娥の行いを顕彰することがなかった。そのため度尚は祭壇を設けて女(むすめ)を祭り、女のために弔文を作ったのである。その文辞に言う。
 ここにこの孝女は、輝かしき盛徳の姿も華やぎ、軽やかに舞うがごときなれども、見目麗しき中にも儀容がある。床しき乙女は恥らえども、笑えば笑窪、嫁がば家に適うて喜ばれたであろう。洽水の南に起き伏して、晴れの門出を待つ身空であった。
 あわれ、突如として父を喪ったのである、蒼天よ、何のご意思ぞ。父がおらねば誰を恃みとしようか。哀惜の心情を神に訴えんと、長江の畔をさまよい歩いて声の限りに号哭した。さながら家に帰るかのように従容と死出に旅立ち、かくて人世をはるか後にして、長江の渚に身を投げた。はかなげな孝女のその小さな体は、波に沈み流れに浮び、ときには中洲に留まり、ときには川の中ほどを漂った。またときには早瀬を奔り、ときには波間を滞った。何千もの者が哀惜して声を失い、数万もの者が悼痛して胸を痛めた。(曹娥が父とともに岸へ上がると)、人々は一目見ようと集まって岸辺の畔道を埋め、遠くの道までも人であふれて、誰もが曹娥のために涙を流したために、国都もその慟哭で騒然となった。
 さて、哀姜が慟哭して杞の城壁が崩れ、操を守らんとして高行が鼻を切り、劉長卿の妻が耳を切り、楚の貞姜が漸台で大水に遭い、宋の伯姫が礼を守って火中に没した故事がある。ああ、しかしこの孝女の徳はこれらの烈女より立派である。なぜならばこれらの女性は上は大国の夫人であり、下のものでも士大夫の妻であって、これらのものは礼を備えておのずと守ることができるが、どうして侘び住まいの庶民の分際で、独立独行で身を修め、礼を施すことが容易であろうか。哀姜や伯姫の上を行くと言ってよい。それらの女性と比べれば違いこそあれ、多くの人々がこの貞烈を哀れむことについては千年のちも変わらないであろう(=伝説の烈女と同格である)。ああ、哀しいことだ。
 乱に言う。金石に文字を刻んでその功績を天地に知らしめ、歳々の季節の祭祀を設けて丘陵に墳墓を造り、かくて国土の隅々にまで栄光を輝かせて、天にも人にも顕彰させよう。卑しく生きるよりは貴く死ぬのは、義の道のよしとする入り口である。どうして華の命を散らして、若くして薨ったことばかりを憾みとしようか。艶ある花の貌は奥深い美しさを湛えて、永遠に神の花嫁となったのである。帝堯の二女が湘君・湘夫人となったことのように、今そのよすがを書き記して、後の世の人々に伝えよう。
 漢の議郎であった蔡邕は、このことを耳にすると会稽を訪れた際にその碑を観た。しかし到着が夜になってしまったため、暗闇のさなか指で碑文をなぞって読むと、蔡邕は謎文を残して去った。すなわち「黄絹幼婦、外孫韲臼」と。
 あるいは、「三百年後、この碑は長江に没してしまうだろう。もし万一水没の危機を免れるとしたら、王匡に見つけられるに違いない」と言ったとも伝えられる。
 昇平二年八月十五日、これを記す。
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