宋   書 卷六十四
  鄭鮮之・裴松之・何承天 傳 第二十四
梁の沈約の撰 
【本 文】 【補 注】
〈鄭 鮮 之
 鄭鮮之 字は道子、滎陽・開封の人なり〔注1〕。高祖の渾は、魏の將作大匠〔注2〕。祖の襲は、大司農〔注3〕。父の遵は、尙書郞。襲 初め江乘の令と爲り、因りて縣境に居す〔注4〕
  • 注1 鄭鮮之は後漢の大学者 鄭衆・鄭興の子孫。『弘明集』に「神不滅論」などの著述が見える。
     開封。晋書・地理志上によれば司州・滎陽郡に属し、宋書・州郡志二も同じ。
  • 注2 鄭渾は三国志・魏書列伝16に立伝されている。
  • 注3 鄭襲は晋書・礼志中および列伝45・荀羨伝に名が見える。
  • 注4 江乗。晋書・地理志下によれば揚州・丹陽郡に属し、宋書・州郡志一によれば南徐州・南琅邪郡に属す。
 鮮之は帷を下して讀書し、交游の務めを絕つ。初め桓偉の輔國主簿と爲る〔注5〕。是より先に、兗州刺史・滕恬 丁零の翟遼の沒する所と爲り〔注6〕、屍喪 反らざるに、恬の子の羨は仕宦 廢さずんば、議者 之を嫌す。桓玄 荆州に在りて〔注7〕、羣僚をして博議せしむるに、鮮之の議して曰く、
  • 注5 桓偉は桓温の子。晋書列伝68・桓温伝に名が見える。
  • 注6 滕恬のことは、晋書列伝27・滕脩伝に、「脩の曾孫・恬之は、龍驤将軍・魏郡太守。黎陽を戍るも、翟遼の執(とら)ふ所と為り、之に死す」と見える。また同孝武紀・太元11年正月の条に、「壬午、翟]遼 黎陽を襲ひ、太守の滕恬之を執ふ」とあり、また同列伝49・謝安伝に、「又た晋陵太守・滕恬之を遣はして河を渡りて黎陽を守らしむれば、三魏 皆な降る。(中略)会〻翟遼 黎陽に拠りて反し、滕恬之を執へ、又た泰山太守・張願 郡を挙げて叛けば、河北 騒動す」と見える。
     丁零は北夷。翟遼は翟魏の初代天王。晋書列伝44・石民伝、同列伝51・朱序伝、同載記23・慕容垂伝等を参照。
  • 注7 桓玄も桓温の庶子。晋書列伝69に立伝されている。
 名敎の大極は、忠孝のみ。變通・抑引に至りては、事每に輒ち殊(ことな)る。本にして之を尋ぬれば、皆な是れ心に求めて跡を遺す。跡の乘ずる所は、遭遇 或は異る。故に聖人は或は跡に就きて以て敎へを助け、或は跡に因るも以て罪を成す。屈申・與奪は、等齊す可きこと難く、其の阡陌に舉ぐるは、皆な略言す可きのみ。天も逃る可きや、而して伊尹 君を廢す。君も脅(おびやか)す可きや、而して鬻權は善(よみ)せらる。忠も愚となる可きや、而して箕子は仁に同ず。此より以還、實を殊(こと)にして聲を齊うし、譽を異にして美を等しうする者、勝(あ)げて言ふ可らず。而れども百代の下に令せんと欲するも、聖典の闕く所なれば、斯の事を一朝に正さんとするは、豈に易(やす)かる可きかな。
 然れども言を立て理を明かにし、古へを以て今を證すれば、當に理をして人情を厭はしむべし。滕羨の情事が如き者は、或(あるもの)は身を終ふるまで隱處して、人事に關せずとし、或(あるもの)は朝に昇り務を理めて、前哲を譏る無しとす。滕に通ずる者は則ち譏無きを以て證と為し、滕に塞ぐ者は則ち隱處するを以て美と爲す。其の兩中を折すれば、則ち異同の情 見る可し。然らば前哲を譏る無しとは、情を厭ふの謂ひなり。王陵の母の、楚に烹せられしが、陵 退身窮居せず、終(つひ)に社稷の臣と爲るも、榮と爲すに非らざるが若きなり。鮑勛は魏朝に蹇諤し、身を亡して效を爲すも、其の志を觀るに爵を貪るには非らざるなり。凡そ此の二賢は、滕の諭に非らず。夫れ聖人 敎へを立て、猶ほ「禮有るも時無くんば、君子は行はず」と云ふがごとし。禮有るも時無きは、政の事を以て變通すること有り、一故を守る可らざるのみ。若し滕の 此の二賢を以て證と爲せば、則ち恐らく人人自から賢ならん。若し人人自から賢なる可らずんば、何ぞ獨り其の證を許す可し。譏る者は兼て人に在れば、但だ獨り其の事をのみ證せず。漢・魏以來、記 其の典を闕けば、尋ぬるも得る者 幾人も無し。大晉の中朝より至りて中興の後に及ぶまで、楊臻は則ち七年 喪を除かず、三十餘年 人事に關せず。溫公は則ち王命に逼られ、庾左丞は則ち終身 袷を著けず、高世遠は則ち王右軍・何驃騎の勸割する所と爲るに、滕の易ふるが如き者有ること無きなり。若し縗麻を以て哀を爲すの主に非らずとせば、復た言ふ所無けん。文皇帝 東關の役に、尸骸の反らざる者を以て、其の子弟に制して、婚宦を廢さず。此を明とすれば、孝子の已に自から人倫に同からざるも、有識は已に其の可否を審かにす。若し其れ爾らずんば、宗に居り物を輔くる者は、但だ當に聖人の敎に卽(つ)くべきのみにして、何所にか明制を其の間に復(ふ)まんかな。永嘉大亂の後に至るに及び、王敦 復た東關の制を中興に申(の)ぶ。此を原(たづ)ぬるに是れ國の大計たれば、訓範・人倫を謂ふに非らざること、此に盡(つ)くなり。
 何をか以て之を言ふ。父の讎は同(とも)に天日を戴かざること明かなれども、國の爲には復讎も許す可らず、此れ自から法を以て情を奪ふなり。卽ち是れ東關・永嘉の喩へなり。何ぞ王務を綜理する者を妨(そこな)ひて、布衣にして以て之に處(を)らしめん。明敎は自から世に橫流するに非らざるを謂へば、凡そ士君子の徒は、仕ふる可らざるの理無けれども、雜(まじ)ふるに情を以て譏るは、宜しく貶裁に在るべしと謂ふのみ。若し多く前事を引きて以て通證と爲せば、則ち孝子は法を顧る可くして復讎せざるのみ。文皇帝も制を東關に立つる所無く、王敦も之を中興に明かにする所無し。斯の會に至る毎に、輒ち之を宰物に發すれば、是の心 喩(さと)さゞる可けんや。
 且つ夫れ理を求めんとすれば當に遠大なるを以て先とすべく、若し滄海の橫流すれば、家國 其の淪溺を同うす。若し仕へざれば、則ち人に餘力有らん。人に餘力有れば、則ち國は亡に至る可く、家は滅に至る可けん。斯の時に當りてや、匹婦も猶ほ其の身を亡すに、況や大丈夫をや。旣に其れ然らずとせば、天下の才、將に理む所無からんとす。滕は但だ當に陟岵の哀を盡すのみなれば、仕へざる者の心を擬して、何爲れぞ前人に證喩して、以て自ら通ぜんや。且つ名は大才の假とする所にして、小才の榮とする所たれば、榮と假とは常に乘じ、已に德に慚づる有りて、工進を欣ぶ無くんば、何の情事か有らん。若し其れ然らずとせば、則ち工進して欣ぶ無く、何ぞ千載の上に貴しとするに足らんや。苟も小才の其の位を榮とするを許せば、則ち滕の當に常疑を顧みて以て自ら居るべからざらんや。所謂 柳下惠なれば則ち可、我は則ち不可なるなり。
 且つ有生の宗とする所は聖人なり、聖人の敎と爲す者は禮法なり。心に卽して言はゞ、則ち聖人の法は、改む可らざるなり。而るに秦は郡縣を以て天下を治め、之を能く變ふる莫く、漢文は肉刑を除くも、之を能く復する莫し。彼の聖人の法たるも、猶ほ後王に改めらるれば、況や滕の前人に賴りて、當に必ず通ずべしとするをや。若し人 皆な仕ふれば、未だ斯の事の後聖を俟つ可きや不(いな)やを知らず。況や仕ふると仕へざるとは、各〻其の人に有り、而して仕へざるの引く所は、毎に三年の下に感ず。議者の情紀に弘通するを見るに、毎に中庸に傍(そ)ふも、又た云ふ「若し滕を譏るを許せば、則ち亡身・致命の仕への、此を以てして盡さゞるを恐る」と。何と斯の言の過ならんかな。夫れ忠烈の情は、初め計無くして後ち動く。若し計りて後ち動けば、則ち法を懼れて命を盡さゞらん。若し盡さゞること有れば、則ち國に常法を有(たも)たん。故に古人 軍は外に敗れて、家は內に誅せらる。苟も忠は內より発して、法を外に懼るゝこと或れば、復た踟躕・顧望の地有らんや。若し功有りて賞せず、罪有りて誅さずんば、斯の喩へを致す可し。名敎有りて其の子弟を翼(たす)くれば、子弟の力を天とする所に致さゞること無けん。力を天とする所に致さゞるは、則ち王經の忠は主を救ふ能はず、孝は其の親を顧みざるがごとく、是れ家國の罪人なるのみなれば、何所(いづこ)にか稱(たゝ)へんや。夫れ恩宥 十世なるは、隆(たか)からざるには非らざるなり。功高く賞厚きは、報ひざるには非らざるなり。若し國憲の滕恬に負くこと無くんば、則ち羨の通塞は、自から是れ名敎の及ぶ所にして、豈に是れ勸沮の本ならんか。
 議者 又た唐・虞を以て邈(とほ)しとすれば、孰(いづれ)にか歸する所を知りて、言を尋ね意を求め、將に負(そむ)く所の者多しとせんか。後漢の亂るれども亡びざりしは、前史に猶ほ數公の力と謂ふ。魏國の將に建たんとするとき、荀令君は色を正して異議し、董昭は蘇則の膝に枕するを得ず、賈充は辱を庾純より受く。此を以て推すに、天下の正義は、終に自ら傳へて沒ずんば、何爲れぞ斯の歎を發せんや。若し時を以て上皇に非らざるとすれば、便ち復た多くを言ふに足らず、則ち夷・齊の奭・望に於(おけ)る、子房の四人に於るも、亦た其の言を復措する所無けん。陳平の黙順して禍を避け、權を以て屈を濟すに至るは、皆な是れ生を衛(まも)り害を免るものにして、榮と爲すに非らざるなり。滕 今 生を衞る所無く、鞭・塞 已に冥(くら)ければ、義 安(いづく)にか在らんや。昔 陳壽は喪に在るに、婢をして藥を丸めしむれば、鄕閭に責めらる。阮咸は哀に居るに、驢に騎(の)りて婢を偸(ぬす)むも、身は王朝に處(を)る。豈に阮の通を前世に獲るを以て、便ち後に疑ひ無しとす可けんや。且つ賢聖の抑引は、皆な是れ其の始終を究めて、其の才行を定む。故に事に俗を驚すこと有りと雖も、而して理は必ず申(の)ぶるを獲。郤詵は母を後園に葬れども、身は宦に登りて、責を免る所以は、其の孝なるを以てなり。日磾の兒を殺して譏らるゝ無きは、其の忠なるを以てなり。今 豈に二事を以て忠孝の爲す所を是とす可きも、便ち兒を殺し母を後園に葬るを許す可けんや。不可なること明かなり。旣に其れ不可なれば、便ち當に滕の才行を究定すべく、多辯する所無きなり。
 滕は下官の鄕親に非らず、又た周旋せざれば、才能は能く悉す所に非らず。若し滕を以て能く敵と決するを謀りて、才能 周く用ひ、此れ自ら古人を追蹤すれば、議の及ぶ所に非らず。是の若き士流は、故(まこと)に宜しく子夏が如く曾参の詞を受くるべきなれば、善しと謂ふ可く、而して子夏に不孝の稱無きなり。意の懷ふ所は、都て此に盡き、自から名理に非らずんば、何ぞ其の往復を多くするに緣らん。其の折中の如く、之を裁すれば宗に居る。
 桓偉 號を安西に進め、轉じて功曹に補すも、陳郡の謝絢を舉げて自ら代はりて曰く、「蓋し聞く 賢を知りて推さゞるは、臧文の位を竊む所以にして、宣子の能く讓れば、晉國 之を以て寧んずるを獲ると。鮮之 猥(みだり)に人の乏きを承け、謬りて過眷を蒙り、旣に恩 以て義隆なるに、遂に再び非服を叨む。知進の難は、屢〻以て上請す。然れども自退の志は、未だ暫くも申ぶるを獲ず。夙夜 冰を懷(いだ)くも、敢て其の懼を忘る。伏して見るに 行參軍の謝絢は、淸悟 審正にして、理懷 通美、以て端右に居り、未だ其の采章を舒ぶるに足らずと雖も、升庸 以て漸(すゝ)めば、差(やゝ)位を以て人を擬(はか)る可けん。愚短を請乞(こ)へらくは、下列に充つるに甘んじ、賢牧が爲に授け、實に羣望に副(そ)はんことを」と。
 入りて員外散騎侍郞、司徒左西屬、大司馬・琅邪王の錄事參軍と爲り、仍ち御史中丞に遷る。性 剛直にして、强貴に阿らず、憲を明かにし繩(のり)を直(たゞ)せば、甚だ司直の体を得。外甥の劉毅、權 當時に重ければ、朝野 歸附せざる莫かりしに、鮮之 心を高祖に盡し、獨り意を毅に屈せずんば、毅 甚だ恨めり。義熙六年、鮮之 治書侍御史・丘洹をして毅を奏彈して曰く、「上言す 傳詔の羅道盛は輒ち牋を開き、遂に密事を盜發す。法に依りて棄市せんとし、刑を行ふを奏報すれども、毅は道盛の身の侯爵を有するを以て、輒ち復た停宥す。按ずるに毅は勳德光重、任は次相に居り、之を殺すこと己に非らざるを旣(つく)し、之を生かすこと自由なるを緣(よし)無し。又た之を先に奏して、後に請はず、񹖫外出疆は、此の謂に非らず。中丞・鮮之は毅に於て舅甥にして、制に相糾さずんば、臣 毅が官を免ぜんことを請ふ」と。詔して問ふ所無し。
 時に新制に長吏の父母の疾を以て官を去れば、禁錮三年と。山陰の令・沈叔任 父疾みて職を去る。鮮之 此に因りて上議して曰く、「夫れ事に相權有り、故に制に與奪有り、此に屈する所有りて、彼に申ぶる所有り。未だ理として明かにする所無く、事として獲る所無くして、永制と爲る者有らざるなり。當に去官の人を以て、或は詭託の事を容るべし。詭託の事、誠に或は之れ有れば、豈に天下の大敎を虧き、末を以て本を傷つくる者を可とせんや。且つ法を設くるは、蓋し衆を以て寡を苞みて、而も寡を以て衆に違はざらしむるに、況や官を去るを防杜して孝愛の實を塞ぐをや。且つ人情は榮利に趨れば、官を辭するは本より防ぐ所に非らず。其の制を爲す所以は、官に莅むこと久からざれば、則ち奔競 互に生ずればなり。故に其の欲速の情を杜ぎて、以て考績の實を申ぶ。今 父母の疾を省きて、加ふるに罪名を以てするは、義に悖り理を疾(そこな)ふこと、此より大と爲すもの莫し。謂(おも)へらく宜しく舊に從はゞ、義に於て允と爲さん」と。之に從ふ。是に於て二品より以上の父母の没する者、墳墓の崩毀し 及び族屬を疾病して輒ち去るもの、並に禁錮せず。
 劉毅の江陵に鎭するに當りしとき、高祖の江寧に會すれば、朝士 畢く集る。毅 素より摴蒱を好めば、是に於て會戲す。高祖 毅と局を斂め、各〻其の半を得るに、積錢 人を隱す。毅 高祖に呼(い)ひて之を倂(きそ)ふ。先んじて擲てば雉を得。高祖 甚だ說ばず、良〻久しうして乃ち之に答ふ。四坐 傾矚するに、旣に擲てば、五子 盡く黒し。毅 意色大に惡しく、高祖に謂ひて曰く、「公の大坐席を以て人と與(とも)にせざるを知る」と。鮮之 大に喜び、徒跣もて牀を繞りて大叫するに、聲聲 相續く。毅 甚だ平かならず、之に謂ひて曰く、「此の鄭君 何爲る者ぞ」と。甥舅の禮を復する無し。高祖 少(わか)くして戎旅を事とし、學に涉るを經ず。宰相と爲るに及び、頗る風流を慕ふも、時に言論或れば、人 皆な之に依違として、敢て難ぜざるなり。鮮之の難ずること必ず切至にして、未だ嘗て寬假せず、要須(かなら)ず高祖の辭 窮し 理 屈し、然る後ち之を置く。高祖 或は時に慚恧有り、色を變へ容を動じ、旣にして人に謂ひて曰く、「我 本より術學無く、言義 尤も淺し。比時(このごろ)言論するに、諸賢 多く寬容せらるゝも、唯だ鄭のみ爾らず、獨り能く人の意を盡せば、甚だ此を以て之に感ず」と。時人 謂ひて「格佞」と爲す。
 中丞より司徒左長史、太尉諮議參軍に轉じ、俄かにして侍中に補すも、復た太尉諮議と爲る。十二年、高祖の北伐するに、以て右長史と爲す。鮮之 曾祖の墓の開封に在り、相去ること三百里なれば、乞ひて拜省せんことを求むれば、高祖 騎を以て之を送る。宋國の初て建つや、奉常に轉ず。
 佛佛虜の關中を陷るゝや、高祖 復た北討せんと欲するに、鮮之の上表して諫めて曰く、「伏して思ふに聖略は深遠なれば、臣の愚管は、其の意を措く所無けんと。然れども臣が愚見、竊に懷ふ所有り。虜が凶狡の情狀 見る可し。自から關中の再敗するは、皆な是れ師を帥ひて律に違ひ、是れ內に事故有るに非らずんば、外に敗傷有るを致せばなり。虜 殿下の六軍を親御せるを聞かば、必ず伐たるゝと謂(おも)ひ、當に兵を重くして潼關を守るべく、其の勢 然るなり。若し陵威の長驅するも、臣 實に其の未だ易からざるを見る。輿駕の洛に頓するが若きは、則ち上の聖躬を勞するに足らず。此の如くなれば、則ち進退の機、宜しく熟慮在るべし。賊の敢て勝に乘じて陝を過ぎざりしは、遠く大威を懾るゝが故なり。今 用兵の算を盡すに、事は屈申に從りて、師を遣して撲討すれば、南夏は淸晏にして、賊は方將(まさ)に來らんとするを懼れ、永く敢て動かざらん。若し輿駕の洛に造りて反れば、凶醜 更めて揣量の心を生じ、必ず邊戎の患を啓かんこと、此れ旣に必然なり。江南は顒顒として、輿駕に傾注するに、忽ち遠伐を聞けば、師の深淺を測らず、必ず殿下が大に威靈を申べんことを以ふも、未だ還らずんば、人情の恐懼するは、事 又た推す可し。往年 西征せるとき、劉鍾は危殆し、前年は劫盜 廣州を破り、人士 都て盡く。三吳は心腹の內にして、諸縣の屢〻敗るゝは、皆な勞役の致す所に由れり。又た聞く處處に大水あり、遠師を加ふれば民 敝すと。敗散するは、自然の理なり。殿下の彭城に在りて、劫盜の諸縣を破るは、事 偶〻爾るに非らず、皆な是れ無賴の凶慝なり。凡そ順ひて之を撫すれば、則ち百姓 思安す。其の願ふ所に違はゞ、必ず亂を爲さん。古人の其の煩穢を救ふ所以は、正に斯に在り。漢高は身ら平城に困して、呂后は匈奴の辱めを受け、魏武は軍を赤壁に敗れて、宣武は師を枋頭に喪ふも、神武の功は、一として損する所無し。況や偏師の律を失ひ、廟堂の上に虧く者無きをや。之を事實に卽せば、非敗の謂は、唯だ齡石等のみ念ず可きのみ。若し行かば、或は其の禍を速(まね)かん。思惟を反覆するに、愚に謂(おも)へらく殿下が親征を煩さゞる小劫なり。西虜 或は河・洛の患と爲せば、今 正に宜しく北虜と通好すべくんば、則ち河南 安し。河南 安ければ、則ち濟・泗 靜かなり。伏して願はくは聖鑑もて臣が愚懷を察せよ」と。
 高祖の阼を踐むや、太常・都官尙書に遷る。鮮之の人と爲りや通率、高祖の坐に在りて、言に隱す所無くんば、時人 甚だ憚れり。而して隱厚篤實にして、親故に贍卹す。性 游行を好み、駕を命じて或は適く所を知らず、御者の之く所に隨ふ。尤も高祖の狎れる所と爲る。上 嘗て內殿に於て宴飮するに、朝貴 畢く至るも、唯だ鮮之のみ召かず。坐 定るや、羣臣に謂ひて曰く、「鄭鮮之 必ず當に自ら來たるべけん」と。俄かにして外啓すらく、「尙書・鮮之 神虎門に詣りて啓事を求む」と。高祖 大に笑ひて引き入る。其の親遇を被ること此の如し。
 永初二年、出でゝ丹陽の尹と爲り、復た入りて都官尙書と爲り、散騎常侍を加ふ。征功に從ふを以て、龍陽縣五等子に封ぜらる。出でゝ豫章太守と爲り、秩は中二千石。元嘉三年、王弘の入りて相と爲るや、鮮之を舉げて尙書右僕射と爲す。四年に卒す。時に年六十四。散騎常侍・金紫光祿大夫を追贈す。文集は世に傳はる。
 子の愔、位は尙書郞・始興太守に至る。
*  *  *
◆ 通 釈 ◆
 鄭鮮之は字を道子と言い、司州滎陽郡開封県の出身である。遠祖の鄭渾は魏の将作大匠であり、祖父の鄭襲は大司農、父の鄭遵は尚書郎であった。襲は出仕して江乗県の県令となったので県境に居を構えた。
 鮮之は帷を下して(日中も書斎に閉じこもって)読書し、他人との交際も絶って勉学に勤しんだ。出仕して桓偉の輔国主簿となった。それ以前に、兗州刺史の滕恬が丁零の翟遼の捕虜となって死に、遺体を取り返すことができなかったにもかかわらず、滕恬の息子・滕羨は在職したままであった(=辞職して喪に服さなかった)。世の識者はそのことに不快感を示した。桓玄は当時荊州にいたが、幕僚にこのことを議論させたところ、鮮之が説いて言うには、
 名教の究極は忠と孝の二つに尽きますが、状況に応じて変化したり、何を抑制し何を伸張させるかについては、ケースごとに対応が異なるものです。それに基づいて過去に遡って考えてみると、古人はみなことの核心に沿って「歴史の痕跡」を遺したことがわかります。それらの「歴史の痕跡」の原因となったところを見てみると、そのきっかけはいつも同じとは限りません。そのため聖人もときにこの「歴史の痕跡」に即すことで教えの助けとし、ときに「歴史の痕跡」に基づきながらもかえって罪を得ることがあるのです。何を進め何を退けるか、何を許し何を禁じるかは(つねにニュートラルなテーマであって)、同じ地平でとらえることは難しく、道端であれこれと取沙汰されることに至っては、いちいち述べることができません。(そこで有名な故事に絞って挙げてみますと)、天もその理から逃れることができるでしょうか、伊尹は天子・太甲をも廃しました。君主をも脅迫してよいものでしょうか、鬻拳は(君主を脅迫したことで)君子に褒められました。忠良でありながら同時に愚者となることができるでしょうか、箕子は(狂人のふりをして)三仁の一人に加えられました。これらの人々よりのち、行動を異にしながら名声を等しくし、違う形で業績を上げながら美名を等しくしたものについては、いちいち数え上げることができません。とはいえそれら先達の事跡をもって百代後世に号令すればよいかと言えば、経典に書き記されていないものが多く、これらの故事をもとににわかにすべての事例の名実を正そうとするのは、生半可なことではございますまい。
 とはいえ言説を立て道理を明らかにし、古代の事跡をもって今日を証明してみますと、往々にして道理が立てば人情に背くことになるもの。滕羨のような事情がある場合には、あるいは死ぬまで隠遁して庶事一切の関わりを断つケースもあれば、あるいは朝廷に上がって職務を続けながら、そのことが先賢の道に悖るものではないケースもあります。滕羨と好(よし)みを通じているものは(先賢の道に)悖らないことを証左として彼を擁護し、滕羨と交際を持たないものは隠遁するのを潔しと見なすのです。その両極を折衷すれば、その違いがはっきりと分かります。されば「先賢の道に悖らない」とは、人情に背いてまで義理を通すことを言います。前漢の王陵の母は楚の項羽に釜茹でにされたにもかかわらず、王陵は離職服喪せずに漢王に仕え続け、ついには漢朝の功労者となりましたものの、人情に照らして決して栄誉とは言えないケースといっしょです。鮑勛は魏に仕えて直言を進め、己が身を顧みずに力を尽くし(た挙句に誅殺され)ましたが、その言動から彼の意思を窺うかぎり爵位を貪ろうとして逆鱗に触れたとは思えません。おそらくこの二人の賢者は、滕羨に喩えるには相応しくないでしょう。およそ聖人は教えの道を世に示すものですが、それでも「定まった礼があってもそのときでなければ、君子はあえて押し通さない」という言葉のとおりです(=聖人の教えですら時局に沿うことを説いている、すなわち王陵や鮑勛らの行いはそれを越えて過激なものであった)。「定まった礼があってもそのときでない」とは、とかく為政の道は状況に応じて変化することを可とするもので、一定不変の典故にこだわるべきでないことを言っているのです。滕羨のケースをこの二人の賢者に引き当てて正当性の証左とするようなことは、すべての人間が(この二人の賢者のように)立派でなければ成り立たないものです。すべての人間が(この二人の賢者のように)立派でないのなら、どうして一人滕羨のみを非難する証左として許されるべきでしょうか。(滕羨の行いが先賢の道に悖ると)非難する者もまた同じ人間であるわけですから、彼だけに当てはめて証左とすることは話が通りません。漢魏以来、確かな記録が残っておりませんので、そのような事例を探した結果、得られたものは何人もございません。大晋の建国から中興の後までを見てみると、楊臻は七年の喪に服し、その後さらに三十年以上も出仕しませんでした。温嶠は王命に迫られて散騎侍郎を拝命し、庾亮は終身袷を身に着けず、高柔は王羲之や何充らに引退を勧められましたが、滕羨の事例に当てはめうる故事はございません。もし死者を悼むことがあくまで内面の問題であって、縗麻を身に着け(て離職す)ることが本当に喪に服すことなのではないと言うのであれば(=服喪の要が心にあるというのなら)、このうえ議論するまでもございません。(あくまで滕羨在職のことを問題とされますならば、例えば)晋の文帝は(諸葛誕が)東関の役で敗北した際、戦死者のうち遺体が戻らず葬儀を全うでき(ず、したがって服喪すべきか決められ)ない場合でも、その子弟に命じて既に決まっている婚姻や現在の官職については廃さないように取り計らいました。このことを賢明とするなら、孝子が人倫に合わないことをしても、有識者はその可否を審らかにすることができるのです。その例外として、本家を守り人民を安んずる立場にある人物の場合は、やはり聖人の教えに従うべきであって、(たとえ天子が立てた)賢明な制度であろうと喪中に実践いたしましょうか(=お咎めを受けても婚儀を延期し離職して喪に服すべきである)。永嘉の大乱の後、王敦はふたたび東関のときの制を中興(東晋)で実践しましたが、その由来を遡れば、このことは言うなれば(必然に迫られた便宜としての)「国家の大計」であって、(恒久不変の)訓範・人倫ではないことは贅言を要しますまい。
 その理由を申しましょう。ご承知のとおり「父の仇とは共に天を戴かず」と言われていますれども、国家のためには復讐を許してはならない場合がございます。これは公法が人情にまさるケースです。すなわち東関の役や永嘉の乱の場合がこれに当たります。(それらの未曾有の大敗北や国家的な大災害が起こったとき)本来朝廷にあって国事を総務すべき人物を服喪によって手放し、庶民の身分で復讐に奔らせるようなことを許してよいものでしょうか。明教というもの(=孝子の復讐もまた明教の条理)はもとより世の中が大波乱に漂うようなときに立てるべきものではありません(ので、今回のようなケースに適用することはできません)。(滕羨のように離職せず、孝子の人情に反して父の仇に復讐しなかったケースを考えみると)およそ士君子の輩には本来(進退自由であって)出仕してはならない条件などございませんから、それを(理によってではなく)人情を挟んで(先賢の道に悖ると)非難するのであれば、その処分はせいぜい降格程度にとどめるべきかと存じます。(一方、逆に孝子が離職して復讐するケースはどうでしょうか)もし多くの故事を引いて証左を求めようとするのであれば、「世の孝子は公法に遵って私讐に奔ってはならない」ことになりますが、(もし世の孝子がつねに公法を守って復讐しないのなら)文帝も東関の役に際してわざわざ命令を出してまで念を押すこともなく、王敦も東晋中興の後にこのことを持ち出すまでもなかったと言えます。かかる時局に際会するたびに、人民を治めるうえで遵法不讐の制が発せられることを鑑みれば、孝子復讐の心がいかに諭(さと)しがたいかが伺えるでしょう。
 かつまた条理に沿って考える場合には、まず遠大な視点に立ってみることが重要です。もし大海が荒れ狂うような大波乱が起これば、家も国もともにその渦に呑み込まれることでしょう。もしそのとき国家のために働かなければ、人は持てる力を出し尽くすことができません。そしてもし大波乱を前にしながら人が持てる力を出し尽くさないとしたら、国も家も滅亡に瀕するはずです。かかる事態に直面すれば、平凡な婦人ですらその身を投げ出すというのに、ましてや大の男であればなおさら命を捨ててことに当たるべきではないでしょうか。それを認めないとしたら、天下の大才もいつその本領を発揮すると言うのでしょう。滕羨の場合で言えば、彼はただ個人的に陟岵の詩に歌われた哀情を尽せばよく、服喪のために離職した者の意を推して、どうして先人の行いを例証として、己が手本とすべきでしょうか。(滕羨が離職しないのは、名利に目が眩んだ出世主義のためだと言う者もおりますが)そもそも立身による名声というものは、大才の士の「(一時的な)途中経過」とするところで、小才の士の「(最終的な)栄誉」とするところであり、「栄誉」も「途中経過」もともに本来常道を踏まえたものでありますから、(服喪期間に出仕することで)徳において恥じるところがあるうえに、(父の喪に遭って)心に喜びを抱かぬまま遊泳巧妙に官途を進んだところで、(出世主義のゆえに官に在ったところで)何のいいことがございましょうか。もしそうではなく(=名利に駆られたわけではなく上命によって)やはり官に在るべきだとしても、結局遊泳巧妙に官途を進んだところで心に喜びを抱かぬわけですから、どうして千年の後の世にまで称えられることがありましょうか。かりに小才の士が官位にあることを栄誉だとするのを許されるとしたら、どうして滕羨の場合に限って、まさに常道と疑義とを理解したうえであえて自ら危険な道を歩まなければならないのでしょうか。これぞ所謂「柳下恵だから許されるのであって、自分にはとても許されるものではない」という事例に当たります。
 かつまた生ある者の仰ぎ見るところは聖人であり、聖人がその教えとするところは礼法でございます。わが意に基づいて言えば、聖人の定めた礼法は凡人がおいそれと改めてよいものではございません。しかるに秦の始皇帝は(封建を廃止して)郡県制度を天下に敷きましたが、漢代以降も(郡国として多少は後退したが)郡県の制度は存続しましたし、漢の文帝は古代の肉刑を廃止しましたが、(後漢の末に至るまで)なかなか復活しませんでした。(封建も肉刑も有周聖人の世に定められたもので)かかる聖人の礼法であっても、なお後の世の王者によって改められるのですから、ましてや滕羨の件で先人を引合いに出して、必ずその理に通じなければならないというのはいかがなものでしょう。もし人がすべて出仕しなければならないとしたら、かかる事例について後の世に聖人が現れて新しい礼法を立てるのを待つべきか否かを知る由もないわけです(=今回のような議論があることからも解るように、すべての人が出仕しなければならないわけでも、またすべての人が離職しなければならないわけでもないのです)。ましてや出仕するかしないかは、それぞれ人によって事情が異なり、そして離職の根拠としては常に三年の喪に服する場合だけなのであります。人々が今回のケースを論じて人情と条理とを広く通じようとしているのを見ますと、おおむね(極論を折衷して)中庸に沿うておりますが、それでもまだ「もし滕羨の行いが先賢の道に悖ると非難するのを許せば、我が身を顧みず命を捨てて仕えようとする道が、そのために尽くされないのではないか(=危険を承知で死地に赴き、結果として外地で戦死したり敵に捕われたりすることで、遺された家族があらぬ誹謗を受けるのを目にすることで、今後誰もそのような難題を引き受けなくなるのではないか)と危惧される」と言っているのを耳にします。なんとひどい考え違いでしょうか。およそ忠烈の心情は、後先を考えてから行動を起こすものではありません。あらかじめ後先を分別してから行動を起こすのであれば、(ことが不首尾に終わればお咎めを受けるかもしれないと)法律を恐れて心置きなく命を捨てることはないでしょう。もし命を捨てる覚悟で使命に当たらなければ、(法律を破る者もなく)国家の常法は守れるでしょう(が、必死の難事もまた実現しないはずです)。そのため古人は(後先を考えて逡巡したがために)外地では敗戦し、国内では誅を被ったのであります。そもそも忠義の情はあくまで内心より発するやむにやまれぬ激情でありますれば、たとえ法律に対する一抹の恐れが傍らにあろうとて、どうして躊躇ったり振り返ったりする余地がございましょうか。万一功績を立てながら賞を受けず、罪過を犯しながら誅を受けない者があるとしたら、このことを喩えとして改善すべきです。名教が確乎と立って滕羨のような子弟を支えてやることができたのなら、彼らがその力を己が天とするところ(=主君)に尽くさないはずがございません。持てる力を己が天とするところに尽くさないというのは、つまり魏の王経が忠の道では主君をお守りすることができず、孝の道ではその母(の忠告を聞かず、ついには母)を巻き込んだようなもので、これぞ家においても国においてもただの罪人というべき者であれば、一点の認めるべき取り柄がございましょうか。およそ十代に亙って恩赦を垂れたまうのは、盛徳の至りと言うべきであり、高い功績を挙げたもの厚い恩賞を与えたものには、誰もが必ず報いるものです。もし滕恬の行いが国法に背くものでないとしたら、すなわち羨恬の行いを善しとするか悪しとするかは、もとより名教(=社会的倫理観)によって下されるものでありますれば、どうしてこのことをもって軽々に出仕・離職の基準と見なし得ましょうか。
 論者は堯・舜の治政を大昔のことゆえ参考にならぬと申しますが、では一体なにを基準として言説を探り真意を求め(て参考とし)、またそれらの基準に当てはまらないものが多いということができるのでしょうか。後漢が(桓霊二帝以後に)混乱を極めながら長く命脈を保ったのは、『後漢書』にもなお存続に尽力した人物がいたからだと記されています。曹操が魏国公に封じられたとき、荀彧は顔色を改めて反対しましたし、魏の董昭は蘇則の膝を枕にしたところ蘇則に「我が膝は佞臣の枕ではない(=後漢王朝の幕引き役であり曹魏建国の暗躍者であった董昭を皮肉ったもの)」と叱せられ、晋の賈充は口論の際に庾純から「高貴郷公はどこへ行かれたのか(=賈充は高貴郷公暗殺の黒幕であった)」と侮辱されました。これらのことから推理しますに、天下の正義は自然と今日にまで伝えられて消滅したわけではないことが判ります。(もし消滅してしまったのなら)どうして彼らはかかる怒りの声を発することができたでしょうか(=天下の正義がまだどこかにあるから、悪人どもが弾劾されるのである)。もし今の時代が古代の皇帝の世ではなく、したがって故事を挙げていろいろと論議する必要がないというのであれば、武王を諌め(て殺されそうになっ)た伯夷叔斉を「義人なり」と言ってとりなした召公や太公の言葉や、張良が四皓を招いて漢朝のお家騒動を防いだ献策は二度と語られることはないでしょう。陳平が呂后時代には刃向わずに難を避け、丞相の位にありながらも屈従に甘んじていたのは、すべて命大事と禍から逃れるための方便であって、(それによって暗黒時代を生き残ったとはいえ)決して名誉なことではございません(が、それもやむを得ぬ仕儀でした)。今日滕羨は陳平のように命大事と禍をやり過ごす方便を許されず、さりとて陳平のように戦上手というわけでもないのであれば、(みすみす犬死させるようなものでこれでは)道理が通りますまい。その昔陳寿は父の喪中に、下女に丸薬を作らせて服用したところ、郷のものたちから後ろ指を刺されました。一方阮咸は母の喪中に、お気に入りの下女を驢馬に乗って取り戻しに行くようなまねをいたしながら、その身はなお王朝にありました。しかし阮咸の融通無碍な態度が前代で許されたからとて、どうしてそのまま後世に通じると早合点してよいものでしょうか。そもそも聖人賢者が行ったところ慎んだところは、およそその前後を十分に見極めなければ、その才覚は見極めがたいものです。そのゆえ表むき時には世俗を驚かせるようなことをしでかしたとしても、その言わんとするところは必ず人を納得させるものがございます。郤詵は困窮ゆえに(柩を運ぶ車馬を調えることができず)母の亡骸を裏庭に埋葬したものの、のちに顕職に就いて非難を受けなかったのは、彼が孝を尽くしたゆえでした。金日磾は不埒の廉で長子を殺したものの、それを咎められなかったのは、彼が忠を尽くしたゆえでした。今日この二人を忠孝の徒として認めることができるからとて、どうして誰もが子供を殺してもよいし母の亡骸を裏庭に埋葬してよいと申せましょうか(やむを得ぬ方便や非常の道は、誰もがおいそれと実践してよいものではない)。このことが許されぬのは明白であります。このことが許されぬというのであれば、滕羨の場合もまず彼の才覚を見極め(てから彼の採るべき態度を論ず)るべきであって、まったく多言を要しますまい。
 滕羨は下官(それがし)の親類でも郷党でもございません。また特段の交際もございませんので、彼の才能については詳しくは存じません。もし滕羨が北虜を向こうに回すほどの深謀を持ち、才能があまりあり、張良や陳平と肩を並べるほどであるならば、とやかく議論するまでもございません(仇討ちのため単身北行させて索虜と勝負させればよいでしょう)。この種の士人は、まこと子夏が曾子の言葉を受け入れ(て素直に非を認め)たようにすれば、すぐに過ちを改めることができるのであって、それゆえ子夏もまた不孝者の譏りを受けることはありませんでした(=小さな過ちはあってもそこまで転落することはなかった)。自分の愚見は、すべてこれに尽きまする(=すなわち士人たるもの、まずは自分の思ったことをやり、良友の諌めがあったら、そのときに素直に耳を貸し己を律してゆければよい)。このことはもとより名教の大事を持ち出すまでもないことでありますのに、どうして盛んにそれを持ち出して議論する必要がございましょうか。いまの物議の両極を折中して、その中庸を取れば至当を得ると申せましょう。
 桓偉が安西将軍になったとき、彼を将軍府の功曹に補任しようとした。しかし彼は自分の代わりに陳郡の謝絢を推挙して言った。「賢者を知りながら推挙しないのは、臧孫辰がその器でないのに高位を私物していると誹られた理由であり、趙盾が異母兄弟の趙括を公族大夫に推挙したことで、晋国は安寧を得たと聞いております。鮮之(それがし)は厚かましくも人材不足のゆえに登用され、何の間違いか過分のお情けを蒙っておりますから、すでにご恩は山のように高いものでありますのに、このうえまたその器でもないのに大任を盗みとるようなことになろうとは。位が進むことに伴う危険を察知することの難しさについては、以前からたびたび申し上げております。さりながら身を退いて余生を悠悠自適に送りたいという思いは、いまだいささかも適えられておりません。朝から晩まで懷に氷を入れて、その恐怖を忘れたいほどです。されば密かに観察するところ、行参軍の謝絢は、清廉聡明で常に正しい道を弁えており、条理を備えた襟懐は万事に通達し、それゆえ身は朝廷に置かれておるところで、残念ながら今のところ十分に才能を発揮していないとはいえ、昇任登庸されて累進すれば、次第に位階に見合った人材となりましょう。愚臣は是非とも下位にあてがわれれば十分でございますので、こたびの任はなにとぞ賢臣に授けて、まことに衆望に適うようお取り計らい下さいますように」と。
 その後中央に戻って員外散騎侍郎、司徒左西属、大司馬琅邪王(司馬徳文)の録事参軍となり、さらに御史中丞に遷任した。鄭鮮之の性格は剛直で貴顕にも阿らず、常に法を明らかにして規(のり)を正したため、はなはだ司直の風格を備えていた。外甥にあたる劉毅は、そのころ権勢を誇っており、朝野ともに彼に靡かぬものとてないありさまだったけれども、鮮之は高祖に忠節を尽くして、敢然と劉毅の意向を撥ねつけていたので、劉毅は非常にそのことを遺恨に思っていた。義旗6年に鮮之は劉毅を指弾するため、治書侍御史の丘洹を立てて上奏した。「申し上げます。伝奏の羅道盛は上奏文を勝手に開いて、封事を盗み見たうえに漏洩いたしました。法律に照らし斬首に処すべしとて、刑の執行許可を奏上いたしましたところ、劉毅は羅道盛が侯爵の身分であるのを理由に、執行停止のうえ減刑してしまいました。思いますに、劉毅は勲功重く、亜相の任に就いておりますれば、己に属さないものはことごとく殺し、自分に従うものは法を曲げてでも生かすその専断に対して手がつけられません。また何事も本来あらかじめ奏請すべきで、事後に報告するようなことは好ましくないのです。もとより古人が『閫外のことは将軍が制せ』や『大夫は個人的に出歩くときでも国境を越える場合には必ず事前に許可をとる』と言ったことは今回のケースには当てはまりません。中丞の鮮之は劉毅とは舅父と外甥の関係であり、礼制によって直接糾弾することが憚られます(から、人を立てて申し上げます)。臣は劉毅の官職を罷免されることをお願いいたします」と。詔があって不問に付された。
 そのころ新たな制度では、上級の役人が父母の病を理由に辞職した場合は、以後三年間の出仕停止の処分を受けることになっていた。山陰県の県令であった沈叔任が父が病気になったので辞職した(ため議論になった)。そこで鮮之は意見を奉って言った。「およそ物事には軽重を量るべき場合があり、それゆえ制度においても認められる場合と認められない場合とがありますから、あるものはやむなく意を屈しもし、あるものは意のままに許されもするのです。さすれば条理として人道を明らかにするわけでも、無理強いしたところで得するわけでもないのに、不朽の制度となったものなど聞いたこともございません。(もし人情として徹底することができない制度を無理強いしようとすれば、父母の病気を理由に)辞職したいと思っている人は別の理由を偽らなければなりませんから、偽りの理由が罷り通ることになります。偽りとして挙げられた理由も、実際に現実として存在します(ので物事の真偽が混乱してしまうことになるでしょう)。孝養を尽くそうとする天下の人道を打ち捨て、つまらないことを理由に根本となる天下の人道を台無しにするようなことが許されてよいものでしょうか。また法律を設ける理由は、そもそも多数者によって少数意見を包括し、しかも少数意見を多数者の原則に違反させないようにするためのものですから、どうして辞職することを禁絶せんとて孝養を尽くそうとする誠実な人道を塞ぐこと法律を設ける理由になりましょうか。また人の心は名誉や利益に赴くものですから、辞職することはそもそも禁じる必要がないのです。その制度が作られた理由は、一つの官職に十分な期間就いていなければ(引継ぎが煩瑣になり、所管の事務にも十分に通じることができず、功罪を判定することが難しくなり)、自ずと功名争いのような形となるので、その功名の速成に逸る心を杜絶して、真に実績ある職務を奨励しようとしたためです。いま父母の病を辞職の理由から除外し、そのうえ罪に問うというのは、まったくもって道義に背き条理に反することこのうえないものです。思いますに、是非とも旧制に従うべきであり、そうなれば義に適うことでしょう」と。この意見は採用された。これによって二品以上の官で父母の死没したもの、墓所が壊れて修復の急があるもの、一族の病が重く看取る必要があるものが辞職した場合には、いずれも出仕停止に及ばなくなった。
 劉毅が江陵に幕営を置いていたとき、たまたま高祖が江寧において会集を催したところ、朝廷の名士がことごとく顔を揃えた。劉毅はもともと樗蒲が好きで、このときも一勝負することになった。高祖は劉毅と対局することとなり、おのおの互角に亙りあい、うずたかく積まれた掛け金はその後ろの人が見えぬほど。劉毅は高祖にたがいに全額を懸けようと申し出た。そしてまず劉毅が札を投げたところ(5枚の札のうち3枚が黒い)「雉」の手札を得た。高祖はしばらく不機嫌な様子であったが、ようやく札を手にした。周囲のものが固唾を飲んで見守る中、札を投げると、5枚の札はすべて黒であった(=最高の手札の「盧」)。劉毅は怒りの形相もあらわに高祖に向かって、「公が大勝負を人に譲らないことが分かりましたよ」と言うと、鮮之は大喜びで裸足のまま二人の席のまわりを回りながら(劉毅が負けを認めたことを)大声で呼ばわり、語尾を引き伸ばして何度も繰り返した。劉毅はこれに激怒し、鮮之に向かって、「この鄭君はなんという輩だ」と言った。その後、両者はついに甥と舅(おじ)との礼儀を修復することはなかった。ところで高祖は若い自分から戦場をかけめぐっていたので、学問を修める時間がなかった。のちに宰相となってから、いたく談論煥発の風流に憧れていたが、ときに朝廷で発言する機会があると、その威勢を気圧されて誰もあえて追及するものがなかった。その中でただひとり鮮之だけが、いつも高祖の発言の隙を厳しく追及し、一度として寛容仮借を与えずに、高祖が反論に窮し非を認めるまでやめなかった。そんなあるとき高祖は慚愧に堪えぬ面持ちで、しばらくは落ち着かない様子を見せ、そののち周囲のものにこう漏らしたという。「我(じぶん)はもとより学問がないため、人前で議論するのが最も苦手じゃった。このごろは役職がら迫られて発言せねばならず、多くの賢卿がまあ大目に見てくれとるんじゃが、ただ鄭のやつだけが衆と違い、ひとり(談論の徒を慕う)我が意を理解してくれとる。それゆえやつの働きには感じ入るばかりじゃ」と。これが伝わり、時の人々は鄭鮮之のことを「格佞(=厳格さのゆえに寵愛を受けるもの)」と呼んだ。
 のち御史中丞から司徒左長史、太尉諮議参軍に転じ、また俄かに侍中に補任したが、再び太尉諮議参軍に戻った。義煕12年、高祖は北伐に際して、鮮之を軍の右長史とした。その途次、鮮之は曽祖父の墳墓が開封にあり、陣から300里のところまできたので、墓参の許可を願い出たところ、高祖は特別に騎兵を護衛につけて向かわせた。のちに宋が建国されると、奉常に転任した。
 仏仏虜(=夏王・赫連勃勃)が関中を陥落させると、高祖は再び北討を計画したが、鮮之は上表してお諌めした。いわく、「伏して思いみますに陛下のご経略は深遠でございますれば、愚臣の管見がごときは、まったく取るに足らないものではございますが、それでも小臣が短慮のうちにもいささか考えるところがございます。虜の兇悪なる有様はご覧の通りです。
 もとより関中で二度にわたって敗北を喫しましたのは、すべて軍を率いるものが規律に違い(各地で掠奪や放火などを行ったためであり)、(沈田子や王修らのような)内輪もめによるものでなければ、(傅弘之や朱齢石らのように)戦地にて手痛い負け戦を続けた結果でございます。虜(えびす)どもは殿下が神軍を御して親征されると耳にすれば、必ず討伐されると思って、兵を増して厳重に潼関を守るでしょうから、その防禦の勢は想像に難くありますまい。もし殿下の御陵威をもって長駆いたされましても、臣(わたくし)の見ますところ、まことことは容易ならざるものでございましょう。しかし御輿を洛陽に駐屯させる(=軍を洛陽まで進める)だけのことでありますならば、なにも御上(おかみ)の尊い御身を運ばれるには及びますまい。ことほどかように、軍の進退の決断については、十分に熟慮くださいますように。賊めらが勝ちに乗じて河南の陝を越えぬのは、はるか遠方に避けて殿の稜威を恐れておるからでございます。今日、用兵の算段を尽すにあたっては、万事いかに自重しまたいかに進撃するかにかかっております。軍を派遣して虜(えびす)を討伐すれば、南夏は安静を取り戻すでしょうが、賊めらは神軍がさらに進軍を続けるだろうと恐れおののき、長く甲羅に閉じこもってしまうでしょう(そうなれば成果なく、むしろ逆効果です)。もし御輿が虚しく洛陽を往復するだけで終わるようなことになれば、虜(えびす)どもはかえってあれこれと邪念を抱き、必ずや兵を挙げて国境を侵すことになるであろうことは、これまでの経過からも明らかです。江南の民は天を仰ぐかのように御輿の動静を窺っておるところ、今もし突如遠征のことを耳にし、しかも神軍が国境あたりを掃討するだけなのか敵地深くに攻め入るのかを知らされなければ、殿下が大いに霊威を振るって虜(えびす)どもを撃ち払うことに疑いなしとはいえ、還御あそばされるまでの間、民情は必ずや恐懼動揺し、不測のことが起ころうことは推して知るべきでございます。かつて西征されましたときには、群盗に虚を突かれて劉鍾は守り切ることができませんでした。またさきごろでは盗賊どもが広州に攻め入り、土地の人間はほぼ全滅してしまいました。三呉の地はわれらが心腹にも当たりますのに、諸県においてたびたび負け戦を演じますのは、すべて度重なる労役(えだち)によるところでございます。また聞くところによれば、各所で水害が発生しており、そのうえ遠征のための徴兵が加わって人民は疲弊するばかりとか。これではまともな戦ができぬのも、自然の理と申せましょう。殿下が彭城に駐屯されたおり、盗賊どもが諸県を荒らし回りましたのは、偶然の出来事ではございません。これらはみな路頭に迷って悪さをするものどもばかり。おおよそ民情に沿った形で慰撫してやれば、人民はおのずと安んずるもので、その願うところに逆らえば、人民は必ず乱をなすものでございます。古人がその煩わしさから民を救うたゆえんも、まさにそこにあるのです。漢の高祖も平城では危ない目に遇い、呂后も匈奴の辱めを受け、魏の武帝も赤壁にて敗れさり、桓温も枋頭にて潰走しましたけれども、殿の神武の功業は、いまだかつて一度として傷ついたことがございません。ましてや軍隊が規律を失い、十分に廟算を尽くさないようなことがあってよいものでしょうか。これを近頃の出来事に沿って考えてみますに、朱齢石らの敗死こそ、敗けであって敗けでない戦いとして記憶されるべきでございましょう。いまもし軽々に出陣すれば、その禍を再来する恐れがございます。熟慮を重ねた結果、愚見を申し上げますれば、こたびの些細な不始末につきましては、わざわざ殿下の親征を煩わすまでもございますまい。西虜(=赫連氏の大夏)がもし河水・洛水の一帯で禍をなすようであれば、いま便宜として北虜(=拓抜氏の北魏)を好みを結びましょう。そうすれば河南は守れます。河南が守れれば、済水・泗水地方も無事でしょう。なにとぞご聖慮をもちまして臣(わたくし)めの愚見をご推察くださいますように」と。
 高祖が践祚すると、太常・都官尚書に遷任した。鮮之の人となりは物事に通じていて率直であった。高祖の御前にあっても、思ったままを口にしたため、当時の人々から憚られた。その一方で恩情厚く篤実な人柄でもあり、親しい間柄のものには何くれとなく世話をした。気散じの外出を好み、車を用意させておきながら、ややもすれば行き先を言わずに、ただ御者の鞭打つままにどこへなりとゆられて行くようなことを楽しんだ。開国の元勲の中ではもっとも高祖に親しまれた。そのかみ主上が内殿で宴飲を催したときのこと、朝廷の権貴が一堂に会しながら、ただ鮮之だけをお召しにならなかった。一同それぞれ席に就くと、主上は群臣に向かって、「見ておれ、鄭鮮之めは(呼ばれもせぬのに)きっと自分からやってくるぞ」と語った。ほどなく取次ぎの役人が入ってきて、「尚書の鄭鮮之が神虎門に参上し、ご面謁を求めております」と申し上げた。高祖は笑壷に入って鮮之を参内させたが、その殊遇を被るありさまはすべてこのようであった。
 永初二年には地方官として丹陽郡の尹となるが、再び中央に戻って都官尚書となり、散騎常侍の官を加えられた。草創期の従軍の功績によって、龍陽県を賜り、五等子爵に封じられた。のちまた豫章郡の太守となり、秩禄は中二千石であった。元嘉三年に王弘が召し出されて宰相となると、鄭鮮之を推挙して尚書右僕射とした。翌四年に卒去、享年六十四。その功績を称えて散騎常侍・金紫光禄大夫の官位が贈られた。彼が書き著した文章は広く世に伝えられている。
 息子の愔も尚書郎・始興郡の太守を勤めた。
*  *  *
〈裴 松 之
 裴松之 字は世期、河東・聞喜の人なり〔注1〕。祖の昧は、光祿大夫。父の珪は、正員外郞〔注2〕
  • 注1 河東郡は当時南朝の領有にあらず。族祖の本貫の地。
  • 注2 裴昧・裴珪は蓋し東晋の官を受けたと考えられるが、その伝、晋書に見えず。
 松之 年八歲にして、學は『論語』『毛詩』に通ず。墳籍を博覽するも、身を立つること簡素。年二十、殿中將軍を拜す。此の官は左右に直衞す。晉の孝武の太元中に名家より革選して以て顧問に參せしとき、始て琅邪の王茂之・會稽の謝輶を用ふ〔注3〕。皆な南北の望なり。舅の庾楷 江陵に在り、松之の西上して、新野太守に除するを得んと欲するも、事の難きを以て行かず〔注4〕。員外散騎侍郞を拜す。義煕の初め、吳興・故鄣の令と爲り、縣に在りて績有り。入りて尙書祠部郞と爲る。
  • 注3 王茂之は王廙の子。晋書列伝46・王廙伝に、「子の茂之も亦た美誉有り、官は晋陵太守に至る」と見える。また宋書列伝12・褚叔度伝褚淡之附伝に、「淡之 自ら凌江将軍を仮り、以て山陰令・陸邵を司馬を領して、振武将軍を加へ、前の員外散騎常侍・王茂之を長史と為し、前の国子博士・孔欣、前の員外散騎常侍・謝芩之を並びに軍事に参じ、行参軍七十餘人を召す」と。同列伝26・王敬弘伝に、「王敬弘は、琅邪・臨沂の人なり。高祖と諱を同じうすれば、故に字を称す。曽祖の廙は、晋の驃騎将軍。祖の胡之は、司州刺史。父の茂之は、晋陵太守」と。
     謝輶は蓋し陽夏の謝氏の族人。晋書列伝44・桓彝伝桓沖附伝に、「時に薈は始て兄・劭の喪に遭はゞ、辞して将に出づるを欲せず。是に於て衛将軍・謝安 更めて中領軍・謝輶を以て之に代ふ。沖 之を聞きて怒り、上疏して以て輶が文武の堪へる無しと為し、自ら江州を領するを求むるに、帝 之を許す」と。同列伝70・孫恩伝に、「泰 天下の兵起れるを見、以て晋祚の将に終らんとすると為し、乃ち百姓を扇動して、私に徒衆を集むれば、三呉の士庶 多く之に従ふ。時に朝士 皆な泰が乱を為すを懼れ、其の元顕と交り厚きを以て、咸く敢て言ふもの莫し。会稽内史・謝輶 其の謀を発けば、道子 之を誅す」とある。また宋書列伝52・良吏伝・王鎮之伝に、「鎮之 初め琅邪王の衛軍行参軍と為り、出でゝ剡・上虞の令に補され、並に能名有り。内史・謝輶 請ひて山陰の令と為せば、復た殊績有り」と見える。
  • 注4 
 松之 世〻私碑を立つるに、事實に乖くこと有るを以て、上表して之を陳べて曰く、「碑銘の作、以て後昆に明示するば、殊功・異德に非らざる自りは、以て允に茲の典に應ずること無し。大なる者は、道勳 光遠にして、世〻宗推する所、其の次は節行 高妙にして、遺烈 紀(しる)す可し〔注5〕。若し乃ち亮采・登庸して、績用 顯著、敷化の莅(のぞ)む所、惠訓 融遠、述詠の寄る所、鐫勒に賴(よ)ること有らん〔注6〕。斯の族に非らずんば、則ち僭黷に幾(ちか)からん。俗敝(やぶ)れ僞興り、華煩なること已に久し。是を以て孔悝の銘のごとき、行ひは是なるも人は非なり〔注7〕。蔡邕の文を制するや、每に愧色有り。而して時(これ)より厥の後、其の流れ彌〻多く、臣吏を有するに預れば、必ず建立を爲すも、銘を勒して取信の實寡く、石に刋して虛僞の常を成す。眞僞 相蒙(みだ)れ、殆ど美に合する者をして貴からざらしめ、但だ其の功費をのみ論じても、又た稱(かな)ふ可らず。禁裁を加へずんば、其の敝 已むこと無けん。以爲へらく、諸〻の碑を立てんと欲する者、宜しく悉く言上せしめ、朝議の許す所と爲りて、然る後ち之を聽(ゆる)すべし。庶はくは以て無徵を防遏して、茂實を顯彰す可く、百世の下をして、其の虛ならざるを知らしむれば、則ち義は抑止に信ぜられ、道は來葉に孚あらん」と。是に由りて並に斷ず。
  • 注5 
  • 注6 「亮采登庸」は尚書・舜典に、「舜の曰く、『四岳に咨(と)ふ。能く庸を奮(おこ)し、帝の載(こと)を煕(ひろ)むる有らば、百揆に宅(を)り、采を亮(あきらか)にし疇を恵(したが)へしめん』と」とあり、偽孔伝に「庸は功、載は事なり」「亮は信、恵は順なり」と、また史記は「亮采」を「相事」に作る。「事」は則ち「政事」、「相事(=事を相(み)る)」とは則ち「執政(=政を執る)」に同じ。
  • 注7 「孔悝の銘」は礼記・祭統篇に見える。「衛の孔悝の鼎銘に曰く、『六月丁亥、公 大廟に假(いた)る。公の曰く、叔舅、乃祖・荘叔は成公に左右するに、成公 荘叔に命じて難に漢陽に随ひ、宮に宗周に即かしむ。奔走して射(いと)ふこと無し。献公に啓右するに、献公 乃ち成叔に命じて、乃祖の服(こと)を纂(つ)がしむ。乃考文叔は舊き嗜欲を興し、作ちて慶士に率ひ、躬ら衛国を恤へて、其れ公家に勤めたり。夙夜 解(おこた)らず、民 咸な曰へらくは休(よ)き哉と。公の曰く、叔舅、女(なんぢ)に銘を予(あた)ふ。若(なんぢ) 乃考の服を纂げと。悝 拝して稽首して曰く、対揚するに以て之を辟(ひら)き、大命を勤めて烝の彝・鼎に施さん』と。此れ衛の孔悝の鼎銘なり」と。鄭注に「孔悝とは衛の大夫なり。公とは衛の荘公・蒯聵なり。孔悝の己を立つるを徳とし、礼に依りて之を褒め、以て国人を静む。假は至るなり。大廟に至るとは、夏の孟夏を以て禘祭するを謂ふ」「公の曰く叔舅とは、公 策書を為(つく)り、孔悝を尊呼して之に命ずるなり。乃ち猶ほ『女(なんぢ)』のごときなり。荘叔は孔悝七世の祖、衛の大夫・孔達なり。難に随ふとは、成公 晋の文公の伐つ所と為り、楚に出奔せしとき、荘叔に命じて従はしむるを謂ふ。漢は楚の水(かは)なり。宮に宗周に即くとは、後ち国に反るを得るも、弟の叔武を殺すに坐せば、晋人 執(とら)へて之を京師に歸(おく)り、之を㴱室に寘くなり。射は厭ふなり。言ふこゝろは 荘叔 常に奔走して、労苦に至れども厭倦せざるなりと」「献公は衛侯衎、成公の曾孫なり。亦た国を失ふも反るを得。荘叔の功 後世に流れ、献公を啓右して国に反るを得しむるを言ふなり。成叔は荘叔の孫・成子蒸鉏なり。右は助くなり。纂は継ぐなり。服は事なり。献公 国に反り、成子に命ずるに、女(なんぢ)が祖の荘叔の事を継ぎ、其の忠の孔達の如きなるを欲するなり」「文叔とは、成叔の曾孫・文子圉、即ち孔悝の父なり。作は起(た)つなり。率は循ふなり。慶は善しなり。士の言は『事』なり。言うこゝろは 文叔 先祖の舊徳を興行し、起ちて其の善事に循ふと」「若・乃は猶ほ『女(なんぢ)』のごときなり。公 悝に命ずるに、女が先祖に予ふるに銘を以てし、以て之を尊顕せん。女 女が父の事を継ぎ、其の忠の文子の如くなるを欲するなりと。成公・献公・荘公、皆な国を失ふも反るを得。孔氏の世〻功有るを言ふは、之を寵すればなり」「対は遂ぐなり。辟は明にするなり。言ふこゝろは 君命を遂揚して、以て我が先祖の徳を明かにするなりと」「施は猶ほ著すがごときなり。言ふこゝろは 我れ将に君の命を行はんとすれば、又た烝祭の彝鼎・彝尊に刻著するなりと。『周礼』(秋官司寇篇・司約の条)に、『大約は剤して宗彝に書す』と」と、それぞれ見える。その経過は左伝・哀公15年伝に、「衛の孔圉は大子・蒯聵の姊を取りて悝を生む。孔氏の豎・渾良夫 長じて美たり。孔文子の卒するや、内に通ず。大子 戚に在り、孔姫 之を使はす。大子 之と言ひて曰く、『苟も我をして入りて国を獲しむれば、冕を服し軒に乗り、三たび死あるも與(あづか)る無けん』と。之と盟し、為に伯姫に請ふ。閏月、良夫 大子と入り、孔氏の外圃に舎る。昏に二人 衣を蒙りて乗る。寺人羅 御して孔氏に如く。孔氏の老・欒寧 之を問ふ。姻妾を称して以て告げ、遂に入る。伯姫氏に適き、既に食するや、孔伯姫 戈を杖きて先んじ、大子は五人と介し、豭を輿(にな)ひて之に従ふ。孔悝に廁に迫り、之に盟するを強ひ、遂に劫して以て臺に登らしむ。(中略)孔悝 荘公を立つ」とある。
 高祖の北伐するに、司州刺史を領するや、松之を以て州の主簿と爲し、治中從事史に轉ず。旣に洛陽に克つも、〔松之は州に居りて事を行ふ。宋國の初て建つや、毛德祖を洛陽に使す〕。高祖の之に勅して曰く、「裴松之は廊廟の才なれば、宜しく久しく邊務を尸(つかさど)るべからず。今 召して世子洗馬と爲し、殷景仁と同じうす。之を知らしむる可し」と。時に五廟の樂を立つるを議すに、松之は妃 臧氏の廟樂を以て、亦た宜しく四廟と同じうすべしとす。零陵の內史に除し、徴して國子博士と爲す。
 太祖の元嘉三年に、司徒・徐羨之等を誅すれば、大使を分遣して、天下を巡行せしむ。通直散騎常侍の袁渝・司徒左西掾の孔邈は揚州に使し、尙書三公郞の陸子眞・起部の甄法崇は荆州に使し、員外散騎常侍の范雍・司徒主簿の龐遵は南兗州に使し、前の尙書右丞の孔默は南北の二豫州に使し、撫軍參軍の王歆之は徐州に使し、冗從僕射の車宗は靑・兗州に使し、松之は湘州に使し、尙書殿中郞の阮長之は雍州に使し、前の竟陵太守の殷道鸞は益州に使し、員外散騎常侍の李耽之は廣州に使し、郞中の殷斌は梁州・南秦州に使し、前の員外散騎侍郞の阮園客は交州に使し、駙馬都尉・奉朝請の潘思先は寧州に使し、並に散騎常侍を兼ぬ。班れて詔書を宣べて曰く、「昔 王者は巡功し、羣后は述職するも、然らずんば則ち存省の禮、聘覜の規有り。民を觀て政を立て、事を命じて績を考へ、上下 偕な通じ、遐邇 咸く被る所以なれば、故に能く功は長世に昭かに、道は遠年を歷す。朕 寡闇を以て、洪業を屬承すれば、位に在りて夤畏し、治道に昧ければ、夕に惕れて惟れ憂ふること、淵谷に臨むが如し。國俗の陵頽し、民風の凋僞し、眚厲の和に違ひ、水旱の業を傷ふを懼る。躬は庶事に勤め、思ひは宜しき攸を弘くすると雖も、而して機務は惟れ殷にして、顧循に闕多く、政刑は謬に乘ずれば、未だ具に聞くを獲ず。豈に誠に素より孚ならずんば、羣心をして盡す莫からしめん。納隍の愧、予一人に在り。歲時 多難にして、王道の未だ壹ならざるを以て、卜征の禮、廢して未だ修らず、眷たる彼の氓庶は、恤する攸を忘るゝ無し。今 散騎常侍の渝等をして四方に申令し、郡邑を周行して、親しく刺史・二千石の官長を見、至誠を申述して、廣く治要を詢り、吏政を觀察して、民隱を訪求し、操行を旌舉して、疾する所を存問せしむ。禮俗・得失は、一に周典に依り、每に各〻書を爲し、還りて具に條奏し、朕をして昭然ならしめ、親覽するが若くせよ。大夫・君子は、其れ各〻心を悉して事に敬み、惰する無く乃ち力めよ。其れ遠圖を咨謀し、中誠を謹言すること有れば、之を使者に陳べ、隱遺或ること無かれ。方將(まさ)に良規を敬納し、以て其の闕を補はんとす。勉めや之に勗(つと)めよ。朕が意に稱(かな)へ」と。
 松之 使より反りて奏して曰く、「臣聞く 天道は下を以て光明を濟し、君德は道を廣むるを以て極と爲すと。古への先哲后は、心に因りて被を溥くす。是を以て文思 躬に在れば、則ち時雍 自から洽(あまね)く、禮は江・漢に行はれて、美化 斯れ遠し。故に能く大哉の休詠を垂れ、周に造るの盛則を廓(ひろ)くす。伏して惟ふに 陛下は神叡玄通にして、道契曠代、華堂に冕旒して、心を八表に垂る。敬敷の未だ純ならざるを咨り、明揚の靡暢を慮る。下民に淸問して、此の鰥寡を哀み、渙焉たる大號は、周(あまね)く爰に四達し、遠猷 雅誥に形はれ、惠訓 遐諏に播く。是の故に率土 仰詠し、譯を重ねて咸く說び、謳吟踊躍せざる莫く、式て皇風を銘す。或は老を扶け幼を携へ、路左に稱歡すること有り、誠に亭毒の旣に流るゝに由り、故に其の自ら至るを忘る。千載の一時、是に於てか在らん。臣 謬りて銓任を蒙り、顯列に厠ふるを忝くし、猥に以て之を短とすれば、八表を思純するも、以て聖旨を宣暢して、風化を肅明する無く、黜陟に序無く、寡聞を搜揚し、慚懼屛營して、措く所を知らず。二十四條を奉り、謹んで事に隨ひて牒を爲す。伏して癸卯の詔書を見るに、禮俗・得失は、一に周典に據り、每に各〻書を爲し、還りて具に條奏せよと。謹んで事に依りて書を爲し、以て之を後に繫せん」と。松之 甚だ奉使の義を得れば、論者 之を美とす。
 中書侍郞、司・冀二州大中正に轉ず。上 陳壽の『三國志』に注せしむれば、松之は傳記を鳩集して、異聞を增廣し、旣に成るや奏上す。上の之を善して曰く、「此れ不朽たるなり」と。出でゝ永嘉太守と爲り、百姓に勤恤すれば、吏民 之を便とす。入りて通直爲常侍に補し、復た二州大中正を領す。尋で出でゝ南琅邪太守と爲る。十四年に致仕し、中散大夫を拜し、尋で國子博士を領し、太中大夫に進むも、博士なること故(もと)の如し。何承天の國史を續けるも、未だ撰述に及ばず、二十八年に卒す。時に年八十。子の駰は、南中郞參軍。松之の著す所の文論及び『晉紀』、駰の注せる司馬遷の『史記』は、並に世に行はる。
*  *  *
◆ 通 釈 ◆
 裴松之は字を世期と言い、河東郡聞喜県の出身である。祖父の裴昧は光禄大夫、父の裴珪は正員外郎であった。
 松之は八歳にして論語・毛詩に通ずるほど学芸高く、あまねく旧記古典を読覧していたが、その身過ぎは簡素なものだった。二十歳のとき、殿中将軍を拝命する。この官職は常に帝のお側にあって護衛しまた宿直(とのい)するもので、晋の孝武帝の太元年間に名家の子弟より選抜し、顧問官として参与させたのだが、最初に任用された琅邪の王茂之や会稽の謝輶らは、いずれも南北の声望家であった。舅の庾楷が江陵にいたとき、松之を西に呼び出して新野太守に就けてやりたいと思ったが、容易にはことが運ばず、かわりに員外散騎侍郎を拝することになった。義煕年間の初めには呉興郡故鄣県の県令となったが、任地において抜群の治績を上げた。のち中央政界に入って尚書祠部郎となった。
 昔から特定の個人の没後、その故人の家や一族が私費を投じて「碑」を建てる習慣があったが、(故人の行状を顕彰するあまり)とかく実際の事績とかけ離れた銘文が書かれることも多く、松之はこのことについて上表して意見を述べた。
「碑を建て銘文を刻むことは、それによって後世子々孫々に偉業を明らかにし伝えるためのものでありますれば、殊勲・高徳のあった人物でないかぎり、そもそもこの栄典に該当するものではございません。そのうち最も偉大な人物は勲功広大にして世々推戴するところであり、それに次ぐものでも節操品行ともに高邁にしてその遺業は記し置くべき人物でなければなりません。もし政事を執りあるいは官途に就いて顕著な業績を挙げ、(野に在っても行い正しく世の規範として)教化に努めて悠遠なる訓導を施したのなら、その行状は書き記されもし歌にも詠まれ、当然碑に刻まれもしましょう。これらに類さぬ輩(が勝手気ままに粉飾して碑文に刻むようなこと)は、僭越・冒瀆でしかないのです。(しかし実際には)史実を尊ぶ気風が損なわれ、根拠のない虚偽が罷り通り、仰々しく飾り立てた碑文が世に現れてから幾年月。そもそも往昔より、孔悝の銘のごとく碑文に書かれた業績は立派でもその人物は褒められたものではない場合もあり、さすれば蔡邕もその著『銘論』において不徳者の建碑を戒めております。しかしながら今に至るまで、この流れはますます大きくなるばかり。仮初めにも官途に着いた者であれば必ず建碑を行う習いとなりましたが、その銘文はと言えば信頼できる話はわずかばかり、嘘で固めた碑文を石に刻むのが常となっておる始末です。真偽入り乱れ、本当に称賛するに値する人物がいたとしてもその栄光を陰らせることにもなり、また建碑にかかる出費だけを論じても(実際にはさして功績もない人物を顕彰する目的で造られるものですから)ほとんど割に合わないと申せます。禁令をお加えになりませんと、おそらくこの弊が止むことはございますまい。思いますに、今後、碑を建てたいと思うものは、必ず一律にお上へ願い出て、朝廷での審議を経て許可が下りた場合にかぎり、建碑を許すことにすべきです。こうすれば恐らく根拠のない「徳行」が世に喧伝されるのを防ぎ、事実行われた優れた業績を顕彰することができるはずです。さすれば百世の後までも、碑文の真実なることを知らしめることができ、その抑止の努力によって正義は信じられ、未来にわたって信頼ある道義が恢復されるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
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〈何 承 天〉
 何承天は、東海・郯の人なり。從祖の倫は、晉の右衞將軍。承天は五歲にして父を失ふ。母の徐氏は、廣の姉なれば、聰明博學、故に承天は幼にして訓義に漸(ひた)り、儒・史・百家、該覽せざる莫し。叔父の肹の益陽の令と爲るや、肹に隨ひて官に之く。
 隆安四年、南蠻校尉・桓偉 命じて參軍と爲す。時に殷仲堪・桓玄等 互に兵を舉げて以て朝廷に向へば、承天 禍難の未だ已まざるを懼れ、職を解きて益陽に還る。義旗の初め、長沙公・陶延寿 以て其の輔國府參軍と爲し、遣はして敬を高祖に通ぜしむるに、因りて瀏陽の令に除し、尋で職を去りて都に還る。撫軍將軍・劉毅の姑孰に鎭せしとき、版して行參軍と爲す。毅 嘗て出行せるとき、而して鄢陵縣の史・陳滿の鳥を射るに、箭 誤りて直帥に中る。人を傷けざると雖も、法に處すれば棄市なり。承天の議して曰く、「獄は情斷を貴び、疑はしきは則ち輕きに從ふ。昔 漢の文帝の乘輿の馬を驚せし者、張釋之 劾するに蹕を犯すを以てし、罪は罰金に止む。何となれば、其の心の馬を驚すに無きこと明かなればなり。故に乘輿の重きを以て、加ふるに異制を以てせず。今 滿の意は鳥を射るに在り、心の人に中るに有るに非らず。律を按ずるに 過誤して人を傷つくれば、三歲の刑と。況や傷つけざるをや。微罰なれば可なり」と。出でゝ宛陵の令に補す。趙惔の寧蠻校尉・尋陽太守と爲るや、請ひて司馬と爲す。尋で職を去る。
 高祖 以て太尉行參軍と爲す。高祖の劉毅を討つや、諸葛長民を留めて監軍と爲す。長民の密に異志を懷けば、劉穆之 人を屛けて承天に問ひて曰く、「公 今 濟否を行ふこと云何」と。承天の曰く、「西の時に判じざるを憂へざれ、別に一慮有るのみ。公 積年に左里より還りて石頭に入りしとき、甚だ脫爾たり。今 還るには、宜しく重複を加ふべし」と。穆之の曰く、「君に非らずんば此の言を聞かず。頃日願はくは 丹徒の劉郞、恐らく復た得可らざるなりと」と。太學の博士に除す。義煕十一年、世子征虜參軍と爲り、西中郞中軍參軍・錢唐の令に轉ず。高祖 壽陽に在り、宋の臺 建つや、召して尙書祠部郞と爲し、傅亮と共に朝儀を撰せしむ。永初の末に、南臺治書侍御史に補す。
 謝晦の江陵に鎭せしとき、請ひて南蠻長史と為す。時に尹嘉なる者有り、家貧しければ、母の熊 自ら身を以て錢を貼し、嘉が爲(ため)に責を償ふ。不孝に坐して死に當る。承天の議して曰く、「府の宣令を被りて、普く尹嘉の大辟事を議すに、法吏の葛滕の籤を稱するに、母の 子の不孝を吿げ、殺さんと欲すれば之を許すと。法に云ふ、謂(おも)へらく 敎令に違犯して、敬恭に虧く有り、父母の殺さんと欲すれば、皆な之を許すと。其の吿ぐる所 惟だ信を求むる所より取りて之を許すのみ。謹んで事を尋ね心を原ぬれば、嘉が母は辭して自ら質錢を求め、子が爲(ため)に責を還さんとす。嘉の敎義を虧犯すと雖も、而して熊に殺を請ふの辭無し。熊の之を生す所以を求むるに今 之を殺さば、求むる所に隨ふの謂に非らず。始め不孝を以て劾せらるゝに、終り和賣に於て刑を結び、兩端を倚旁して、母子 倶に罪すれば、滕籤の法文にも、其の條に非らざるを爲さん。嘉の存する所の者 大にして、理は申べ難きに在り、但だ明敎の爰に發するのみにして、其の愚蔽を矜(あはれ)む。夫れ明德の罰を愼むは、文王の下を恤む所以にして、獄を議して死を緩くするは、中孚の化を垂る所以。情を言はゞ則ち母の子が爲(ため)に隱み、敬を語れば則ち禮の及ばざる所。今 宥を乞ふの評を捨てゝ、殺を請ふの條に依り、敬恭の節を責めて、飢寒の隷に於てするは、誠に疑はしきを罰するには輕きに從るに非らず、寧ろ有罪を失ふの謂なり。愚に以謂へらく 嘉の死を降して、以て春澤の恩を普くし、熊の愆を赦して、以て子隱の宜しきを明かにせんことを。則ち蒲亭は陋なりと雖も、德を盛明に比す可く、豚魚は微物なるも、獨り今化に遺てず」と。事 未だ判じざるも、赦に値ひて並に免ぜらる。
 晦の號を衞將軍に進むれば、諮議參軍に轉じ、記室を領す。元嘉三年に、晦の將に討たれんとするや、其の弟 黃門郞の皭〔注1〕は密信して之を報ずれば、晦の承天に問ひて曰く、「若し果して爾れば、卿 我をして云何がせしむ」と。承天の曰く、「王者の重きを以て、天下を舉げて以て一州を攻む。大小 旣に殊り、逆順も又た異れば、境外に全うするを求むるは、上計なり。其の次は腹心を以て兵戍を義陽に領せしめ、將軍は衆を夏口に率へて一戰すれば、若し敗るゝも、卽ち義陽に趨りて以て北境より出づべし。其れ次なり」と。晦 良〻久しうして曰く、「荆楚は用武の國、兵力に餘有り、且つ當に決戰するも、未だ晚からざるべからざるなり」と。承天をして表檄を造立せしむ。晦 湘州刺史の張邵は必ず己に同じざると以(おも)ひ、千人を遣して之を襲はんと欲するも、承天は以て邵が意趨の未だ知る可らずんば、宜しく便ち討つべからずと爲す。時に邵が兄の茂度は益州たり、晦と素より善ければ、故に晦は止めて兵を遣らず。前の益州刺史の蕭摹之・前の巴西太守の劉道產は職を去りて江陵に還るに、晦は將に之を殺さんとするも、承天 力を盡して救を營めば、皆な全免するを得。晦の旣に下るも、承天は府に留りて從はず。到彥之の馬頭に至るに及び、承天の自ら詣りて罪に歸すれば、彥之は其の誠有るを以て、之を宥し、南蠻府の事を行はしむ。
  • 注1 「皭」字は原文日偏。康煕字典に「疾爵の切、音は嚼。人名。宋に謝□有り」と。また正字通を引いて、「俗の皭字」とある。兄が「晦」なのだから、弟も日偏の字体でなければ平仄が合わないが、今Web表記の都合上、仮に「皭」字を当てておく。
 七年、彥之の北伐するや、請ひて右軍錄事と爲す。彥之の敗退するに及び、承天は才の軍旅に非らざるを以て、刑責を免るを得。以て尙書殿中郞に補し、左丞を兼ぬ。吳興・餘杭の民 薄道舉 劫を爲す。制として同籍の朞親 兵に補す。道舉の從弟の代公・道生等は並に大功の親たれば、應に補讁の例に在るべきに非らず、法は代公等の母の存するを以て朞親と爲せば、則ち子は宜しく母に隨ひて兵に補すべしとす。承天の議して曰く、「劫の制を尋ぬれば、同籍の朞親は兵に補ふも、大功は此の例に在らずと。婦人の三從、旣に嫁すれば夫に從ひ、夫死すれば子に從ふと。今 道舉の劫を爲し、若し其の叔の尙ほ存すれば、制として應に補讁すべく、妻子の居を營むこと、固より其れ宜しきなり。但だ劫を爲せるの時に、叔父 已に沒し、代公・道生は並に是れ從弟なるも、大功の親なれば、補讁に合はず。今 若し叔母を以て朞親と爲し、代公をして母に隨ひて兵に補せしむれば、旣に大功不讁の制に違ひ、又た婦人三從の道を失す。主に由れる者は朞親の文を守りて、男女の異を辨ぜず、嫌を遠ざけ負くを畏るゝも、以て此の疑を生ずれば、聖朝恤刑の旨に非らざるを懼る。謂(おも)へらく 代公等の母子 並に宜しく原さるべし」と。故(もと)の司徒・孔邈は奏事 未だ御せざるとき、邈 已に喪殯となれば、議者 宜しく仍りて邈が名を用ふるべからずんば、更めて見官を以て之を奏すべしとす。承天の又た議して曰く、「旣に沒せるの名の奏に合はざるは、它義有るに非らず、正に不祥を近づくるを嫌ふのみ。奏事 一たび郤けられしこと、動(やゝ)もすれば、歲時を經(ふ)る。盛明の世には、事は簡易に從るべくんば、曲嫌・細忌は、皆な應に蕩除すべし」と。
 承天 性と爲り剛愎、意を朝右に屈する能はず、頗る長とする所を以て同列を侮り、僕射・殷景仁の平ぐ所と爲らずんば、出でゝ衡陽内史と爲る。昔 西に在りしとき士人と協はざること多く、郡に在りても又た公淸ならず、州司の糾す所と爲り、收せられて獄に繫れ、赦免に値ふ。十六年、著作佐郞に除し、『國史』を撰す。承天 年已に老ゆれども、諸〻の佐郞は並に名家の年少なれば、潁川の荀伯子 之を謿り、常に呼びて嬭母と爲す。承天の曰く、「卿 當に鳳凰の九子を將ゐると云ふべくんば、嬭母は何をか言はんや」と。尋で太子率更令に轉ずるも、著作なること故の如し。
 時に丹陽の丁況等 喪を久しくして葬らず。承天の議して曰く、「禮に云ふ所の還葬は、當に荒儉の一時を謂ふべし。故に其の財に稱(かな)ひて備ふを求めざるを許す。丁況ら三家は、數十年中、葬るに輒ち棺櫬無く、實に淺情・薄恩に由れば、禽獸に同じき者なるのみ。竊に以爲(おも)へらく 丁寶等の同伍は年を積むも、未だ嘗て之を勸むるに義を以てし、之を繩するに法を以てせず。十六年冬、旣に新料無く、又た未だ舊制を申明せずんば、何の嚴切か有りて、欻然として相糾さん。或は鄰曲の分爭に由りて、以て此の言を興す。如きて在東の諸處に聞けば、此の例 旣に多く、江西・淮北は尤も少からずと爲す。若し但だ此の三人を讁するのみなれば、殆ど整肅無けん。其の一端を聞けば、則ち互に相恐動するも、里伍・縣司は、競ひて姦利を爲さん。財賂 旣に逞(つく)し、獄訟 必ず繫すれば、聖明・烹鮮の美を虧くを懼る。臣 愚に謂へらく 況等の三家は、且に問ふこと勿る可く、此に因りて制旨を附定し、若し民人の葬の 法の如くならざれば、同伍 當に卽ち糾言すべく、三年にして除服の後は、追ひて相吿列するを得ざらしむれば、事に於て宜しきと爲さん」と。
  • 還葬は、礼記・檀弓上篇に、「子游 喪具を問ふ。夫子の曰く、『家の有亡に称ふ』と。子游の曰く、『有無 悪(いづく)にか斉しくせん』と。夫子の曰く、『有るも礼に過ぐる毋れ。苟も亡ければ、首足の形を斂して、還(すなは)ち葬る。棺を県けて封す。人 豈に之を非とする者あらんや』と」とあり、鄭注に「還の言は、便なり。言ふこゝろは 已に斂すれば即ち葬り、三月を待たず」と見える。また同・檀弓下篇には、「子路の曰く、『傷しきかな貧や、生くるも以て養を為すこと無く、死するも以て礼を為すこと無きなり』と。孔子の曰く、『菽を啜り水を飲みても其の歓を尽す。斯れを之れ孝と謂ふ。手足の形を斂め、還(と)く葬りて椁無けれど、其の財に称ふ。斯れを之れ礼と謂ふ』と」とあり、鄭注に「還は、猶ほ疾のごときなり。其の日月に及ばざるを謂ふ」と見える。
 十九年、國子學を立つるに、本官を以て國子博士を領せしむ。皇太子の『孝經』を講せしとき、承天は中庶子の顏延之と同じく執經と爲る。之より頃して、御史中丞に遷る。時に索虜 邊を侵せば、太祖は羣臣に威戎・御遠の略を訪(と)ふに、承天の上表して曰く、
 伏して北藩の上事を見るに、虜 靑・兗を犯せば、天慈 降鑑して、此の黎元を矜み、博く羣策に逮びて、戎政を經綸す。臣 愚陋を以て、訪及に預聞す。竊に獫狁の吿難を尋ぬれば、爰に上古よりし、有周の盛にも、南仲 車を出だし、漢氏の方に隆んなるにも、衞・霍 力を宣ぶ。馬を瀚海に飮(みづか)ひ、旍を祁連に揚ぐると雖も、事難く役繫れば、天下 騷動し、委を負海に輸(いた)して、貲を舟車に及ぶ。凶狡 倔强にして、未だ肯て弱を受けずんば、得失・報復は、裁に相補せず。宣帝の末年に、其の乖乱に値ひ、亡を推し存を固くして、始めて稽服を獲。晉の中原を喪ひて自り、戎狄の侵擾すること、百餘年間、未だ北虜を以て念と爲す暇あらず、大宋 祚を啓き、兩(ふたゝ)び靈武を燿(かゞやか)して、德を懷ひ威を畏(つゝ)み、用た自ら款納す。陛下の臨御して以來、羈縻して養に遵ひ、十餘年中、貢譯 絕えず。去歲 三王の鎭を出でしとき、思ひは遠圖を振はんとするも、獸心 駭き易く、遂に猜懼を生じて、信約に背違すれば、深く攜𨻶を搆ふ。禍を貪り毒を恣にし、因りて自ら反る無く、烽燧の警を恐るゝこと、必ず此れより始る。臣 素より庸懦にして、才は武を經(をさ)めざるも、其の管窺を率ゐて、謹んで『安邊論』を撰す。意は淺末に及べば、採る可き無きを懼る。若し之を朝列に詢るを得れば、同異を辨覈せん。庶はくは或は羣慮を開引して、衆謀を硏盡せんことを。短長 畢く陳ぶれば、當否 見る可し。其の論に曰く、
 漢世に匈奴に備ふるの策を言ふこと、二科に過ぎず。武夫は征伐の謀を盡し、儒生は和親の約を講じ、其の言ふ所を課(はか)れば、互に遠志有り。塞漠の外を加ふるは、胡敵の掣肘すれば、必ず未だ鋒を摧くこと日を引き、自から開張するを規る能はず。當に往年 冀土の民の、附化する者衆きに由るべく、二州 境を臨みて、三王 藩を出で、經略 旣に張りて、宏圖 將に舉げんとすれば、士女は延望して、華・夷は義を慕ふ。故に小利に昧くして、且つ自ら矜侈なれば、外は餘力を示すも、內は僞衆を堅くす。今 若し存に務め養に遵ひ、其の自から新にするを許せば、未だ羈を北闕に致す可らざるも、猶ほ邊境を鎭靜するに足らん。然らば和親・事重は、當に廟算を盡すものにして、誠に愚短なるに非らざること、能く言を究むる所なるべし。衞・霍が瀚海の志を追蹤するが若きは、時事 等しからず、功を致すも亦た殊れり。寇は戰に習れること久しきに來たり、又た燕・趙に全據して、秦・魏に跨帶すると雖も、山河の險は、終古より一なるが如し。大に淮・泗に田して、內に靑・徐を實すに非らざる自りは、民をして贏儲有り、野に積穀有らしめ、然る後ち分けて方・召に命じて、虎旅・精卒十萬を總率せしめ、一舉にして夷を盪すれば、則ち稍(わづか)に王師を勤して、以て天下を勞するに足らず。何をか以て之を言ふ。今 遺黎は亂に習れて、志は偸安に在れば、皆な左衽を爲すを恥ぢて、遠く冠冕を慕ふに非らず、徒だ殘害剝辱を以て、視息 寄る無くんば、故に襁負して歸國すること、前後 相尋ぐ。虜 旣に勝ちを校へ理に循ひ、城を攻め地を略する能はざれども、輕兵の掩襲して、急にして驅殘に在るは、是れ其れ怨みを速き禍を召(まね)く所以にして、滅亡の日なり。今 若し軍を遣はして追討し、其の侵暴にして大に幽・冀を翦し、城を屠り邑を破るに報いんとすれば、則ち聖朝の黎元を愛育すること、方に之を濟すに道を以てす。若し但だ其の歸附を撫して、罪を伐ち民を弔(あはれ)まんと欲すれば、則ち駿馬 奔走するも、肯て來征せず、徒だ巨費を興すのみにして、彼に損ふ無けん。復た奇兵 深く入り、敵を殺し軍を破るも、苟も陵患 未だ盡きざれば、則ち困獸 鬭ひを思ひ、報復の役、將に遂に已むこと無からんとす。斯れ秦・漢の末策、輪臺の悔いる所なり。
 邊を安んじて固く守るは、計に於て長と爲す。臣 安邊の計を以(おも)ふに、備へ 史策に在り。李牧は其の端を言ひ、嚴尤は其の要を申ぶれば、大略 舉がれり。曹・孫の霸、才均(ひとし)く智敵(かな)へば、江・淮の間、各〻數百里に居せず。魏は合肥を捨て、退きて新城を保ち、吳は江陵に城して、民を南涘に移す。濡須の戍、家〻羨溪に停る。襄陽の屯に及びては、民・夷 散雜す。晉の宣王は宜しく沔南より徙して、以て水北を實すべしと以爲(おも)ふも、曹爽の許さゞれば、果して柤中を亡ふ。此れ皆な前代の殷鑒なり。何となれば、斥候の郊は、畜牧の所に非らず、轉戰の地は、耕桑の邑に非らざればなり。故に壁を堅くし野を淸くして、以て其の來たれるを俟ち、甲を整へ兵を繕(とゝの)へ、以て其の敝に乘ず。時に古今に有り、勢に强弱有りと雖も、民を保ち境を全うするは、此の塗を出でず。要するに之を歸するに四有り。一に曰く遠きを移し近きに就く。二に曰く城隍を復浚す。三に曰く車牛を纂偶す。四に曰く丁を計り仗を課す。良守は其の土田を疆し、驍帥は其の風略を振ふ。蒐獵は其の號令を宣べ、俎豆は其の廉恥を訓ふ。爵を縣けて以て之を縻ぎ、禁を設けて以て之を威す。徭役に程有り、寬猛 相濟す。比(ころほ)ひ十載に及び、民 義方を知る。然る後ち將を簡び奇を授けて、旌を雲・朔に揚げ、河・冀を風卷して、嵩・恆を電掃すれば、燕弧 折卻して、代馬 足を摧き、秦首は其の右臂を斬り、吳蹄は其の左肩を絕ち、功を燕然の阿に銘して、徒を金微の曲に饗さん。
 寇 亂亡にして徵有り、昧弱にして取り易きと雖も、若し天の時 人の事の、或は未だ符を盡さずんば、抳を抑へ機を俟ちて、宜しく其の算を審かにすべし。若し邊戍 未だ增さず、星居 野に布き、勤惰 敎へを異にして、貧富 資を殊にすれば、疆埸の民、多く彼此を懷ひ、虜に去就在れば、本業に根ざゝず。驅率す可きこと難く、振蕩在ること易し。又た狡虜の性、肉を食らひ皮を衣、馳騁を以て儀容と爲し、游獵を以て南畝と爲し、車輿の安き、宮室の衞り有るに非らず。風に櫛(くしけづ)り雨に沐(ゆあみ)して、以て勞と爲さず、露宿・草寢して、其の常性を維(つな)ぐ。勝てば則ち利を競ひ、敗るれば則ち走るを羞ぢず。彼 來たるには或は驟れども、此れ已に奔疲す。且つ今春 濟を踰え、旣に其の利を獲、勝に乘じて忸[忄+犬]なるも、未だ天誅を虞れざるに、比 秋末に及べば、容に更めて死を送るべし。猋騎 蟻聚して、輕兵 烏集し、並に禾稼を踐みて、閭井を焚爇すれば、邊將に略多しと雖も、未だ何をか以て之を禦ぐを審かにせざらん。若し師を盛んにして連に屯すれば、農を廢すること必ず衆く、車を馳せて馹を奔らせば、役を起すこと必ず遲く、金を散じて賞を行はゞ、費を損ふこと必ず大く、土を換へて戍に客すれば、怨曠 必ず繁し。孰か若し民の居る所に因りて、並に農戰を修め、衆を動すの勞無くして、扞衞の實有らしめ、其の利害を爲して、優劣 相縣けんや。
 一に曰く 遠きを移し近きに就き、以て內地を實すと。今 靑・兗の舊民、冀州の新附の、界首に在る者 三萬家は、此れ寇の資なり。今 悉く內徙す可く、靑州の民は東萊・平昌・北海の諸郡に移し、兗州・冀州は泰山以南に移し、南して下邳に至らしむ。沭を左にし沂を右にして、田は良く野は沃か、西は蘭陵を阻(へだ)てゝ、北は大峴に扼し、四塞の內、其れ險固を號す。民の性は遷るを重しとして、圖始に闇く、虜無きの時には、生を喜び怨みを咨く。今 新たに鈔掠を被りて、餘も未だ息まざるを懼るゝに、若し安危を曉示して、居るに樂土を以てすれば、宜しく其れ歌抃 路に就きて、遷るを視ること歸るが如くならん。
 二に曰く 城隍を復浚して、以て阻防を增すと。舊く秋冬に收斂して、民人の保に入るは、暴客に警備して、防衞をして素有らしむる所以なり。古への城池は、處處に皆な有り。今 頽毀すと雖も、猶ほ修治す可し。粗〻戸數を計へて、其の容る所を量り、新に徙れるの家は、悉く城內に著け、其の經用を假りて、之を閭伍と爲し、稼を納れ場を築き、還た一處に在らしむ。婦子は家を守りて、長吏は師と爲り、丁夫・匹婦は、春夏に佃牧して、秋冬に保に入る。寇の至れるの時、一城に千室あれば、戰に堪ふるの士は、二千を下らず。其の餘の羸弱も、猶ほ能く陴に登りて鼓譟せん。十ならば則ち之を圍むは、兵家の舊說。戰士二千あらば、羣虜三萬に抗ふに足れり。
 三に曰く 車牛を纂偶し、以て戎械を飾(とゝの)ふと。千家の資を計ふるに、五百の耦牛を下らず、車伍伯兩たり。鉤連を參合して、以て其の衆を衞る。設使(もし)城 固かる可らざるも、平行して險に趨れば、賊も干す能はざる所なり。旣已に族居して、撿括す可きこと易く、號令 先づ明かなれば、民 夙に戒むるを知らん。急の徵發有るも、信宿 聚む可し。
 四に曰く 丁を計へて仗を課し、闕くこと有らしむる勿れと。千家の邑は、戰士 二千、其の便能に隨ひて、各自 仗有り、素(つね)に服習する所にして、銘刻 己に由り、保に遷りては之を庫に輸(いた)し、出行するには請ひて以て自ら衞る。弓簳利鐵は、民 辦得せずんば、官 以て之を漸充す。數年の內、軍用 粗〻(ほゞ)備はれり。
 臣 聞く 軍國の異容は、封疆の內に施し、兵農の並に修むるは、疆埸の表に在りと。攻守の宜きは、皆な其の習ひに因りて、其の怯勇に任ず。山陵・川陸の形、寒暑・溫凉の氣は、各〻本性に由るに、易ふれば則ち害 生ず。是の故に申を戍りて刺を作し、怨みを起ちて瓜に及ぶ。今 若し荆・吳の抳師を以て遠く淸・濟に屯すれば、功費 旣に重く、嗟怨も亦た深し。以て臣 之を料れば、彼の衆の易きを卽用するに若かざるなりと。管子は齊を治むるや、令を寄して民に在り、商君は秦を爲むるや、設くるに耕戰を以てす。終に威を申べ霸を定めて、其の志業を行ふは、苟も强に任ずるに非らずして、實に數有るに由れり。梁は走卒を用ひて、其の邦 自から滅び、齊は技擊を用ひて、厥の衆 亦た離る。漢・魏以來、茲の制 漸く絕ゆ。蒐田は先王の禮を復するに非らず、治兵は徒だ耳目の欲を逞しうするのみ。急有るの日に、民 戰を知らずんば、乃ち廣く賞募を延きて、奉ずるに厚秩を以てするに至り、遽を發し救に奔れば、天下 騷然ならん。方伯・刺史は、手を拱き坐聽して、自から經略無く、唯だ朝廷の軍を遣すを望むのみ。此れ皆な忘戰の害にして、不敎の失なり。
 今 民を移し內を實たして、城隍を浚治し、族居・聚處には、其の騎射を課し、長吏は簡試して、能不を差品し、甲科・上第は、漸(すゝ)めて優別に就け、其の勳才を明かにして、表して州郡に言ふ。此の如くんば則ち屯部に常有りて、其の業を遷さず、內に老弱を護りて、外は宦途に通じ、朋曹 素より定まり、憂ひを同じうして樂みを等しうし、情は習親に由りて、蓺は事著に因り、晝戰は貌を見て相識るに足り、夜戰は聲を聞きて相救ふに足る。斯れ敎戰の一隅、先哲の遺術なり。論者 必ず古城の荒毀せるを以て、修復す可きこと難しとす。今 頓便に功を加へて、整麗なること舊の如くせよと謂ふにあらず、但だ先に民居を定めて、其の閭術を營まんと欲するのみにして、墉壑の存する者は、因りて之に卽し、其の毀缺有るは、權時 栅斷す。以て彼の輕兵を禦ぎ、游騎を防遏するに足れば、假に方將を以てし、漸く完立に就くべし。車牛の賦、課仗の宜きは、攻守の資する所。軍國の要は、今 民の利する所に因り、導きて之に率はしむ。耕農の器は、府庫の寶と爲り、田蠶の氓は、捍城の用を兼ぬ。千家は倍旅の兵を總じ、萬戸は全軍の衆を具ふ。兵强くして敵戒めず、國富みて民勞せずんば、隊伍を優復して、廩糧を坐食する者に比して、同年にして校(くら)ぶ可らざるなり。
 
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