後 漢 書 卷七十九上
儒林列伝第六十九上
劉宋の范曄等の撰 
唐の李賢等の注  
【本 文】 【李 注】
 昔 王莽・更始の際、天下 散亂し、禮樂 分崩し、典文 殘落す。光武の中興するに及び、經術を愛好し、未だ車を下りるに及ばずして、先づ儒雅を訪(おと)なひ、闕文を採求し、漏逸を補綴す〔原注1〕。是に先んじて四方の學士 多く圖書を懷協して、林藪に遁逃す。是より墳策を抱負して、京師に雲會せざる莫く、范升・陳元・鄭興・杜林・衞宏・劉昆・桓榮の徒は、踵(きびす)を繼ぎて集ふ。是に於て五經博士を立て、各〻法を以て敎授するに、易に施・孟・梁丘・京氏有り。尙書に歐陽・大小夏侯。詩に齊・魯・韓。禮に大小戴。春秋に嚴・顏。凡そ十四の博士、太常 差次して總領す。
  • 1 『礼記』に曰く、「武王 殷に克ちて商に反るに、未だ車を下るに及ばずして、黄帝の後を薊に封ず」と(楽記)
 建武五年に、乃(すなは)ち太學を修起して、古典を稽式し、籩豆・干戚の容は、之を列に備へ〔原注2〕、方領を服し矩步を習ふ者は、其の中に委它す〔原注3〕。中元元年に、初て三雍を建つ。明帝 卽位するや、親しく其の禮を行ふ。天子始て通天を冠して〔原注4〕、日月を衣(き)〔原注5〕、法物の駕を備へて〔原注6〕、淸道の儀を盛り〔原注7〕、明堂に坐して羣后に朝し、靈台に登りて以て雲物を望み〔原注8〕、辟雍の上に袒割し、三老五更を尊養す。饗射の禮の畢(をは)るや、帝は坐を正しくして自ら講じ、諸儒は經を執りて難を前に問へば、冠帶縉紳の人、橋門を圜(め)ぐりて觀聽せる者 蓋(けだ)し億萬もて計(かぞ)〔原注9〕。其の後(の)ち復(ま)た功臣の子孫・四姓末屬が爲(ため)に別に校舍を立て、高能を搜選して以て其の業を受けしめ、期門・羽林の士を自(もつ)て、悉く孝經の章句に通ぜしめ、匈奴も亦た子を遣(つか)はして入學す。濟濟なるかな、洋洋なるかな、永平に於て盛んとなる。
  • 2 籩豆は、礼器なり(礼運)。竹を之れ籩と謂ひ、木を之れ豆と謂ふ。干は、盾なり。戚は、鉞なり。舞者の執る所。
  • 3 方領は、直領なり。委它は、行く貌なり。委の音は於危の反。它の音は以支の反。
  • 4 徐広の『輿服雑注』に曰く、「天子の朝するに、通天冠を冠す。高さ九寸、黒の介幘、金の薄山、常服する所なり」と。
  • 5 『続漢志』に「乗輿に文の日月星辰なるを備ふるなり」と。
  • 6 胡広の『漢制度』に曰く、「天子の出づるに、大駕・法駕・小駕有り。大駕は則ち公卿 奉引し、大将軍 驂乗し、太僕 御し、属車八十一乗、千乗万騎を備ふ。法駕は、公には鹵簿に在らず、唯だ河南尹・執金吾・洛陽令のみ奉引し、侍中 驂乗し、奉車郎 御し、属車三十六乗。小乗は、太僕 奉駕し、侍御史 車騎を整ふ」と曰ふなり。
  • 7 『漢官儀』に「清道は旄頭を以て前駆と為る」と曰ふなり。
  • 8 雲物、解は「明紀」に見ゆ。
  • 9 『漢官儀』に曰く、「辟雍の四門外に水有り、以て観者を節す」と。門外に皆な橋有り、観者は水の外なり。故に橋門を圜ると云ふなり。圜は、遶なり。
 建初中に、大に諸儒を白虎觀に會して、同異を考詳し、月を連(つら)ねて乃ち罷(や)む。肅宗 親しく臨みて制を稱して、石渠の故事の如くし〔原注10〕、史臣に顧命すれば、著して通義を爲す〔原注11〕。又た高才の生に詔して古文尙書・毛詩・穀梁・左氏春秋を受けしめ、學官に立てずと雖(いへど)も、然(しか)れども皆な高弟を擢(ぬ)きて講郞と爲し、近署に給事するは、遺逸を網羅して、博(ひろ)く衆家を存せしむる所以(ゆゑん)なり。孝和も亦た數〻(しばしば)東觀に幸(ゆ)き、書林を覽閲す。鄧后の制を稱するに及び、學者 頗(すこぶ)る懈(おこた)る。時に樊準・徐防 並びに亦た學を敦(あつ)くするの宜(よろし)きを陳(の)べ、又た儒職を言ひて多く其の人を非とす。是に於て公卿に制詔して其の選を妙簡すれば、三署の郞の能く經術に通ずる者は、皆な察舉するを得る。安帝の政を覽(み)て自り、蓺文に薄く、博士は席に倚よりて講せず〔原注12〕、朋徒は怠散を相視る。學舍は穨敝して、鞠して園蔬と爲り〔原注13〕、牧兒・蕘豎は、其の下に薪刈せんとして至る。順帝 翟酺の言に感じ、乃ち更(あらた)めて黌宇を脩(をさ)むるに〔原注14〕、凡そ造構する所 二百四十房、千八百五十室なり。明經の下第を試みて弟子に補し、甲乙の科員 各〻十人を增し、郡國の耆儒を除して皆な郞・舍人に補す。本初元年に、梁太后の詔して曰く、「大將軍の下 六百石に至るまで、悉く子を遣はして學に就かしめ、歲每に輒(すなは)ち鄕射に於てし 月に一たび饗して之に會すべく、此れを以て常と爲せ」と〔原注15〕。是より遊學 增〻(ますます)盛んとなり、三萬餘生に至る。然れども章句 漸く疏たり、而(しか)して多く浮華を以て相尙(たうと)べるは、儒者の風 蓋し衰へしならん。黨人の旣に誅されるや、其の高名の善士 多く流廢に坐すも、後ち遂に忿爭するに至り、更に相言吿す。亦た私に金貨を行ひ、蘭臺の桼書の經字を定め、以て其の私文に合すもの有り。熹平四年に、靈帝は乃ち諸儒に詔して五經を正定し、石碑に刊するに、古文・篆・隸三體の書法を爲して以て相參檢し、之を學門に樹(た)てゝ〔原注16〕、天下をして咸く焉(これ)に取則せしむ。
  • 10 石渠は「章紀」に見ゆ。
  • 11 即ち『白虎通義』、是れなり。
  • 12 『礼記』に曰く、「凡そ大司成に坐する者は、遠近 三席を間いる」と(文王世子)。又た曰く、「若し飲食の客に非らざれば、則ち席を布くに、席間 丈を函いる」と(曲礼 上)。注に云ふ、「講問の客を謂ふなり」と。
  • 13 『詩』小雅に曰く、「鞠きはまりて茂草と為る」と(小弁)。注に云ふ、「鞠は、窮なり」と。
  • 14 『説文』に曰く、「黌は、学なり」と。黌は横と同じ。
  • 15 『漢官儀』に曰く、「春三月、秋九月、郷射礼を習ふ。礼生は皆な太学の学生を使ふ」と。
  • 16 古文は孔子の壁中の書を謂ふ。篆書は、秦始皇の程 をして作らしむる所なり。隷書も亦た程 の献ずる所なり。徒隷を主とすれば、簡易に従るなり。『謝承書』に曰く、「碑を太学門外に立て、瓦屋もて之を覆ひ、四面に欄障し、門を南に開く。河南郡 吏卒を設けて之を視しむ」と。楊龍驤『洛陽記』に載する朱超の石を兄に与ふる書に云ふ、「石経の文は都て碑の似し。高さ一丈許り、広さ四尺、駢羅として相接す」と。
 初め、光武の洛陽に遷還せるとき、其の経牒・秘書の之を載せること二千余輌、此より以後、前に三倍す。董卓の都を移せるの際に及び、吏民 擾乱し、辟雍・東観・蘭台・石室・宣明・鴻都が諸蔵の典策文章、競(きそ)ひて共に剖散し、其の縑帛の図書、大なるは則ち連なりて帷蓋と為り、小なるは乃ち制して縢嚢と為る〔原注17〕。王允の所収して西するに及ぶ者は、七十余乗に裁(へ)るも、道路 艱遠なれば、復た其の半ばを弃(す)てり。後ち長安の乱るゝや、一時に焚蕩し、泯尽せざる莫けん。
  • 17 滕も亦た幐なり、音は徒恒の反。『説文』の曰く、「幐、嚢なり」と。
 東京の学者は猥(みだり)に衆(おほ)く、以て詳載すること難ければ、今 但だ其の能く経に通ずる名家の者を録して、以て儒林篇と為す。其の自(おのづ)から列伝有る者は、則ち兼ねて書かず。師資の承くる所の若く〔原注18〕、宜しく名を標(かゝ)げて証と為すべき者は、乃ち之を著すと云ふ。
  • 18 『老子』に曰く、「善人は、不善人の師なり。不善人は、善人の資なり」と(第27章)。故に因りて師資と曰ふ。
◆現代語訳◆
 むかし王莽や更始帝のころには天下が混乱していたので、礼楽は分壊し経籍も残欠してしまった。その後、光武帝が中興を果たすと、若い頃から経術を愛好されていたので、戎車から下りる間もなく、そのまま真っ先に儒者の許を訪れて(敬意を払い)、戦乱で欠けてしまった書籍を求めて採録し、欠漏した書籍を補修して綴じ直した。光武帝が立つ以前、四方の学者たちは図書を懐や脇に押しこんで山林に身を隠していたが、中興よりのちには経籍を抱えて京師に雲集しないものとてなく、范升・陳元・鄭興・杜林・衛宏・劉昆・桓栄などといった人々が、踵と踵が相接するように(次々と)都に集まってきた。こうして五経博士を立て、おのおの家伝の学問を教授することとなったが、易家には施・孟・梁丘・京 各氏の学派が、尚書家には欧陽・大夏侯・小夏侯 各氏の学派が、詩家には斉詩・魯詩・韓詩の学派が、礼家には大戴・小戴 両氏の学派が、春秋家には厳・顔 両氏の学派があり、これら十四博士を太常が等差をつけて管轄していた。
 建武五年に太学を建て直して古典を学究し、礼器や舞楽を正しく備え、儒服を身につけ礼儀正しい歩き方(をはじめ立居振舞)を習おうと志すほどのものは、みなそこに身を置いた。中元元年にははじめて三雍を建てた。明帝が即位すると自ら辟雍の儀礼を執り行われた。これより天子ははじめて通天冠を戴き、太陽と月の紋様のある着物を召し、行幸のための大駕の礼法を整備し、先払い(蹕路)の儀を設け、明堂に坐(ま)して諸侯に謁見し、霊台に登って(吉凶の兆である)雲気を観測され、辟雍において供物をさばき、長老がたにふるまわれて尊敬と孝養の念を示した。饗射の礼が終わると、皇帝は坐を正して自ら(経書を)講義し、大学者たちがおのおの経書を手にして御前で経学上の問題点を質問しあったので、儒服を身に着けた(学問を志す)人々が、一目見ようと辟雍の橋や門に人だかりとなって十万を単位に数えるほどだった。その後また開国の功臣の子孫や四姓(外戚の樊氏・郭氏・陰氏・馬氏)小侯や諸王らのために別に校舎を立て、高才有能のものを選抜して学問を受けさせ、期門・羽林の士には孝経の章句を教えこみ、(学問が盛んなことを聞き知った)匈奴でさえ子弟を送ってきて入学させるほどであった。済々として人材多く、洋々として充実し、永平年間のころ頂点に達した。
 建初年間に、白虎観において大学者たちが一堂に会し、数ヶ月間にわたって経学上の異同について詳細に検討して議論を戦わせた。粛宗は自ら会場に臨席し、前漢の石渠閣の故事にならうよう詔を下し、班固に命じて討議の結果を『白虎通義』としてまとめさせた。また太学の学生のうち、才能の高いものに勅命で「古文尚書」「毛詩」「穀梁春秋」「左氏春秋」の四家を学ばせ、博士の官には立てないものの、四家の高足を抜擢して講郎とし、(黄門などの)近署に置いて仕えさせたのは、遺編逸文を網羅して、広くさまざまな学問を残そうとお考えになったからである。和帝もまたしばしば東観に足を運ばれ、蔵書を閲覧された。[登+邑 Unicode : 9127]后が政務を執り始めたころ、太学の学者たちは甚だ怠慢であった。このとき樊準と徐防の二人が学問再興の利を陳状し、また太学の教職について申し上げ、その人格才能の駄目なことを多く挙げた。そのため貴族や大官に詔勅を下して選ばせた人材を的確に抜擢したところ、三署(五官署・右署・左署)の郎官のうち経術に通暁するものは、いずれも才能を認められて推挙されることになった。安帝が親政を始めてからは、六芸や経文を尊ぶ気風が薄れ、太学の博士は講堂の席によりかかったまま講義を行わず、学生たちも互いのだらけた姿を認め合う有り様だった。校舎は荒れるに任せ、校庭は耕されて菜園となり、牧童や樵夫たちが、薪拾いや柴刈りにやってくるほどだった。のち順帝は[擢−手 Unicode : 7FDF][酉+甫 Unicode : 917A]の言葉に心を動かされ、方針を改めて校舎を修復し、建造したところの学生宿舎は二百四十房・千八百五十室に及ぶ。「明経」科の試験に落第した学生を試しに弟子員に補任し、甲科・乙科の合格者の員数もそれぞれ十人づつ増やし、郡国に住まう年配の学者をみな叙任して郎官や舎人とした。のち本初元年に梁太后が詔を下して言われた。「大将軍以下、六百石に至るまでのものは、すべて息子を都に派遣して太学に就学させ、太学では年ごとに郷射を、月ごとに饗宴を行って学生を会集(して学生同士の交流と切磋琢磨の機会を与える)することとし、これをもって常儀とせよ」と。これによって(地方から太学に)遊学する習慣がますます盛んになり、太学の学生数は三万余人にもなった。しかしながら章句の学問はしだいに疎かになり、浮辞華麗を尊び合うことが多くなったのは、おそらく儒学者の気風が衰えたからであろう。党人が誅罰されてからは、儒林の高名な人物も少なからず連座して流罪になったり免職されたりしたが、その後しまいには(宦官と党人とが互いに相手を陥れようと)抗争するに至り、ことさらに告発し合った。またひそかに金品を使って、蘭台に所蔵されている漆で書かれた経書の文字を書き改め、自分が持っている文書と合致させるものが現れた。そのため熹平四年に霊帝が詔勅を下し、諸儒に五経の標準テキストを定めさせ、石碑に刻んだのだが、そのとき古文・篆書・隷書の三体の書法を使って互いに参照できるように配慮し、これを(自由に見られるように)太学の門のそばに建てて、天下の学者すべてにこのテキストを採用して則るようにさせた。
 後漢の初め、光武帝が洛陽にお還りになったときには、お持ち帰りになった経籍や秘本の類は荷車二千輌にも及び、その後も蒐集をつづけ、さらに三倍になった。董卓が長安に遷都した際、役人も民衆も騒擾混乱に陥り、辟雍・東観・蘭台・石室・宣明殿・鴻都門がそれぞれ所蔵していた経典や文章などを争って裂いてバラバラにし、絹帛に書かれた図書のうち、大きいものは縫い合わされて幟や蓋(かさ)になり、小さいものは裁縫して袋物にされた。王允が集めて長安に運んだものはわずか七十輌にまで減ったが、道が険しかったので、さらにまた半分を途中で廃棄した。後日、長安が混乱に陥ったときには、一朝にして焼き尽くされ、すべて滅び去ってしまった。
 洛陽の学者はとてつもなく多く、すべてを詳しく記すことが難しいため、今はただ特に経学に通じた名のあるものだけを収録し儒林列伝とする。独立した列伝があるものは、重ねてここに書かない。師弟などの学問上の関係似ついて、(互いに与えた影響などを考える上で)名を挙げて証左としたほうがよいものは、それを記すことにする。
*  *  *
〔補 注〕

王莽は字を巨君と言い、前漢の元后の甥である。『漢書』王莽伝(巻99列伝69)に詳しい。
更始帝は名を劉玄、字を聖公と言い、光武帝の族兄である。『漢書』燕王劉澤伝の顔注に、「更始は、劉聖公の年号なり」とある。また同王莽伝下・四年の条参照。『後漢書』劉玄伝(巻11列伝1)に詳しい。
光武帝は名を劉秀、字を文叔と言い、前漢の高祖劉邦の九世の孫である。後漢の世祖。『漢書』礼楽志二 参照。『後漢書』光武紀に詳しい。
范升は字を弁卿と言い、幽州代郡の出身。『後漢書』に列伝(巻36列伝26)がある。陳元は字を長孫と言い、交州蒼梧郡広信県の出身。『後漢書』に列伝(同上)がある。鄭興は字を少贛と言い、司隷河南郡開封の出身。『後漢書』に列伝(同上)がある。杜林は字を伯山と言い、司隷右扶風茂陵県の出身。『後漢書』に列伝(巻27列伝17)がある。衛宏の事績は『後漢書』儒林伝下を見よ。劉昆の事績は『後漢書』儒林伝上を見よ。桓栄は字を春卿と言い、豫州沛国龍亢県の出身。『後漢書』に列伝(巻37列伝27)がある。
博士はもと秦官。五経博士は武帝の建元五年に初めて置かれた。『史記』楽書に、「今上の即位するに至りて、十九章を作り、侍中の李延年をして其の声を次序せしめ、協律都尉に拝す。一経に通ずるの士は独り其の辞を知る能はずんば、皆な五経の家に集ひ、相与共(あひとも)に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知するは、爾雅の文多ければなり」とある。『漢書』百官公卿表上・奉常の条、同儒林伝賛を参照。
施氏易の開祖・施讎は字を長卿と言い、豫州沛郡の出身。『漢書』に列伝(巻88列伝58)がある。孟氏易の開祖・孟喜は字を長卿と言い、徐州東海郡蘭陵県の出身。『漢書』に列伝(同上)がある。梁丘易の開祖・梁丘賀は字を長翁と言い、徐州琅邪郡諸県の出身。『漢書』に列伝(同上)がある。京氏易の開祖・京房は字を君明と言い、[亠+兌 Unicode : 5157]州東郡頓丘県の出身。梁丘賀の師とは同名の別人。『漢書』に列伝(巻75列伝45)がある。
欧陽尚書の開祖・欧陽生は字を季和と言い、名を失伝する。青州千乗郡の出身。『史記』に名が見える(巻121列伝61)。大夏侯尚書の開祖・夏侯勝は字を長公と言い、[亠+兌 Unicode : 5157]州東平国の出身。『漢書』に列伝(巻75列伝45)がある。小夏侯尚書の開祖・夏侯建は字を長卿と言い、夏侯勝の従兄の子。『漢書』に附伝(巻75列伝45)がある。
 欧陽・夏侯両氏の尚書は伏生所伝のもので、漢代の通行の文字「隷書」(今文)で書かれていたため「今文尚書」と呼ばれる。それに対して、孔安国が孔子旧宅の壁中より得た、先秦の文字(古文)で記された尚書を「
古文尚書」と言う。ただし孔氏壁中の書はつとに失われ、今日伝えられるものは、晋代に梅頤が再発見したと言われる偽書である。
斉詩は斉人・轅固生が伝え、魯詩は魯人・申培生が伝え、韓詩は燕人・韓嬰が伝えたもの。『史記』儒林伝に詳しい。三家詩のテキストは漢代の通行の文字「隷書」(今文)で書かれていたが、六朝のころまでに滅び、『韓詩外伝』六巻のみが伝わる。のち趙人・毛亨が荀子所伝という先秦の文字(古文)で記されたテキストを世に出した。この「毛詩」は後漢の古文学勃興期に注目を集め、鄭玄が注釈を加えるとその評価は決定的なものとなって、唐代以降は毛詩のみが世に行われることになる。
■梁人の戴徳は字を延君と言い、「
大戴」と呼ばれた。戴聖は字を次君と言い、「小戴」と呼ばれた。『漢書』儒林伝参照。
 両戴氏はおそらく兄弟。『四庫全書総目提要』に、劉向が整理した礼古経をまず戴徳が抜粋し、それをさらに戴聖が抜粋したというのは誤りであろう。
厳氏春秋の開祖・厳彭祖は字を次君と言い、徐州東海郡下[丕+邑 Unicode : 90B3]の出身。兄は「屠伯」と呼ばれた酷吏の厳延年。顔氏春秋の開祖・顔安楽は字を公孫と言い、豫州魯国薛県の出身。ともに[目+圭 Unicode : 772D]弘から公羊春秋を学んだ。『漢書』儒林伝参照。
太常は漢の九卿の一。宗廟の礼式を司る官職。『史記』文帝紀二年三月の条の正義。『漢書』百官公卿表上・奉常の条参照。
差次……等級・差別を設けること。『史記』商君列伝に、「尊卑・爵秩・等級を明かにし、各ゝ差次を以て名づけ、田宅・臣妾・衣服は家次を以てす」と。
建武五年は西紀29年。
太学……また大学とも。古代、天子が設けた最高学府、すなわち辟雍の制のことであるが、それを頂点とする全国的な学制が整備されていたかは疑問。『礼記』王制篇、『公羊伝』僖公十年何注、賈誼『新書』容経篇、『大戴礼』保傅篇、『史記』楽書、『漢書』宣帝紀本始二年五月の条、同成帝紀陽朔二年九月の条、同賈誼伝、同董仲舒伝など参照。
 漢代の太学に関する記述が『漢書』に詳しいのは、班固が後漢の制度を投影させた疑いがある。太学の制が本格的に採用されたのは、経術を愛した後漢の光武帝以後のことであろう。なお『後漢書』光武帝紀建武五年十月の条に、「初て太学を起つ。車駕 宮に還り、太学に幸き、博士・弟子に賜ひて各ゝ差有り」とあり、李注に「陸機の『洛陽記』に曰く、『太学は洛陽城の故の開陽門外に在り、宮を去ること八里、講堂の長さは十丈、広さは三丈』と」とある。また天子臨学のことは、『礼記』王制篇に、「王 三公・九卿・大夫・元士に命じて、皆な学に入らしめ、変ぜずんば、王 親
(みづか)ら学を視る」とあるのをふまえる。督励のための視察。
■李注にもあるとおり、
[竹+邊 Unicode : 7C69]・豆はともに高坏状の供物入れ。もともと礼器であったが、のち平素の食物をもる器としても使用される。『礼記』曽子問篇・礼器篇・郊特牲篇・明堂位篇・楽記篇、『論語』泰伯篇、『詩』小雅常棣篇・伐木篇・賓之初筵篇・大雅既酔篇・韓奕篇・魯頌[門+必 Unicode : 959F]宮篇、『左伝』僖公二十二年伝、『韓非子』外儲説左篇上など参照。
 
は縦長の盾、は長い柄のついた鉞、ともに古代の武器。『礼記』楽記篇・文王世子篇、『史記』楽書(『礼記』とほぼ同じ)、『荀子』楽論篇、『墨子』非楽篇、『韓非子』八説篇・五蠹篇、『呂氏春秋』仲夏紀篇、『史記』文帝紀景帝元年十月の条の集解・同索隠など参照。
中元元年は西紀56年。
三雍……辟雍・明堂・霊台のこと。『漢書』河間献王伝(巻53列伝23)に、「武帝の時、献王 来朝し、雅楽を献じ、三雍宮及び詔策もて問ふ所の三十余事に対ふ」とあり、また『後漢書』光武帝紀中元元年に、「是の歳、初て明堂・霊台・辟雍、及び北郊の兆域を起す」とある。
 辟雍はあるいは「辟廱」と書き、『詩』大雅霊台篇では、「於ゝ
(あゝ) 鼓鍾を論じ、於ゝ 辟廱に楽む」とあって、毛伝に水を繞らした庭園のごときものと言い、同 文王有声篇では、「鎬京の辟廱、西より東より、南より北より、思(もつ)て服さゞる無し」とあって、鄭箋に儀礼と言う。『荘子』天下篇に、「黄帝に咸池有り、堯に大章有り、舜に大韶有り、禹に大夏有り、湯に大[護−言+シ Unicode : 6FE9]有り、文王に辟雍の楽有り、武王・周公は武を作れり」と。礼経において古代の天子の最高学府とされ、『礼記』王制篇に、「天子 之に教を命じ、然る後ち学を為(つく)る。小学は公宮の南の左に在り、大学は郊に在り。天子は辟廱と曰ひ、諸侯は[半+頁 Unicode : 9816]宮と曰ふ」とある。
  明堂は古代の天子が諸侯の謁見を受けた建物とされるが、もと祖廟を言った(
左伝文公二年伝に、「『周志』に之れ有り。『勇なるも則ち上を害はゞ、明堂に登るを得ず』と」)。『孟子』梁恵王篇上に、「斉の宣王の問ひて曰く、『人皆な我に明堂を毀てと謂ふ。諸を毀たんか、已めんか』と」とあり、趙注に「泰山下の明堂を謂ふ。本と周の天子の東して巡狩し諸侯に朝するの処なり」と言う。『史記』武帝紀建元元年の条に、「元年、漢の興りて已に六十余歳なり、天下乂安、薦紳の属は皆な天子の封禅して度を改正せんことを望むなり。而して上は儒術に郷ひて賢良を招き、趙綰・王臧等は文学を以て公卿と為り、古へを議して明堂を城南に立て、以て諸侯に朝せんと欲す」とある。そのほか『呂覧』慎大覧慎大章・離俗覧上徳章、『史記』楽書・封禅書など参照。
 霊台は周の文王の高台。のち諸侯の館舎を言う。『詩』霊台篇に、「霊台を経
(をさ)め始む。之を経め之を営む」と。『孟子』梁恵王篇上に、「文王 民力を以て台を為(つく)り沼を為る。而うして民 之を歓楽し、其の台を謂ひて霊台と曰ひ、其の沼を謂ひて霊沼と曰ふ」と。『左伝』僖公十五年伝に、「諸を霊台に舎(やど)す」と、同 哀公二十五年伝に、「衛侯 藉圃に霊台を為り、諸大夫と与(とも)に焉(こゝ)に飲酒す」とある。また『漢書』平帝紀元始五年の条に、「羲和・劉[音+欠 Unicode : 6B46]等四人に明堂・辟廱を治めしめ、漢をして文王霊台・周公作洛と符を同じくせしむ」とあり、同 [擢−手 Unicode : 7FDF]義伝(巻84列伝54)に、「霊台を建て、明堂を立て、辟雍を設け、太学を張(まう)け、中宗・高宗の号を尊ぶ」とある。ほか『漢書』揚雄伝上・王莽伝上など参照。
明帝は後漢第二代皇帝(在位紀元57〜75年)。
雲物……雲気のこと。『左伝』僖公五年伝に、「凡そ分・至・啓・閉に必ず雲物を書するは、故に備ふるが為(ため)なり」とあり、杜注に「雲物は、気色災変なり」と言う。『後漢書』明帝紀永平二年正月の条に、「事 畢(をは)るや、霊台に升り、元気を望み、時律を吹き、物変を観る」とあり、李注に「元気は、天気なり。王者は天心を承け、礼楽を理め、上下・四時の気を通ずるなり、故に之を望むなり。(中略)『周礼』保章氏に、『五雲の色を以て、吉凶・水旱・豊荒の[浸−シ+示 Unicode : 7972]象を弁ず』と」と言う。
三老五更は、郷里の長老名士、あるいは引退した公卿を言う。『礼記』楽記に、「三老五更を大学に食(やしな)ひ、天子 袒(はだぬ)ぎて牲を割(さ)き、醤を執りて饋(すゝ)め、爵を執りて酳(すゝ)ぎ、冕して干を総(と)るは、諸侯の弟を教ふる所以なり」とあり、鄭注に「三老五更は、互に之を言ふのみ。皆な老人の三徳五事を更知する者なり」と言う。老人を学府で養うことから、学問の目標が徳行にあることは明らかである。
縉紳は、笏を「紳(=大帯)に[手+晉 Unicode : 6422](さしはさ)む」(『荀子』礼論篇)ことで、貴紳または経学の士を言う。『史記』五帝紀に、「其の文 雅馴ならずんば、薦紳先生 之を言ふを難んず」とあり、集解に「徐広の曰く、『薦紳は即ち縉紳なり、古字仮借す』と」と言い、また同 儒林伝に、「然り而うして縉紳先生の徒の 孔子の礼器を負ひて往き委質して臣と為る者は、何ぞや」と見える。
四姓の末属……『後漢書』明帝紀永平九年の条に、「四姓小侯が為(ため)に学校を開立し、五経の師を置く」とあり、李注に「袁宏の『漢紀』に曰く、『永平中に儒学を崇尚し、皇太子・諸王より功臣の子弟に至るまで、経を受けざる莫し。又た外戚の樊氏・郭氏・陰氏・馬氏の諸子弟が為(ため)に学を立て、四姓小侯と号びて、五経の師を置く。列侯に非らざるを以て、故に小侯と曰ふ』と」と言う。
期門・羽林はともに天子を護衛する武騎。『漢書』百官公卿表上に、「郎中令は、秦官なり。(中略)又た期門・羽林 皆な焉(これ)に属す」「期門は兵を執り送従を掌る」「羽林 送従を掌り、期門に次ぐ」とある。また五行志中之上には「成帝の鴻嘉・永始の間、好みて微行・出游を為す。期門郎より材力有る者、及び私奴の客を選び、多きは十余に至り、少きは五六人、皆な白衣袒[巾+責 Unicode : 5E58]、刀剣を帯持す」とあり、地理志下には「漢の興るや、六郡の良家の子は選ばれて羽林・期門に給し、材力を以て官と為り、名将 多く焉より出づ」と見える。後漢の官制もほぼ同じく、『後漢書』百官志二にも、「虎賁(=前漢の期門)中郎将は、比二千石。本注に曰く、虎賁・宿営を主る。(中略)虎賁郎中は、比三百石」「羽林中郎将は、比二千石。本注に曰く、羽林郎を主る。羽林郎は、比三百石。本注に曰く、宿営・侍従を掌る。常に漢陽・隴西・安定・北地・上郡・西河の凡そ六郡の良家より選びて補す」とある。
 なおここの句は、樊準の上疏文をふまえる
(『後漢書』巻32列伝22/樊準附伝)
■『
孝経』は曽子の作と伝えられてきたが、作者未詳の古典。『漢書』芸文志に「孝経は、孔子の曽子が為(ため)に孝道を陳ぶるなり。夫れ孝は、天の経、地の義、人の行ひなり。大なる者を挙げて言ふ、故に孝経と曰ふ」と言い、六芸に次ぐ三家(論語・孝経・小学)に挙げられている。「孝」の理念は、人格主義を貫いた漢代では特別に重要なものと考えられた。
永平は後漢の明帝の元号。西紀58〜75年。
建初は後漢の章帝の元号。西紀76〜84年。
白虎観は白虎門外の建物(『後漢書』丁鴻伝李注)。賈逵伝に「粛宗の立つや、意を儒術に降し、特に『古文尚書』『左氏伝』を好む。建初元年、逵に詔して入りて北宮の白虎観・南宮の雲台に講ぜしむ。帝 逵の説を善(よみ)し、『左氏伝』の大義の二伝より長ずる者を発出せしむ」とあるから、講書をするところか。後漢の章帝建初四年十一月にここで儒学教義に関する大討論会が開かれた。章紀に「是に於て太常に下し、将・大夫・博士・議郎・郎官及び諸生・諸儒 白虎観に会して、五経の同異を講議し、五官中郎将の魏応をして制問を承り、侍中の淳于恭をして奏せしめ、帝 親ら制を称し決に臨み、孝宣が甘露の石渠の故事の如くし、『白虎議奏』を作らしむ」とある。
粛宗は後漢の第3代皇帝・章帝の廟号。
石渠閣は未央殿の北にある建物、皇室が集めた秘書の類を所蔵(劉向伝顔注)。宣帝の甘露三年にここで儒学教義に関する大討論会が開かれた。宣紀に「諸儒に詔して五経の同異を講せしめ、太子太傅・蕭望之等 其の議を平奏し、上 親ら制を称し決に臨む。乃ち梁丘易・大小夏侯尚書・穀梁春秋を博士に立つ」とあり、芸文志には、書・礼・春秋・論語・孝経各家にこのときの議奏篇が挙げられている。穀梁家の尹更始・同 劉向・公羊家の厳彭祖・魯詩家の薛広徳・同 韋玄成・易家の施讎・同 梁丘臨・欧陽尚書家の欧陽地余・同 林尊・大夏侯尚書家の周堪・小夏侯尚書家の張山拊・礼家の聞人通漢・同 小戴礼家の祖の戴聖らが出席したことが知られる。
史臣とは『漢書』の著者・班固のこと。通義はその著『白虎通徳論』のこと。『白虎通義』『白虎通』とも。
穀梁春秋は魯の穀梁赤が伝えたもの。漢代、穀梁家の江公は大儒であったが訥弁のため、公羊家で顕学だった董仲舒との御前論争で遅れをとり、また公孫弘が董生の学説を法哲学として採用することも重なって、その学は一時ふるわなかった。のち衛太子が穀梁春秋を学び、栄広が公羊家の大儒[目+圭 Unicode : 772D]弘と論争してしばしば苦しめたため、また注目された。宣帝は祖父・衛太子が穀梁春秋を好んだことを知り、韋賢・夏侯勝らに諮問したところ、魯の出身の彼らはみな穀梁春秋を推した。さらに石渠閣の論争で公羊家に勝るところが多かったので、ついに世に顕れたという(儒林伝)。
 
左氏春秋は三伝ではもっとも遅く、前漢末に世に出た。哀帝のころ、劉[音+欠 Unicode : 6B46]が皇室の蔵書を校定した際に発見し、学官に立てるべきことを請うたが許されなかった。『漢書』儒林伝によると、左氏春秋の学は、漢初の張蒼・賈誼、黄霸や蕭望之と同世代の張敞らがすでに修めており、賈誼は訓詁を作り、その弟子・貫公は河間献王の博士になった。さらに蕭望之の御史・張禹も左氏春秋を伝授され、蕭生もその才能を認めていた。のち穀梁家の尹更始が兼ねてこれを学び、その子の尹咸や[擢−手 Unicode : 7FDF]方進らに伝え、劉[音+欠 Unicode : 6B46]は二人から伝授された、と言っている。
 春秋三伝のうち、公羊・穀梁が問答体を採っているのに対し、左伝だけが説話集になっている。白川 静博士も認めているように、その中には東周の旧記も含まれているものの、易や尚書の引用なども多く、戦国期以降の成立をうかがわせる。ただし賈誼については、前漢の古文学家・司馬遷がなにも記述しておらず、河間献王や張敞らのことについても、『漢書』以外に証拠がない。後漢の古文学派の大物・班固が、左氏春秋に関する記事を『漢書』の各所に忍ばせ、その正統性を高めようとしたと考えられる。なお、この箇所の表現は儒林伝賛をふまえる。
孝和は後漢第4代皇帝・和帝のこと。西紀88〜106年に在位した。
東観は学問所の建物の名。『後漢書』安帝紀・永初四年の条に、「謁者・劉珍及び五経博士に詔して、東観に五経・諸子・伝記・百家の芸術を校定し、脱誤を整斉し、文字を是正せしむ」とあり、李注に「『洛陽宮殿名』に曰く、『南宮に東観有り』と」と言う。和帝臨観のことは、和帝紀・永元十三年正月の条に、「帝 東觀に幸き、書林を覧じて、篇籍を閲し,博く術芸の士を選びて以て其の官に充つ」と見える。
[登+邑 Unicode : 9127]后は諱を綏と言い、和帝に配した。[登+邑 Unicode : 9127]禹の孫で、母は光武帝に配した陰后の従弟の娘にあたる。和帝没後より臨朝し、安帝即位後も続いた。和后紀によると、「(永初)六年、太后 詔して和帝の弟 済北・河間王の子の男女 年五歳以上四十余人、又た[登+邑 Unicode : 9127]氏の近親の子弟三十余人を徴して、並びに為(ため)に邸第を開き、経書を教学して、躬自(みづか)ら監試す。尚ほ幼き者は、師保を置かしめ、朝夕 宮に入りて、撫循詔導し、恩愛 甚だ渥(あつ)し」と言っているから、後漢王朝の気風を汲み、皇族外戚の子弟に対する儒教教育には熱心であったと思われる。
樊準は字を幼陵と言い、樊宏の一族の末にあたる。その事績は『後漢書』樊宏伝に附伝(巻32列伝22)されている。[登+邑 Unicode : 9127]太后臨政時代の儒学陵替について上疏し、同伝に「今 儒者は蓋し少く、遠方 尤も甚だし。博士は席に倚りて講せず、儒者は競つて浮麗を論じ、謇謇の忠を忘れて、[言+戔][言+戔]の辞を習ふ」と見える。
 
徐防は字を謁卿と言い、三代にわたって易を修めた。事績は列伝(『後漢書』巻44列伝34)を見よ。同伝によれば、後学に章句を学ばせるために上疏した文の中に、「伏して太学の試博士・弟子を見るに、皆な意を以て説き、家法を修めず、私に相容隠して、姦路を開置す。策試有る毎に、輒ち諍訟を興し、論議紛錯して、互に相是非す」と言っている。
〔易 家〕
 前書に云ふ、「田何は易を伝へて丁寛に授け〔原注19〕、丁寛は田王孫に授け、王孫は沛人の施讎・東海の孟喜・琅邪の梁丘賀に授け〔原注20〕、是より易に施・孟・梁丘の学有り」と。又た「東郡の京房は易を梁国の焦延寿に受け〔原注21〕、別に京氏の学有り」と。又た「東莱の費直有り〔原注22〕、易を伝へ、琅邪の王横に授け、費氏の学有り〔原注23〕。本(もと)づくに古字を以てし、古文易と号す」と。又た「沛人の高相は易を伝へ、子の康及び蘭陵の毋将永に授け、高氏の学有り〔原注24〕」と。施・孟・梁丘・京氏の四家は皆な博士に立つも、費・高の二家は未だ立つるを得ず。
  • 19 『前書』に寛の字は子襄と。
  • 20 『前書』に讎の字は長卿、喜の字は長卿、賀の字は長翁と。
  • 21 『前書』に延寿の名は[章+攵+貢 Unicode : 8D1B]と。
  • 22 『前書』に直の字は長翁と。
  • 23 『前書』は「横」を「[王+黄 Unicode : 749C]」に作り、字は平仲と。
  • 24 毋将は姓なり。毋の読は無と曰ふ。
◆現代語訳◆
 (易家について)漢書では、「田何は周易を丁寛に伝授し、丁寛は田王孫に伝授し、田王孫は沛国出身の施讐と東海郡出身の孟喜と琅邪郡出身の梁丘賀に伝授した。これ以後、易家には施氏・孟氏・梁丘氏の三家の学派ができた」と言い、また「東郡出身の京房は周易について梁国出身の焦[章+攵+貢 Unicode : 8D1B]延寿の教えを受け、三家とは別に京氏の学派がある」と言い、また「東莱郡出身の費直というものがおり、周易の学問を伝えて、琅邪郡出身の王横に伝授し、費氏の学派ができた。先秦の文字で書かれたテキストに基づいていたので、『古文周易』と号していた」と言い、また「沛国出身の高相は周易の学問を伝えて、息子の高康および東海郡蘭陵県出身の毋将永に伝授し、高氏の学派ができた」と言っている。施氏・孟氏・梁丘氏・京氏の四家はいずれも博士の官に立てられたが、費氏・高氏の二家はいまだに博士の官に立てられるには至らなかった。
〔補 注〕

〈劉 昆〉
 劉昆 字は桓公、陳留・東昏の人〔原注25〕、梁の孝王の胤なり。少(わか)くして容礼を習ふ〔原注26〕。平帝の時に、施氏易を沛人・戴賓より受く。能く雅琴を弾じて、清角の操を知る〔原注27〕
  • 25 東昏は陳留郡に属し、東緡は山陽郡に属す。諸本「緡」に作る者は誤なり。
  • 26 容は、儀なり。『前書』に魯の徐生は善く容を為し、孝文の時、容を以て礼官大夫と為ると。
  • 27 劉向の『別録』に曰く、「雅琴の意、事は皆な龍徳の『諸琴雑事』の中に出づ。『前書』芸文志に曰く、「『雅琴』、龍氏 名は徳、趙氏 名は定」と。『韓子』に曰く、「師曠 晋の平公に対へて曰く、『昔者(むかし)黄帝 鬼神を合し、象車に駕し、交龍・畢方は轄に並び、蚩尤は前に居り、風伯は進み[土+帚 Unicode : 57FD]め、雨師は道を灑(すゝ)ぎ、清角を作為す。今 君が徳は薄く、以て之を聴くに足らず』と。」と(十過)。
 王莽の世には、弟子を教授すること恒に五百余人。春秋毎に饗射して、常に典儀を備列し、素木瓠葉を以て俎豆と為し、桑弧蒿矢、以て「菟首」を射る〔原注28〕。礼を行ふこと有る毎に、県宰は輒ち吏属を率ゐて之を観る。王莽は昆の多く徒衆を聚め、私に大礼を行ふを以て、僭上の心有りとし、乃ち昆及び家属を外黄の獄に繋ぐ。莽の敗るゝに尋(およ)びて免かるゝを得。既にして天下 大乱すれば、昆 難を河南の負犢山中に避く〔原注29〕
  • 28 『詩』小雅・瓠葉の詩序に曰く、「幽王の礼を弃てゝ行はざるを刺り、故に古への人の、微薄なるを以て礼を廃さゞるを思ふ」と。詩に曰く、「幡幡たる瓠葉、之を采り之を亨(に)る。君子に酒有り、酌みて言(われ) 之を嘗む。菟の斯首なる有り、之を[包+,,,, Unicode : 70B0](や)き之を燔く。君子に酒有り、酌みて言 之を献ず」と。昆 礼の廃るゝを懼れ、故に瓠葉を以て俎実と為し、射に則ち「菟首」の詩を歌ひて節と為すなり。
  • 29 『郡国志』に、河南郡に負犢山有りと。
 建武五年に、孝廉に挙げらるゝも、行かず、遂に逃れ、江陵に於て教授す。光武は之を聞きて、即ち除して江陵の令と為す。時に県に連年 火災あり、昆 輒ち火に向ひて叩頭し、多く能く雨を降し風を止む。徴せられて議郎を拝し、稍(しばら)く侍中・弘農太守に遷る。
 是より先[山+肴 Unicode : 5D24]・黽の駅道に虎災多く、行旅 通ぜず。昆の為政三年、仁化大に行はるれば、虎 皆な子を負ひて河を度わたる。帝 聞きて之を異とす。二十二年、徴して杜林に代りて光禄勲と為す。詔して昆に問ひて曰く、「前に江陵に在りては、風を反し火を滅す。後ち弘農を守りては、虎 北して河を度る。何の徳政をか行ひて是の事を致す」と。昆の対へて曰く、「偶然なるのみ」と。左右 皆な其の質訥を笑ふ。帝の歎じて曰く、「此れ乃ち長者の言なり」と。顧命して諸(これ)を策に書かしむ。乃ち入れて皇太子及び諸王・小侯 五十余人に授けしむ。二十七年、騎都尉に拝す。三十年、老を以て骸骨を乞へば、詔して洛陽の第舎を賜ひ、千石の禄を以て其の身を終ふ。中元二年に卒す。
 子の軼、字は君文。昆の業を伝へ、門徒も亦た盛ん。永平中に、太子中庶子と為る。建初中に、稍く宗正に遷り、官に卒す。遂に世ゝ宗正を掌れり。
◆現代語訳◆
 劉昆は字を桓公と言い、陳留郡東昏県の出身で、(前漢景帝の皇子)梁の孝王の末裔である。若くして容儀(=礼に適った立居振舞)と礼経とを習った。平帝のときに、「施氏易」を沛国出身の戴賓から伝授された。弾琴をよくして、神話上の盛徳の音曲である「清角」の趣旨を理解していた(=音楽の神髄を洞察していたことの比喩表現)。
 王莽の世になったころには、常に五百人以上の弟子に教授していた。毎年春と秋には饗射を行い、常に行き届いた儀礼を備え、白木と瓢箪の葉を使って俎豆(のお供え物)を作り、桑の弓と蓬の矢で「首の白い仔兎」を射た。これらの儀礼が劉昆の学舎で行われるたびに、東昏の県宰は部下を引き連れて観覧した。王莽は昆が多くの徒党を集め、個人的に(本来国家が行うべき)大礼を行っていることから、僭上の心があるのではないかと疑い、昆とその一家を外黄(地名)の牢獄に繋いだ。王莽が敗死するの及んで罪を免れたが、ときすでに天下大乱の時局であったので、昆は河南郡の負犢山に避難した。
 建武五年に孝廉に推挙されたが出仕せず、とうとう当地を去って江陵の地で教授した。光武帝はそのことをお聞きになり、すぐさま(逃げた先の)江陵の県令に叙任した。このとき江陵県ではここ数年ずっと火事に悩まされていたが、昆が火に向かって叩頭して祈念すると、たびたび雨を降らし風を止め(て火災を鎮火させ)ることができた。さらに徴用されて議郎を拝命し、しばらくして侍中・弘農太守に遷任した。
 昆が赴任する以前、弘農郡では黽池・[山+肴 Unicode : 5D24]山あたりの駅道に虎が出没して人を襲い、行旅の妨げになっていた。昆が赴任して治政を施すこと三年、仁政教化が郡中に大いに行きわたると、近辺の虎は仔を背に黄河を渡っていなくなった。帝はこのことを聞いて異なことだと思し召された。建武二十二年にはさらに徴用されて杜林に代わって光禄勲となった。このとき光武帝が昆にご下問になって言われた。「以前に江陵県にいたときには、風を戻して火を消した。後に弘農郡に移ってからは、虎が黄河を渡って北へ逃げ去った。いかなる仁政を行ってこれらのことを実現させたのか」と。昆がお答えして言うには、「偶然にすぎません」と。左右の臣はみな彼の答え方の質素朴訥なことを笑った。帝はため息をついて、「これぞまさしく長者の言葉である」と言われた。書記官に命じていまのやりとりを記録に残させた。そして宮中に入れて皇太子および諸王、小侯ら五十余人に学問を教授させた。同二十七年に、騎都尉を拝命した。同三十年に老齢のゆえに退職を願い出たところ、詔があって洛陽城内に邸宅を賜り、千石の禄を終身の年金にとして頂戴することとなった。中元二年に卒去した。
 息子の軼は字を君文と言い、昆の学業を伝え、門弟の数もまた多かった。永平年間に太子中庶子になった。建初年間にしばらく宗正に遷任し、在職中に卒去した。これ以後、宗正の職を世襲して掌ることになった。
〔補 注〕

〈[シ+圭 Unicode : 6D3C] 丹〉
 [シ+圭 Unicode : 6D3C]丹 字は子玉〔原注30〕、南陽・育陽の人なり。世ゝ孟氏易を伝ふ。王莽の時、常に世を避けて教授し、専志して仕へず、徒衆は数百人なり。建武の初に、博士と為り、稍く遷り、十一年に、大鴻臚と為る。『易通論』七篇を作るに、世に『[シ+圭 Unicode : 6D3C]君通』と号す。丹の學義は研深なれば、易家は之を宗とし、称して大儒と為す。十七年に、官に卒す。年七十なり。
  • 30 『風俗通』に「[シ+圭 Unicode : 6D3C]」の音は「圭」と。
 時に中山の[角+圭]陽鴻、字は孟孫〔原注31〕も亦た孟氏易を以て教授し、名称有り、永平中に少府と為る。
  • 31 姓は[角+圭]陽、名は鴻なり。[角+圭]の音は胡瓦の反。其の字は「角」字に従ひ、或は「鮭」に作る。「魚」に従へば、音は胡佳の反。
◆現代語訳◆
 [シ+圭 Unicode : 6D3C]丹は字を子玉と言い、南陽郡育陽県の出身である。代々「孟氏易」を伝えてきた。王莽の時代には、ずっと隠棲したまま門弟に教授し、学問に専念して出仕せず、門弟は数百人ほどであった。建武年間の初頭に博士となり、しばらくして遷任し、十一年に大鴻臚となった。『易通論』七篇を著作し、世に『[シ+圭 Unicode : 6D3C]君通』と呼ばれた。丹の学問の意義が深く研ぎすまされていたので、易家は彼を宗匠と見なし誰もが大儒と呼んだ。建武十七年に在職中に亡くなった。享年七十歳だった。
 当時、中山国の[角+圭]陽鴻 字は孟孫もまた「孟氏易」を教授して名声が高かった。永平年間に少府となった。
〔補 注〕

〈任 安〉
 任安 字は定祖、広漢・綿竹の人なり。少くして太学に遊び、孟氏易を受け、兼ねて数経に通ず。又た同郡の楊厚に従ひて図讖を学び、其の術を究極す。時人の称して曰く、「仲桓を知らんと欲すれば任安に問へ」と。又た曰く、「今に居りて古へを行ふは任定祖」と。学び終り、家に還りて教授すれば、諸生 遠く自り至る。初て州郡に仕ふ。後ち太尉 再辟して、博士に除し、公車の徴するも、皆な疾を称して就かず。州牧・劉焉の表して之を薦むるも、時に王塗 隔塞すれば、詔命 竟(つひ)に至らず。年七十九、建安七年に、家に卒す。
◆現代語訳◆
 任安は字を定祖と言い、広漢郡綿竹県の出身である。若くして太学に遊学し、「孟氏易」を伝授され、そのほかにも数経を兼学して通暁していた。また同じ広漢郡の楊厚に師事して「図讖(=神秘主義的な図や形象の書と、讖緯説に基づく予言書)」を学び、その術を究め尽くした。当時の人々は彼を称して、「仲桓(=楊厚の字)の学問について知りたければ任安に聞け」と言い、また「今の世にあって古えの道を行っているのは任定祖だけ」と言っていた。楊厚の許での学業が終り、家に戻って教授を始めると、学生たちが遠路はるばるやってきた。このころ初めて州郡に出仕した。後日、太尉が二度にわたって召し出して博士に叙任し、公車令が徴用したが、いずれも病気だを称して就任しなかった。州牧の劉焉が上表して彼を推薦したが、当時は王道が逼塞(=王室が式微)していたので、詔命はついに下されなかった。享年七十九歳、建安七年に、自宅で(=無位の身で)卒去した。
〔補 注〕

〈楊 政〉
 楊政 字は子行、京兆の人なり。少くして学を好み、代郡の范升に従ひて梁丘易を受け、善く経書を説く。京師 之に語を為(つく)りて曰く、「経を説くこと鏗鏗たり楊子行」と。数百人を教授す。
 范升の嘗て出婦の告ぐる所と為り、坐して獄に繋せられしとき、政 乃ち肉袒し、箭(や)を以て耳を貫き、升の子を抱へて道傍に潜伏し、車駕を候ち、而して章を持して叩頭大言して曰く、「范升 三たび娶りて、唯だ一子有るのみ。今 適(まさ)に三歳、之を孤とするは哀む可し」と。武騎・虎賁は乗輿を驚かすを懼れ、弓を挙げて之を射るも、猶ほ去るを肯(がへ)んじず。旄頭も又た戟を以て政を叉(さ)し、胸を傷(そこな)ふも、政は猶ほ退かず。哀泣辞請、帝心に感ずる有り、詔して曰く、「楊政に師を乞(あた)へよ」と〔原注32〕。即ち尺一もて升を出だす。政 是に由りて名を顕す。
  • 32 乞の読は气と曰ふ。
 人と為り酒を嗜み、小節に拘らず、果敢にして自矜あり、然れども義に篤し。時に帝の壻(むこ)の梁松、皇后の弟の陰就、皆な其の声名を慕はゞ、請ひて与に交友あり。政 共に言論する毎に、常に切磋すること懇至にして、屈撓を為さず。嘗て楊虚侯・馬武に詣(いた)るも、武は政と見(まみ)えるを難(かた)んじ、疾を称して起を為さず。政 戸より入り、径(たゞち)に牀に升(のぼ)りて武を排(おしの)け、臂を把(と)り之を責めて曰く、「卿は国恩を蒙り、藩輔に備位するも、賢を求め以て殊寵に報ひんことを思はず、而も天下の英俊に驕るは、此れ養身の道に非らざるなり。今日 動(やゝ)もすれば刀 脇に入らん」と。武の諸子及び左右 皆な大に驚き、以て劫(おびやか)さるゝと為し、兵を操(と)りて側に満つるも、政は顔色自若たり。会ゝ(たまたま)陰就 至り、武を責数して、交友を為さしむ。其の剛果にして情に任ずること、皆な此(かく)の如きなり。建初中に、官は左中郎将に至る。
◆現代語訳◆
 楊政は字を子行と言い、京兆の出身である。若いころから学問を好み、代郡の范升に従学して「梁丘易」を伝授され、経書を説くことに優れていた。京師(みやこ)ではこれを諺にして、「経を説いては弁舌さわやかな楊子行」と言うほどだった。数百人に学業を教授した。
 (楊政の師の)范升が以前に離婚し(て家から出し)た妻から告発され、罪に坐して牢獄に繋がれたとき、政は肌脱ぎして矢を耳に突き刺し、升の息子を懐に抱いて道傍に潜み、天子の車駕を待った。(車駕が通ると)訴状を掲げて叩頭しながら大声で言った。「范升は三度の結婚で、ただ一人の子をもうけただけでございます。その子は今まさに三歳になろうとしていますが、これを孤児(みなしご)としてしまうのはあまりに無慈悲でございます」と。武騎・虎賁の士は天子のお乗物を驚かすことを懼れ、弓を絞って彼に射かけたが、それでも去ろうとはしなかった。先駆けの士も戟で政を突き刺し、胸に傷を負ったが、政はそれでも退かなかった。悲愴な号泣と切実な訴えは、ついに帝(みかど)の大御心を感動させ、「楊政に師を与えよ」と仰せになった。ただちに一尺一寸の令状(=詔書)が下されて范升が牢獄から出された。政はこのことから名を顕すことになった。
 楊政は酒好きで細かい取り決めに従わず、果敢で自尊心が高い性格だったが、それでも義理に篤かった。当時、帝の婿の梁松や皇后の弟の陰就らは、いずれも彼の名声を慕い、願い出て交友関係を持った。政は彼らと談論するときには、いつも切磋琢磨して懇切ではあったが、(彼らが貴顕だからとて)意見を曲げてまで長いものに巻かれるようなことはなかった。以前に楊虚侯の馬武に会おうとその邸を訪れたとき、馬武は政と会見することをいやがり、家人に病気だと言わせて寝床から起きなかった。政は勝手に戸口から押し入ってまっすぐに寝台に上がり、馬武を押し倒すと、臂をつかんで責め立て、「卿(あなた)は元勲として国恩を賜り、諸侯として藩屏に位しながら、賢者を求めて天子の殊遇に報いようとは思わず、そのうえ天下の英俊の士に対して傲慢な態度を取っておりますが、それは長生きの術ではございませぬぞ。今日まかり間違えば刀身が脇から差し込まれたかも知れません」と言った。馬武の息子たちや家来衆は大いに驚き、馬武が刃物で脅迫されていると思い、みな武器を手に手に周囲を取り囲んだが、政は顔色ひとつ変えず平然としていた。たまたま陰就が馬武の邸にやってきて事の次第を聞くと、馬武を叱責し仇を転じて友となした。その剛毅果敢にして自由気ままなことは、すべてこのようであった。建初年間に官位は左中郎将に達した。
〔補 注〕

■旄頭……『漢書』列伝33/武五子伝/燕剌王旦伝に、「旌旗・鼓車を建て、旄頭 先駆す」と。
〈張 興〉
 張興 字は君上、潁川・[焉+邑 Unicode : 9122]陵の人なり。梁丘易を習ひて以て教授す。建武中に、孝廉に挙げられて郎と為るも、謝病して去り、復た帰りて徒を聚(あつ)む。後ち司徒・馮勤の府に辟(め)され、勤は挙げて孝廉と為し、稍く博士に遷る。永平の初に、侍中祭酒に遷る。十年、太子少傅を拝す。顕宗 数ゝ訪(おとな)ひて経術を問ふ。既にして声称 著聞すれば、弟子の遠き自り至れる者、著録するに且(まさ)に万人とならんとし、梁丘家の宗と為る〔原注33〕。十四年、官に卒す。
  • 33 籍録に著す。
 子の魴、興の業を伝へ、位は張掖属国の都尉に至る。
◆現代語訳◆
 張興は字を君上と言い、潁川郡[焉+邑 Unicode : 9122]陵県の出身である。「梁丘易」を学んで教授していた。建武年間に孝廉に推挙されて郎官になったが、病気を理由に辞職して官府を去り、ふたたび郷里に帰って門弟を集め(て教授し)た。後に司徒の馮勤が自分の役所(司徒府)に召し出して孝廉に推挙し、しばらくして博士に遷任した。永平年間の初頭には侍中祭酒に遷任した。永平十年に太子少傅を拝命した。顕宗はたびたび彼の許を訪れて経書の学術に関してご下問になった。このようなことから名声が知れ渡ることなり、あまたの弟子が遠くからやってきて、(弟子として講義を受けるための名簿に)名を書き記したものが一万人近くに及び、梁丘家の宗匠となった。永平十四年に在職中に卒去した。
 息子の張魴は興の学業を伝えて、官位は張掖属国の都尉に達した。
〔補 注〕

〈戴 憑〉
 戴憑 字は次仲、汝南・平輿の人なり。京氏易を習ふ。年十六、郡 明経に挙げ、徴して博士に試み、郎中を拝す。
 時に公卿に詔して大(おほい)に会さしむるに、羣臣 皆な席に就くも、憑 独り立つ。光武 其の意を問ふ。憑の対(こた)へて曰く、「博士・説経は皆な臣に如かざるに、坐すれば臣の上に居る。是を以て席に就くを得ず」と。帝 即ち上殿に召し、諸儒と与(とも)に難説せしむれば、憑の解釈する所多し。帝 之を善(よみ)し、拝して侍中と為し、数ゝ進見して得失を問ふ。帝の憑に謂ひて曰く、「侍中は当(まさ)に国政を匡補すべくんば、隠情有ること勿れ」と。憑の対へて曰く、「陛下は厳なり」と。帝の曰く、「朕 何をか用(もつ)て厳なる」と。憑の曰く、「伏して見るに前(さき)の太尉の西曹掾の蒋遵は、清亮忠孝、学は古今に通ずるも、陛下 膚受の訴へを納(い)れ、遂に禁錮に致す〔原注34〕。世 是を以て厳と為す」と。帝の怒りて曰く、「汝南の子 復た党せんと欲するか」と。憑 出で、自ら廷尉に繋(つな)ぐも、詔勅有りて出だす。後ち復た引見するに、憑の謝して曰く、「臣 謇諤の言無く、尸(しかばね)を以て伏して諌むる能はず〔原注35〕、生を偸(ぬす)み苟(かりそめ)に活くれば、誠に聖朝に慙(は)づ」と。帝 即ち尚書に勅して遵の禁錮を解かしめ、憑を虎賁中郎将に拝して、侍中を以て兼ねて之を領せしむ。
  • 34 『論語』に孔子の曰く、「膚受の訴へ」と(顔淵)。注に云ふ、「人の訴辞を受くること、皮膚の外に在れば、其の情核を深知せざるを謂ふなり」と。
  • 35 『韓詩外伝』に曰く、「昔 衛の大夫・史魚 病みて且に死せんとするに、其の子に謂ひて曰く、『我 数ゝ[艸+遽 Unicode : 8627]伯玉の賢を知れども進む能はず、弥子瑕の不肖なれども退く能はざれば、死するも当に喪を正堂に居おくべからず、我を側室に殯すれば足れり』と。衛君 其の故を問ふ。子 父言を以て君に聞す。君 乃ち 伯玉を召して之を貴び、弥子瑕は之を退け、殯を正堂に徙し、礼を成して後ち去る」と。
 正旦朝賀にて、百僚の畢(ことごと)く會せしとき、帝 羣臣の能く経を説く者をして更(かはるがは)る相難詰せしめ、義の通じざる有らば、輒ち其の席を奪ひて以て通ずる者に益すに、憑 遂に重ねて五十余席に坐す。故に京師の之に語を為りて曰く、「経を解きて窮まらざるは戴侍中」と。在職十八年、官に卒するに、詔して東園の梓器、銭二十万を賜ふ。
 時に南陽の魏満 字は叔牙も亦た京氏易を習ひ、教授す。永平中に、弘農太守に至る。
◆現代語訳◆
 戴憑は字を次仲と言い、汝南郡平輿県の出身である。「京氏易」を学んだ。十六歳で郡が明経に推挙し、徴用されて仮に博士の官に就き郎中を拝命した。
 あるとき三公九卿ら高官に詔を下して一堂に会したことがあった。群臣がみなそれぞれ席に着いたのに、憑だけが独り起立していた。光武帝がその理由をお尋ねになると、憑は、「博士や説経の師はみな(単なる士人であって)陛下のご家来にも及ばないものでありますのに、いまその博士である自分が(三公九卿らとともに)着席すれば、陛下のご家来(でも立っていらっしゃる方がおいでですから、彼ら)より上に立つことになります。そのゆえ着席することはできません」とお答えした。帝はすぐに憑を上殿に召して儒学者たちと論難させてみたところ、経義について彼が解き明かしたところが少なくなかった。帝はこれを評価して彼を侍中に拝命し、その後たびたび引見して政治の得失についてご下問になった。あるとき帝が憑に向かって、「侍中はまさに国政を補正すべき役職であるのだから、何事も包み隠さず申せ」と仰せになったところ、憑は、「陛下は厳しすぎます」とお答えした。帝が、「朕がどうして厳しすぎるのだ」とお尋ねになると、憑は、「謹んで拝察しますに、前任の太尉府の西曹掾の蒋遵は、清廉で物事に明るく忠実で孝悌の人柄、学識は古今に通じていましたが、陛下は膚受の訴え(=左右の臣の讒言)を鵜呑みにして、ついに彼を捕らえて禁錮に処してしまいました。世間ではこのことから陛下の処断を厳しすぎると評価しています」とお答えした。帝はこれを聞くと怒って、「汝南の子(やから)め、おぬしも徒党を組もうというのか」と仰せになったので、憑は宮殿を出て廷尉に出頭し、自分から牢屋に繋がれたものの、詔勅があって釈放された。後日ふたたび引見したとき、憑は謝罪して申し上げた。「臣(わたくし)は直言の正論を差し上げることもできず、史鰌のように屍を晒してお諌めすることもできず、(国家のために命を投げ出すこともなく)おめおめと生き永らえておるだけで、朝廷に加えていただいても本当に慚愧に堪えません」と。帝はこれを聞くとただちに尚書に命じて蒋遵の禁錮を解かせ、憑を虎賁中郎将に拝命して侍中の職務に兼ねて事に当たらせた。
 正月元旦の朝賀において百官公卿がすべて一堂に会したとき、帝は群臣の中で経書を説くことに優れた者を選び、かわるがわる論難させた。出題に答えられなかった場合には、その敷物を取り去って答えられたものの座に加えることにしたところ、憑はとうとう五十余枚を重ねて坐るに及んだ。そのため京師ではこれを諺にして、「経書を解いて窮まらないのは戴侍中」と言うほどだった。在職十八年、在職中に卒去したが、詔勅が下って東園の梓器と二十万銭が下賜された。
 当時、南陽の魏満 字は叔牙もまた「京氏易」を学び、門弟に教授していた。永平年間に弘農太守に達した。
〔補 注〕

〈孫 期〉
 孫期 字は仲[或+丿+丿 Unicode : 5F67]、済陰・成武の人なり。少くして諸生と為り、京氏易・古文尚書を習ふ。家貧しく、母に事(つか)へて至孝、豕を大沢中に牧(か)ひ、以て奉養せり。遠人の其の学に従ふ者は、皆な経を壟畔に執りて以て之を追ひ、里落は其の仁譲に化す。黄巾賊 起つに、里陌に過期するときは、相約して孫先生の舎を犯さず。郡 方正に挙げ、吏を遣はし羊酒を齎(もた)らして期を請ふも、期は豕を駆(お)ひ草に入りて顧みず。司徒・黄[王+宛 Unicode : 742C]の特に辟すも、行かず、家に終る。
◆現代語訳◆
 孫期は字を仲[或+丿+丿 Unicode : 5F67]と言い、済陰郡成武県の出身である。若くして(太学の入学を赦されて)学生となり、「京氏易」と「古文尚書」とを学んだ。家は貧しかったが、母に対して非常に孝行を尽くし、大沢で野豚を放し飼いにして母への孝養のための資とした。外からやってきて従学しようとするものは、みな畔道で経書を手に野良仕事をしている彼の後を追いかけ、村落は彼の人徳と謙譲の態度に感化された。黄巾賊が蜂起したときも、村の畔道に集まったり通過する際には、互いに言い交わして孫先生の舎(いえ)を煩わせないよう心がけた。郡が方正に推挙し、役人をやって羊肉と酒とを贈って期に出仕を頼んだが、期は野豚を追って草原に入ったきり相手にしなかった。司徒の黄[王+宛 Unicode : 742C]が特別な配慮をもって召し寄せたが出仕しなかった。自宅で(=無位の身で)亡くなった。
〔補 注〕

 建武中に、范升は孟氏易を伝へ、以て楊政に授け、而うして陳元・鄭衆は皆な費氏易を伝へ、其の後ち馬融も亦た其の伝を為(つく)る。融は鄭玄に授け、玄は易注を作る。荀爽 又た易伝を作り、是より費氏易 興り、而して京氏 遂に衰ふ。
◆現代語訳◆
 建武年間に范升は「孟氏易」を世に伝えて楊政に伝授し、そして陳元・鄭衆はいずれも「費氏易」を伝授し、その後馬融もまた(「費氏易」に基づいて)易伝を作った。馬融は鄭玄に授け、鄭玄は易注を作った。荀爽もまた易伝を作り、これにより「費氏易」学派は興隆するこことなり、一方で「京氏易」学派はしだいに衰微した。
〔補 注〕

*  *  *
〔尚 書 家〕
 前書に云ふ、「済南の伏生〔原注36〕 尚書を伝へ、済南の張生及び千乗の欧陽生に授け〔原注37〕、欧陽生は同郡の児寛に授け、寛は欧陽生の子に授け、世世 相伝へ、曽孫の欧陽高に至り〔原注38〕、尚書の欧陽氏の学を為す」と。「張生は夏侯都尉に授け〔原注39〕、都尉は族子の始昌に授け、始昌は族子の勝に伝へ、大夏侯氏の学を為す。勝は従兄の子の建に伝へ、建は別に小夏侯氏の学を為す」と。三家 皆な博士に立つ。又た「魯人の孔安国は古文尚書を伝へて都尉朝に授け〔原注40〕、朝は膠東の庸譚に授け、尚書の古文学を為すも、未だ立つるを得ず」と。
  • 36 名は勝。
  • 37 『前書』に字は和伯と。
  • 38 高の字は子陽。
  • 39 都尉は名。
  • 40 姓は都尉、名は朝。
◆現代語訳◆
 (尚書家について)漢書では、「済南郡の伏生が「尚書」を伝え、済南郡の張生および千乗郡の欧陽生に伝授し、欧陽生は同郡の児寛に伝授し、寛は欧陽生の子に伝授し、欧陽氏では代々相伝し、曽孫の欧陽高に至って「尚書」において欧陽学派を作った」と言い、また「張生は夏侯都尉に伝授し、都尉は一族の子弟の夏侯始昌に伝授し、夏侯始昌は一族の子弟の夏侯勝に伝えて(夏侯勝が)大夏侯学派を作った。夏侯勝は従兄の子の夏侯建に伝え、建は別に小夏侯学派を作った」と言っている。欧陽・大夏侯・小夏侯の三家はいずれも博士の官に立てられた。また「魯国の孔安国は「古文尚書」を継承して都尉朝に伝授し、都尉朝は膠東国の庸譚に伝授し、尚書における古文学派を作ったが、まだ博士の官に立てられていない」と言う。
〔補 注〕

〈欧 陽 歙〉
 欧陽歙 字は正思、楽安・千乗の人なり。欧陽生の伏生の尚書を伝へて自り、歙に至る八世、皆な博士と為る。
 歙 既に業を伝ふるに、而も恭謙にして礼譲を好む。王莽の時、長社の宰と為る〔原注41〕。更始の立つや、原武の令と為る。世祖 河北を平げ、原武に到り、歙の県に在りて政を脩むるを見、河南の都尉に遷し、後ち太守の事を行はしむ。世祖の即位するや、始て河南の尹と為し、被陽侯に封ず〔原注42〕。建武五年に、事に坐して官を免かる。明年、楊州牧を拝し、汝南太守に遷る。推すに賢俊を用てし、政は異迹を称せらる。九年に、更めて夜侯に封ず〔原注43〕
  • 41 長社は、今の許州県なり。
  • 42 被陽の故城は今の[シ+巛+田 Unicode : 6DC4]州高苑県の西南に在り。
  • 43 夜は、今の莱州掖県。
 歙 郡に在りて、数百人を教授し、視事九年、徴して大司徒と為る。汝南に在りしときの 臧罪千余万なるの発覚するに坐して下獄す。諸生の闕を守りて歙の為に哀を求むる者 千余人、自ら[髟+兀 Unicode : 9AE0]剔する者有るに至る。平原の礼震は〔原注44〕、年十七、獄の当に断ずべきなるを聞き、馳せて京師に之(ゆ)き、行きて河内の獲嘉県に到り、自ら繋し、上書して歙の代りに死せんことを求む。曰く、「伏して見るに 臣が師 大司徒・欧陽歙は、学は儒宗たり、八世 博士なるも、而して臧咎を以て当に重辜に伏すべし。歙門の単子 幼く、未だ学を伝ふる能はず、身死しての後、永く廃絶せらるれば、上は陛下をして賢を殺すの譏りを獲、下は学者をして師資の益を喪はしむ。乞ふ 臣が身を殺して以て歙の命に代へんことを」と。書 奏せらるゝも、歙 已(すで)に獄中に死す。歙の掾の陳元も上書して之を追訟するに、言 甚だ切至なれば、帝 乃ち棺木を賜ひ、印綬を贈り、[糸+兼 Unicode : 7E11]三千匹を賻(おく)る。
  • 44 『謝承書』に曰く、「震 字は仲威。光武 其の仁義を嘉し、震を郎中に拝すも、後ち公事を以て淮陽王の厩長に左遷さる」と。
 子の復 嗣く。復 卒するに、子無く、国 除かる。
 済陰の曹曽 字は伯山、歙に従ひて尚書を受け、門徒三千人、位は諌議大夫に至る。子の祉は、河南尹〔に至り〕、父業を伝へて教授す。
 又た陳留の陳[合+廾 Unicode : 5F07]、字は叔明も亦た欧陽尚書を司徒の丁鴻より受け、仕へて[艸+單+斤 Unicode : 8604]の長と為る〔原注45〕
  • 45 『続漢書』に曰く、「[合+廾 Unicode : 5F07] 尚書を以て教授し、躬自(みづか)ら耕種するに、常に黄雀の飛来し、[合+廾 Unicode : 5F07]に随ひて[皐+羽 Unicode : 7FFA]翔する有り」と。
◆現代語訳◆
 欧陽歙は字を正思と言い、楽安国千乗県の出身である。欧陽生が伏生の「尚書」を伝授されてから歙に至る八代はみな博士となった。
 歙は家学を伝授され、そのうえ謙虚で恭しく礼義を重んじて人に譲ることを好んだ。王莽の時代に長社県の県宰となった。更始帝が立つと原武県の県令になった。世祖が河北を平定して原武県に来たとき、歙の県における行政をご覧になり、河南郡の都尉に遷任させ、後に太守の事務を代行させた。世祖が即位すると初めて正式な河南尹に任命し、被陽侯に封じた。建武五年に事件に連座して罷免されたが、明年には楊州牧を拝命し、さらに汝南郡の太守に遷任した。彼が推挙した人物は賢人俊才ばかりで、その為政は素晴らしい業績をもって称えられた。建武九年に改めて夜侯に封じられた。
 歙は郡にあるときも数百人の門弟に教授し、行政に従事すること九年、徴用されて大司徒となった。汝南郡に赴任していたときに千余万銭を収賄した事実が発覚し、法に触れて下獄した。このとき太学の学生たちで(皇帝に助命嘆願を直訴するため)宮廷の門前に泊まりこんだものが千人以上もおり、自ら頭髪を剃(って同罪に服する意を表す)るものまで出る始末だった。平原郡の礼震は当時十七歳であったが、判決が下りそうだと聞いて押っ取り刀で京師に上り、河内郡獲嘉県にやってくると自らを縛り上げ、上書して歙の身代りとして死にたいと申し出た。その上書の文に言う。「謹んで拝察しますに、臣(わたくし)の恩師である大司徒の欧陽歙は、学殖においては儒者の宗匠であり、八代にわたって博士でございましたが、しかしながら収賄の罪によって重罪に伏さなければなりません。歙の家の一人息子は幼く、まだ一族の学問を伝えることができません。もし歙が死んだ後、欧陽家の学問が永遠に廃絶してしまうようなことになれば、上は陛下が賢者殺しの譏りを受けることになり、下は学者から良師の教えを受ける機会を奪うことになります。臣を殺して歙の命に代えてくださいますことをお願い申し上げます」と。書状は上奏されたが、このとき歙はすでに獄中で死んでいた。司徒府の掾として歙が招いた陳元も、上書して重ねて訴えたが、その文言が大変真剣で差し迫るものであったため、帝は葬礼に用いる棺木を下賜し、(いったん取り上げた)印綬を贈り、香典として練絹三千匹を下され(これによって恩赦と名誉回復の意向を示し)た。
 息子の復が爵位を継いだ。復が卒去すると息子がいなかったので諸侯の地位を失った。
 済陰郡の曹曽は字を伯山と言い、歙に師事して「尚書」を伝授され、門弟三千人(を抱える大学者となり)、官位は諌議大夫にまで登った。息子の祉は河南尹になり、父の学業を継承して教授した。
 また陳留郡の陳[合+廾 Unicode : 5F07] 字は叔明もまた「欧陽尚書」を司徒の丁鴻より伝授され、出仕して[艸+單+斤 Unicode : 8604]県の長になった。
〔補 注〕

〈牟 長〉
 牟長 字は君高、楽安・臨済の人なり。其の先 牟に封ぜられ、春秋の末に、国 滅ぶ。因りて焉(これ)を氏とす。
 長 少くして欧陽尚書を習ひ、王莽の世に仕へず。建武二年に、大司空・弘の特に辟して〔原注46〕、博士に拝し、稍く河内太守に遷すも、墾田の実あらざるに坐して免かる。
  • 46 宋弘なり。
 長の博士と為りて自り河内に在るに及ぶまで、諸生の講学する者 千余人有り、著録するもの前後 万人たり。『尚書章句』を著すに、皆な之を欧陽氏に本づき、俗に号して『牟氏章句』と為す。復た徴せられて中散大夫と為り、賜告 一歳、家に卒す。
 子の紆、又た隠居を以て教授し、門生千人。粛宗 聞きて之を徴し、以て博士と為さんと欲するも、道に物故す〔原注47〕
  • 47 路に在りて死するなり。案ずるに、『魏台訪議』に物故の義を問ふに、高堂隆の荅へて曰く、「之を先師に聞くに、物は、無なり。故は、事なり。死者の復た事を能くする所無きを言ふなり」と。
◆現代語訳◆
 牟長は字を君高と言い、楽安国臨済県の出身である。その祖先が牟に封じられ、春秋時代の末期に国は滅んだが、その地名にちなんで氏とした。
 長は若くして「欧陽尚書」を学び、王莽の時代には出仕しなかった。建武二年に大司空の宋弘が特別な配慮をもって召し出して博士に拝命し、しばらく河内郡の太守に遷任させたが、墾田事業を行って実績が上がらなかった罪に触れて罷免された。
 長が博士となって以来、河内郡の太守となるまでの間、彼の講義を受けた儒生が常に千人以上おり、(講義を受けるために)名簿に名を記したものは前後で一万人に及んだ。その著『尚書章句』はすべて欧陽氏の学説に基づき、世に『牟氏章句』と呼ばれた。ふたたび徴用されて中散大夫となったが、賜告(=病気療養のための特別休暇)が一年にも及んだあと、自宅で卒去した。
 息子の紆は出仕せず隠居の身でまた学問を教授したが、門生は千人もいた。粛宗はそれを聞いて徴用し、彼を博士しようと呼び寄せたものの、京師までの道中で物故した。
〔補 注〕

〈宋 登〉
 宋登 字は叔陽、京兆・長安の人なり。父の由は、太尉たり。
 登 少くして欧陽尚書を伝へられ、数千人に教授す。汝陰の令と為り、政 明能たり、号して「神父」と称せらる。趙の相に遷り、入りて尚書僕射と為る。順帝は登の礼楽に明識なるを以て、節を持して太楽に臨み、典律を奏定せしめ、転じて侍中に拝す。数ゝ封事を上り、権臣を抑退す。是に由りて出だされて潁川太守と為る。市に二価無く、道 遺(おちたる)を拾はず。病もて免ぜられ、家に卒す。汝陰の人 社に配して之を祠る。
◆現代語訳◆
 宋登は字を叔陽と言い、京兆長安の出身である。父の宋由は太尉であった。
 登は若くして「欧陽尚書」を伝授され、門弟数千人に教授した。汝陰県の県令となったが、その為政は明達有能であったため、「神父」と呼ばれて称えられた。趙国の相に遷任したのち、中央に入って尚書僕射となった。順帝は登が礼楽に明るいので、(勅命を奉じる使者に賜う)節を持たせて太学に臨み、典礼の規則を定めさせると、転任して侍中に拝命した。たびたび封印を施した上奏文を奉り、ときの権臣を抑制して退けようとした。そのため潁川郡の太守として地方に出された。潁川ではこののち市場で二重価格を行うものなく、道路に落ちているものを拾うものさえいなくなった(という古代の理想的な社会さながらの善政が敷かれた)。病気を理由に退職し、自宅で(=無位の身で)卒去した。汝陰県の人々は彼の霊位を社に配して祭っている。
〔補 注〕

〈張 馴〉
 張馴 字は子儁、済陰・定陶の人なり。少くして太学に遊(まな)び、能く『春秋左氏伝』を誦す。大夏侯尚書を以て教授す。公府に辟され、高第に挙げられ、議郎を拝す。蔡[巛+邑 Unicode : 9095]と共に六経の文字を奏定す。擢(ぬ)きて侍中を拝し、秘書近署を典領して、甚だ異を納(い)らる。便宜に因りて政の得失を陳(の)ぶること多く、朝廷 之を嘉す。丹陽太守に遷り、化して恵政有り。光和七年に、徴せられて尚書を拝し、大司農に遷る。初平中に、官に卒す。
◆現代語訳◆
 張馴は字を子儁と言い、済陰郡定陶県の出身である。若くして太学に遊学し、『春秋左氏伝』を巧みに誦読することができた。「大夏侯尚書」を門弟に教授していた。公府に召し出され、及第第一に選ばれて議郎を拝命した。蔡[巛+邑 Unicode : 9095]とともに六経の文字を校定して奏上した。抜擢されて侍中を拝命し、秘書の近署を取り仕切り、はなはだその異才を用いられた。便宜に触れて政道の得失を申し上げる機会が多く、朝廷ではその献策を喜んだ。丹陽郡の太守に遷任し、教化に努めて善政を敷いた。光和七年に徴用されて尚書を拝命し、のち大司農に遷任した。初平年間に在職のまま卒去した。
〔補 注〕

〈尹 敏〉
 尹敏 字は幼季、南陽・堵陽の人なり〔原注48〕。少くして諸生と為る。初め欧陽尚書を習ひ、後ち古文を受け、兼て毛詩・穀梁・左氏春秋を善くす。
  • 48 堵の音は者。
 建武二年に、上疏して洪範消災の術を陳ぶ。時に世祖は方に天下を草創せんとすれば、未だ其の事に遑あらず、敏に命じて詔を公車に待たしめ、郎中に拝して、大司空の府に辟す。
 帝 敏が経記に博通せるを以て、図讖を校せしめ、崔発の王莽が為に著録・次比せし所を[益+蜀 Unicode : 8832]去せしむ〔原注49〕。敏の対へて曰く、「讖書は聖人の作る所に非らず、其の中に近鄙の別字多く、頗る世俗の辞に類すれば、恐らく疑誤・後生ならん」と。帝 納れず。敏 其の闕文に因りて之を増して曰く、「君に口無くんば、漢の輔(たす)けと為らん」と。帝 見て之を怪み、敏を召して其の故を問ふ。敏の対へて曰く、「臣 前人の図書を増損せるを見、敢て自ら量らず、竊(ひそか)に万一なるを幸(ねが)へり」と。帝 深く之を非とし、竟に罪せざると雖も、亦た此を以て沈滞す。
  • 49 『前書』に王莽の居摂三年、広饒侯の劉京・車騎将軍千人の扈雲・太保属の臧鴻 符命を奏す。京は斉郡の新井を言ひ、雲は巴郡の石牛を言ひ、鴻は扶風・雍石を言ひ、莽は皆な迎受す。十一月甲子、莽の太后に上奏して曰く、「巴郡の石牛、雍石の文、皆な未央宮の前殿に到るに、臣は太保・安陽侯の舜等と視るとき、天風 起ちて塵冥し、風 止めば、銅章・帛図と石前に得。文に曰く、『天 帝符を告ぐ。献ずる者は侯に封じ、天命を承け、神説を用ひよ』と」と。騎都尉の崔発等 説を視、其の後ち莽は発を封じて説符侯と為すと。
 班彪と親善にして、相遇ふ毎に、輒ち日[日+干 Unicode : 65F0] 食を忘れ、夜分 寝(い)ねず〔原注50〕、自ら以て鍾期・伯牙、荘周・恵施の相得ると為すなり〔原注51〕
  • 50 [日+干 Unicode : 65F0]は、晩なり。
  • 51 『説苑』に曰く、伯牙子 琴を鼓し、其の友 鍾子期 之を聴くに、志を山水に在らしむれば、子期 皆な之を知ると。『荘子』に曰く、荘子 葬を送りて恵子の墓を過ぎるに、顧みて従者に謂ひて曰く、「郢人の堊もて其の鼻端に[土+曼 Unicode : 5881](ぬ)ること蝿翼の若し。匠石をして之を[卯+亜+斤 Unicode : 65B5](けづ)らしむれば、匠石 斤を運(めぐら)して風を成し、聴(まか)せて之を[卯+亜+斤 Unicode : 65B5]るに、堊を尽して鼻は傷つかず、郢人は立ちて容を失はず。元君 之を聞き、匠石を召して曰く、『嘗(こゝろみ)寡人が為(ため)に之を為せ』と。匠石の曰く、『臣 則ち嘗(かつ)て之を[卯+亜+斤 Unicode : 65B5]る。然りと雖も、臣の質 死すること久し』と。恵子の死して自より、吾 以て質と為すこと無し、吾 与(とも)に之を言ふこと無し」と(徐無鬼篇)。堊もて[土+曼 Unicode : 5881]るは、泥有りて之を[土+曼 Unicode : 5881]るなり。堊の音は於各の反。[土+曼 Unicode : 5881]の音は莫干の反。蝿翼は薄きなり。
 後ち三たび長陵の令に遷る。永平五年に、詔書ありて男子・周慮を捕ふ。慮 素より名称有りて、敏に善ければ、敏も繋して官を免ぜらる。出づるに及び、歎じて曰く、「[广+音 Unicode : 7616]聾の徒は、真に世の有道者なり。何謂(いかん)ぞ察察として斯の患に遇ふや」と。十一年に、郎中に除し、諌議大夫に遷る。家に卒す。
◆現代語訳◆
 尹敏は字を幼季と言い、南陽郡堵陽県の出身である。若くして太学の学生になった。初め「欧陽尚書」を学び、後に「古文尚書」の教えを受け、兼ねて「毛詩」「穀梁春秋」「左氏春秋」に通じていた。
 建武二年に上疏して、「洪範」に基づいて災害を除く術を申し上げた。当時、世祖光武帝はまさに天下を平定して帝業を草創しようとしていた時期だったので、まだ経学を応用する時間がなかった。尹敏に命じて待詔の身で公車令に預け、郎中に拝命して司空府に召し出した。
 帝は敏が経書旧記に博く通じていることから、図讖(=神秘主義的な図や形象の書と、讖緯説に基づく予言書)を校定させ、崔発が王莽のために新たに著述編集した個所を除去させようとした。敏がお答えして言うには、「讖緯書は古代の聖人の作ったものではございません。文中には卑近の文字が多く見られ、世俗の言辞に類するものも少なくありませんから、恐らくは眉唾ものでなければ後世に作られたものでしょう」と。帝はお聞き入れにならず(校定作業を行わせた)。敏はその闕文の部分に文字を足して、「君主に口がなければ(=余計な口を利かなければ)、漢室の助けになるだろう」と書いた。帝はこれをご覧になっておかしいと思い、敏を召してその意味をお尋ねになった。敏がお答えして言うには、「臣(わたくし)は先人が図書(=図讖)の文章を勝手に添削している痕跡を目にし、自分の力では旧に復することはできませんが、もしかしたらそういう可能性もあるのではないかとの希望的観測から処理いたしました」と。帝は非常によろしくないと思ったものの、ついに彼を処罰することなく、またこのことから図讖の校定作業は棚上げされた。
 尹敏は班彪と仲が善く、会うたびに朝晩の食を忘れるほど語り合い、夜も寝ないほどだった。自ら二人の仲を、古代の鍾期と伯牙や、荘周と恵施が善きパートナーを得た故事になぞらえた。
 後に三度 長陵県の令に遷任した。永平五年に詔書に下って周慮という男を逮捕した。周慮は平素から名声高く、敏と仲が善かったため、敏も逮捕されて罷免された。出獄したあと溜め息をついて言った。「聾唖の人は(言わざる・聞かざるの徳を守っているから)、まことに俗世の有道者だと言える。どうして察々と利口ぶってこんなひどい目に遇うことがあるだろうか」と。十一年に郎中に叙任し、諌議大夫に遷任した。自宅で卒去した。
〔補 注〕

■[ン广+音 Unicode : 7616]聾……『礼記』王制篇に、「[ン广+音 Unicode : 7616]・聾・跛[足+辟]・断者・侏儒は、百工 各ゝ其の器を以て之を食(やしな)ふ」とある。孔穎達の『正義』に、「[ン广+音 Unicode : 7616]は、口の言(ものい)ふ能はざるを謂ふ。聾は、耳の声を聞かざるを謂ふ」と。
■察察……『老子』上篇第二十章に、「俗人は察察たり、我は独り悶悶たり」とある。
〈周 防〉
 周防 字は偉公、汝南・汝陽の人なり。父の揚は、少くして孤微となり、常に逆旅を脩(をさ)〔原注52〕、以て過客に供すれども、其の報ひを受けず。
  • 52 杜預の左伝に注して曰く、「逆旅は、客舎なり」と(僖公二年伝)。
 防は年十六のとき、郡の少吏に仕ふ。世祖 汝南に巡狩し、掾史を召して経を試みるに、防 尤も能く誦読すれば、拝して守丞と為す。防は未だ冠せざるを以て、謁去す〔原注53〕。徐州刺史・蓋豫に師事し、古文尚書を受く。経に明なれば、孝廉に挙げられ、郎中を拝す。『尚書雑記』三十二篇、四十万言を撰す。太尉の張禹 薦めて博士に補し、稍く陳留太守に遷るも、法に坐して免ぜらる。年七十八、家に卒す。
  • 53 『礼』に男子 二十にして冠すと(曲礼 上、内則)。自ら年の未だ成人ならざるを以て、故に去るを請ふ。謁は、請なり。
 子の挙は、自から伝有り。
◆現代語訳◆
 周防は字を偉公と言い、汝南郡汝陽県の出身である。父の周揚は若くして親を喪い生活に困ったため、旅籠に住み込みで働き、宿泊客の世話をしたが、(志があるので)チップを受け取らなかった。
 防は十六歳のときに郡の下役になった。世祖光武帝が狩のため汝南郡に巡幸されたおり、郡の役人をお召しになって経書に詳しいかを試された。そのとき防がもっとも巧みに経書を誦読することができたので、即座に県の守丞に拝命しようとしたが、防は未成年であるため辞退して県を去った。のち徐州刺史の蓋豫に師事し、「古文尚書」を学んだ。経学に明るかったので孝廉に推挙され、郎中を拝命した。『尚書雑記』三十二篇、四十万字を書いた。太尉の張禹が推薦して博士に補任し、しばらく陳留郡の太守に遷任したものの、法に坐して罷免された。享年七十八歳、自宅で(=無位の身で)卒去した。
 息子の周挙は、別に立伝されている。
〈孔 僖〉
 孔僖 字は仲和、魯国・魯の人なり。安国より以下、世ゝ古文尚書・毛詩を伝ふ。曽祖父の子建は、少くして長安に遊(まな)び、崔篆と友善たり。篆の王莽に仕へて建新大尹と為るに及び〔原注54〕、嘗て子建に仕へんことを勧む。対へて曰く、「吾 布衣の心有り、子(きみ) 袞冕の志有り、各ゝ好む所に従ふも、亦た善からずや。道 既に乖(そむ)く。請ふ此れより辞せん」と。遂に帰り、家に終る。
  • 54 莽は千乗国を改めて建信と曰ひ、又た改めて建新と曰ふ。郡守を大尹と曰ふ。
 僖も崔篆の孫・[馬+因 Unicode : 99F0]と復た相友善たり。同じく太学に遊び、春秋を習ふ。呉王・夫差の時事を読むに因り、僖の書を廃して歎じて曰く、「是(かく)の若(ごと)き、所謂『龍を画(ゑが)きて成らず、反(かへ)つて狗を為す』者ならん」と〔原注55〕。[馬+因 Unicode : 99F0]の曰く、「然り。昔 孝武皇帝の始て天子と為りしとき、年 方(まさ)に十八、聖道を崇信して、先王に師則し、五六年間、文・景を号勝す〔原注56〕。後に己を恣(ほしいまゝ)にする及び、其の前の善を為すを忘る」と〔原注57〕。僖の曰く、「書伝に此(かく)の若きもの多し」と。鄰房の生・梁郁の之に[讒−言+イ Unicode : 5133]和して曰く〔原注58〕、「此の如くなれば、武帝も亦た是れ狗や」と。僖・[馬+因 Unicode : 99F0] 黙然として対へず。郁 怒りて之を恨み、陰に上書して[馬+因 Unicode : 99F0]・僖の先帝を誹謗し、当世を刺譏するを告ぐ。事は有司に下され、[馬+因 Unicode : 99F0]は吏に詣(いた)りて訊を受く。僖は吏捕の方に至らんとするを以て、誅せらるゝを恐れ、乃ち粛宗に上書して自ら訟へて曰く、「臣の愚意に、以為(おも)へらく凡そ誹謗を言ふ者は、実として此の事無くして虚として之を加誣せるを謂ふなり。孝武皇帝の如きに至りては、政の美悪、漢史に顕在し、坦(あきらか)なること日月の如し。是れ書伝の実事を直説するを為すは、虚謗に非らざるなり。夫れ帝者の善を為せば、則ち天下の善 咸く焉に帰す。其れ不善なれば、則ち天下の悪 亦た焉に萃(あつま)る。斯れ皆な以て之を致す有り、故に以て人を誅する可らざるなり〔原注59〕。且つ陛下は即位以来、政教 未だ過たずして、徳沢は加ふる有るは〔原注60〕、天下の具(とも)にする所なるに、臣等 独り何ぞ譏刺せるかな。仮使(たとひ) 實是に非ざる所あれば、則ち固より応(まさ)に悛改すべし。儻(も)し其の当らざるも、亦た宜しく含容すべく、又た何ぞ焉を罪せん。陛下 大数を推原して、深く自ら計を為さゞれば、徒(た)だ私忿を肆(ほしいまゝ)にして、以て其の意を快(と)くのみ。臣等 戮を受け、死すれば即ち死するのみなれど、天下の人を顧みれば、必ず回視して慮り易く、此の事を以て陛下の心を[門+規 Unicode : 95DA](うかゞ)はん。自今以後、苟(いやしく)も不可の事を見るも、終(つひ)に復た言ふ者莫からん。臣の其の死を愛(をし)まず、猶ほ敢て極言する所以の者は、誠に陛下の為に深く此の大業を惜めばなり。陛下 若し自ら惜まずんば、則ち臣 何をか頼まん。斉の桓公は親(みづか)ら其の先君の悪を揚(あ)げ、以て管仲を唱し〔原注61〕、然る後ち羣臣 其の心を尽すを得。今 陛下は乃ち十世の武帝を以て、実事を遠諱せんと欲すれば、豈に桓公と異らざらんや。臣 有司に卒然として構へられ、恨を銜(ふく)み枉を蒙(かうむ)り、自ら叙するを得ず、後世の論者をして、擅(ほしいまゝ)に陛下を以て方比する所を有らしむるを恐れ、寧(いづく)んぞ復た子孫をして之を追掩しむる可きか。謹んで闕を詣(いた)し伏して重誅を待つ」と。帝 始め亦た僖等の意に罪無きとするも、書の奏せらるゝ及び、立(たちどころ)に詔して問ふ勿く、僖を蘭台令史に拝す。
  • 55 夫差 越を伐ち、之を敗る。越王・句践 乃ち甲兵五千人を以て会稽に棲(かくれす)み、大夫種をして呉の太宰[喜+否 Unicode : 56AD]に因りて成(たひら)ぎを行はしむ。呉王 将に之を許さんとするに、伍子胥の諌めて曰く、「今 滅ぼさずんば、後ち必ず之を悔いん」と。呉王 聴かず。後ち句践 呉を滅ぼす。呉王の曰く、「吾 子胥の言を用ひざるを悔ゆ」と。遂に自ら剄して死す。
  • 56 『前書』に、武帝 年十七にして即位す。即位一年、明堂を立つるを議し、安車蒲輪もて魯の申公を徴す。六年、賢良を挙ぐ。班固の賛に「武帝の雄才大略を以て、文・景の恭倹を改めず、以て斯民を済(すく)ふ。詩書の称する所と雖も、何をか以て茲(これ)に加へん」と曰ふなり。
  • 57 武帝の末年の神仙・祭祀の事を好み、四夷を征伐して、兵を連ぬること三十余年、又た巫蠱を信じ、天下の戸数減半して、人 相食み、[竹+弄 Unicode : 7B6D]は舟車に及びて(後漢書西域伝)、塩鉄を官売するを謂ふなり。
  • 58 [讒−言+イ Unicode : 5133]は之と言はずして傍らに対するを謂ふなり。『礼記』に曰く、「[讒−言+イ Unicode : 5133]言無し」と(曲礼 上)。[讒−言+イ Unicode : 5133]の音は仕鑿の反。
  • 59 誅は、責なり。
  • 60 政教の未だ過失有らざるを言ふなり。
  • 61 『国語』に、魯の荘公 管仲を束縛し以て桓公に与ふれば、公 親(みづか)ら郊に迎へて、之と坐し、問ひて曰く、「昔 吾が先君の襄公は、台を築きて以て高位と為し、田狩畢弋して、国政を聴かず、聖を卑み士を侮りて、唯だ女のみ是れ崇(たうと)び、九妃六嬪、妾数百を陳(つら)ぬ。食するには必ず粱肉、衣るには必ず文繍。戎士は凍餒す。是を以て国家 日ゝ引(の)びず、月ゝ長ぜず。恐らく宗廟は[土+帚 Unicode : 57FD]除されず、社稷は血食されざらん。敢て此の若何が為すべきかを問ふ」と。管子の曰く、「昔者(むかし) 聖王の天下を理(をさ)むるや、人の居を定め、人の事を成し、而して慎みて其の六柄を用ふ。四人は雑処しむる勿れ。雑処すれば則ち其の言 [口+尨](みだ)れ、其の事 易(かは)る」と曰ふなり(斉語)。
 元和二年春、帝 東して巡狩し、還りて魯を過ぐるとき、闕里に幸(ゆ)き、太牢を以て孔子及び七十二弟子を祠(まつ)〔原注62〕、六代の楽を作(な)して、大(おほい)に孔氏の男子の二十以上の者 六十三人を会し、儒者に命じて『論語』を講ぜしむ。僖 因りて自ら陳謝す。帝の曰く、「今日の会〔原注63〕、寧ろ卿が宗に於て光栄有らんか」と。対へて曰く、「臣 聞く明王聖主は、師を尊び道を貴ばざる莫しと。今 陛下 親しく万乗を屈して、辱(かたじけな)くも敝里に臨む。此れ乃ち先師を崇礼し、聖徳を増[火+軍 Unicode : 7147]するものなり。光栄に至れば、敢て承くる所に非らず」と。帝の大笑して曰く、「聖者の子孫に非らずんば、焉(いづく)んぞ斯の言有らんや」と。遂に僖を郎中に拝し、褒成侯・損 及び孔氏の男女に銭帛を賜ひ、僖に詔して従ひて京師に還り、書を東観に校せしむ。
  • 62 『史記』を案ずるに達する者七十二人と。
  • 63 黄帝を雲門と曰ひ、堯を咸池と曰ひ、舜を大韶と曰ひ、禹を大夏と曰ひ、湯を大護と曰ひ、周を大武と曰ふ。
 冬に、臨晋の令を拝し、崔[馬+因 Unicode : 99F0] 家林を以て之を筮するに〔原注64〕、謂ひて不吉と為し、僖を止めて曰く、「子 盍(なん)ぞ辞せざるや」と。僖の曰く、「学ぶには人の為にせず、仕ふるには官を択ばず、凶吉は己に由りて、卜に由れるや」。県に在ること三年、官に卒し、遺して葬に即(つ)かしむ。
  • 64 崔篆の作る所の『易林』なり。
 二子の長彦・季彦は、並びに十余歳。蒲坂の令の許君然 勧めて魯に反(かへ)らしむ。対へて曰く、「今 棺を載せて還れば、則ち父令に違ふ。墓に舎(お)きて去るは、心 忍びざる所」と。遂に華陰に留る。
 長彦は章句の学を好み、季彦は其の家業を守り、門徒数百人。延光元年、河西 大に雹雨ふりて、大なる者は斗の如し。安帝 詔して道術を有するの士に変[生+目 Unicode : 771A]を極陳しむるに、乃ち季彦を召して徳陽殿に見え、帝 親ら其の故を問ふ。対へて曰く、「此れ皆な陰の陽に乗ずるの徴なり。今 貴臣は権を擅にし、母后の党は盛ん、陛下 宜しく聖徳を脩め、此の二者を慮るべし」と。帝 黙然、左右 皆な之を悪む。孝廉に挙げられるも、就かず。三年に、年四十七にして、家に終る。
 初め、平帝の時に王莽 政を秉(と)るや、乃ち孔子の後 孔均を封じて褒成侯と為し、孔子に追謚して褒成宣尼と為す。莽の敗るゝに及び、国を失ふ。建武十三年に、世祖 復た均の子 志を封じて褒成侯と為す。志 卒し、子の損 嗣ぐ。永元四年に、徙りて褒亭侯に封ぜらる。損 卒し、子の曜 嗣ぐ。曜 卒し、子の完 嗣ぐ。世世相伝へ、献帝の初に至りて、国 絶ゆ〔原注65〕
  • 65 臣賢の案ずるに、献帝の後ち魏に至り、孔子二十一葉の孫・羨を封じて崇聖侯と為す。晋は二十三葉の孫・震を封じて奉聖亭侯と為す。後魏は二十七葉の孫・乗を封じて崇聖大夫と為す。太和十九年、孝文 魯に幸き、親ら孔子廟を祠り、又た改めて二十八葉の孫・珍を封じて崇聖侯と為す。北斉は改めて三十一葉の孫を封じて恭聖侯と為す。周の武帝は斉を平げ、改めて鄒国公に封じ、隋の文帝は旧に仍りて鄒国公に封じ、隋の煬帝は改封して紹聖侯と為す。貞観十一年、夫子の裔孫の子・徳倫を封じて褒聖侯と為し、倫は今に見存す。
◆現代語訳◆
 孔僖は字を仲和と言い、魯国魯県の出身である。孔安国よりこのかた、代々「古文尚書」「毛詩」を相伝してきた。曽祖父の子建は若くして長安に遊学し、崔篆と仲が善かった。崔篆が王莽に仕えて建新大尹となったとき、一度 子建にも王莽に出仕することを勧めた。子建はそれに対して、「吾(わたし)には在野の志があり、子(きみ)には立身の志がある。お互いに好きな道を行けばいいじゃないか。それぞれ進むべき道が反対になってしまった。ここからは決別しよう」と言った。そして魯国に帰り、自宅で(=無位の身で)臨終した。
 孔僖も崔篆の孫の崔[馬+因 Unicode : 99F0]と仲が善かった。二人も同様に太学に遊学し、孔僖は春秋を学んだ。あるとき呉王夫差の故事を読み、僖は本を置くと溜息をついて言った。「こういうのを、いわゆる『龍を描こうと思って失敗し、むしろ犬になる』というんだろうね」と。崔[馬+因 Unicode : 99F0]、「そうだね。そのかみ孝武皇帝(=前漢の武帝)が天子になられたとき、年齢はまさに春秋に富む十八歳だったけれど、儒教を尊んで先王の道に則り、五、六年の間は文帝・景帝の政策を踏襲されたよね。のち(竇后や田[虫+分 Unicode : 86A1]らが死に)親政を始めて自由にふるまうようになると、それまでの善政を忘れてしまったんだね」と。僖、「書伝にはこんなことがたくさん載ってるな」と。隣房の学生であった梁郁が二人の会話に調子を合わせて、「それなら武帝は犬だってことだよね」と言うと、孔僖と崔[馬+因 Unicode : 99F0]は(軽々しく応じるわけにいかず)黙ったまま返事をしなかった。郁は怒ってこのことを恨み、ひそかに上書して、「崔[馬+因 Unicode : 99F0]と孔僖とが先帝を誹謗し、(そのことで暗に)当世を刺譏しております」と告発した。ことは有司に下げわたされ、崔[馬+因 Unicode : 99F0]の許に役人がやってきて尋問を受けた。孔僖はすぐにも捕吏がやってきそうな気配で、処罰されることを恐れた。そこで粛宗に上書し、自ら訴えて言った。「臣(わたくし)が愚かにも考えてみますに、およそ世の中の誹謗中傷を口にするものは、すべて事実無根のことばかりを並べ立て、虚偽を捏造して誣告しているのでございます。孝武皇帝のような昔のことについては、その統治の善悪は漢の歴史書に顕在し、明らかなることは日月のようでございます。このような書伝の事実を直言することは、なんら虚偽誹謗には当らないものです。およそ王者が善をなせば天下の善はすべて王者の功績と見なされ、もし不善をなせば天下の悪がすべて王者の責任となるのでございます。これらはいずれも王者自身の得失によるものであって、悪く言われたとて他人を処罰することはできません。そのうえ陛下は即位よりこのかた、政治・教化ともにいまだなんらの過失なく、恩沢がますます加えられていることは、天下が等しく存じておるところで、臣等だけがどうして当世を譏刺いたしましょうぞ。たとえ事実でないところがあったとしても、もとより改悛に導くべきであり、万一当を得ないことであっても、できるかぎり受容すべきで、どうして処罰していいものでしょうか。陛下が大条理をお考えになり、御自ら深謀をめぐらさなければ、それはただ私憤に駆られたものであって、ご自身の鬱憤を晴らすだけのことになります。臣等は誅罰をお受けし、死罪であればただ死ぬばかりなのですが、天下の人々を顧みるとき、必ずそのことを省みてたやすく内情に気づくでしょうから、このことから陛下の大御心を窺うことになりましょう。これ以後、かりに宜しからぬことを目にすることがあっても、もはや二度と直言するものがいなくなるでしょう。臣が己の死を惜しまず、それでもあえて極言する理由は、心から陛下のためにこの一大事(=軽々しく風聞を信じて重罪に処すことで衆望を失い、直言の道を封ずること)を深く惜めばこそなのです。陛下がもし自らこのことを惜まなければ、臣(わたくし)はなにを頼みとすればいいのでしょうか。斉の桓公は自ら先君の悪かったところを明らかにし、それによって管仲を称揚したので、そののち群臣は忠誠心を尽くすことができたのです。いま陛下が十世の祖である武帝を以て、事実を遠ざけて避けようとなされば、どうして桓公と同じだと言えましょうか。臣は有司に突如逮捕されて、私情によって冤罪を被り、自ら申し上げる機会が奪われることや、また後世の論者に好き勝手に陛下を(歴史上の暴君などに)引き比べる機会を与えてしまうことを恐れます。どうしてまた子孫の口を覆うことができるでしょうか。謹んで不備の文を奉り、伏して重罰を待つことにいたします」と。帝は最初から僖らに悪意がないと思し召しになっていたが、書状が奏上されると(さらにそのことを確信されて)、その場で詔を下して不問に付し、僖を蘭台令史に拝命した。
 元和二年春、帝は巡察のため京師から東へ出られた。帰りがけ魯国を通過した際、孔子の故地に寄られ、太牢を捧げて孔子と七十二弟子を祀り、六代の楽を上演させた。さらに孔一族の男子で二十歳以上のもの六十三人を大いに集め、儒者に命じて(孔子にちなんで)『論語』を講義させた。僖はそのために恐縮してお詫び申し上げた。帝が、「今日の会は、むしろ卿(そなた)の宗族にとって光栄なことではないか(なにも詫びることではあるまい)」と仰せになると、孔僖は、「臣(わたくし)は、明主聖王たるものは師を敬い道を尊ばないことがないと聞いております。いま陛下は万乗を曲げて、ありがたいことに弊村にご親臨あそばされましたけれど、これぞ先師に礼を尽くして敬い、陛下ご自身のご聖徳をいやまし輝かすことにほかなりません。身に余る光栄でございますので、あえてお受けすることができないのでございます」と答えた。帝の大いに笑って言われた。「さすが聖者の子孫でなくて、どうしてかくも礼にかなった言葉が吐けるだろうか」と。こうして僖を郎中に拝命し、褒成侯の孔損および孔氏の男女に銭帛を下賜され、僖に対して一緒に京師に戻るようお命じになり、東観において書籍を校定させることにした。
 その歳の冬に臨晋県の県令を拝命したが、親友の崔[馬+因 Unicode : 99F0]が崔家に伝わる易林の書で占ってみたところ、不吉だと出た。そこで僖を制止して、「子(きみ)はどうして辞退しないのかね(=今回の赴任は避けたほうがよい)」と言ったところ、僖は、「『学問は他人のためにするのでない(から自分の好きに選択することができる)が、出仕したら(他人から俸禄をもらうのだから)任官を選ぶことはできない』と言う。凶と出るか吉と出るかは自分じしんの行いよるもので、占いの結果によってどうなるものでもないだろう」と言った。赴任して三年目に在職中に卒去し、この地で葬儀を行うよう遺言した。
 孔僖が死んだとき、二人の息子、長彦と季彦とはともに十数歳だった。蒲坂県の県令だった許君然は、二人に孔家の故地である魯国に帰るよう勧めた。ところが二人は、「いま棺を車に載せて魯国に帰れば父の遺命に背くことになります。と言って父の亡骸を墓所に置き去りにして当地を離れることは、親子の情として忍びないところです」と答え、とうとう華陰の地に留まることにした。
 長彦は章句の学問を好み、季彦は孔家の学業を守ってともに数百人の門人に教えていた。延光元年に河西の地に激しく雹雨が降り、雹は最大のもので大升ほどもあった。安帝は詔勅を下して、学問の士に変災を究明して述べさせた。このとき季彦を召し出して徳陽殿で謁見し、帝が親しく変災の原因をご下問になった。季彦がお答えして言うには、「これは陰の気が陽の気に勝っている徴候でございます。いま貴臣は権をほしいままにし、お母上のご一党は威勢を誇っております。陛下におかれてはなにとぞ聖徳を修めて、この二者を熟慮くださいませ(=英断を下して宦官と外戚とを除きますように)」と。それを聞いて帝は黙然とし、左右の近臣はみな彼を恨み憎んだ。のちに郡が孝廉に推挙したが官に就かなかった。延光三年、享年四十七歳のとき自宅で(=無位のまま)臨終した。
 かつて前漢の平帝の時代に王莽が摂政となったとき、孔子の後裔の孔均を封じて褒成侯とし、孔子に追尊して「褒成宣尼」と謚名した。王莽が敗死すると諸侯の身分を失ったが、建武十三年に世祖光武帝は改めて孔均の息子の孔志を封じて褒成侯とした。孔志が薨去すると、その息子の孔損が爵位を継いだ。永元四年には転封されて褒亭侯に封じられた。孔損が薨去すると、その息子の孔曜が爵位を継ぎ、孔曜が薨去すると、その息子の孔完が爵位を継いだ。代々爵位を伝え、献帝の初年になって諸侯の身分が断絶した。
〔補 注〕

東への巡狩は、『礼記』王制篇の「歳の二月には、東に巡守して、岱宗に至る」とあるのをふまえる。
〈楊 倫〉
 楊倫 字は仲理、陳留・東昏の人なり。少くして諸生と為り、司徒の丁鴻に師事し、古文尚書を習ふ。郡の文学掾と為る。更に数将を歴するも、志 時に乖き、人間の事を能くせざるを以て、遂に職を去り、復た州郡の命に応じず。大沢の中に講授して、弟子 千余人に至る。元初中に、郡 礼もて請じ、三府 並に辟し、公車の徴するも、皆な辞疾して就かず。
 後に特に博士に徴されて、清河王の傅と為る。是の歳、安帝 崩ずるに、倫 輒ち官を弃てゝ喪に奔り、闕下に号泣して声を絶たず。閻太后 其の専擅(ほしいまゝ)に職を去るを以て、坐して罪に抵(あた)る。
 順帝 即位するや、詔して倫の刑を免じ、遂に留めて喪を恭陵に行はしむ。服 [門+癸 Unicode : 95CB](をは)り、徴されて侍中を拝す。是の時 邵陵の令の任嘉は職に在りて貪穢、因りて武威太守に遷り、後ち有司の嘉が臧罪千万なるを奏し、徴して廷尉に考するに、其の牽染する所の将相大臣は百有余人。倫 乃ち上書して曰く、「臣聞く 『春秋』は悪を誅するには本に及ぶ、本 誅せらるれば則ち悪 消ゆ。裘を振(とゝの)ふには領を持す、領 正しければ則ち毛 理なり。今 任嘉は狼藉に坐する所にして、未だ辜戮を受けざるに、猥(みだり)に垢身を以て、典を大郡に改め、自りて坐挙する者を案ずるに非らずんば、以て姦萌を禁絶ずる無けん。往者(さき)に湖陸の令の張畳・蕭の令の駟賢・徐州刺史の劉福等、釁穢 既に章にして、咸く其の誅に伏すれども、豺狼の吏の今に至るも絶えざるは、豈に本挙の主の之に罪を加へざるに非らざるや。昔 斉威の覇たるは、姦臣五人を殺し、并せて挙ぐる者に及び、以て謗[讀+言 Unicode : 889F]を弭(や)むればなり。当断不断は、黄石の戒むる所〔原注66〕。夫れ聖王の僮夫匹婦の言を聴く所以は、猶ほ塵を嵩岱に加へ、霧を淮海に集(くは)ふるがごとく、未だ益有らずと雖も、損と為らざればなり。惟れ陛下 神に留めて省察せよ」と。奏御するに、有司 倫の言の切直にして、辞の遜順ならざるを以て、之を下す。尚書 倫を奏するに密事を探知し、激するに直を求むるを以てす。不敬に坐し、鬼薪に結す〔原注67〕。詔書して倫の数ゝ忠言を進むるを以て、特に之を原(ゆる)し、免じて田里に帰す。
  • 66 黄石公『三略』に曰く、「当に断ずべきを断ぜずんば、反つて其の乱を受く」と(逸文)。
  • 67 結は、其の罪を正すなり。鬼薪は、薪を取りて以て宗廟に給す、三歳の刑なり。
 陽嘉二年、徴されて太中大夫を拝す。大将軍・梁商 以て長史と為す。諌諍 合はず、出でゝ常山王の傅に補さるゝも、病もて官に之かず。詔書もて司隸に勅して発遣を催促するも、倫は乃ち河内の朝歌に留まり、疾を以て自ら上して曰く、「死を留めること一尺有るも、北行すること一寸無し。刎頸 易からず、九裂 恨みず〔原注68〕。匹夫の執る所、三軍より彊(つよ)〔原注69〕。固く敢て辞す有り」と。帝 乃ち詔を下して曰く、「倫 幽(くら)きを出でゝ高きに升り〔原注70〕、寵は藩傅を以てするも、王命を稽留して、擅に道路に止り、疾に託して自ら従ひ、苟(まこと)に狷志を肆にす」と〔原注71〕。遂に徴して廷尉に詣すも、詔有りて罪を原す。
  • 68 裂は、死なり。『楚詞』に「九死すと雖も其れ猶ほ未だ悔いず」と曰ふなり(離騒)。
  • 69 『論語』に曰く、「三軍も帥を奪ふ可く、匹夫も志を奪ふ可らず」と(子罕)。
  • 70 『詩』に曰く、「幽谷より出で、喬木に升る」と(小雅・伐木)。
  • 71 狷は、狂狷なり。音は絹。
 倫 前後三たび徴さるゝも、皆な直諌を以て合はず。既に帰り、門を閉ぢて講授し、自ら人事を絶つ。公車 復た徴するも、遜遁して行かず、家に卒す〔原注72〕
  • 72 遁は、逃なり。
◆現代語訳◆
 楊倫は字を仲理と言い、陳留郡東昏県の出身である。若くして太学の学生となり、司徒の丁鴻に師事して「古文尚書」を学んだ。卒業してからは郡の文学掾となる。さらにいくつかの役職を歴任したものの、自分の思いが時節と合わず、世の中の俗事に携わるのが苦手だったので、とうとう退職してふたたび州郡の任命に応じなかった。大沢のあたりで学舎を構えて講義したところ、入門した弟子は千余人にも上った。元初年間に郡が礼を尽くして招き、三府がいずれも召し出し、公車令が徴用したけれど、どれにも病気を理由して就任しなかった。
 後に(皇帝からの)特段の配慮によって博士の官に徴用されて、清河王の守り役となった。この歳に安帝が崩御されると、倫はただちに守り役の職を捨てて大喪に馳せ参じ、御門の下で号泣して哀哭をやめなかった。閻太后は彼が勝手に職を去ったことを重く見て(有司に下げわたしたところ)、法に触れて処罰の対象と見なされた。
 順帝が即位すると、詔を下して倫の刑を免じ、清河に送り返さず京師に留めて(安帝の御陵の)恭陵で服喪を行わせた。喪が明けると召し出されて侍中を拝命した。このころ、邵陵県の令であった任嘉は汚職をして賄賂を貪り、得た金員を使って武威郡の太守に遷任されたものの、後日有司によって任嘉の収賄が千万銭に及ぶことが奏上された。ことは廷尉に回されて捜査が続けられたところ、任嘉との癒着が疑われた将相大臣は百余人に及んだ。倫はこのことについて上書して言った。「臣(わたくし)は、〈『春秋』では悪を誅するときには大本(おおもと)を追及すべきであり、大本が誅されれば悪は消滅する〉〈裘(かわごもろ)を調えるには襟をしっかり持つこと、襟が正しくなれば毛のきめは自然と調えられる〉と聞いております。いま任嘉が不行状によって罪に問われたばかりで、本人がまだ罪に服しておらぬうちから、汚らわしい彼の行為によって、乱暴に地方において法律を改正することを急ぎ、罪を犯したものと密告したものとを処分しないのであれば、悪人を生み出す土壌を禁絶することはできないでしょう。さきに湖陸県の令の張畳・蕭県の令の駟賢・徐州刺史の劉福らについて、収賄罪が明らかになって全員罪に服しましたが、にもかかわらず豺狼のごとき役人どもが今に至るまで絶えませんのは、主犯と密告者とに罪を加えないからではないでしょうか。そのむかし斉の威王が覇を唱えることができましたのは、姦臣五人を殺して、あわせて密告者をも処分し、それによって誹謗合戦を止めさせたからでございます。まさに処分すべきものを処分しないでおくことは、黄石公が戒めたところです。そもそも聖王が匹夫匹婦の言葉に耳を傾ける理由は、塵を嵩山や岱山に加え、霧を淮水や大海に注ぐようなもので、大した利益にもならないとはいえ、害にはならないからです。(その塵や霧のような私の愚論ではございますが)陛下にはこのことをお心に留めてご省察くださいますように」と。奏上されると、役人たちは倫の言辞が切直で不遜であるとして審理に回した。尚書の役人たちは倫を告発するために私事の秘密を探り出し、直諌を行ったことも罪状に加えられた。その結果不敬罪に抵触し、鬼薪の刑に帰することになった。詔があって、倫がしばしば忠言を進めたことを考慮し、特別に赦され罷免されて田舎に帰された。
 陽嘉二年にまた徴用されて太中大夫を拝命した。大将軍の梁商が彼を長史として取り立てたが、たびたび諌争してしっくり行かなくなり、中央から出されて常山王の守り役に補任されたものの、病気を理由に任地に出立しなかった。詔書が下されて司隸校尉に命じて出発を催促したが、倫は河内の朝歌に留まって、病気を理由に自ら上書して申し上げた。「いま出立することで死への道程を一尺ばかり伸ばすことができましても、(常山を目指して)一寸たりとも北へ行くつもりはございません。首を切り落とされるのは大事(おおごと)ではございますが、このうえは九たび死ぬことになろうともお恨み申しません。匹夫の堅く持するところは、三軍よりも強いと申します。あえて固辞いたします」と。帝はそのためお言葉を下されて、「倫は卑い身分から抜擢されて高位に登り、諸王の守り役に取り立てられるほどの寵愛を受けながら、勅命をおろそかにして勝手に道中にとどまり、病気にかこつけ自分の意に従って好き放題に片意地を張っている」と仰せになった。とうとう呼び戻されて廷尉に下げ渡されたが、やはり詔があって罪を赦された。
 倫は前後三度にわたって徴用されたものの、いずれも直諌したことが差し障りになって上の者と意見が合わなかった。田舎に帰ってからは、門を閉じて講義に専念し、自ら人との交わりを絶った。公車令がふたたび徴用したけれど隠遁して出仕せず、自宅で(=無位の身で)卒去した。
〔補 注〕

■楊倫の出仕のことは、後漢書方術伝・樊英の条に、「安帝の初めに、徴して博士と為る。建光元年に至り、復た公車に詔して策書を賜ひ、英 及び同郡の孔喬・李[日+丙 Unicode : 663A]・北海の郎宗・陳留の楊倫・東平の王輔の六人を徴するも、唯だ郎宗・楊倫のみ洛陽に到り、英等四人は並びに至らず」と見える。安帝が特に策書に名を示して徴発するように命じたため、楊倫も断れなかったのであろう。
■春秋の儀、未詳。
■振裘持領の句、『孟子』尽心章句上第四十七章趙氏章指に見える。

 中興するや、北海の牟融は大夏侯尚書を習ひ、東海の王良は小夏侯尚書を習ひ、沛国の桓栄は欧陽尚書を習ふ。栄は世ゝ習ひて相伝授し、東京に最も盛ん。扶風の杜林は古文尚書を伝へ、林の同郡の賈逵は之が為に訓を作(な)し、馬融は伝を作し、鄭玄は注解し、是より古文尚書は遂に世に顕る。
◆現代語訳◆
 後漢が中興してからは、北海郡の牟融は「大夏侯尚書」を学び、東海郡の王良は「小夏侯尚書」を学び、沛国の桓栄は「欧陽尚書」を学んだ。桓栄の学問は何世代も受け継がれて伝授され、洛陽では尚書家として最も盛んである。右扶風の杜林は「古文尚書」を伝え、杜林と同郡の賈逵はその訓を作り、馬融は伝を作り、鄭玄は注解を施した。この三人の努力により「古文尚書」はついに世に出て注目されるようになった。