史   記 卷一百二十一
儒 林 列 傳 第 六 十 一〔原注1〕
前漢の司馬遷の撰 
劉宋の裴駰の集解 
唐の司馬貞の索隱 
唐の張守節の正義 
【本 文】 【三家注】
 太史公の曰く、余 功令を讀み〔原注2〕、學官を廣むるの路に至るごとに、未だ嘗て書を廢して歎んぜずんばあらざるなり。曰く、嗟乎(あゝ)、夫(そ)れ周室 衰へて關雎 作(な)り、幽厲 微にして禮樂 壞(こぼ)ち、諸侯は恣(ほしいまゝ)に行ひ、政は彊國に由ると。故に孔子 王路の廢れて邪道の興れるを閔(あはれ)み、是(こゝ)に於て詩書を論次して、禮樂を修起す。齊に適(ゆ)きて韶を聞き、三月肉味を知らず。衞より魯に返り、然(しか)る後(の)ち樂 正しく、雅頌 各〻其の所を得〔原注3〕。世 混濁を以て能く用ふる莫く、是を以て仲尼 七十餘君〔原注4〕に干(もと)むるも遇する所無し。曰く、「苟(いやしく)も我を用ふる者有らば、期月なるのみ」と。西に狩して麟を獲る。曰く、「吾が道 窮まれり」と。故に史記に因りて春秋を作り、以て王法に當て、以て辭 微にして指 博(ひろ)く、後世の學者 多く焉(これ)に錄す〔原注5〕
  • 1 〔正義〕姚承の云はく、「儒は博士を謂ひ、(儒林とは)儒雅の林たり。古文を綜理し、旧芸を宣明す。咸く儒者を勧むるは、以て王化を成す者なり」と。
  • 2 〔索隠〕案ずるに、学者の課功の之を令に著はすを謂ひ、即ち今の「学令」是なり。
  • 3 〔正義〕鄭玄の云はく、「魯の哀公十一年。是の時 道衰へ楽廃るれば、孔子 還りて、之を修正す。故に雅頌 各〻其の所を得るなり」と。
  • 4 〔索隠〕案ずるに、後の記者の辞を失するなり。『家語』等の説を案ずるに、孔子の諸国を歴聘して、能く用ふる莫きを云ひて、周・鄭・斉・宋・曹・衛・陳・楚・杞・莒・匡等を謂ふ。縦ひ小国を歴するも、亦た七十余国も無きなり。
  • 5 〔集解〕徐広の曰く、「録、一に『繆』に作る」と。
 孔子の卒してより後ち、七十子の徒は諸侯を散游し、大なる者は師傅・ 卿相と爲り〔原注6〕、小なる者は士大夫に友敎し、或は隱れて見(あらは)れず。故に子路は衞に居り〔原注7〕、子張は陳に居り〔原注8〕、澹臺子羽は楚に居り〔原注9〕、子夏は西河に居り〔原注10〕、子貢は齊に終る〔原注11〕。田子方・段干木・吳起・禽滑釐の屬の如きは、皆な業を子夏の倫(ともがら)に受け、王者の師と爲る。是の時 獨り魏の文侯のみ學を好む。後ち陵遲して以て始皇に至るまで、天下 並びに戰國に爭ひて、儒術 旣に絀(しりぞ)けらるゝに、然れども斉・魯の間は、學者の獨り廢さゞるなり。威・宣の際に於ては、孟子・荀卿の列、咸(み)な夫子の業に遵(したが)ひて之を潤色し、學を以て當世に顯はる。
  • 6 〔索隠〕案ずるに、子夏は魏の文侯の師と為る。子貢の斉・魯の為に呉・越に聘するも、蓋し亦た卿なればなり。而して宰予も亦た斉に仕へて卿と為る。余は未だ聞かざるなり。
  • 7 〔集解〕案ずるに、『仲尼弟子列伝』に子路の衛に死せると、時に孔子 尚ほ存するなり。
  • 8 〔正義〕今の陳州なり。
  • 9 〔正義〕今の蘇州城の南五里に澹台湖有り、湖北に澹台有り。
  • 10 〔正義〕今の汾州なり。
  • 11 〔正義〕今の青州なり。
 秦の季世に至り、詩書を焚きて、術士を阬(あなうめ)にするに及び〔原注12〕、六藝此れより欠けり。陳涉の王となるや、而(すなは)ち魯の諸儒は孔氏の禮器を持して往きて陳王に歸す。是に於て孔甲は陳涉の博士と爲り〔原注13、卒(つひ)に涉と倶に死す。陳涉は匹夫より起り、驅つて適戍を瓦合し〔原注14〕、旬月にして以て楚に王たるも、半歲に滿たずして竟(つひ)に滅亡す。其の事 至つて微淺なるに、然り而うして縉紳先生の徒の、孔子の禮器を負ひ往きて委質して臣と爲る者は、何ぞや。秦の其の業を焚くを以て、怨を積みて陳王に發憤すればなり。
  • 12 〔正義〕顔の云はく、「今の新豊県の温湯の処を愍儒郷と号す。温湯の西南三里に馬谷有り、谷の西岸に阬有り、古へより相伝ふるに以て秦が儒を阬(あなうめ)せる処と為すなり。衛宏の『詔定古文尚書序』に、『秦 既に書を焚くに、天下の改更する所の法に従はざるを恐れる。而して諸生の到れる者の拝して郎と為ること、前後七百人あり。乃ち密に瓜を驪山の陵谷中の温処に種(う)へ、瓜実 成るに、博士・諸生に詔して之を説かしむれば、人言 同じからず、乃ち就きて視しむ。伏機を為(つく)り、諸生・賢儒の皆な焉(こゝ)至り、方に相難じて決せざらんとするに、因りて機を発し、上より之を填するに土を以てすれば、皆な圧し、終に乃ち声無し』と云ふなり」と。
  • 13 〔集解〕徐広の曰く、「孔子 八世の孫、名は鮒 字は甲なり」と。
  • 14 〔索隠〕上音は丁革の反。
 高帝の項籍を誅するに及び、兵を舉げて魯を圍むも、魯中の諸儒は尙ほ講誦して禮樂を習ひ、弦歌の音 絕えず。豈(あ)に聖人の化を遺して、禮樂を好むの國に非らざるかな。故に孔子の陳に在(いま)して曰く、「歸らんか歸らんか。吾が黨の小子 狂簡、斐然として章を成すも、之を裁する所以を知らず」と。夫れ齊・魯の間の文學に於けるや、古へより以來、其れ天性なり。故に漢の興るや、然る後ち諸儒 始て其の經藝を脩むるを得、大射・鄕飲の禮を講習す。叔孫通は漢の禮儀を作り、因りて太常と爲り、諸生・弟子の定むる者は、咸(ことごと)く選の首(はじめ)と爲る。是に於て喟然として歎じて學を興すも、然れども尙ほ干戈有り、四海を平定すれば〔原注15〕、亦た未だ庠序の事に暇遑(いとま)あらざるなり。孝惠・呂后の時は、公卿 皆な武力もて功有るの臣なり。孝文の時に頗る徵用するも〔原注16〕、然れども孝文帝は本より刑名の言を好む。孝景に至る及びて、儒者を任ぜす、而も竇太后も又た黃老の術を好む。故に諸〻の博士は官に具(そな)へ問を待つのみにして、未だ進む者有らず。
  • 15 〔正義〕顔の云はく、「陳豨・盧綰・韓信・黥布の徒の相次いで反叛すれば、征討するなり」と。
  • 16 〔正義〕孝文の稍ゝ文学の士を用ひて位に居らしむるを言ふ。
 今上の卽位するに及び、趙綰・王臧の屬は儒學に明るく、而(しか)して上も亦た之に鄕(むか)はゞ、是に於て方正・賢良・文學の士を招く。是(これ)より後、詩を言ふもの魯に於ては則ち申培公〔原注17〕、齊に於ては則ち轅固生〔原注18〕、燕に於ては則ち韓太傅なり〔原注19〕。尙書を言ふものは濟南の伏生よりす〔原注20〕。禮を言ふものは魯の高堂生よりす〔原注21〕。易を言ふものは菑川の田生よりす。春秋を言ふもの齊魯に於ては胡毋生よりし〔原注22〕、趙に於ては董仲舒よりす。竇太后の崩ずるに及び、武安侯・田蚡丞相と爲るや、黃老・刑名百家の言を絀(しりぞ)け、文學の儒者を延(ひ)く。而して公孫弘は春秋を以て白衣より天子の三公と爲り〔原注23〕、封ずるに平津侯を以てす。天下の學士 靡然として風に鄕へり。
  • 17 〔集解〕徐広の曰く、「一に『陪』に作る」と。韋昭の曰く、「培は、申公の名。音は扶尤の反」と。〔索隠〕徐広の云はく、「培は、一に『陪』に作る。音は裴」と。韋昭の曰く、「培は、申公の名。音は浮」と。鄒氏、音は普来の反なりと。
  • 18 〔正義〕申・轅は、姓なり。培・固は、名なり。公・生は、其の号する処なり。
  • 19 〔索隠〕韓嬰なり。常山王の太傅と為るなり。
  • 20 〔索隠〕按ずるに、張華は「名は勝」と云ひ、『漢紀』に「字は子賤」と云ふ。
  • 21 〔索隠〕謝承の云はく、「秦氏の季代に魯人・高堂伯有り」と、則ち「伯」は是れ其の字なり。「生」と云ふ者は、漢より已来 儒者皆な「生」、亦た「先生」と号し字を省きて之を呼ぶのみ。
  • 22 〔索隠〕毋の音は無。胡毋は、姓なり。字は子都。
  • 23 〔集解〕徐広の曰く、「一に『斉より天子の三公に為る』と云ふ」と。
 公孫弘の學官と爲るや、道の鬱滯せるを悼(いた)み、乃ち請して曰く、「丞相の御史 言ふ〔原注24〕、制に曰く、『蓋(けだ)し聞く民を導くには禮を以てし、之を風するには樂を以てす。婚姻は、居室の大倫なりと。今 禮の廢れ樂の崩るゝは、朕 甚だ焉(これ)を愍(いた)む。故に詳(つぶさ)に天下の方正・博聞の士を延(ひ)きて、咸(ことごと)く諸(これ)を朝に登す。其れ禮官をして學を勸め、講議洽聞して禮を興し、以て天下の先と爲さしむればなり。太常は、博士・弟子と與(とも)に議して、鄕里の化を崇(たか)め、廣く賢材を以(ひき)ゐよや』と。謹んで太常の臧〔原注25〕・博士の平等と與に議して曰く、『三代の道を聞くに、鄕里に敎有り、夏に校と曰(い)〔原注26〕、殷に序と曰ひ〔原注27〕、周に庠と曰ふと〔原注28〕。其の善を勸むるや、之を朝廷に顯はし、其の惡を懲らすや、之に刑罰を加ふ。故に敎化の行はるゝや、首善を建つること京師より始り、內より外に及ぶ』と。今 陛下の至德を昭(あきら)かにして、大明を開き、天地に配して、人倫に本づき、學を勸め禮を脩(をさ)め、化を崇び賢を(はげ)まし、以て四方を風するは、太平の原なり。古者は政敎 未だ洽(あまね)からず、其の禮を備へずんば、請ふ舊官に因りて焉(これ)を興さんことを。博士の官が爲(ため)に弟子五十人を置き、其の身を復す。太常は民の年十八已上にして、儀狀端正なる者を擇びて、博士の弟子を補ふ。郡・國・縣・道・邑に文學を好みて、長上を敬ひ、政敎を肅(つゝし)みて、鄕里に順(したが)ひ、出入の聞く所に悖(もと)らざる者有らば、令・相・長・丞は上(のぼ)して所の二千石に属し〔原注29〕、二千石は謹んで可なる者を察し、當(まさ)に計と偕(とも)に、太常に詣(いた)して〔原注30〕、業を受くること弟子の如きなるを得るべし。一歲にして皆な輒(すなは)ち試し、能く一藝以上に通ずれば、文學・掌故の欠に補す。其の高弟にして以て郞中と爲す可き者は、太常 籍奏す。卽ち秀才の等を異にするもの有れば、輒ち名を以て聞す。其の學を事とせず下材の若き及び能く一藝に通ぜざるは、輒ち之を罷(や)め、而して諸〻(もろもろ)の稱(かな)はざる者には罰を請ふ。臣 謹んで詔書律令の下せる者を案ずるに、天人の分際を明かにして、古今の義に通じ、文章 爾(そ)れ雅にして、訓辭 深厚〔原注31〕、恩の施すこと甚だ美(あつ)し。小吏は聞に淺く、究宣すること能はず、以て明かに下に布諭すること無し。以て治禮・掌故は〔原注32〕、文學・禮義を以て官と爲るも、遷 留滯す。請ふ其の秩比二百石以上、及び吏の百石にして一藝以上に通ぜるを選擇して、左右內史〔原注33〕・大行の卒史に補し、比百石已下は、郡太守の卒史に補し、皆な各〻二人、邊郡は一人なるを。先づ多くを誦する者を用ひ、若し足らずんば、乃(すなは)ち掌故を擇びて中二千石の屬に補して〔原注34〕、文學・掌故を郡の屬に補し、員に備へよ〔原注35〕。請ふ功令に著はし、佗は律令の如くならんことを」と。制に曰く、「可なり」と。此れより以來、則ち公卿・大夫・士・吏は斌斌として文學の士を多くせり。
  • 24 〔正義〕此れより以下は、皆な弘が奏請の辞なり。
  • 25 〔集解〕『漢書』百官表に孔臧なりと。
  • 26 〔正義〕校は、教なり。道芸を教ふる可きなり。
  • 27 〔正義〕序は、舒なり。礼教を舒するを言ふ。
  • 28 〔正義〕庠は、詳なり。経典を詳(つまびらか)にするを言ふ。
  • 29 〔索隠〕上は時両の反。属の音は燭。属は、委なり。所の二千石は、所部に於ての郡守の相を謂ふ。
  • 30 〔索隠〕計は、計吏なり。偕は、倶なり。計吏と倶に太常に詣らしむるを謂ふなり。
  • 31 〔集解〕詔書の文章 雅正にして、訓辞 深厚なるを謂ふなり。
  • 32 〔索隠〕徐広の曰く、「一に『次治礼学掌故』と云ふ」と。
  • 33 〔正義〕案ずるに、左右の内史 後ち改めて左馮翊・右扶風と為る。
  • 34 〔索隠〕蘇林の曰く、「属も亦た曹吏なり、今 県官の文書の解に『属某甲』と云ふ」と。
  • 35 〔索隠〕如淳の曰く、「『漢儀』に弟子の射策は、甲科は百人を郎中に補し、乙科は二百人を太子舎人を補す。皆な秩比 二百石。次いで郡国の文学は、秩百石なりと」と。
◆現代語訳◆
 太史公のいわく、
 余
(わたくし)は『功令』を読み、「学官を立てて学問を広める道」に関するページに至るたびに、一度として書を置いて歎息しないことはなかった。『功令』には、「ああ、周室が式微して関雎の詩が生まれ、幽王や厲王などの徳薄い君主が出て礼楽の制を破壊してしまってからは、諸侯が好き勝手に行動し、政治の舵取りは強国に委ねられた」とある。孔子は王道が廃れて邪道が立ち現れようとすることに憐愍を抱き、そこで「詩」や「書」を論じて次序を整え、礼楽の道を修復して世に建てた。その間、斉に行って(帝舜の楽である)「韶」を聞いて三ヶ月にわたって肉の味が分からなくなるほどの感動を経験したり、衛から魯に帰国して(弟子たちと文化諸般を修復した結果)ようやく楽は正しくなり、雅(儀礼の楽の歌詞)・頌(祭祀の楽の歌詞)はそれぞれあるべきところに帰したのである。しかしながら世の中は混迷しており、それらの成果を活用するものがいなかった。そのため孔子は七十余人の君主に仕官を求めたが優遇されることがなかったのである。たがら「かりに我(わたくし)を用いてくれるものがいたら、一年もあればやってみせるのだが」と言い、哀公が西で狩をして麟を手に入れたときには、「吾(わたくし)が求めてきた道もここに窮まった(=ついに終わった。道が到来することはない、の意)」と言ったのだ。そこで魯の国史にもとにして『春秋』を作り、その中で史実を王道の法に照らし合わせた。その言辞は隠微だが意味するところは該博で、後世の学者の多くがこれに基づいて記録している。
 孔子の没後、七十有余人の弟子たちはそれぞれ諸侯の間を遊説してまわり、大なるものは諸侯の師傅や一国の卿相となり、小なるものでも士大夫と交友して教導し、あるいは隠遁して姿を隠した。それゆえに子路は衛に住み、子張は陳に住み、澹台子羽は楚に住み、子夏は西河に住み、子貢は斉にその身を終えた。田子方・段干木・呉起・禽滑釐の類の人々は、みな子夏の仲間に師事して学業を受けて王者の師となったのである。このころはただ魏の文侯だけが学問を好んだ。文侯の没後には学問を尊ぶ気風が次第に衰え、秦の始皇帝による統一に至るまで、天下はいずこも戦国の世に争い、儒学は退けられたままだった。しかしながら斉・魯の地方だけは、学者たちがどうにか学業を廃さないよう努めた。斉の威王・宣王の時代には、孟子や荀子のような人々がみな夫子の遺業に従い、さらにそれを潤色し、高い学識によって世の中に名を顕した。
 秦の季の世(=徳の衰えた時代)になると、「詩」や「書」などの経典を焚いて経術の士を生き埋めにしたため、六経はこれ以後残欠するようになった。陳渉が王号を唱えると、魯の諸儒は孔氏の礼器を捧げ持って陳王の許に奔って帰順した。こうして孔甲は陳渉の博士となり、最後には渉と生死を共にしたのである。陳渉は匹夫より身を起こし、駆けずり回って流罪となって国境警備に回された兵士などを寄せ集め、旗揚げ十ヶ月ほどで楚で王号を唱えるほどになったが、半年も経たないうちにとうとう滅亡してしまった。その事績は非常に微々たるものであるのに、それにもかかわらず世の縉紳先生たちが、孔子の礼器を背負って彼の許に奔り、身を委ねて臣従したのはなぜであろうか。秦が彼らの経典を焚いた(り、学者を生き埋めにしたりして弾圧を加えた)ために、怨みが積もり積もって陳王に仕え(て秦を打倒す)ることで発憤しようとしたからである。
 高帝は項羽を倒したあと、全軍を挙げて(項羽に味方して漢の軍門に降らなかった)魯を包囲したが、魯の諸儒はそのさなかにも講誦して礼楽を学び、弦歌の音が途絶えなかった。まったく聖人の教化を今に遺(のこ)して、礼楽を好む国と言うべきではないだろうか。だから孔子が陳にいたときに、「魯に帰ろうか、魯に帰ろうか。吾(わし)の郷党(むら)の若い連中はむやみに進取の志が大きく、学義を穿鑿してすばらしい文章を作ることができるようになったが、まだ節度をもってこれを整えることができないでいるようだ」(古注)と言っ(て魯に帰っ)た。およそ斉・魯のあたりで学問が盛んなのは、古来その地の天性の風習である(だからこそその地に学問が遺されたのである)。それゆえ漢が建国されると、諸儒はようやくその地に遺された経学を学ぶことができるようになり、大射礼や郷飲酒の礼法を講習したのである。(魯国薛県出身の)叔孫通は漢の礼儀を作り、そのため太常となったが、彼とともに諸礼を制定した諸生や弟子たちは、みなまっさきに選ばれて郎官に登用された。こうして(整った礼儀を目にした高祖は)感嘆して学問を振興させようとしたが、しかしながらまだ戦が続き、四海を平定している最中だったので、まだ学校を建設(して本格的に学問を普及)する時間がなかったのである。恵帝や呂后の治世には、公卿はみな開国のときに武功によって立身した臣下ばかりだった。文帝の治世になってわずかばかり文官を徴用したが、しかしながら文帝はもともと刑名の学を好まれた。景帝の治世になると儒者を任用しなくなり、しかも竇太后は黄老の術を好まれた。そのため諸家の博士はただ官制の員数どおり形式的として置かれているだけで、それ以上累進するものはいなかった。
  今上(=武帝)が即位すると、趙綰や王臧などの儒学に明るいものが登用され、しかも御上(おかみ)も雅儒に心を向けられたので、かくして方正・賢良・文学の士を招くことになった。これ以後、周詩を説くものとしては、魯においては申培公がおり、斉においては轅固生がおり、燕においては韓嬰がいた。尚書を説くものは済南郡の伏勝を祖とする。礼を説くものは魯国の高堂生を祖とする。周易を説くものは菑川国の田何を祖とする。春秋を説くものは、斉・魯地方においては胡毋生を祖とし、趙国においては董仲舒を祖とする。竇太后の崩じて武安侯・田蚡が丞相となると、(それまで重んじられてきた)黄老・刑名・百家の学問を一掃し、文雅を修めた儒者を抜擢した。こうして公孫弘は春秋に明るいことを理由に無位無官の身から出世して中央政府の三公となり、平津侯を封じられた。かくて天下の学士は草が風に靡くようにこの気風に心を向けたのである。
 公孫弘が学官として登用されると、学問の道の停滞していることを悲しんで、次のように奏請した。「丞相の御史が申し上げます。制詔によりますと、『朕はこのように聞いている。人民を導くには礼を用い、人民を教化するには楽を用いる。婚姻のことは家庭における最大の倫理であると。いま礼制度が廃(すた)れ音楽が乱れているが、朕は非常にこのことを気に病んでいる。そのため天下の方正・博聞の士を漏れなく登用して、全員を朝廷の役職に就けたのだ。それもこれも礼官に学問を勧奨させ、講義議論して学識を広めさせることで礼教を振興し、それによって天下の先導役となってほしいと思ったからである。太常は博士や弟子とともに議論して、儒学による教化を高めることと、広く人材を集める術を検討せよ』とございます。謹んで太常の孔臧・博士の某平らとともに議論しましたところ、次のような結論に至りました。『三代の道について聞いたところでは、地域に教育施設があったと。夏代には校と言い、殷代に序と言い、周代に庠と言った。学生たちのうち善く学んでいるものをさらに勧奨するために朝廷で顕彰(して任官)し、成績の悪いものを懲戒するために刑罰を加える。それゆえ教化が行われるときには、まず初めに京師(みやこ)において最優秀の学生を顕彰し、中央から次第に地方へ普及させるものだ(=いきなり地域での学問振興を期待することはできない)』と。いま陛下が最高の徳を天下に示して明察なる叡慮をお開きになり、(その徳と叡慮とは)天地にも匹敵するほどで、(その上)人倫に基づいて学問を勧奨して礼制を完備し、教化の道を尊んで賢人を励まされ、それによって四方を風化しようとされていることは、まこと太平を導く大本(おおもと)でございます。昔は政教がまだ行き渡っておらず、その礼制を具備することができませんでした。旧来の官制をもとにして政教を勃興させ(礼制を定め)ることをお許しください。博士の官を応援するために(博士一人につき?)弟子五十人を置き、弟子になったものは夫役を免除します。太常は人民のうち十八歳以上で容儀行状の優れたものを選び、博士の弟子に補充します。郡・国・県・道・邑において学問を好み、長上を敬い、政教(政策と教化)に謹厳で、郷里において従順で、その言動が評判どおりであるものがいたら、県令・諸侯の相・小県の長・県丞らの役人は所属の二千石に推挙し、二千石はその中でさらに良いものを慎重に選び、計吏といっしょに太常の許へ送り、博士の弟子と同じように学業を受けることができるようにします。一年ごとに全員を対象に試験を行い、一経以上に精通することができたものは、文学・掌故の官の欠員に補充します。特に優秀な弟子で朝廷の郎中とすることができるものについては、太常が別に名簿を作って奏上します。非常な秀才でレベルが段違いのものがいたときには、名を挙げて上聞いたします。学問に専念しないもの、才能の低いもの、および一経に通じることができないものについては弟子の職から罷免し、またそのほかにも弟子として適切でないことがあれば処罰したいと思います。臣(わたくし)はすでに下された詔書・律令を謹んで熟考しましたところ、天と人との分を明らかにして古今の大義に通じ、文章は典雅で言辞の意味するところは奥深く、恩沢を施すこと大変厚いものであることがわかりました。ただ小吏は寡聞なためそれを究めて敷き及ぼすことができず、そのため明確に人民へ布告することができません。一方で治礼や掌故の官は学問と礼義とに明るいことを理由に任官されはしたものの、昇任や異動が滞って(お役に立てずに)おります。その秩禄が比二百石以上のもの、および百石の吏で一経以上に通じたものを選択して左右内史と大行の卒史に補任し、秩禄が比百石以下のものは郡の太守の卒史に補任し、内地の郡はすべて二人づつ、辺郡は一人を派遣されますように。多くの書籍を暗誦できるものをまず採用し、万一足りない場合には、すなわち掌故の官から優れたもの選んで中二千石の属僚に補任して、そのほかの文学・掌故の官を郡の属に補僚して員数を満たしてください。以上を人材選抜に関する規則に明記し、その他のことは法律どおりに行われますことをお許しください」と。制詔があって、「裁可する」とのご沙汰だった。これより以来、公卿・大夫・士・吏は綾美しく文雅の士を多くなったのである。
*  *  *
〔補 注〕
■「関雎」は詩経・周南の初篇。王先謙の『詩三家義集疏』に、「魯の説に曰く、周 衰へて詩 作(な)るは、蓋し康王の時なり。康王 徳を房に欠き、大臣 晏(おそ)きを刺(そし)る、故に詩 作ると」と。『毛序』は「関雎は后妃の徳なり、風の始めなり。天下を風して夫婦を正す所以なり」とある。当たらず、魯詩の説がよい。
幽王・厲王は西周の王。ともに暴戻で民望を失い、天災多く姦臣を用いて敗亡を招いた。厲王、名は胡。犬戎に攻められ、彘に出奔す(『国語』『竹書紀年』)。幽王、名は涅。褒姒を嬖し、申侯に恨まれて弑される(『竹書紀年』『史記』)。申侯が擁立した外孫の太子が平王である。平王は洛邑に遷都して戎寇を避けた(東周の始まり)。『荀子』成相篇に、「周の幽・厲の敗るゝ所以は、規諌を聴かずして忠を是れ害すればなり」と。
■『論語』述而篇に、「
子 斉に在(いま)して韶を聞く。三月 肉味を知らず。曰く、『図らず、楽を為すことの斯(こゝ)に至らんとは』と」とある。何晏の注に、「周氏の曰く、『孔子 斉に在して韶楽の盛美を聞き、故に忽ち肉味を忘る』と」と。また八佾篇には、「子 韶を謂ひて、『美を尽せり、又た善を尽せるなり』と」とある。何注に、「孔氏の曰く、『韶は舜の楽の名。聖徳を以て禅を受くるを謂ふ。故に善を尽す』と」と。なお、『史記』孔子世家は、このことを孔子三十五歳のときとする。
■『荘子』天運篇に、「孔子の老聃に謂ひて曰く、『丘は詩・書・礼・楽・易・春秋の六経を治め、自ら以て久しと為し、其の故(こと)を孰(熟)知せり。
以て奸(もと)むる者、七十二君、先王の道を論じて周・召の迹を明かにするも、一君も鉤用する所無し。甚しきかな(矣夫)、人の説(税)き難きや、道の明かにし難きや』と」と。文中の「鉤」は「取る」の意(郭象の註に、「鉤は、取なり」と)。右、司馬遷の文にほぼ同じ。司馬貞は、「縦ひ小国を歴するも、亦た七十余国も無きなり」(索隠)と説くが、孔子が七十余君に仕官を求めたことは東周期にはある種の伝説となって流布していたようである。『礼記』檀弓篇上にも、「今 丘や東西南北の人なり」とあり、孔門流離の一端が伺える。
■『論語』子路篇に、「子の曰く、『
苟も我を用ふる者有らば、期月のみにして可なり。三年にして成す有り』と」とあり、司馬遷の文にほぼ同じ。なお何晏の注は、「孔安国の曰く、『言ふこゝろは誠に我を政事に用ふる者有らば、期月にして以て其の政教を行ひ、必ず三年にして乃ち成功有るなりと』と」とし、皇侃は「苟(苟も)は誠(誠に)なり。期月は年一周を謂ふなり。可(可なり)とは未だ足らざるの辞なり」と言い、邢昺の疏はほぼこれを採る。
■『春秋』哀十四年の経文に、「十有四年、春、
西に狩して麟を獲る」と。公羊伝に、「西に狩して麟を獲る。孔子の曰く、『吾が道 窮まれり』と」と。何休の注に、「麟は大平の符、聖人の類。時に麟の死せるを得る。此れも亦た天の夫子の将に没せんとするの徴を告ぐるなり」と。同じく公羊伝に、「麟は仁獣なり。王者有れば則ち至り、王者無ければ則ち至らず。以て告ぐる者有り、『麕の角ある者有り』と。孔子の曰く、『孰か来たれるや、孰か来たれるや』と。袂を反して面を拭ひ、涕して袍を沾す」と。左伝の杜預の注に、「麟は仁獣、聖王の嘉瑞なり。時に明王無く、出でゝ獲に遇ふ。仲尼 周道の興らざるを傷み、嘉瑞の応無きに感じ、故に魯の春秋に因りて中興の教へを脩め、筆を獲麟の一句に絶つ」と。穀梁伝の范甯の注に、「杜預の曰く、『孔子の曰く、〈文王 既に没するも、文 茲に在らずや〉と。此れ制作の本旨。又た曰く、〈鳳鳥至らず、河 図を出ださず。吾 已んぬるかな〉と。斯れ王あらざるの明文なり』と。夫れ関雎の化は、王者の風、『麟之趾』『関雎』の応なり。然らば則ち斯れ麟の来たりて王徳に帰する者なり。春秋の文は、広大悉備。義を隠公より始め、道を獲麟に終へる」と。注中の「文王」と「鳳鳥」の句は、いずれも『論語』子罕篇に見える。なお、『史記』孔子世家でも獲麟の項に、「曰く、『河 図を出ださず、雒 書を出ださず。吾 已んぬるかな』と」と記す。
孔門七十弟子については、『史記』仲尼弟子列伝を参照。その冒頭、「孔子の曰く、『業を受け身の通ずる者は七十有七人』と」とあって、司馬貞の索隠に「『孔子家語』も亦た七十七人有り」と言っている。今本の家語(魏の王粛の撰)を見るに、弟子行篇に「衛の将軍・文子、子貢に問ひて曰く、『吾 聞く。孔子の教を施すや、之に先んずるに詩・書を以てし、之を導くに孝・悌を以てし、之に説くに仁・義を以てし、之に観すに礼・楽を以てし、然る後ち之を成すに文・徳を以てす。蓋し室に入り堂に升る者、七十有余人。其れ孰か賢と為す』と」とあり、また「七十二弟子解」篇がある。ただし家語に採るところ、史記と差違あり、明の何孟春の補注に詳説している。
■『論語』雍也篇に、「子游 武城の宰と為る。子の曰く、『女(なんぢ)、人を得たるや(得人焉耳乎)』と。曰く、『
澹台滅明なる者有り。行くに径に由らず、公事に非らずんば未だ嘗て偃の室に至らざるなり』と」とある。ちなみに何晏の注に、「包咸の曰く、『武城は魯の下邑』と。孔安国の曰く、『焉・耳・乎は皆な辞なり』と」と、また、「包咸の曰く、『澹台は姓、滅明は名、字は子羽。其の公にして且つ方なるを言ふ』と」とある。応劭『風俗通』の佚文に、「澹台氏、澹台滅明、字は子羽、武城の人。漢に博士・澹台恭有り」とあり、澹台恭の名は『後漢書』儒林伝の薛漢の条に見える。
 なお、異説を紹介する。張華の『博物志』(巻八)に、「澹台子羽の子 溺れて水死し、之を葬らんと欲するに、滅明の曰く、『此れ命なり。螻蟻の与(ため)に何ぞ親しまん。魚鼈の与に何ぞ讎せん』と。遂に葬らしめず」と。同じくまた、「澹台子羽 河を渡るに、千金の璧を河を済さんとす。河伯 之を至陽侯に欲す。波起ち、両鮫 船を挟む。子羽 左に璧を操り右に剣を操りて、鮫を撃てば、皆な死す。既に渡り、三たび璧を河伯に投ず。河伯 躍りて之を帰す。子羽 毀ちて去る」と。文中の「至陽君」は不詳。『韓非子』顕学篇に、「澹台子羽は君子の容なり。仲尼 幾(=期)して之を取るも、与(とも)に処ること久しくして行の其の貌に称はず。宰予の辞は雅にして文なり。仲尼 幾して之を取るも、与に処ること久しくして智の其の弁に充たず。故に孔子の曰く、『容を以て人を取らんか、之を子羽に失す。言を以て人を取らんか、之を宰予に失す』と」とある。
■[1] 
田子方は孔門・子夏あるいは子貢の弟子で、魏の文侯の師友。姓は田、名は無択、子方は字。『戦国策』魏策一に、「魏の文侯 田子方と与(とも)に酒を飲みて楽を称(あ)ぐ。文侯の曰く、『鍾声 比せざるか。左 高し』と。田子方 笑ふ。文侯の曰く、『奚ぞ笑へる』と。子方の曰く、『臣 之を聞く。君 明なれば則ち官を楽み、不明なれば則ち音を楽むと。今、君 声に審かなり。君の官に聾ならんことを恐るゝなり』と。文侯の曰く、『善し。敬みて命を聞く』と」とある。『韓非子』外儲説左下に、「田子方 斉より魏に之く。翟黄の軒に乗り騎駕して出づるを望み、方は以て文侯と為すなり。車を移し路を異にして之を避くれば、則ち徒だ翟黄なるのみ。方の問ひて曰く、『子 奚ぞ是の車に乗るや』と。曰く、『君の中山を伐たんと欲するや、臣 翟角を薦むれば謀 得たり。果して且に之を伐たんとするや、臣 楽羊を薦むれば中山 抜けり。中山を得、之を治めんと欲するを憂ふるに、臣 李克を薦むれば中山 治る。是を以て君 此の車を賜ふ』と。方の曰く、『寵の功に称れば尚ほ薄し』と」と。『新序』雑事第四には、「公季成の魏の文侯に謂ひて曰く、『田子方は賢人なりと雖も然り而うして有土の君に非らざるなり。君 常に之と礼を斉しくす。仮に子方より賢なる者有れば、又た何をか以て之に加へん』と。文侯の曰く、『子方の如き者は議し得る所と成すに非らざるなり。子方は仁人なり。仁人なる者は国の宝なり。智士なる者は国の器なり。博通の士なる者は国の尊なり。故に国に仁人有れば則ち群臣は争はず。国に智士有れば則ち四隣に諸侯の患無し。国に博通の士有れば則ち人主尊し。固より之を議する所と成すに非らざるなり』と。公季成 自ら郊に退くこと三日、罪を請ふ」という説話を載す。また、『史記』 魏世家に、「(文侯の)十七年、中山を伐ち、子撃をして之を守らしめ、趙倉唐 之に傅たり。子撃 文侯の師・田子方に朝歌に逢ふに、車を引きて避け、下りて謁す。田子方 礼を為さず。子撃の因りて問ひて曰く、『富貴なる者の人に驕らんか。且つ貧賤なる者の人に驕らんか』と。子方の曰く、『亦た貧賤なる者のみ人に驕れり。夫れ諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。貧賤なる者は、行の合はず、言の用ひられずんば、則ち去りて楚・越に之くこと、躧を脱するが若し。奈何ぞ其れ之と同じからんや』と。子撃 懌ばずして去る」と。また、『荘子』に「田子方」篇(外篇第二十一)あり。
 [2] 
段干木は孔門子夏の弟子。段干が姓、木が名(応劭『風俗通』姓氏篇[佚文])。貧を以て世を遁れ、しかも道を行う態度は、原憲の気風をとどめる者と言えよう。段干木の名はすでに『孟子』滕文公篇下にあり、「公孫丑の問ひて曰く、『諸侯に見(まみ)えざるは何の義ぞ』と。孟子の曰く、『古者(いにしへ)は臣たらずんば見えず。段干木は垣を踰(こ)えて之を避け、泄柳は門を閉ぢて内(い)れず。是れ皆な已甚(はなはだ)し。迫れば斯れ以て見える可きなり』と」と見える。なお、趙岐の注には、「孟子の言ふこゝろは魏の文侯・魯の繆公に好義の心有るに、而して此の二人の之を距むこと太甚しく、迫窄すれば則ち以て之に見える可きを」とある。『史記』 魏世家に、「文侯は子夏に経芸を受け、段干木を客とし、其の閭を過ぐるとき、未だ嘗て軾さずんばあらざるなり」とあり、張守節の「正義」に『淮南子』を引き、「段干木は、晋の大鉏にして文侯の師と為る」と言う。また、皇甫謐の『高士伝』を引く。改めて今本を引けば、「段干木は、晋人なり。少くして貧 且つ賤にして心志 遂げされば、乃ち清節を治む。西河に遊び、卜子夏に師事し、田子方・李克・翟璜・呉起等と与に魏に居る。皆な将と為るも、唯だ干木のみ道を守りて仕へず。魏の文侯 見えんと欲し、就ち其の門に造(いた)るに、段干木は墻を踰えて文侯を避く。文侯は客礼を以て之に待し、其の廬を過ぎるごとに軾す。其の僕の問ひて曰く、『干木は布衣なり。君の其の廬に軾すること已甚(はなはだ)しからずや』と。文侯の曰く、『段干木は賢者なり。勢利に移らず、君子の道を懐き、窮巷に隠処するも、声は千里に馳す。吾 敢て軾さゞるや。干木は徳を先にし、寡人は勢を先にす。干木は義に富み、寡人は財に富む。勢は徳の貴きに若かず、財は義の高きに若かず』と。又た相と為るを請ふも、肯んぜず。後ち己を卑うして固く見えるを請ひ、与に語るに、文侯は立ちて倦むも敢て息はず。文侯の名の斉の桓公に過ぐる者は、蓋し能く段干木を尊び、卜子夏を敬ひ、田子方を友とするが故なり」と。「立ちて倦む」云々は、張守節の「正義」によれば、『呂覧』(下賢篇)にあるとのこと。文侯軾閭の故事は、劉向の『新序』(雑事第五)などにも見える。
 [3] 
呉起の行状は『史記』の列伝を参照。もと曽子のもとで学んだが、不孝の行いがあって破門される。魯に仕官するが、のち雄飛を夢見て魏に赴く。その言行を記した『呉子』六巻が伝存する。その巻頭に、「呉起 儒服して、兵機を以て魏の文侯に見ゆ。文侯の曰く、『寡人は軍旅の事を好まず』と。起の曰く、『臣は見を以て隠を占ひ、往を以て来を察す。主君 何ぞ心と違へるを言ふ。(中略)明主は茲に鑒みて必ず内には文徳を修め、外には武備を治む』と。(中略)是に於て文侯 身自(みづか)ら席を布き、夫人は觴を捧げて、呉起を廟に醮し、立てゝ大将と為す。西河を守りて、諸侯と大戦すること七十六、全勝すること六十四。余は均解す。土を闢(ひら)くこと四面、地を拓(ひら)くこと千里なるは、皆な起の功なり」とある。また、『荀子』堯問篇に、「魏の武侯 事を謀りて当り、羣臣の能く逮(およ)ぶこと莫し。朝より退きて喜色有り。呉起の進みて曰く、『亦た嘗て楚の荘王の語を以て左右より聞する者有らずや』と。武侯の曰く、『楚の荘王の語や何如(いかん)』と。呉起の対(こた)へて曰く、『楚の荘王は事を謀りて当り、羣臣の逮ぶこと莫し。朝より退きて憂色有り。申公巫臣の進みて問ひて曰く、〈王の朝して憂色有るは何ぞや〉と。荘王の曰く、〈不穀 事を謀りて当り、羣臣の逮ぶこと莫し。是を以て憂ふるなり。其れ中蘬の言に在るなり。曰く、《諸侯の(自ら為すに)師を得る者は王たり、友を得る者は覇たり、疑を得る者は存し、自ら謀を為して己に若く者莫きは亡ぶ》と。今 不穀の不肖を以てして羣臣の吾に逮ぶこと莫きは、吾が国の亡びに幾(ちか)きか。是を以て憂ふるなり〉と。楚の荘王は以て憂ふるに君は以て喜ぶ』と。武侯 逡巡し、再拝して曰く、『天 夫子をして寡人の過を振(すく)はしめたり』と」という説話が見え、『新序』(雑事第一)にも採られている。ちなみに文中「亦た嘗て…有らずや」は亦の前に「不」字を補った。また楊倞の注に、「蘬中は『仲虺』と同じ。湯の左相なり」とあり、古文尚書にも類似の文が見られるが、後世の偽託である。「疑を得る者」とは、楊倞の注によると、「疑とは博聞・達識にして疑惑を決す可き者」と言う。文中、「自ら為すに」を括弧書きにしたのは、後段の「自ら謀を為す」の部分が重複して竄入したものと思われ、削るべきだが(金谷 治『荀子』岩波文庫)、『新序』の引用によれば、この箇所、「諸侯の自ら師を択ぶ者は王たり」となっており、あながち決められぬのである。なお、楊注は「振は挙なり」としていて、「振挙=列挙」の挙とするが、「振恤=賑救」の振(賑)とするのがよい。
 [4] 
禽滑釐は墨子の弟子で、のち墨家の鉅子(掌門)となる。『墨子』耕柱篇に、「子墨子 説(よろこ)びて子禽子を召して曰く、『姑(しばら)く此れを聴かんか。夫れ義に倍(そむ)きて禄に郷(むか)ふ者は、我 常に之を聞けり。禄に倍きて義に郷ふ者は、高石子に於て焉(こゝ)に之を見るなり』と」とあり、「墨守」の故事で有名な公輸篇では、「是に於て公輸盤に見(まみ)え、子墨子は帯を解きて城と為し、牒を以て械と為す。公輸盤 九たび攻城の機変を設けるも、子墨子は九たび之を距む。公輸盤の攻械は尽るも、子墨子の守圉は余有り。公輸盤の詘して曰く、『吾 子を距む所以を知るも、吾 言はず』と。子墨子の亦た曰く、『吾 子の我を距む所以を知るも、吾 言はず』と。楚王 其の故を問ふ。子墨子の曰く、『公輸子の意は、臣を殺さんと欲するに過ぎず。臣を殺せば、宋は能く守ること莫く、攻むる可きなればなり。然れども臣の弟子・禽滑釐等三百人、已に臣が守圉の器を持ち、宋城の上に在りて楚の寇を待てり。臣を殺すと雖も、絶つ能はざるなり』と。楚王の曰く、『善きかな。吾 請けて宋を攻めること無からん』と。子墨子 帰りて宋を過ぎりしとき、天 雨(あめふ)れば、其の閭中に庇(よ)らんとするに、閭を守る者 内(い)れざるなり。故に曰く、『神に於て治むれば、衆人 其の功を知らず。明に於て争はゞ、衆人 之を知る』と」とあり、その勇敢さと教団内での地位が伺い知れる。なお、冒頭の箇所、孫詒譲の間詁によれば、「『史記索隠』に云はく、『墨子の術を為すと謂ふは、身上の革帯を解きて以て城と為すなり。牒とは、小なる木札なり。械とは、楼櫓等なり』と」と。また公輸盤の「攻械」については、「『史記索隠』に劉氏を引きて云はく、『械は、飛梯・橦(撞)車・飛石・車弩の具』と」と。「守圉」の圉字は、『史記集解』の引用では「固」に作り、『太平御覧』の引用では「禦」に作ると。「公輸盤 詘す」の詘字は、「『広雅』釈詁に云はく、『詘は、屈なり。古字 通ず』と」と。なお、魏の陳琳は『曹洪水の為に魏の文帝に与ふる書』(『文選』)にこの故事を引き、その中で、「此れに由りて之を観れば、彼(張魯)は固(もと)より下愚に逮(およ)ばず、則ち中才の守にして、然らざること明かなり。中才在るを則ち然らずと謂ひ、而も来りて示すに乃ち彼の悪稔を為すを以てすれば、孫・田・翟・氂有りと雖も、猶ほ救ふ所無く、又た竊(ひそ)かに焉(これ)を疑ふ」と言い、墨子(墨翟)と禽滑釐(禽滑氂)とを併称している。
 『荘子』盗跖篇に、「仲尼・墨翟は窮して匹夫たり。今 宰相に謂ひて、『子の行ひは仲尼・墨翟の如し』と曰はゞ、則ち容を変じ色を易めて、足らずと称する者は、士の誠に貴べばなり」と、また「儒者は偽辞し、墨者は兼愛す、将た別有りや」と。天下篇に、「古への道術 是に在る者有り、墨翟・禽滑釐は其の風を聞きて之を悦び、之を為すこと太(はなは)だ過ぎ、之を已(もち)ひること大に循(そむ)く」と、また「後世の墨者をして多く裘褐を以て衣と為し、跂蹻を以て服と為し、日夜休はず、自苦するを以て極と為す。曰く、『此の如くする能はずんば、禹の道に非らざるなり、墨と謂ふに足らず』と。相里勤の弟子、五侯の徒、南方の墨者 苦獲・己歯・鄧陵子の属、倶に墨経を誦すれども倍譎して同じからず。別墨と相謂ひて、堅白同異の弁を以て相訾(そし)り、觭偶不仵の辞を以て相応ず。巨子を以て聖人と為し、皆な之が尸と為らんことを願ひ、其の後世と為るを得んことを冀ひ、今に至るまで決せず。墨翟・禽滑釐の意は則ち是なるも、其の行ひは則ち非なり。将に後世の墨者をして必ず自苦し、腓に胈无く脛に毛无きを以て、相進ましめんとするのみ。乱の上なり、治の下なり。然りと雖も墨子は真に天下の好なり。将に之を求めて得ざるや、枯槁すと雖も舎かざるなり。才子なるかな」と見える。郭象の注に、「自苦するを以て極と為すとは、自苦するを謂ひて理を尽すの法と為すなり。其の時に非らずして其の道を守るは、墨と為す所以なり。各〻所を守りて見れば、則ち在る所に通ずる無し。故に墨の中に於て又た相与に別なるなり。巨子なる者は、能く其の是とする所を弁じて、以て其の行ひを成す者なり。尸は主なり。其の後世と為るとは、巨子の業に係らんと欲するなり。意の侈靡せずして世の急に備ふるに在るは、是と為す所以なるも、之を為すこと太だ過ぐ。故に非なり。乱は物に逆ひて性を傷ふより大なるは莫し。故に乱の上と為す。衆に任じて性に適するは上なり。今 墨は之に反す。故に治の下と為す。其の真好を為すが故に聖賢は逆はざるなり。但だ以て人に教ふる可らず、之を求めて得ざるを輩無しと謂ふなり。枯槁するも舎かざるは、真好を為す所以なり。才子なるかなは、有徳者に非らざるや」と。
 『韓非子』顕学篇に、「世の顕学は儒・墨なり。儒の至る所は孔丘なり、墨の至る所は墨翟なり。(中略)墨子の死してより、相里氏の墨有り、相夫氏の墨有り、鄧陵氏の墨有り。故に孔・墨の後、儒は分れて八と為り、墨は分れて三と為る。取捨 相反して同じからざるも、皆な自ら真の孔・墨と謂ふ」とある。
魏の文侯については、前注[2]を参照のこと。
陵遅は物事が次第に衰えること。もと、坂道などが緩やかなこと。『荀子』宥坐篇に、「三尺の岸にして虚車も登る能はざるに、ひ百仞の山に任負車も登る。何となれば則ち陵遅なるが故なり。数仞の牆にして民 踰えざるに、百仞の山にして豎子も馮りて游ぶ。陵遅なるが故なり」とあり、楊注に、「岸は崖なり。負は重なり。任負車は任重の車なり。陵は慢なり。陵遅は丘陵の勢の漸く慢なるを言ふなり。王粛は、『陵遅は陂池なり』と云ふ」と。さらには謝?の疏に、「『淮南子』を案ずるに、『山は以て陵遅なるが故に能く高し』と。陵遅は猶ほ迆邐のごとし」と見える。また『史記』平準書に、「財賂 衰秏して贍たず、物を入る者は官に補し、貨を出だす者は罪を除かれ、選挙は陵遅し、廉恥は相冒ひ、武力 進用せられ、法は厳となり令は具はる」とあり、さらに『漢書』成帝紀鴻嘉二年三月の条に、「朕 既に以て率道する無く、帝王の道 日〻以て陵夷す」と見える。顔注に、「陵は、丘陵なり。夷は、平(たひら)かなり。其の頽替せることの 丘陵の漸く平かになるが若きを言ふなり。又た陵遅と曰ふも亦た丘陵の逶遅なるを言ひ、稍く卑下するなり」と説明する。ここに言う「卑下」は、「低くなっていく」の意。
威・宣の際とは、「斉の威王・宣王の時代」のこと。ここに言う「斉」は、紂王を征伐して周の王業を助けた太公望の血筋の「姜斉」ではなく、田和が立って興した「田斉」のことである。その間の事績は、『史記』田敬仲完世家に詳しい。形式的には、魏の文侯の推挙を得て周王に封ぜられた田氏であるが、やはり簒奪の謗りは免れず、盛んな文化施策によって衆望を求めた。その代表的な例が稷下の学であった。『史記』にも、「宣王は文学・游説の士を喜(この)み、自りて騶衍・淳于髠・田駢・接予・慎到・環淵の徒七十六人の如きは、皆な列第を賜り、上大夫と為し、治めずして議論す。是を以て斉の稷下の学士は復た盛んになり、且つ数百千人なり」(田敬仲完世家)、「孟軻は鄒人なり。業を子思の門人に受く。道 既に通ずるや、游びて斉の宣王に事ふるも、宣王 用ふる能はず」(孟子荀卿列伝)、「斉に三騶子有り。其の先の騶忌は、琴を鼓すを以て威王に干(もと)め、因りて国政に及び、封ぜられて成侯と為りて相印を受く。孟子に先んず。其の次の騶衍は、孟子に後る。騶衍は国を有する者の益〻淫侈にして、徳を尚ぶに、『大雅』の之を身に整へ、施して黎庶に及ぼすが若くなる能はざるを睹(み)て、乃ち深く陰陽消息を観て『怪迂之変』『終始』『大聖』の篇十余万言を作る」(同前)、「騶衍より斉の稷下の先生、淳于髠・慎到・接子・田駢・環淵・騶奭の徒の如きに与(をよ)ぶまで、各〻書を著し治乱の事を言ひ、以て世主を干む。豈に勝(あ)げて道(い)ふ可きや」(同前)、「淳于髠は斉人なり。博聞彊記、学に主なる所無し。其の諌説は、晏嬰の人と為りを慕ふも、然り而うして意を承け色を観るを務めと為す」(同前)、「慎到は趙人。田駢・接子は斉人。環淵は楚人。皆な黄老・道徳の道を学び、因りて発明して其の指意を序す。故に慎到は十二篇を著し、環淵は上下の篇を著し、而して田駢・接子も皆な論ずる所有り。騶奭は斉の諸騶子にして、亦た頗る騶衍の術を采りて以て文を紀す」(同前)、「荀卿は趙人。年五十にして始て斉に游学す。(中略)斉の襄王の時、而して荀卿は最も老師と為る。斉 尚ほ列大夫の欠を脩むれば、而して荀卿は三たび祭酒と為る」(同前)、「孫武 既に死して後ち百余歳に孫臏有り。臏は阿・鄄の間に生る。臏も亦た孫武の後世の子孫なり。孫臏は嘗て龐涓と倶に兵法を学ぶ。龐涓 既に魏に事へ、恵王の将軍と為るを得れども、自ら以て能の孫臏に及ばずと為し、乃ち陰(ひそ)かに使して孫臏を召す。臏の至るや、龐涓は其の己より賢なるを恐れ、之を疾み、則ち法刑を以て其の両足を断ちて之に黥す。隠れて見ること勿らんと欲す。斉の使者の梁に如(ゆ)きしとき、孫臏は刑徒なるを以て陰かに見えて斉使に説く。斉の使者は以て奇と為し、竊に載せて与に斉に之く。斉将・田忌は善(よみ)して之を客待す」(孫子・呉起列伝)などと記されている。「孟子・荀卿の列」とはこれらのことを言う。なお威王の名は、『荘子』(則陽篇)などには「田侯牟」として見える。
 『孟子』梁恵王篇に、「斉の宣王の問ひて曰く、『斉桓・晋文の事 聞くを得可きか』と。孟子の対へて曰く、『仲尼の徒に、桓・文の事を道ふ者無し。是を以て後世に伝無し。臣も未だ之を聞かざるなり』と」とあるのを始め、斉の宣王を言うところは多い。また、「淳于髠の曰く、『男女の授受するに親(てづか)らせざるは礼か』と。孟子の曰く、『礼なり』と。曰く、『嫂の溺れたるには則ち之を援くるに手を以てするか』と。曰く、『嫂の溺れたるには則ち之を援けざるは豺狼なり。男女の授受するに親せざるは礼なり。嫂の溺れたるには則ち之を援くるに手を以てするは権なり』と。曰く、『今 天下は溺る。夫子の援けざるは何ぞや』と。曰く、『天下の溺るゝに之を援くるには道を以てし、嫂の溺るゝに之を援くるには手を以てす。子は手もて天下を援けんと欲するや』と」(離婁篇)とあり、淳于髠の名が見える。
 『荘子』には、「公にして党せず、易[=夷(「平らか」の意)]にして私無く、決然として主無く、物に趣きて両(ふた)つならず。慮に顧みず、知に謀らず、物に於て択ぶこと無く、之と倶に往く。古の道術は是に在る者有り。彭蒙・田駢・慎到、其の風を聞きて之を悦び、万物を斉(ひと)しくするを以て首(はじめ)と為す」(天下篇)、「少知の曰く、『季真は為すもの莫きと、接子は使(し)むるもの或ると、二家の議、孰か其の情に正しく、孰か其の理に徧(=偏)なる』と。大公調の曰く、『鶏は鳴き狗は吠ゆ、是れ人の知る所なり。大知有りと雖も、言を以て其の自ら化する所を読くこと能はず。又た意を以て其の将に為さんとする所を[測ること]能はず』と」と(則陽篇)見える。
 『荀子』は、「法を尚べども法無く、脩を下とすれども作を好み、上は則ち聴を上に取(もと)め、下は則ち従を俗に取め、終日言ひて文典を成すも、及(反)紃して之を察すれば則ち倜然として帰宿する所無く、以て国を経め分を定む可らず。然り而うして其の之を持して故有り、其の之を言ひて理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、慎到・田駢なり」(非十二子篇)と言い、慎到・田駢を退ける。なお「上は則ち…」のところ、楊注は、「言ふこゝろは苟(かり)に上下の意に順ふなり」とし、「終日…」のところは、「紃は循と同じ、倜然は疏遠の貌、宿は止なり。言ひて文典を成すと雖も、反覆・紃察するが若く、則ち疏遠にして指帰する所無きなり」と言い、今これを以て「及」を「反」に改める。また天論篇に、「万物は道の一偏、一物は万物の一偏、愚者は一物の一偏なり。而して自ら以て道を知ると為すは、無知なり。慎子は後を見ること有りて先を見ること無く、老子は絀(=屈)を見ること有りて信(=伸)を見ること無く、墨子は斉を見ること有りて畸[=異]を見ること無く、宋子は少を見ること有りて多を見ること無し」(慎到の箇所、楊注は「慎到は黄老の術に本づき、『賢を尚ばず能を使はざる』の道を明かにす。故に荘子の慎到を論じて曰く、『塊にして道を失はず』と。其の先を争ふの意無きを以て、故に『後を見て先を見ず』と曰ふなり」と説く。慎到の消極論を言う)と言い、解蔽篇に、「昔 賓孟[=説客]の蔽(おほ)はれし者は乱家 是れなり。墨子は用に蔽はれて文を知らず、宋子は欲に蔽はれて得を知らず、慎子は法に蔽はれて賢を知らず、申子は埶(=勢)に蔽はれて知を知らず、恵子は辞に蔽はれて実を知らず、荘子は天に蔽はれて人を知らず」と言い、慎到の説を厳しく否定する。なお性悪の説を立てて、孟子の論を否定したことで有名。「孟子は人の学ぶは其の性 善なればなりと曰ふも、是れ然らず、是れ人の性を知るに及ばずして人の性・偽の分を察せざる者なりと曰はん」(性悪篇)と。
 『韓非子』には、「慎子の曰く、『飛龍は雲に乗り、騰蛇は霧に遊ぶも、雲罷み霧霽(は)るれば、龍蛇も螾螘(=蚯蚓)と同じ。則ち其の乗ずる所を失へばなり。賢者にして不肖に詘(=屈)するは、則ち権軽く位卑ければなり。不肖にして能く賢を服するは、則ち権重く位尊ければなり。堯も匹夫為(た)れば、三人を治むる能はず、而して桀も天子為れば、能く天下を乱す。吾 此を以て勢位の恃むに足り、而して賢智の慕ふに足らざるを知るなり』と」(難勢篇)として慎到を挙げ、その勢治説を採る。このほか、斉の威王・宣王、騶衍の名が見えるが、説話(つくりばなし)の上での仮の設定であるから挙げない。
 『戦国策』斉策は威王に始まる。「鄒忌 修(=長)八尺有余にして身体昳(=逸)麗なり。朝服衣冠して鏡を窺ひ、其の妻に謂ひて曰く、『我は城北の徐公の美なるに孰与(いづれ)ぞ』と。其の妻の曰く、『君の美なること甚だし。徐公 何ぞ能く君に及ばんや』と。城北の徐公は斉国の美麗なる者なり。忌 自ら信ぜずして復た其の妾に問ひて曰く、『吾 徐公の美なるに孰与ぞ』と。妾の曰く、『徐公 何ぞ能く君に及ばんや』と。旦日に客の外より来たり、与に坐談す。之に問ひて曰く、『吾 徐公と孰か美なる』と。客の曰く、『徐公は君の美なるに若かるなり』と。明日 徐公来たる。孰(つまびら)かに之を視て、自ら以て如かずと為す。鏡を窺ひて自ら視るに、又た如かざること遠きこと甚だし」と言い、「淳于髠 一日にして七人を宣王に見えしむ。王の曰く、『子 来たれ。寡人 之を聞く。千里にして一士あれば、是れ比肩して立ち、百世にして一聖あれば、踵に随ひて至るが若きなりと。今 子は一朝にして七士を見えしむ。則ち士 亦た衆(おほ)からずや』と。淳于髠の曰く、『然らず。夫れ鳥は翼を同じく者あればし聚(あつま)り居り、獣は足を同じく者あれば倶に行く。今 柴胡・桔梗を沮沢に求むれば、則ち累世 一をも得ざるも、睪黍・梁父の陰に之くに及んでは、則ち車を郄(=覆/満載する)ひて載せん。夫れ物には各〻疇有り。今 髠は賢者の疇なり。王の士を髠に求むるは、譬へば水を河に挹(く)みて火を燧に取るが若きなり。髠 将に復た之を見えしめんとすれば、豈に特に七士のみならんや』と」と言い、騶忌・淳于髠の活躍を伝える。また田駢についても、次の説話を伝える。「斉人の田駢に見えて曰く、『先生の高議を聞く。設為(かり)に宦せざると。而ち願はくは役と為らん』と。田駢の曰く、『子 何(いづく)にか之を聞く』と。対へて曰く、『臣 之を郷人の女に聞けり』と。田駢の曰く、『何の謂ぞや』と。対へて曰く、『臣が鄰人の女は、設為(かり)に嫁せず、行年三十にして七子有り。嫁せざるは則ち嫁せず、然れども嫁 過ぎ畢れり。今 先生は設為に宦せざるも、訾(=資)養千鍾、徒百人。宦せざるは則ち然り。而して富 過ぎ畢れり』と。田子 辞す」と。田駢は黄老の道を修め、仕官しないことを主義としたが、実際には少なからぬ扶持をもらいうけ、門弟百人を擁していた。そこである人物が彼をからかったのである。「説為」は「たとえ・もし」の意で、要するに「たとえ仕官せずとも(実質的に仕官している者と同じ生活を営む)」主義と言うことができる。この時代、そういう者が多かった。

焚書坑儒については、まず『史記』秦始皇本紀・三十四年の条を見るべきである。「始皇 咸陽宮に置酒す。博士七十人 前みて寿を為す。僕射・周青臣の頌を進めて曰く、『他時 秦の地は千里に過ぎず、陛下が神霊明聖なるに頼りて、海内を平定し、蛮夷を放逐し、日月の照る所、賓服せざる莫し。諸侯を以て郡県と為し、人人 自から安楽して、戦争の患無く、之を万世に伝ふ。上古より陛下の威徳に及ばず』と。始皇 悦ぶ。博士の斉人・淳于越の進みて曰く、『臣 聞く、殷・周の王たること千余歳なるは、子弟・功臣を封じて、自から枝輔と為せばなりと。今 陛下は海内を有すれども、子弟は匹夫為り。卒かに田常・六卿の臣りて、輔払無くんば、何をか以て相救はんや。事として古を師とせずして能く長久なる者、聞く所に非らざるなり。今 青臣の又た面諛して以て陛下の過を重くするは、忠臣に非らず』と。始皇 其の議を下す。丞相・李斯の曰く、『五帝は相復(ふたゝび)せず、三代は相襲はず、各ゝ以て治むるは、其の相反するに非らず、時の変異すればなり。今 陛下の大業を創(はじ)め、万世の功を建つるは、固より愚儒の知る所に非らず。(中略)臣 請ふ、史官の秦記に非らざるは皆な之を焼き、博士の官の職する所に非らずして、天下に敢て詩・書・百家の語を蔵する者有れば、悉く守に詣し、尉雑して之を焼かん。敢て詩・書を偶語する者有れば弃市し、古を以て今を非とする者は族せん。吏の見知して挙げざる者は同罪とせん。令 下りて三十日にして焼かざれば、黥して城旦と為さん。去らざる所の者は、医薬・卜筮・種樹の書とし、若し法令を学ぶこと有らんと欲すれば、吏を以て師と為さんことを』と。制に曰く、『可なり』と」と。同・三十五年に、方士の侯生・盧生が始皇帝の専横を恐れて逃げたとき、「始皇 亡(に)ぐるを聞き、乃ち大に怒りて曰く、『吾 前に天下の書を収めて中用せざる者は尽く之を去る。悉く文学・方術の士を召すこと甚だ衆きは、以て太平を興さんと欲すればなり。方士は練りて以て奇薬を求めんと欲するも、今 韓衆は去りて報ひず、徐等の費は巨万を以て計へるも、終に薬を得ずと聞く。徒の姦利なるの相告ぐること日ゝ聞ゆ。盧生等は吾 之を尊賜すること甚だ厚きも、今 乃ち我を誹謗し、以て吾が不徳を重ぬるなり。諸生の咸陽に在る者は、吾 人をして廉問しむれば、或は言を為して以て黔首を乱すと』と。是に於て御史をして諸生を案問しむれば、諸生は伝へて相告引し、乃ち自ら除かれんとす。禁を犯す者は四百六十余人、皆な之を咸陽に阬にし、天下をして之を知らしめ、以て後を懲す。益〻謫を発し辺に徙す」と言う。
 賈誼『新書』過秦論上に、「是に於て先王の道を廃して、百家の言を燔(や)き、以て黔首を愚にす。名城を堕(こぼ)ち豪俊を殺し、天下の兵を収めて、之を咸陽に聚め、鋒鍉を銷(とか)し、鋳して以て金人十二を為(つく)り、以て天下の民を弱くす。然る後ち華を践みて城と為し、河に因りて池と為し、億丈の高に拠りて百尺の淵に臨み、以て固と為す。良将・勁弩 要害の処を守り、信臣・精卒 利兵を陳べて誰何す。天下 已に定まり、始皇の心 自ら以て関中の固は金城千里、子孫 帝王万世の業なりと為す。始皇の既に没するも、余威は殊俗に振ふ」(『史記』秦始皇本紀・陳渉世家もほぼ同じ)とあり、また応劭の『風俗通』皇覇篇に、「始皇 自ら関中の固は、金城千里にして、子孫は帝王万世の業ならんと以(おも)ひ、遂に旧習を恣睢して、矯めて其の私知に任じ、儒を坑にし書を燔きて、以て其の黔首を愚にし、奢を窮め欲を肆にして、力役 饜(あ)く無く、毒を諸夏に流して、乱を蛮貊に延く。是に由りて二世 祀を絶ち、以て大漢の資と成る」と見える。なお、漢の孔安国の撰に擬せられる『尚書序』に、「秦の始皇の先代の典籍を滅ぼし、書を焚き儒を坑にするに及び、天下の学士は難を逃れて解散す。我が先人は其の家書を屋壁に蔵す」とあるが、『史記』の前に置くことはできない。
六芸はもと士の学ぶべき基礎教養、礼・楽・射・御・書・数の意であった。漢代から六経を指す。即ち易経・詩経・書経・春秋経・礼経・楽経のこと。ただし漢代に既に楽経は独立した書としては伝わっておらず、従って学官も五経にのみ置かれた。
陳渉は秦の二世の元年七月に叛乱し、自立して張楚と称した。陳勝、または陳王とも。彼に触発されて自立・蜂起した勢力を秦では「群盗」と呼んだ。陳渉の事績は『史記』秦始皇本紀 二世の条および陳渉世家に詳しい。なお賈誼『新書』過秦論上に、「然り而うして陳渉は甕牖・縄枢の子、氓隷の人にして遷徙の徒なり。材能は中人に及ばず、仲尼・墨翟の賢、陶朱・猗頓の富有るに非らず。行伍の間に躡足して、阡陌の中に俛起し、疲弊の卒を率ゐて、数百の衆を将ゐ、転じて秦を攻む。木を斬りて兵と為し、竿を掲げて旗と為せば、天下 雲合響応し、糧を贏(にな)ひて景(=影)従す。山東の豪傑 並び起ちて秦の族を亡せり」とある。
孔甲は孔子九世の孫・孔鮒のこと。『漢書』儒林伝の顔注に、「孔光伝に云はく、『鮒は陳渉の博士と為り、陳の下に死す』と。今 此に孔甲と云ふは、将に鮒を名として甲を字とせんとすればなり」とあり、甲(あるいは子甲か)を字とする。小竹武男博士は、名の代わりに仮に当てた字とする。孔光伝の冒頭の系譜によると、孔氏は鮒の死によって直系が途絶え、その弟・孔襄が継いだらしく、その間の禁忌から仮に甲をもって呼んだのではないかと窺われる。
適戍の適は「謫(=讁)」で、徭役のこと。適(謫)はもと、罪を責めること、流罪にすること、罪・とがめの意。「邶風」北門篇に、「我 外より入れば、室人 交〻(こもごも)徧(あまね)く我を讁(せ)む」とあり、王先謙の『詩三家義集疏』によると、魯詩は「讁」を「適」に作り、韓詩は「謫」に作ると言う。鄭箋では、「我 外より入れば、室に在る人は、更迭(かはるがはる)徧く来たりて我を責め、己を去らしむるなり。室人の亦た己が志を知らざるを言ふ」と言い、孔穎達の疏でも、「此れ士は困(くるし)むと雖も、志 君を去らず。而うして家人の之を去らしめ、是れ己が志を知らず」と言う。ここでは責め立てて追い出すこと。また「商頌」殷武篇に、「天 多辟に命じ、都を禹の績に設け、歳事 来辟す。禍適を予(=与)ふること勿れ。稼穡 解(=懈)ること匪(あ)らざれ」という句があり、毛伝は「辟は君、適は過(とが)なり」と言い、鄭箋は「多は衆なり。来辟は猶ほ来王のごときなり。天の命ずるは乃ち天下の衆君・諸侯に、都を禹の治む所の功に立つるを命ず。歳時を以て来たり、我が殷王に朝覲する者は、罪過の之に禍適を与ふる勿し。徒だ勅するに 民に稼穡を勧め、解倦す可きに非らざるを以てす。時に楚は諸侯の職を脩めず、此れ用て楚に告暁する所の義なり。禹は水土を平らぎ、五服を弼成し、而して諸侯の国 定まる。是を以て然云ふ」と言う。王先謙は『国語』斉語の韋昭注を引き、「謫は、譴責なり」と言う。過誤・怠慢を責めて放逐すること。戍は、戍卒で、罪によって辺境に流され、そこの警備を命じられた者。
縉紳先生は、立派な儒家の意。縉紳は「紳を縉(さしはさ)む」ことで、もと礼容・威儀のこと。『荀子』礼論篇に、「褻衣を説(まう)けて襲すること三称、紳を縉めども鉤帯無し。掩面・儇目を設けて鬠して冠笄せず」とあり、楊注に、「縉はと搢同じ、扱(さしはさむ)なり。紳は大帯なり。紳を搢むとは、帯鉤のの所に扱み、用て弛張するなり。今 復た解脱せず、故に鉤を設けざるなり。褻衣は親身の衣なり」と説く。『史記』五帝本紀賛に、「学者の多く五帝を称すること尚(ひさ)し。然れども『尚書』は独り堯以来を載す。而して百家 黄帝を言ふも、其の文 雅馴ならず、薦紳先生は之を難言す」とあり、『史記集解』に、「徐広の曰く、『薦紳は即ち縉紳なり、古字の仮借なり』と」に解説する。
■『論語』公冶長篇の、「子 陳に在りて曰く、『
帰らんか帰らんか、吾が党の小子 狂簡、斐然として章を成すも、之を裁する所以を知らざるなり」という句からの引用。何晏の注に、「孔安国の曰く、『簡は大なり。孔子 陳に在(いま)し、帰るを思ひ去らんと欲す。故に曰く、〈吾が党の小子、狂なる者は大道に進取し、穿鑿を作して以てふ文章を成すも、裁制する所以を知らず。我 当に帰りて以て之を裁すべし〉と。遂に帰る』と」と言い、皇侃は「吾が党とは、我が郷党を謂ふなり。小子とは、郷党中の後生・末学の人なり。狂とは直進して避くる無き者なり。簡は大なり。大は大道を謂ふなり。斐然とは文章ある貌なり」と言う。なお、陸徳明は「狂簡もて句を絶つ。鄭の読は小子に至りて句を絶つ」と言って句読を正す。採る。また焦循は「斐然」を「不然(然らず)」とするが、これは採らない。
 なお、『論語』子路篇に、「子の曰く、『中行を得て之に与(くみ)せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進取し、狷者は為さゞる所有るなり』という句があり、ここでは「狂簡」を「狂狷」と言っている。さらに、『孟子』尽心下篇で孟子が万章の問いに答えた中に、「孟子の曰く、『孔子(の曰く)〈中道を得て之と与せずんば、必ずや狂か。狂者は進取し、者は為さゞる所有るなり〉と。孔子 豈に中道を欲せざらんや。必ずしも得る可らず。故に其の次を思ふ』と」とあって、字を改めて「狂」と言う。いずも意は略ゝ同じ。狷者の「為さゞる所」とはなにかについては、『論語』の何注に引く包咸の説では「節を守りて為す無し」と言い、節度を守ってやたらと手を出さない意とし、『孟子』の趙注では「者は能く不善を為さず」言い、内容をより限定している。
■「
大射」は古代の弓を射る儀礼。『礼記』射義篇の冒頭に、「古者(いにしへ)は諸侯の射るや、必ず先づ燕礼を行ひ、卿大夫の射るや、必ず先づ郷飲酒の礼を行ふ。故に燕礼は君臣の義を明かにする所以なり。郷飲酒の礼は、長幼の序を明かにする所以なり。故に射者は進退・周還 必ず礼に中(あた)り、内 志正しく外 体直く、然る後ち弓矢を持つこと審固なり。弓矢を持つこと審固にして、然る後ち以て中を言ふ可し。(中略)故に心 平かに体 正しければ、弓矢を持つこと審固なり。弓矢を持つこと審固なれば、則ち射て中る」とある。
 「
郷飲」は「郷飲酒」のこと。同じく『礼記』郷飲酒義篇に、「郷飲酒の礼に、六十の者は坐し、五十の者は立ちて侍し、以て政役を聴くは、尊長を明かにする所以なり。六十の者は三豆、七十の者は四豆、八十の者は五豆、九十の者は六豆なるは、養老を明かにする所以なり。民 長を尊び老を養ふを知り、而して后ち乃ち能く入りて孝弟。民 入りては孝弟にして、出でゝは長を尊び老を養ひ、而して后ち教へを成す。教へを成し、而して后ち国 安かる可きなり。君子の所謂『孝』とは、家ごとに至りて日ごとに之を見(しめ)すに非らざるなり。諸(これ)を郷射に合はせ、之を郷飲酒の礼に教へ、而うして孝弟の行ひ 立てり」とあって、両義が呼応する。
 なお、『論語』八佾篇に、「子の曰く、『射は皮(まと)を主とせず。力を為すに科を同じくせざるは、古への道なり』と」という句があり、何晏の注に「言ふこゝろは 射者は但だ皮に中(あ)つるを以て善しと為さず、亦た兼ねて和容を取るなり」と説明しているが、『論語』で射礼を言うのはここだけである。どうやら射礼・燕礼(郷飲酒)は、ともに「三礼」の成ったころ、六国から前漢にかけて作られたものらしく、後漢の班固の撰した『白虎通徳論』郷射篇に『礼記』の文を引き、「射正は何をか為すや。曰く、『射義は一に非らざるなり。夫れ射者は、弓を執ること堅固に、心 平かに体 正しく、然る後ち中るなり。二人 勝ちを争ふも、楽むに徳を養ふを以てするなり』と」とある。同じく郷飲酒を論ずる章に、「十月に郷飲酒の礼を行ふ所以は何ぞ。尊卑・長幼の義を復する所以なり。春夏は事急にして、井を浚ひ牆を次するに、子の父を使ひ、弟の兄を使ふこと有るに至る。故に事の間暇を以て、長幼の序を復するなり」と言う。
叔孫通はもと秦の博士であり、後年高祖に仕えて太子の太傅となった。高祖が趙王如意の立太子を望むと、留侯・張良らとともに切に諌争した。その事績は、『史記』劉敬・叔孫通列伝に詳しい。
■「
選の首と為る」とは、採用された叔孫通の漢儀により採用されることとなった文官の最初の組となる、の意。
■「
頗る」には、(1) 数量が甚だしく多い場合と、(2) 逆に「わずかばかり」である場合の両義がある。ここは(2)。
■「
刑名の言」は、下注も参照。刑は形で、もと「実態」の意で、現出するもの・目に見えるもののこと。のちに臣下の働きぶり・実績を言う。名はもと「名称」の意で、また「名実」の名(=言葉・名声)。名・言葉・声のこと。君主が臣下の言葉によるアピールに沿って機会を与え、その実績を評価して賞罰を下す、「法家」の考え方。法家は刑と名との一致を説いた。『韓非子』に、「言有る者は自ら名を為し、事有る者は自ら形を為す。形名参同して、君は則ち事無く、之を其の情に帰す」(主道篇)、「大なること量る可らず、深きこと測る可らず、刑名を同合して、法式を審験し、擅に為す者は誅すれば、国 乃ち賊無し」(同前)、「人主の将に姦を禁ぜんと欲すれば、則ち刑名を審合せよとする者は、言と事となり」(二柄篇)、「上は名を以て之を挙げ、其の名を知らずんば、復た其の形を脩む。形名参同して、其の生ずる所を用ふ。二者 誠に信なれば、下は其の情を貢す」(揚搉篇)、「凡そ治の極みは、下 得る能はず。刑名を周合すれば、民 乃ち職を守る」(同前)、「人主は人を使ふと雖も、必ず度量を以て之を準じ、刑名を以て之を参す。事 法に遇はゞ則ち行ひ、法に遇はざれば則ち止む。功 其の言に当れば則ち賞し、当らずんば則ち罰す。刑名を以て臣を収め、度量を以て下を準するは、此れ釈つる可らざるなり」(難二篇)などと見える。
 一方で『荘子』は、「本と上に在り、末は下に在り。要は主に在り、詳は臣に在り。三軍五兵の運は、徳の末なり。賞罰利害・五刑の辟は、教への末なり。礼法度数・刑名比詳は、治の末なり。鐘鼓の音、羽旄の容は、楽の末なり。哭泣衰絰・降殺の服は、哀の末なり。此の五末は、精神の運、心術の動を須ちて、然る後ち之に従ふ者なり。末学は古人も之有れども、先んずる所以に非らざるなり」(天道篇)と言い、老荘的立場から道法思想を斥けている。
 なお『孫子』勢篇に、「衆を闘はすこと寡を闘はすが如くなるは、形名 是なり」とあるのは、魏武注に「旌旗を形と曰ひ、金鼓を名と曰ふ」とある通り、形を目に見える旗指し物の意に、名を声(=言葉・音声)の意にとらえるからである。なお、杜牧は形を「陳(陣)形」とし、名を「旌旗」としている。
■「
黄老の術」は、下注(「黄老・刑名の言」に関する条)も参照。「黄老」は黄帝と老子の併称。黄老思想が興ったのが、六国から秦漢の際にかけてのことだったため、『史記』の用例が最も古い時期のものと言える。曹相国世家には、「悼恵王は春秋に富めば、参 尽く長老・諸生を召して、百姓を安集せる所以を問ふ。斉の故の諸儒の如きは百を以て数へ、言ふこと人人に殊なれば、参 未だ定むる所を知らず。膠西に蓋公有り、善く黄老の言を治むと聞き、人をして幣を厚くして之を請はしむ。既に蓋公に見ゆ。蓋公 治道を言ふに清静を貴べば民 自から定まると為し、此の類を推して具に之を言ふ。参 是に於て正堂を避け、蓋公に舎す。其の治要は黄老の術を用ふ。故に斉に相たること九年、斉国安集し、大に賢相と称せらる」と。留侯世家には、「留侯の称して曰く、『家 世〻韓に相たり。韓の滅びるに及び、万金の資を愛(をし)まず、韓の為に彊秦に報讎せんとすれば、天下振動す。今 三寸の舌を以て帝者の師と為り、万戸に封ぜられ、列侯に位するは、此れ布衣の極み、良に於て足れり。願はくは人間の事を弃(す)て、赤松子に従ひて游ばんと欲するのみ』と。乃ち辟穀・道引・軽身を学ぶ。会ゝ(たまたま)高帝の崩ずるに、呂后は留侯を徳として、乃ち彊(し)ひて之に食さしめて曰く、『人生 一世の間、白駒の隙を過ぐるが如し。何ぞ自ら苦みて此の如きに至るや』と。留侯 已むを得ず、彊ひて聴(ゆる)して食す」と。陳丞相世家には、「陳丞相平 少時、本と黄帝・老子の術を好む。方に肉を俎上に割けるの時、其の意は固より已に遠し。傾側して楚魏の間に擾攘するも、卒に高帝に帰す」と。老子韓非列伝には、「申子[=申不害]の学は黄老に本づきて刑名を主とす」と、あるいは「韓非は、韓の諸公子なり。刑名・法術の学を喜(この)み、而して其の帰は黄老に本づく。非の人と為りは口吃、能く道説せざれども、著書を善くす。李斯と倶に荀卿に事ふ。斯は自ら以て非に如かざると為す」と。楽毅列伝には、「楽臣公は善く黄帝・老子の言を修め、斉に顕聞し、賢師と称せらる」と、あるいは「楽臣公は黄帝・老子を学ぶに、其の本師は号して河上丈人い曰ふも、其の出づる所を知らず。河上丈人は安期生に教へ、安期生は毛翕公に教へ、毛翕公は楽瑕公に教へ、楽瑕公は楽臣公に教へ、楽臣公は蓋公に教ふ。蓋公は斉の高密・膠西に於て教へ、曹相国の師と為る」と。
 なお『史記』に先んずる『淮南子』覧冥訓には、「昔者 黄帝の天下を治むるに、力牧・太山稽 之を輔く。以て日月の行律を治めて、陰陽の気を治め、四時の度を節して、律歴の数を正し、男女を別ちて、雌雄を異にし、上下を明かにして、貴賎を等し、強をして弱を掩はず、衆をして寡を暴さゞらしむ。人民 命を保ちて夭せず、歳時に熟して凶ならず、百官 正しくして私無く、上下 調ひて尤無く、法令 明にして闇からず、輔佐 公にして阿ならず、田する者は畔を侵さず、漁する者は隈を争はず、道 遺ちたるを拾はず、市は賈を予めせず、城郭は関せず、邑に盗賊無く、鄙旅の人は相譲るに財を以てし、狗彘は菽粟を路に吐きて忿争の心無し。是に於て日月 精明、星辰 其の行を失はず、風雨に時節あり、五穀 登熟し、虎狼は妄りに噬まず、鷙鳥は妄りに搏たず、鳳凰は庭に翔り、麒麟は郊に游ぶ。青龍は駕を進め、飛黄は皁に伏す。諸〻の北の儋耳の国、其の貢職を献せざる莫し」とあり、黄帝の理想の治世を描き、所謂「黄老」の色彩はない。
 さらに古い『山海経』西山経には、「又た西北に四百二十里、山と曰ふ。其の上に丹木多く、員葉にして赤茎、黄華にして赤実、其の味は飴の如く、之を食せば飢えず。丹水 焉より出で、西流して稷沢に注ぐ。其の中に白玉多く、是に玉膏有り。其の原は沸沸湯湯。黄帝 是に食し是に饗す。是に玉を生ず。玉膏の出づる所、以て丹木に灌(そゝ)げば、丹木は五歳にして五色 乃ち清く、五味 乃ち馨る。黄帝 乃ち山の玉栄を取りて之を鍾山の陽に投ず」などとある。
 黄帝伝説はおもに斉の稷下の学で作られたもので、その説は雑駁でもとより互いに連絡のない諸説を寄せ集めであった。中国の神話史では、時代が下るにしたがって古い時代の神話を遡及して制作する「加上説」が生じた。統一感ある正当な神話上の最古の人物は、本来、夏后氏禹であった。のち禹に位を譲ったという帝舜有虞氏、その舜に位を譲った帝堯陶唐氏の説話を後から作って、その上(過去)に置いていったのである。ここまでは儒教の根本文献『尚書』としてまとめられ、かれらの理論的基礎となったのである。その後、六国期に陰陽説・五行説が盛んになると、神話的人格を五行に配することが試され、神農(火徳)・伏犧(木徳)・女媧(水徳)・少皞(金徳)を四方に列し、その中央に黄帝(土徳)に置くようになる。所謂「五帝」である。司馬遷の『史記』はこの「五帝本紀」より始まるが、その根拠となったものは『大戴礼』五帝徳篇や『孔子家語』であった。
 五帝のうち黄帝と少皞は、理論上の欠を補うために半ば人工的に作られた帝王で、古代人に農業を広め薬草を教えたという神農、儀礼(婚儀)と八卦を発明したという伏犧、その対偶神で洪水を治めたという女媧とは性質を異にする。堯舜を敬う儒家に対抗する目的で創造された黄帝は、そもそも存在理由の希薄な存在であったため、六国期から秦漢にかけて、さまざまな理論と習合した。不老不死説とは本来関係のない老子が神仙思想に取り込まれて神格化したものに、さらに黄帝神話が取り込まれて「黄老」説となって形成されていく。
 黄帝と老子と約めて「黄老」と熟するのは、『史記』の記述がもっとも早い。『荘子』が成立したころには、すでに孔子問礼説話や老子出関説話などが作られ、また黄帝と長生術とのかかわりも見いだしうる。一方で『荀子』や『韓非子』、また『史記』老子韓非列伝の太史公賛を読むと、これらの著者は老子の思想を的確にとらえ、神秘主義に蔽われることがなかった。しかし一方では、「黄帝書」と呼ばれる一連の長生術や雑占の書が盛んに書かれ、読まれたことは事実で、馬王堆書殉に導引図や鍼経が含まれていたことからも窺われる。儒家五経がオーソドックスな古典全集だとしたら、黄帝書の類はベストセラー作品であったのではなかろうか。それゆえまた歴史の中で失われる運命にあったのであり、『漢書』芸文志に載るすべての作品はつとに亡佚している。ただ古代の医書に「黄帝内経」と称されるものがあり、『素問』『霊枢』などの諸編が伝えられる。
 老子が神仙説に取り込まれ、黄帝が長生説のシンボル神となり、やがて両者は習合して一家を成す。所謂「道家(神仙家)」である。老子はまた一方で、「天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す」という万物斉同説が、管子などに見られる「牧民」の思想と連なり、法家の流れにつながっていく。所謂「道法思想」である。人の性情にかかわらない老子の思想は、兵家の孫子にも影響を与えている。
■「
未だ進む者有らず」とは、制度上 官吏に採用されただけで、その後 累進するものがいなかった、の意。
■「
」は「主上=おかみ」のこと。皇帝を指す(直接表現)。
魯詩・斉詩・韓詩、所謂「三官詩」を指す。漢末に民間から世に出た「毛詩」に対して言う。伝説によると、孔子刪詩ののち、孔門の子夏より代々伝えられた経文は、荀子から毛萇に伝授された。そのテキストは先秦の文字=古文で書かれており、漢初に毛亨が今文=隷書に改め、伝=解説を付した。これを『毛伝』と言う。また毛萇・毛亨を併せて「両毛公」と称する。のち鄭玄が三官詩と併せ校えて注釈を施し(所謂『毛詩鄭箋』)、唐代に孔穎達が『五経正義』にこれを採用した。三官詩はいずれも亡佚し、ひとり毛詩だけが残る。いま「詩経」というのは、すなわち毛詩のことである。
黄老・刑名の言。下文にあるように、当時竇太后は『老子』を尊び、また武帝の時代に入っても汲黯らは「清静の道」を以て為政に臨んだという。老子に「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」と。また漢朝草創期には外交や法律などの実務官僚の登用が優先され、縦横・刑名家を重んじ、宣帝の時代になってもその気風は残っていた。『漢書』元帝紀に、「孝元皇帝は、宣帝の太子なり。(中略)壮大なれど、柔仁にして儒を好む。宣帝の用ふる所 多く文法の吏にして、刑名を以て下を縄(たゞ)し、大臣の楊惲・蓋寛饒等の刺譏の辞語に坐すに罪して誅せらるゝを見、嘗て燕(=宴)に侍りて従容として言ふに、『陛下の刑を持すること太(はなは)だ深し。宜しく儒生を用ふるべし』と。宣帝 色を作(な)して曰く、『漢家に自から制度有り、本より霸・王の道を以て之を雑ふるに、奈何ぞ純(もつぱ)ら徳教に任じて、周の政を用ひんか。且つ俗儒は時宜に達せず、好みて古へを是として今を非とし、人をして名実を眩(まど)はしめ、守る所を知らず。何ぞ委任するに足らん』と。乃ち歎じて曰く、『我が家を乱す者は、太子なり』と」という話を載せる。
■「
」は天子の発言、または裁可のこと。『漢書』高后紀に、「太后 朝に臨みて制を称す」とあり、顔注に「天子の言を一に制書と曰ひ、二に詔書と曰ふ。制書とは、制度の命を為すを謂ふなり。皇后の称し得る所に非らず。今 呂太后 朝に臨みて天子の事を行ひ、万機を断決す。故に制詔を称す」と。
■『孟子』滕文公章句上に、「
庠序・学校を設為して以て之を教ふ。庠は養なり。校は教なり。序は射なり。夏に校と曰ひ、殷に序と曰ひ、周に庠と曰ふ。学は則ち三代 之を共にす。皆な人倫を明かにする所以なり」とある。趙注は、「礼を学習するを以て、国を教化す」と、また「養とは、耆老を養ふなり。教とは、教ふるに礼楽を以てするなり。射とは、三耦四矢、以て物に達して気を導くなり。学は則ち三代 名を同じうし、皆な之を学と謂ひ、人倫を学ぶ。人倫とは、人事なり。猶ほ『洪範』に『彝倫の叙する攸』と曰ふがごとく、常事の叙する攸を謂ふなり」と解説する。なお「三耦四矢」とは、焦循の『孟子正義』によれば、「『郷射礼』に『三耦 堂の西に俟(ま)つ』と云ひ、注に「弟子の中、徳行・道芸の高き者を選び、以て三耦と為す」と云ふ。又た「兼ねて乗矢を挟む」と云ひ、又た「三耦 皆な弓を執り、三を(はさ)みて一个を挟む」云ふ。注に「乗矢は四矢なり」と云ふ」という。学者の弟子の中でも優等の者を言うか。
 なおこの箇所、『漢書』儒林伝においては、「夏は校と曰ひ、殷に庠と曰ひ、周に序と曰ふ」とある。『孟子正義』によれば、「『説文』は『漢書』と同じ、未だ孰が是なるかを知らざるなり」としている。『礼記』郷飲酒義篇の冒頭に、「主人 拝して賓を庠門の外に迎へ、入りて三揖し、而して后ち階に至る」の句があり、鄭注に「庠は郷学なり。州党を序と曰ふ」と解説する。同じく王制篇には、「有虞氏は国老を上庠に養ひ、庶老を下庠に養ふ。夏后氏は国老を東序に養ひ、庶老を西序に養ふ。云々」とあり、鄭注に「皆な学の名なり」としている。さらに、同じく学記篇に、「古への教ふる者は、家に塾有り、党に庠有り、術(遂)に序有り、国に学有り」とある。なお「術」は鄭注に「術は当に遂と為すべし。声の誤なり」とあり、「遂」とすれば周代の行政区画の称。
 以上、「校・庠・序」はいずれも地域教育の場であり、中央のそれを「学」と言うことが分明した。「学」、あるいは「大学」「太学」などと称する。『礼記』王制篇にも、「天子 之に教を命じて、然る後ち学を為る。小学は公宮の南の左に在り、大学は郊に在り。天子に辟廱と曰ひ、諸侯に頖宮と曰ふ」とある。ちなみに鄭注では、「尊卑、学 名を異にす。辟は明なり、廱は和なり。天下を明和する所以なり。頖の言は班なり。政教を班(し-く=敷く/あるいは「分かつ」か)く所以なり」と解説している。
其の身を復す。「復す」は「夫役を免除する」の意。
二千石は、秩禄の石高のこと。大臣・将軍・郡守などの最高級の官僚の秩禄であった(『漢書』百官公卿表)。官名を問わず、ただ「二千石」とのみ言えば大官を指した。
は「経理係」。「簡単な計算のできる吏員」程度の意。書役。中央の官庁の人材不足を補うために、全国から計吏と儒者とを徴しようとの提言。
籍奏あるいは「籍して奏す」か。名簿にして上奏すること。
■「
以て治礼・掌故は」、原文「治禮次治掌故」。意通らず。今、仮に『漢書』儒林伝の該当個所を以て充てる。
は「うつる」。累進して出世すること。
■「
員に備ふ」は、律令上の員数を満たすこと。欠員を出さず、律令どおりに職員を採用し、儒者の雇用を確保することで、学問への意欲を促すとともに、組織・制度の運営の円滑化を狙う。
は「他」に同じ。
〔詩 家〕
〈申 培 公〉
 申公は、魯人なり。高祖の魯を過(よ)ぎりしとき、申公は弟子を以て師に從ひ入りて〔原注36〕高祖に魯の南宮に見(まみ)〔原注37〕。呂太后の時、申公は長安に游學し、劉郢と與に師を同じくす〔原注38〕。已(すで)にして郢の楚王と爲るや、申公をして太子戊に傅たらしむ〔原注39〕。戊 學を好まず、申公を疾(にく)む。王郢の卒する及び、戊 立ちて楚王と爲り、申公を胥靡す〔原注40〕。申公 之を恥ぢて、魯に歸り、退きて家に居りて敎へ、終身 門を出でず、復た賓客を謝絕するも、獨り王命に之を召すときのみ乃ち往く〔原注41〕。弟子の遠方より至りて業を受くる者 百餘人。申公は獨り詩の經を以て訓を爲して以て敎へ、傳無く、疑はしき者は則ち闕(か)きて傳へず〔原注42〕
  • 36 〔索隠〕按ずるに、『漢書』に云ふ、「申公 少にして楚の元王と倶に斉人・浮丘伯に事へ、詩を受く」と。
  • 37 〔正義〕『括地志』に云ふ、「泮宮は兗州曲阜県の西南二百里、魯城が内宮の内に在り。鄭は『泮の言は半なり、其の制 天子の璧雍に半ばす』と云ふ」と。
  • 38 〔索隠〕按ずるに、『漢書』に云ふ、「呂太后の時、浮丘伯は長安に在り。申公は元王・郢と客して倶に学を卒ふ」と。
  • 39 〔集解〕徐広の曰く、「楚の元王・劉交 文帝元年を以て薨じ、子の夷王・郢 立ち、四歳にして薨じ、子の戊 立つ。郢は呂后二年を以て上邽侯に封じられ、文帝元年に立ちて楚王と為る」と。
  • 40 〔集解〕徐広の曰く、「腐刑」と。
  • 41 〔集解〕徐広の曰く、「魯の恭王なり」と。
  • 42 〔索隠〕申公の詩伝を作らず、但だ教授するに、疑ひ有れば則ち闕くのみなるを謂ふ。
 蘭陵の王臧 既に詩を受け、以て孝景帝に事(つか)へて太子少傅と為るも、免ぜられて去る。今上の初て即位するや、臧 迺(すなは)ち上書して上に宿衛し、累遷して、一歳中に郎中令と為る。及び代の趙綰も亦た嘗て詩を申公に受く。綰は御史大夫と為る。綰・臧 天子に請ひ、明堂を立てゝ以て諸侯を朝せんと欲するも、其の事を就(な)す能はずんば、乃ち師の申公を言ふ。是に於て天子は使ひして束帛に璧を加へ安車駟馬して申公を迎へしむるに、弟子二人も[車+召 Unicode : 8EFA]に乗りて伝従す〔原注43〕。至りて、天子に見ゆ。天子の治乱の事を問ふに、申公は時に已に八十余、老いたり、対(こた)へて曰く、「治を為す者は多言に在らず、力行するか何如かを顧るのみ」と。是の時 天子は方(まさ)に文詞を好めば、申公の対を見て、黙然たり。然れども已に招致すれば、則ち以て太中大夫と為し、魯邸に舎(お)きて、明堂の事を議(はか)らしむ。太皇竇太后は老子の言を好み、儒術を説ばず、趙綰・王臧の過(あやま)ちを得て以て上に譲(せ)むれば、上は因りて明堂の事を廃して、尽(ことごと)く趙綰・王臧を吏に下すに、後ち皆な自殺す。申公も亦た疾(や)みて免ぜられ以て帰り、数年にして卒す。
  • 43 〔集解〕徐広の曰く、「馬車」と。
 弟子の博士と為る者は十余人、孔安国は臨淮の太守に至り〔原注44〕、周霸は膠西の内史に至り、夏寛は城陽の内史に至り、[石+昜 Unicode : 78AD]の魯賜は東海の太守に至り、蘭陵の繆生は〔原注45〕長沙の内史に至り、徐偃は膠西の中尉と為り、鄒人の闕門慶忌は〔原注46〕膠東の内史と為る。其の官民を治むること皆な廉節有り、其の学を好むに称(かな)ふ。学官の弟子の行ひ 不備ありと雖(いへど)も、而して大夫・郎中・掌故に至るもの百を以て数ふ。詩を言ふもの殊(ことな)れると雖も、多く申公に本づく。
  • 44 〔集解〕徐広の曰く、「孔鮒の弟の子・襄は恵帝の博士と為り、遷りて長沙の太傅と為り、忠を生む。忠は武 及び安国を生む。安国は博士と為り、臨淮の太守(と為る)」。
  • 45 〔索隠〕繆の音は亡救の反。繆氏は蘭陵より出づ。一音 穆。所謂穆生は、楚の元王の礼する所と為るなり。
  • 46 〔集解〕『漢書音義』に曰く、「姓は闕門、名は慶忌」と。
◆現代語訳◆
 申公は、魯国の出身である。高祖が魯に行幸なさったとき、申公は弟子の身分で師に従って行宮に参内し、魯の南宮において高祖に拝謁した。呂太后の治世に長安に游学し、(皇族の)劉郢と同じ師に就いて学んだ。その後 劉郢が楚王となると、申公を太子・劉戊に守り役とした。劉戊は学問が嫌いで、申公のことを疎ましく思っていた。劉郢が薨去して、劉戊が楚王に即位すると、申公を罪に当てて罪人たちと同じ縄に繋いで(辱めた)。申公はこのことを恥辱として魯に帰国し、引退して自宅に腰を据えて門弟に教授し、終身 門を出まいと決意した。また賓客があっても謝絶して面会しなかったが、ただ魯王の命でお召しがかかったときだけ出かけて行った。遠方からやってきて彼の学業を受けた弟子は百人以上もいた。申公はただ周詩の経文を訓じて教授し、別に伝を立てて自説を述べることなく、(師から習ったことでも)疑わしいところは省いて伝授しなかった。
 東海郡蘭陵県の王臧は申公から詩を学ぶと、その学識をもって景帝にお仕えして太子少傅となったが、(事に触れて)罷免されて逼塞していたが、今上が即位されると(儒学勃興の機運に期待して)、臧は上書して御上の身辺に宿衛し、累遷して一年にも満たぬ間に郎中令となった。また代郡代県の趙綰もまたかつて申公から詩を学んでおり、綰は御史大夫となった。綰と臧の二人は、天子に奏請して明堂を建てて諸侯を朝見することを実施しようとしたが、(その儀礼に関して疑問も多く)自分たちの力だけではなしえないと思い、師の申公をお召しになることを申し上げた。そこで天子は使者に束帛と璧とを持たせ、安車駟馬を差し向けて申公を迎えさせた。二人の弟子も駅伝の馬車に同乗して申公に従い、長安に到着すると天子に拝謁した。天子が治乱の要諦をご下問になったところ、申公は時に八十余歳の老齢であったため(長広舌を振るうことができず)、「よく治まった政治を実現させるものは多言ではありません。ただ全力を挙げて実行できるかどうかを心がけるだけでございます」とお答えした。当時天子は(司馬相如らの)華やかな詩文を好まれていたので、申公のこの答えに(ひどくがっかりして)黙り込んでしまった。しかしながらすでに招致してしまったので、彼を太中大夫に任命して魯王の邸宅に寝泊まりさせ、明堂の制について検討させた。このころ竇太后は『老子』を愛読し、儒学を嫌っていた。そのため趙綰や王臧らの過失を見つけ出して御上に告発したので、御上もお取り上げにならないわけにいかず明堂の制を沙汰止みにして、趙綰や王臧らをみな刑吏に送ったところ、後日二人とも自殺した。申公もまた病気を理由に辞職して帰国し、数年後に卒去した。
 弟子の中で博士となったものは十余人おり、孔安国は臨淮郡の太守に進み、周霸は膠西国の内史に進み、夏寛は城陽国の内史に進み、梁国[石+昜 Unicode : 78AD]県出身の魯賜は東海郡の太守に進み、東海郡蘭陵県の繆生は長沙国の内史に進み、徐偃は膠西国の中尉となり、 魯国鄒(=[馬+芻 Unicode : 9A36])県出身のの闕門慶忌は膠東国の内史となった。彼らが官民を治めた姿勢にはみな清廉で節度があり、学問を好むものとして評判に適うものだった。弟子のうちで学官となったものの行状はまったく不備がないとは言えなかったが、それでも大夫・郎中・掌故の官に至ったものは百をもって数えるほどだった。彼らが詩を説くところに相違が見られたものの、そのほとんどが申公の説に基づいているのである。
〔補 注〕
■「弟子を以て師に従ふ」、あるいは「弟子たるを以て師に従ふ」。「弟子(の身分)として師に扈従する」の意。
■「
疾(にく)む」、あるいは「疾す」。悪感情をいだく、うとましく思う、邪魔に思う、目障りに感じること。疾視の疾。
胥靡の「胥」は「相」、「靡」は「繋」で、相繋(あいつな)ぐ=一つの鎖に何人もの囚人を繋ぐこと。また「獄に下す」の意。
■「
伝無し」云々。韓嬰のように『内外伝』を作らず、ただ経文の読み(訓)を研鑽した。また師伝の説であっても、疑わしいところがあれば、削って伝えなかった。
■「
明堂」は周代に天子が諸侯を参朝させた殿閣という。『礼記』明堂位篇に、「昔者、周公、諸侯を明堂に朝せる位なり。天子、斧依を負ひて南郷して立つ。(中略)明堂なる者は、諸侯の尊卑を明かにするなり。昔、殷紂 天下を乱し、鬼侯を脯にし、以て諸侯に饗す。是を以て周公 武王を相け、以て紂を伐てり。武王 崩じ、成王 幼弱なり。周公 天子の位を践み、以て天下を治む。六年、諸侯を明堂に朝し、礼を制し楽を作り、度量を頒せば天下 大に服せり」(『逸周書』明堂解篇の文とほぼ同じ)と。鄭注に、「周公 王位を摂るに、明堂の礼儀を以て諸侯を朝するなり。宗廟に於てせざるは、王を辟くればなり」と。明堂の議論が戦国末からあったことは汲冢書の存在からも伺われる。しかしそれが政治色を帯びるようになったのは、漢代からであろう。天子が諸侯を会集する殿堂を建設することの意味するところは、中央集権の徹底であり、その理想とも言うべき最終形態の実現である。この新しい政治形態で中心的な役割を果たすのは、所謂「輔弼」と呼ばれる儒家官僚であることは言うまでもない。それゆえ竇太后の不興を買ってまで彼らは明堂の建議を行ったのである。
■「
安車」は腰掛けて乗ることのできる馬車で、老人や婦人をいたわるもの。古代の馬車は通常立って乗った。車輪に蒲の綿をかぶせて一層安楽の便を図ることを「蒲輪」と言い、「安車蒲輪」の用例も見られる。「駟馬」は四頭立ての馬車で、貴人の乗り物。
[車+召 Unicode : 8EFA]は「伝車」の類。宿駅の間を次々と車を乗り換えてゆくこと。
■「
天子は方に文詞を好む」。武帝の時代は長大な韻文作品が愛好され、故事・旁引を凝らしたり、空想に富む詩風が重んぜられた。
 景・武の間、枚乗・司馬相如・東方朔らがあって詩賦を善くした。『漢書』の枚乗伝には、呉王[シ+鼻 Unicode : 6FDE]を諌めた言葉が載っており、その主著「七発」は『文選』に採る。司馬相如の「子虚賦」「封禅文」は、その全文が『史記』に採られており、代表作のほとんどが『文選』に遺される。また東方朔は、「朔 初て長安に入り、公車に至りて上書するに、凡そ三千の奏牘を用ふ。公車は両人をして共に其の書を持挙しむるに、僅然として能く之に勝ふ。人主 上方より之を読み、止むときは、輒ち其の処に乙し、之を読むこと二月にして乃ち尽く」と、『史記』滑稽列伝にあるが通りである。即妙の才があり風采が良かったが、重んじられなかった。「七諌」は王逸の『楚辞章句』に採られ、『文選』にも多く作品をとどめる。枚乗の子・皋、司馬相如と時を同じくした。
は「責む」の意。言葉を以て責め立てる、責めなじる、厳しい処断を迫ること。譴責。
〈轅 固 生〉

 清河王の太傅・轅固生は、斉人なり。詩を治むるを以て、孝景の時に博士と為る。黄生と与(とも)に景帝の前に争論す。黄生の曰く、「湯武は命を受くるに非らず、乃ち弑するなり」と。轅固生の曰く、「然(しか)らず。夫れ桀紂は虐乱にして、天下の心 皆な湯武に帰すれば、湯武は天下の心に与(くみ)して桀紂を誅す。桀紂の民は之が為に使はれずして湯武に帰すれば、湯武は已(や)むを得ずして立つ。命を受くるに非らずんば何と爲(せ)ん」と。黄生の曰く、「冠は敝(やぶ)るゝと雖も、必ず首(かうべ)に加へ、履は新たなりと雖も、必ず足に関(は)く。何となれば、上下の分あればなり。今 桀紂は道を失すると雖も、然れども君上なり、湯武は聖なりと雖も、臣下なり。夫れ主に失行有るに、臣下の正言して過を匡(たゞ)して以て天子を尊ぶ能はず、反(かへ)つて過に因りて之を誅し、代りて立践して南面するは、弑するに非らずして何ぞや」と。轅固生の曰く、「必ず云ふ所の若くなれば、是れ高帝の秦に代りて天子の位に即(つ)くは、非なるや」と。是に於て景帝の曰く、「肉食して馬肝を食はざるも〔原注47〕、味を知らずと為さず、学を言ふ者の湯武の受命を言ふこと無きも、愚と為さず」と。遂に罷む。是の後ち学者の敢て受命・放殺を明かにする者莫し。
  • 47 〔正義〕『論衡』に云はく、「気 熱くして毒 盛ん、故に馬肝を食すれば人を殺す。又た盛夏に馬行するに多く渇死するは、殺気の毒と為ればなり」と。
 竇太后 老子の書を好み、轅固生を召して老子の書を問ふ。固の曰く、「此れ是れ家人の言なるのみ」と〔原注48〕。太后の怒りて曰く、「安(いづく)にか司空が城旦の書を得ん」と〔原注49〕。乃ち固をして圏に入りて豕を刺さしむ。景帝は太后の怒れるも固の直言して罪無きを知れば、乃ち固に利兵を仮(か)す。圏に下りて豕を刺せば、正(まさ)に其の心に中り、一たび刺して、豕は手に応じて倒る。太后 黙然たり、以て復た罪する無くんば、之を罷む。居ること頃(しばら)くして、景帝 固の廉直たるを以て、拝して清河王の太傅と為す〔原注50〕。久しくして、病みて免ず。
  • 48 〔索隠〕此れ家人の言なるのみ。服虔の云はく、「家人の言の如きなり」と。案ずるに、『老子道徳篇』は近づけて之を観れば、国を理め身を理むるのみ、故に此れ家人の言と言ふなり。
  • 49 〔集解〕徐広の曰く、「司空は、刑徒を主るの官なり」と。[馬+因 Unicode : 99F0]の案ずるに、『漢書音義』に「道家は儒法を以て急と為し、之を律令に比す」と曰ふ。
  • 50 〔集解〕徐広の曰く、「哀王・乗なり」と。
 今上の初て即位するや、復た賢良なるを以て固を徴(め)す。諸ゝの諛儒の多く固を疾毀して曰く、「固や老いたり」と。罷めて之を帰す。時に固は已に九十余たり。固の徴するや、薛人の公孫弘も亦た徴するに〔原注51〕、側目して固を視る。固の曰く、「公孫子、正学に務めて以て言ひ、学を曲げて以て世に阿(おも)ねる無かれ」と。是より後、斉の詩を言ふもの皆な轅固生に本づくなり。諸ゝの斉人の詩を以て顕貴となるもの、皆な固の弟子なり。
  • 51 〔集解〕徐広の曰く、「薛県は[艸+(緇−糸) Unicode : 83D1]川に在り」と。
◆現代語訳◆
 清河王の太傅・轅固生は、斉国の出身である。詩を修めたことを理由に景帝の治世に博士となった。あるとき黄生というものと景帝の御前で論争した。黄生が言う。「湯王・武王は天の命を受けたのではない。すなわち主君を弑逆し(て天下を奪っ)たのである」と。轅固生が言う。「そうではない。かの桀王・紂王は残虐を尽くして政道を乱し、天下の心がみな湯王・武王に帰順したので、湯王・武王は天下の心と一体となって桀王・紂王に天誅を降したのである。桀王・紂王の民は王のために使役されることを厭い、湯王・武王に帰順したので、湯王・武王は万やむをえず崛起したのだ。これを天命を受けたものと言わずして何と言おうか」と。黄生が言う。「冠はボロボロになっても必ず頭にかぶるもので、履(くつ)は新品であっても必ず足に穿(は)くものだ。なぜならば上下それぞれの立場で守るべき分があるからだ。桀王・紂王は道を失ったとはいえ、それでも君上である。湯王・武王は聖人とはいえ臣下である。およそ君主に失策があるときに、臣下として正言を尽くして過ちを正すことで天子を尊ぶのではなく、むしろ過ちを理由に天子を誅伐し、取って代って践祚して自ら天子になるのではあれば、それを弑逆と言わずして何と言おうか」と。轅固生が言う。「あなたの言うことのとおりであれば、高皇帝(=劉邦)が秦に代って天子の位に即(つ)かれたのは、間違いであったということだな」と。ここで景帝がおっしゃった。「肉を食べるものが(毒のある)馬の肝を食べないからと言って、肉の味を知らないとは言わないだろう。同様に学問を語るものが湯王・武王の受命を語らないからと言って、学問が及ばないとは言えまい」と。こうして沙汰止みになった。こののちあえて受命・放殺の別を明らかにしようとする学者はいなくなった。
 竇太后は『老子』を好み、轅固生を召して『老子』についてご質問になった。轅固生が言った。「こんなものは召使いの(喜ぶような)言葉にすぎません」と。太后がお怒りになって言った。「どうやって司空から城旦刑の執行命令書を手に入れようか」と。そうして轅固生を(家畜を囲う)柵の中に入れて獰猛な野豚を刺し殺すよう命じた。景帝は太后がお怒りになっているものの轅固生がただ直言しただけで罪がないことを理解されていたので、(ひそかに人を使って)轅固生に鋭利な刃物を渡した。柵に下りて豕を突き刺したところ、みごとにその心臓に命中し、一度突き刺しただけで野豚はその一手に応じて死んだ。(これを目にして)太后は黙り込んでしまった。これ以上罪を着せることができなかったので沙汰止みになった。長安にとどまることしばらくして、景帝は轅固生が清廉剛直なのを理由に、清河王の太傅に拝命した。久しくその職を勤めたが病んで免ぜられた。
 今上が即位されると、ふたたび賢良の士として轅固生を都に招いたが、おべっか上手の儒者たちが轅固生を疎ましく思い、「轅固生はもはや耄碌して往年の面影はございません」と申し上げたので、結局何の官にも就けず帰らせた。当時、轅固生はすでに九十余歳であった。固が召し出されたとき、魯国薛県出身の公孫弘もまたお召しがあったが、公孫弘はまともに顔を上げて轅固生と面会することができなかった。轅固生が言った。「公孫どの、正しい学問に務めて発言し、学問の大義を曲げて世に阿(おも)ねらぬようにな」と。こののち、斉詩を説くものはみな轅固生の学説に基づいたのである。また斉地方の出身者人で周詩に通じていることで出世したものは、みな轅固生の弟子であった。
〔補 注〕
■「弑す」とは、臣下が君長を殺すこと。弑逆。大逆。
■原文「
履雖新、必關於足」。「關(関)」字、『漢書』は「貫」字に作る。『康煕字典』に『礼記』雑記下を引き、「叔孫武叔 朝するに、輪人の其の杖を以て轂を関(うが)ちて輪を[車+果](めぐ)らす者を見る」、「疏に『関』は『穿』なり」とある。今、朱彬の『礼記訓纂』を見るに、「正義に『関』は『穿』なり、『[車+果]』は『廻』なりと。謂ふ、作輪の人、扶病の杖を以て車轂中に関穿して其の輪を廻転するを」と。『康煕字典』に同じ。和語にも「貫(頬貫)」(つらぬき)と言えば、甲冑を着るときに穿いた毛皮の沓、また「穿つ」にも「履き物(沓)をはく」の意がある。
■「
立践して南面す」。立は「たつ=立ち上がる/決起する、あるいは号を立てる/天下に号令する」、践は「ふむ=践祚する」、南面は「君子は南面す=南を向いて人民を治める/天子の位につく」の意。
■「
受命」は天の命を受けて新しい秩序を立てること。暴君を放逐して新しい王朝を建てること。受命の証しは、「諸侯を鳩合して、天下を一匡す」るように具体的に人民の付託を受けることを指す場合と、銅雀のような「符命」を偽造する場合とがある。確固たる証しはできない。革命者が主体的意図的に宣言するのみである。「放殺」は「放伐と殺戮」、あるいは「殺を放(ほしいまま)にする」の意。受命が天の命に従って(あるいは人民の意に沿って)する行動であるのに対し、放殺は私利私欲による反逆行為を言う。受命か放殺かの論争は、論者の立場の違いによる。
■「
家人の言」は、「召使いが口にするようなこと」の意。儒者の側を「君子の言」とするのに対して、老荘思想を貶めている。
■「
安にか司空が城旦の書を得ん」は、「どうやって司空の城旦刑の執行令状を手に入れようか」の意。「安」は「なんぞ(反語)」または「いづくんぞ(場所・方向を問う疑問の助字)」。城旦刑は労役刑のこと。頭髪を剃り(「[髟+几 Unicode : 9AE0]」と言う)枷にかけ(「鉗」と言う)て労役に服せしむるを「[髟+几 Unicode : 9AE0]鉗城旦」と言い、[髟+几 Unicode : 9AE0]鉗を免除されるのを「完城旦」と言った。労役と言っても、金員を以て贖することができたが、実際に刑に服したものは多く服役中に窮死したという。冨谷 至の『古代中国の刑罰』中公新書に詳しい。
注55 「圏」は家畜を飼う檻。「豕」は獰猛な野豚。映画「ハンニバル」で資産家ヴァーチャーが飼っていた豚の類。
■「
利兵」は「鋭利な兵器=武器・刃物」の意。密かに利刀の類を渡して、豕を刺させた。
■「
諛儒」は巧言令色を以て君主に阿る知恵者のこと。「疾毀」はライバルの登場をうとましく思い、これを憎んで名誉を失墜させようとすること。
側目は「目を側だつ」こと。畏怖のあまり相手を正視できないこと、また伏し目がちになってまともに顔を上げることができないこと。
■「
曲学阿世」の語源。権勢の意を伺って学問の真髄をねじ曲げ、時世の趣くところに沿ってこれを粉飾することをいう。学者というものはむしろ「堅物」ぐらいが丁度よく、学問の理とするところを固く守って権勢の粉飾を暴き、時流の軽薄を批判して正道を示すべきことを言外に秘す。
〈韓 嬰〉
 韓生は〔原注52〕、燕人なり。孝文帝の時に博士と為り、景帝の時に常山王の太傅と為る〔原注53〕。韓生は詩の意を推して内外の伝 数万言を為(つく)り、其の語 頗る斉・魯の間と殊(ことな)れるも、然れども其の帰 一なり。淮南の賁生〔原注54〕 之を受く。是より後、而して燕・趙の間に詩を言ふ者は韓生に由る。韓生の孫・商は今上の博士と為る。
  • 52 〔集解〕漢書に曰く、「名は嬰」と。
  • 53 〔集解〕徐広の曰く、「憲王・舜なり」と。
  • 54 〔索隠〕賁の音は肥。
◆現代語訳◆
 韓嬰は燕国の出身である。文帝の治世に博士となり、景帝の治世に常山憲王・劉舜の太傅となった。韓嬰は「周詩」の大意を推し測って内伝・外伝それぞれ数万字を著作した。その文章は斉・魯地方で周詩を説くもの(=斉詩・魯詩)とは非常に異なっていたが、それでも(聖人の道を奉じるにおいては)帰するところは一つであった。淮南国の賁生は彼から学問を受けた。これ以後、燕・趙地方で周詩を説くものはいずれも韓嬰の学説に由来する。韓嬰の孫の韓商は今上(=武帝)の博士となる。
〔補 注〕
■「内外の伝」は、「内伝」と「外伝」のこと。今日『韓詩外伝』十巻が伝存する。『漢書』芸文志に、「『韓故』三十六巻。『韓内伝』四巻。『韓外伝』六巻。『韓説』四十一巻」とある。また、「漢 興り、魯の申公は詩の訓故を為り、而して斉の轅固・燕の韓生は皆な之が伝を為る。或は『春秋』を取り、雑説を采るも、咸く其の本義に非らず」と解説するあたり、いかにも古文学派の班氏の面目を伝える。
〔尚 書 家〕
〈伏 勝
 伏生は〔原注55〕、済南の人なり。故(もと) 秦の博士たり。孝文帝の時、能く尚書を治むる者を求めんと欲するも、天下に有ること無し。乃ち伏生の能く治むるを聞き、之を召さんと欲す。是の時 伏生九十余、老いたり。是に於て乃ち太常に詔して掌故の朝錯をして往きて之を受けしむ。秦時の書を焚きしとき、伏生 之を壁蔵す。其の後ち兵 大(おほい)に起りて、流亡す。漢の定るや、伏生 其の書を求むるに、数十篇を亡(うしな)ひ、独り二十九篇を得る。即ち以て斉魯の間に教ふ。学者 是れ由り頗る能く尚書を言ひ、諸ゝの山東の大師の尚書に渉りて以て教へざる無きなり。
  • 55 〔集解〕張晏の曰く、「伏生 名は勝、伏氏碑に云ふ」と。
◆現代語訳◆
 伏生は済南郡の出身であるなり。元は秦の博士たり。孝文帝の治世に尚書を取り扱うことができる人材を求めようとしたが、天が下に見当たらなかった。その後 伏生が取り扱うことができるを聞いて彼を召し出そうとした。このとき伏生は九十余歳で、年老いていた(ため京師に上がれなかった)。そのため太常に詔勅を下して掌故の朝錯を赴かせて伏生の学を受けさせた。秦代の焚書の際に、伏生は家書を壁に塗りこめて隠した。その後 秦末楚漢の争乱が起こったので難を避けて各地を流浪した。漢の世になって世の中が安定してから伏生が郷里に帰って隠した書を探し出したところ、数十篇を亡逸してわずかに二十九篇だけを取り戻すことができた。そこでその二十九篇をもとに斉・魯地方で尚書を教えた。これにより世の学者は尚書のことを多く語ることができるようになり、山東地方で弟子をとって教えるほどの人物であればみな尚書に関して教えぬものがないほどとなった。
〈児 寛〉
 伏生は済南の張生及び欧陽生に教へ〔原注56〕、欧陽生は千乗の児寛に教ふ。児寛は既に尚書に通ずるや、文学を以て郡挙に応じ、博士に詣りて業を受け、業を孔安国に受く。児寛 貧しく資用無くんば、常に弟子が為(ため)に都(すべ)て養(かし)〔原注57〕、時時の間に及んでは傭賃に行き、以て衣食を給す。行くときは常に経を帯び、止息すれば則ち之を誦習す。試の第次を以て、廷尉の史に補す。是の時、張湯 方に学に郷(むか)はんとし、以て奏[言+獻 Unicode : 8B9E]掾と為す。古法を以て疑しき大獄を議決すれば、寛を愛幸す。寛 人と為り温良、廉智有り、自ら持す。而して善く書を著はし、奏を書す。文に敏なるも、口は発明する能はざるなり。湯 以て長者と為し、数ゝ(しばしば)之を称誉す。湯の御史大夫と為るに及び、児寛を以て掾と為し、之を天子に薦む。天子 問を見て、之を説(よろこ)ぶ。張湯の死後六年、児寛の位は御史大夫に至り〔原注58〕、九年にして官を以て卒す。寛は三公の位に在り、和良を以て意を承け従容として久しきを得る。然れども官に於て匡諌する所有ること無くんば、官属 之を易(あなど)り、為(ため)に力を尽さず。張生も亦た博士と為る。而して伏生の孫も尚書を治むるを以て徴さるゝも、明かにすること能はざるなり。
  • 56 〔集解〕漢書に曰く、「字は和伯、千乗の人」と。
  • 57 〔索隠〕倪寛の家貧しくして、弟子の為に食を造るを謂ふなり。何休の『公羊』に注して「灼烹は養を為す」と。案ずるに、廝養の卒有り、廝は馬を掌り、養は食を造る。
  • 58 〔集解〕徐広の曰く、「元封元年」と。
◆現代語訳◆
 伏生は済南郡の張生と欧陽生に教え、欧陽生は千乗郡の児寛に教えた。児寛は尚書に通ずると文学の士として郡の推挙に応じ、京師の博士のもとで学業を受けることになり、孔安国に就いて学んだ。児寛は家が貧しく遊学資金がなかったので、いつも他の弟子たちのために(炊事洗濯などの)一切の家事雑務を行(って駄賃をもら)い、学問の合間を縫っては日雇いとして働き、それによって衣食をまかなった。日雇いに出るときにはいつも経書を帯行し、休憩時間になるとそれを誦習した。試験の成績がよかったので廷尉の史に補任された。このころ張湯は学問振興に意を注いでいたので、児寛を奏[言+獻 Unicode : 8B9E]掾に取り立てた。尚書の古法によって(淮南王の?)大疑獄を議決したので張湯は児寛をかわいがった。児寛の人となりは温良で清廉かつ明知があり、堅く持するところがあった。そのうえ文書を著すのに巧みで上奏文を書いた。文章には明るかったが、口べたで条理を明らかにすることができなかった。しかし張湯は彼を有徳の長者だと認め、しばしば彼を誉め称えた。張湯が御史大夫になると児寛を掾とし、彼を天子に拝謁させた。天子は児寛の受け答えに接して彼のことがお気に召した。張湯の死後六年に児寛の位は御史大夫に進み、九年後に在中に卒去した。児寛は三公の位にあっては、寛和温良をもって上意を承け、慌てず騒がず長い間役職に就いていた。しかしながら役所において部下を叱咤粛正することがなかったので、属僚は彼を侮って彼のために力を尽くそうとはしなかった。このほか伏生の弟子の張生もまた博士となった。その後 伏生の孫も尚書を修めていることを理由に召されてが、(伏生ほどには)学義を明らかにすることができなかったのである。
〔補 注〕
■「都養」。『漢書』児寛伝の顔注に、「都は、凡(すべて)衆(おほし)なり。養は、烹炊を主給する者なり。貧にして資用無く、故に諸?の弟子に烹炊を供するなり。養の音は弋向の反」とある。孔安国門下の弟子たちの炊事をしてやって、わずかばかりの駄賃を貰い受けたのである。
■原文「
然無有所匡諌、於官、官属易之」。訓点に従えば、「然れども匡諌する所有ること無く、官に於けるや、官属 之を易る」となる。当たらず。今、野口定男の訳に従う。
〔尚書家結語〕
 此より後ち、魯の周霸・孔安国、[各+隹 Unicode : 96D2]陽の賈嘉は、頗る能く尚書の事を言ふ。孔氏に古文の尚書有り、而して安国 今文を以て之を読み、因りて以て其の家を起す。逸書〔原注59〕 十余篇を得。蓋し尚書 是より滋ゝ(ますます)多くなるなり。
  • 59 〔索隠〕案ずるに、孔臧の安国に与ふる書に「旧書 壁室に潜むも、[(火+火+火)+欠 Unicode : 6B58]爾として復た出で、古訓 復た申ぶ。唯だ尚書二十八篇は象を二十八宿に取ると聞くに、何をか図りて乃ち百篇有る。即ち今を以て古に讐ひ、隸篆もて科斗を推し、以て五十余篇を定め、並びに之が伝を為すを知るなり」と。『芸文志』に「(以て)二十九篇(を考ふるに)、多く得ること十六篇なり」と曰ふ。起つとは、起発して以て出づるを謂ふなり。
◆現代語訳◆
 これ以後、魯国の周霸と孔安国および洛陽の賈嘉は、非常に巧みに「尚書」の大義を説くことができた。また孔氏は先秦の文字で書かれた「尚書」のテキストを所蔵していた。そして孔安国は通行の字体(=隷書体)で書かれたテキストと対校してそれを解読し、古文経に拠って新たに一家を起こした。(今文系のテキストと重複したものを除き)失われていた「尚書」テキスト十余篇を得た。おそらく「尚書」はこのときから(新出のテキストが増え)次第に多くなったのであろう。
〔補 注〕
■「蓋し尚書 是より滋ゝ多くなるなり」古文尚書の始まり。尚書は単に「書」とも呼ばれ、後世、儒教の根本教典化していく中で「書経」と称されるようになる。「尚」は「先」の意で、歴史的過去のこと。伝説によれば、太古以来の文献を孔子が収集選別し百篇としたという(現在は20巻58編)。しかし論語には尚書の引用がなく古伝説に類したエピソードも少ないことから、子夏の徒が孔子没後から六国期にかけて大幅に加筆・創作したものと思われる。尚書の内容は「虞夏書」「商書」「周書」と三部構成を採っているが、書かれた内容の年代と制作年代は必ずしも一致しない。「西伯戡黎」篇から始まる周書の数篇がまず制作され、次に商書が書かれ、虞夏書や「洪範」篇や五誥などの周書の数篇はもっとも新しく、六国期まで下るであろうと推測されている。『墨子』や『孟子』の諸篇に、尚書に類した引用が散見されることから、この時期に尚書制作熱が高まっていたのであろう。
 さて、古文尚書についてについては、史記や漢書の記述によると、始皇帝の反儒教政策によって尚書の亡佚が進み、漢代に学を伝えた伏生の手元には29編のテキストしか残らなかったという。しかし景帝のときに魯の恭王が邸第を増築するため孔氏の旧宅を取り壊した際、壁中より先秦の書で記された文献が見つかる。それを孔安国が当時行われていたテキストと対比して釈文したところ、新たに16編が見いだされた。孔安国はこれを朝廷に献上して学官を立てるべきことを進言したが、景帝の治世は経術への関心が低く取り上げられなかったという。伏生が伝え当時主流であった隷書による29編のテキストを「今文尚書」と呼ぶのに対して「古文尚書」という。
 孔安国は孔子の子孫に当たり、司馬遷自身も彼に師事した。伏生系統の欧陽氏の学を御史大夫の児寛より受け、董仲舒と並ぶ景武期の碩学と称された。それゆえ偽典を著して譏りを受ける必要はなく、古文尚書出土に関する経過はおそらく事実であろう。しかしその顰みに倣うものが後を絶たず、尚書古文学は複雑な歴史をたどる。司馬遷以降、前漢末から王莽の頃に劉[音+欠 Unicode : 6B46]らが古文経学官の設立運動が始まり、古文尚書のほかに左伝・周礼(周官)・毛詩などが世に出る。続く後漢においても、班氏(班彪・班固)を始めに、外戚筋で曹大家(班昭)に師事した馬融、その弟子の鄭玄、後漢末の蔡[巛+邑 Unicode : 9095]などの大物が古文学の完成を進めた。しかし六朝期にはふたたび亡佚し、今日伝えられる古文尚書は、東晋の梅頤が朝廷に献上したものという。これは清代考証学において全くの偽書とされ、孫詒譲『尚書今古文注疏』や皮錫瑞『今文尚書考証』などの著作からは完全に排除されている(ただし孔安国に偽託される「尚書序」については、参考として付される場合が多い)。なお晋代に偽経が作られた背景に汲冢書の出土などの影響が疑われる。太康年間に汲郡で魏の襄王の墓が発冢され、大量の竹簡が出土し、『竹書紀年』『穆天子伝』『逸周書』などの旧記が発見された。このことは当時のセンセーショナルとなり、杜預は『竹書紀年』をもとに左伝の注釈書『春秋経伝集解』を著し、張湛は散逸した『列子』を再編する際に『穆天子伝』を利用した。このような古文ブームの中で、諸書の中に断片的に存在した伝説や古記録を拾って偽経が作られたのではなかろうか。
*   *   *
〔礼 家〕
〈高 堂 生〉
 諸ゝの学者の多く礼を言へども、魯の高堂生 最も本なり。礼は固(もと)より孔子の時より其の経 具はらず、秦の書を焚くに至るに及び、書の散亡すること益ゝ多く、今に於て独り士礼のみ有り、高堂生 能く之を言ふ。
◆現代語訳◆
 多くの学者の礼についてさまざまなことを言ってい(て、それぞれに傾聴に値するものであ)るが、(それらの説をたどっていくと)魯の高堂生が最もその根源にあたる。礼はもともと孔子の時代から(他の学問のように一冊になった「礼経」という形で)経文が具備していたわけではなく、秦の焚書によってさらに記録が散逸してしまい、今現在には(天子・諸侯・卿・大夫の古礼は失われ)ただ「士」階級に属する礼だけが伝わり、高堂生が説くことができたのもそれである。
〔補 注〕
■「独り士礼のみ有り」。始皇帝の焚書によって資料が失われ、天子・王侯・卿・大夫・士の五階級のうち、漢代には士階級のための礼式以外は伝承者がいなかったことを言う。春秋時代で言えば、周王が天子、魯公が王侯、三桓が卿、陽虎が大夫、孔子が士である。もとより士大夫出身の儒家集団にとって、天子や王侯の礼式に触れる機会があろうはずもなく、孔子自身でさえ「大廟に入りては、事毎に問ふ」(『論語』郷党篇)たという。当時から権力の下降現象などによって礼制は混乱し(「孔子 季氏の八[イ+(八+月 Unicode : 4F7E)]を庭に舞すを謂ひて、『是をも忍ぶ可くんば、孰をか忍ぶ可らざる』と」(八[イ+(八+月 Unicode : 4F7E)])。「子の曰く、『觚 觚ならず。觚ならんや觚ならんや』と[雍也]」)、また天子や王侯の礼制は煩雑で文献化されておらず、『論語』微子編に「太師摯は斉に適き、亜飯干は楚に適き、三飯繚は蔡に適き、四飯欠は秦に適き、鼓方叔は河に入り、播?武は漢に入り、少師陽・撃磬襄は海に入る」とあるように、職業集団の分散とともにその礼制は衰亡した。その結果、始皇帝や漢の武帝が封禅の儀式を行ったころには完全に亡失してしまい、諸生にその礼制を問うて答えが得られなかったことが史記にも見える。なお周詩の雅頌のうちに王侯の廟楽の歌詞だけが残されている。
〈徐 生〉
 而うして魯の徐生は善く容を為(をさ)〔原注60〕。孝文帝の時、徐生は容を以て礼官大夫と為る。子に伝へて孫の徐延・徐襄に至る。襄は、其の天姿もて善く容を為むるも、礼経に通ずる能はず、延は頗る能くするも、未だ善くせざるなり。襄は容を以て漢の礼官大夫と為り、広陵の内史に至る。延 及び徐氏の弟子の公戸満意〔原注61〕・桓生・単次〔原注62〕は、皆な嘗て漢の礼官大夫と為る。而して瑕丘の蕭奮〔原注63〕は礼を以て淮陽の太守と為る。是の後ち能く礼を言ひ容を為むる者は、徐氏に由れるなり。
  • 60 〔索隠〕漢書は「頌」に作るも、亦た音は容なり。
  • 61 〔索隠〕公戸は姓、満意は名なり。案ずるに、[登+邑 Unicode : 9127]展の二人の姓字と云ふは、非なり。
  • 62 〔索隠〕上音は善。単は姓、次は名なり。
  • 63 〔集解〕徐広の曰く、「山陽に属するなり」と。
◆現代語訳◆
 それからのち魯国の徐生がよく礼容を修めていた。文帝の治世に徐生は礼容に優れていることを理由に礼官大夫となった。その学義は相伝して孫の徐延・徐襄に伝えられた。襄は天性の容姿にも恵まれよく礼容を修めたが、「礼経」の経義には通じておらず、延は経義には通じていたが、礼容を十分に修めることができなかった。襄は礼容に優れていることを理由に漢室の礼官大夫となり、官位は広陵県の内史に進んだ。延と徐氏学派の弟子である公戸満意・桓生・単次らも、やはりみな漢室の礼官大夫となった。そののち山陽郡瑕丘県の蕭奮は礼経に通じていることを理由に淮陽の太守となった。これ以後、礼経を説き礼容を修めることに優れたものは、徐氏の学問に由来するのである。
〔補 注〕
■「頗る経術を能くするも、未だ礼容を善くせず」の意。五経において礼経はもっとも成立が遅く、司馬遷のころには標準のテキストがなかった。ただし本伝董仲舒の条に「礼に非らずんば行はず」とあるから、経学の士として守るべき礼節は知られていたようである。また前注にも述べたとおり、礼式のあり方は時代によっても推移する。始皇帝は中央集権による新時代を築き、「皇帝」の号を称え玉璽を刻み封禅の儀を定めた。漢代にも蕭何や叔孫通らが新たな礼制を作り、武帝の封禅は始皇帝のものとは異なっていたはずである。このような経緯ののち、高堂家になんらかの形で礼経が伝えられたのであろうが、その不統一のゆえに進退・容止の威儀を専らにするものと、経術を究めて完成を進めようとするものとに別れることになった。礼経の最終的な完成は、漢末劉向が漢室の秘閣に死蔵されていた文献を整理するのを待つ。この三百編の礼経の原本のうち、戴徳が再編集した『大戴礼』85編(伝存39編)と、それを戴聖が抜粋した『礼記』49編とが今日に残される。礼経にはこのほかに撰者不明の『儀礼』17編と、劉[音+欠 Unicode : 6B46]の偽作と疑われる『周礼』6編とがあり、『礼記』と併せて「三礼」と呼ばれる。
*   *   *
〔易 家〕
〈楊 何〉
 魯の商瞿の易を孔子に受けて自(よ)り〔原注64〕、孔子の卒して、商瞿の易を伝ふること、六世にして斉人・田何、字は子荘に至る〔原注65〕。而して漢の興るや、田何は東武の人・王同子仲に伝へ、子仲は[艸+(緇−糸) Unicode : 83D1]川の人・楊何に伝ふ〔原注66〕。何は易を以て、元光元年に徴せられ、官は中大夫に至る。斉人・即墨成は易を以て城陽の相に至る。広川の人・孟但は易を以て太子の門大夫と為る。魯人・周霸、[艸+呂 Unicode : 8392]人・衡胡〔原注67〕、臨[艸+(緇−糸) Unicode : 83D1]の人・主父偃は、皆な易を以て二千石に至る。然れども要するに易を言ふ者は楊何の家に本づく。
  • 64 〔索隠〕案ずるに、商は姓、瞿は名、字は子木。瞿の音は劬。
  • 65 〔索隠〕案ずるに、漢書に「商瞿は東魯の橋庇子庸に授け、子庸は江東の臂子弓に授け、子弓は燕の周醜子家に授け、子家は東武の孫虞子乗に授く」と云ふ。『仲尼弟子列伝』は「淳于の人 光羽子乗」に作り、同じからざるなり。子乗は田何子装に授くに、是れ六代の孫なり。
  • 66 〔索隠〕案ずるに、田何は東武の王同に伝へ、同は[艸+(緇−糸) Unicode : 83D1]川の楊何に伝ふ。
  • 67 〔集解〕徐広の曰く、「[艸+呂 Unicode : 8392]は、一に『呂』に作る」と。
◆現代語訳◆
 魯の商瞿が「周易」を孔子から学んでから、孔子の没後、商瞿が易学を伝えて六代目に斉地方出身の田何 字は子荘に達した。その後 漢が建国されると、田何は琅邪郡東武県出身の王同子仲に伝授し、王同は[艸+(緇−糸) Unicode : 83D1]川国出身の楊何に伝授えた。楊何は「周易」に詳しいことを理由に元光元年に召し出され、官位は中大夫に進んだ。斉地方(膠東国即墨県か)出身の即墨成は「周易」に詳しいことを理由に任用されて城陽の相に進んだ。広川国出身の孟但は易「周易」に詳しいことを理由に任用されて太子の門大夫となった。魯国出身の周霸、城陽国[艸+呂 Unicode : 8392]県出身の衡胡、斉郡臨[艸+(緇−糸) Unicode : 83D1]県出身の主父偃らは、みな「周易」に詳しいことを理由に任用されて二千石の大官に進んだ。(「周易」を詳しいものは数あれど)要するに「周易」を説くものはすべて楊何の家学に基づくのである。
〔補 注〕
易家の取り扱いが簡潔で、五経博士のうち、詩家・尚書家・礼家(!)のあとに置かれていることに注目したい。数象を専らとする漢易はこののち施讐・孟喜・京房・費直・梁丘賀・焦延寿らが相次いで学を興し、後漢には馬融・鄭玄らが、三国期には虞翻・王弼らが注を施して大成する。唐代にその地位は不動のものとなり、宋代には程朱によって宇宙論にまで敷衍され、明の王船山や清の恵棟に至ってはさらに経学として精細を究めた。しかし論語には引用されておらず、左伝に見えていることから、その成立は六国期にまで下るであろう。秦の焚書を免れた理由も、単に占いの本と見做されたからだけでなく、儒家の範疇から度外されていたからではないか。易はそもそも、梁丘賀が暗殺計画を見破り、東方朔や管輅が射覆(中物)の神技を示したような具体的な技術であり、賈誼を嘆息させた日者の伝統もあった。しかし易は正統儒学に組み込まれて経学化し、後漢以降は五経の筆頭となり、さらに王弼が老荘玄学をもって解釈し『五経正義』に採られてからは、数象易の知識も急速に失われてしまう。今日の占筮の法も朱子の『周易本義』以降に再創造されたものである。今日、唐の李鼎祚の著を増補した清の李道平の『周易集解纂疏』がかろうじて漢易の遺風をとどめる。
*   *   *
〔春 秋 家〕
〈董 仲 舒〉
 董仲舒は、広川の人なり。春秋を治むるを以て、孝景の時に博士と為る。帷を下して講誦し、弟子は伝ふるに久次を以て業を相受け、或は其の面を見ること莫し。蓋し三年 董仲舒は舎園を観ず、其の精なること此(かく)の如し。進退・容止は、礼に非ずんば行はず、学士 皆な之を師尊す。今上の即位するや、江都の相と為す〔原注68〕。春秋が災異の変を以て陰陽の錯行せる所以を推し、故に雨を求むるときは諸陽を閉ぢて、諸陰を縦(ほしいまゝ)にし、其の雨を止(とゞ)むるときは是に反す。之を一国に行ひて、未だ嘗て欲する所を得ざるなし。中ごろ廃せられて中大夫と為り、舎に居りて、災異の記を著す。是の時に遼東の高廟に災あり。主父偃 之を疾(にく)まば、其の書を取りて之を天子に奏す〔原注69〕。天子 諸生を召して其の書を示すに、刺譏するもの有り。董仲舒の弟子・呂歩舒〔原注70〕 其の師の書なるを知らず、以て下愚と為す。是に於て董仲舒を吏に下せば、死に当るも、詔して之を赦す。是に於て董仲舒は竟(つひ)に敢て復た災異を言はず。
  • 68 〔索隠〕案ずるに、仲舒は易王に事ふ。王は、武帝の兄なり。
  • 69 〔集解〕徐広の曰く、「建元六年」と。〔索隠〕案ずるに、漢書に以為へらくは遼東の高廟及び長陵の園殿 災するなり。仲舒 災異の記を為るに、草すれども未だ奏せず、主父偃 竊みて之を奏す、と。
  • 70 〔集解〕徐広の曰く、「一に『荼』に作るも、亦た音は舒」と。
 董仲舒は人と為り廉直。是の時 方外に四夷を攘(はら)ひ、公孫弘 春秋を治むるも董仲舒に如(し)かず、而も弘は世に希(もと)めて事を用ひ、位は公卿に至る。董仲舒は弘を以て従諛と為す。弘は之を疾(にく)み、乃ち上に言ひて曰く、「独り董仲舒のみ膠西王に相たらしむる可し」と。膠西王は素より董仲舒の行有るを聞けば、亦た善く之を待つ。董仲舒 久しくして罪を獲るを恐れ、疾(やまひ)もて免じて家に居る。卒するに至るまで、終(つひ)に産業を治めず、学を脩め書を著すを以て事と為す。故に漢の興りてより五世の間に至るまで、唯だ董仲舒のみ名して春秋に明しと為す。其の伝は公羊氏なり。
◆現代語訳◆
 董仲舒は信都国広川県の出身である。春秋を修めていることをもって景帝の治世に博士となった。帷(カーテン)を下して講誦し、弟子の間では古参の弟子が新参のものに伝授していたので、なかには入門してから師の顔を見たことのないものまでいた。(いったん書斎にこもると侵食を忘れて学問に没頭し)三年ものあいだ部屋にこもりきりで庭すら目にしないこともあり、彼が学問に精を傾けることはすべてこのようであった。進退挙措・容儀服装は万事礼に適わないこととてなく、世の学士はみな彼を師と仰いで尊敬した。今上が即位すると江都国(広陵)の相とした。春秋の「災異の変」によって陰陽が錯行する原因をつきとめたので、雨乞いをするときには諸陽を閉じて(=陽に属するものをしまいこんだりすること。あるいは国人の男に戸外に出ないよう命じたか)諸陰を放ち(=陰に属するものを道端に置くなどすること。るいは国人の女に戸外に出て雨乞いのために慟哭させたりしたか)、雨止めをするときはその反対のことを行った。これらのことを一国の範囲で実施して、一度として思ったとおりことが運ばないことがなかった(必ず成功した)。任期の途中で中央にもどされて中大夫となり、第舎に起居しているあいだに、「災異の記」の草稿をしたためていた。このころ遼東の高廟に火災があった。主父偃は(董仲舒の「災異の記」を盗み読む機会があり)彼の才能に嫉妬し、(高廟の火災にかこつけて)彼の書を取り上げて天子に奏上した。天子は諸生を召して(董仲舒の著作であることを伏せて)その書を示したところ、その内容を批判するものがあった。董仲舒の弟子・呂歩舒が自分の師の著作であることを知らずに、それを馬鹿げた代物だと決めつけた。そこで董仲舒を刑吏に下げわたしたところ死罪に該当したが、詔があって罪をお赦しになった。このことがあってから董仲舒は死ぬまでにもう二度と災異のことを口にしなかった。
 董仲舒の人となりは清廉剛直であった。このころ漢では遠方の地で夷狄を駆逐(する対外積極策を方針と)していたが(董仲舒はそのことに批判的で)、ときの権臣・公孫弘は春秋を学んでいたものの董仲舒には遠く及ばなかったにもかかわらず、出世するためにいろいろと画策した結果、三公九卿の位に進んでいた。董仲舒は公孫弘を阿諛追従の輩だと見なしていた。公孫弘はそのことを憎み(体よく董仲舒を亡きものにしようと)、御上に申し上げて言った。「ただ董仲舒だけが(暴虐で手を焼いている)膠西王の相として勤まるでしょう」と。膠西王は(中央政府の皇族つぶしの干渉に激怒して乱暴なことをしていたが)、平素より董仲舒が優れた行いのある人物であることを聞き知っていたので、(公孫弘の思惑に反して)厚遇をもって彼を迎えた。それでも董仲舒は長居をすればやはり危険だと考えて、病を理由に辞職して自宅に帰った。その後は死ぬまでついに出仕して俸禄をいただくことなく、学問を修め書物を著すことに専念した。そのため漢の建国以来五代(高・恵・文・景・武)の間、ただ董仲舒だけが名を挙げて春秋に明るいものだと言うことができるのだ。彼が専門とした伝は公羊氏のものであった。
〔補 注〕
■「久次を以て業を相受く」とは、古参の弟子が新参者を教え、師の手を患わせなかったことを言う。「蓋し三年 董仲舒は舎園を観ず」という表現から、その精励ぶりが伺える。司馬遷は董仲舒に師事したことがあるので、このようなエピソードを実際に目にしたに相違ない。
■「
災異」云々。漢代知識人の神秘主義的傾向を伝える記述。ただし史記においては珍しい例。
 加持伸行は『史記―司馬遷の世界』(中公新書)において、従来合理主義の人と見做されてきた司馬遷を、あくまで漢代知識人の枠内でとらえるべきだと主張する。史記の記述に含まれる「天人相関説」に基づいた表現は、近代科学を与り知らぬ神秘主義者のイデーとして考えないかぎり理解できないと言うのだ。たしかに秦漢以前にも各種の神話(『楚辞』)、五行説(『尚書』洪範篇)、神仙説(『呂氏春秋』)、気の思想(『黄帝内経』)などは存在した。しかし白川 静博士も指摘しているように、祭祀国家・殷の滅亡によって中国における「神の時代」はすでに終焉し、神秘主義的な色彩と平行しつつも明らかな人間主義が六国期に向けて加速したことも事実である。『論語』述而篇の「子は怪・力・乱・神を語らず」に象徴される儒家的な合理主義や、墨子の尚同・尚賢の思想には、できるだけ神秘に依拠しない人間統治の意志表明が看取される。また天命や性情を廃した老子の思想には、人間中心主義をすら脱したコスモロジーの再構築が伺えるし、さらに万物斉同にまで到達した荘子の思想は、老子の発見を超えてエピクロスの徒や原始仏教とも横断する広がりを持つ。春秋末期から活躍が伺える兵家にはいっそう脱神秘主義の傾向が著しく、孫子は道家的な立場から虚実を中心に、呉子は儒家的な立場から治国を中心に脱戦争論を展開した(戦争を政治の問題としてとらえる考えた方は、のちの『六韜』とも通じるし、また『司馬法』では「よい戦争」論を浮上させることになる)。戦国期にまとめられた『管子』牧民篇や『晏子春秋』の説話にも、脱神秘=人間中心主義の痕跡が見られる。『尉繚子』に至っては、萩庭 勇氏も論じているように(中国古典新書続編『尉繚子』明徳出版社)、「天人分離」を意識した先駆的な思想が表明されているのである。これらの事例に即して考えると、古代人=神秘主義にとらわれている、と形式的にとらえることはできない。たしかに近代科学からの視点を持つことはありえないが、人間の作為の集中の最悪のもの=戦争の時代にあっては、人間の思考においても特に神秘の介在が薄れ、人間主義・合理主義が進む傾向が見られる。神秘は平和な余暇時間の副産物なのである。
 漢代の知識人の神秘主義的な傾向については、むしろ次代に讖緯説が盛んになってから顕著となる。公羊春秋家・董仲舒の「災異の記」も「緯書(春秋緯)」のひとつに当たるが、例外的に早い事例と思われる。緯書でもっともよく知られ分量も多かったのは「易緯」である。昭帝の急逝後、昌邑王賀がまもなく廃せられ、公孫氏(宣帝)が民間から探し出されて践祚するような社会不安の中で易家が台頭し始める。前注にも述べたとおり、易には六家あり、もともと経文自体の神秘主義的な表現のために、前漢末から後漢にかけての讖緯説の盛行期に重んじられ、経学の冠となって思想界をリードするようになると、社会全体が時代錯誤に陥ったような神秘主義への逆行現象を迎える。すなわち古代中国においては、単純な進化論的な近代への下降ルートの途次として文化論をとらえることはできず、神秘主義と合理主義の勃興と寄り戻しの交替として考えることが求められるのである。
■「
災す」とは特に火災を指す。災害や異変の神秘主義的解釈の集大成として、『漢書』五行志を参照。
 当時、武帝の庶兄の膠西王は、中央から派遣された二千石を忌み嫌い、その為政を妨害したため長く勤まるものがなかった。主父偃は膠西王を利用して董仲舒を抹殺しようとしたのである。しかしその意に反して膠西王は董仲舒に敬意を払い厚く遇した。単なる凶暴の徒ではなかったのである。主父偃や公孫弘ら儒家官僚の、陰湿にして異常な嫉妬心の実例と言えよう。
 なおこの背景には、武帝の意を受けた主父偃ら中央集権派による、藩屏抑圧政策が絡んでいる。景帝には皇子が多く、武帝も竇太后の後楯がなければ決して騰極できるものではなかった。そのためか彼も父に倣って諸王の抑圧策を採る。膠西王と同様、趙王彭祖も反中央集権派であり、中央から二千石が派遣されると最初は和気をもって接し、不用意な発言を引き出して記録しておき、実際に政治を執ろうとしたときに旧悪を暴き立てて失脚させたという。一般書では大胆な人材抜擢により英明を讚えられる武帝の本性は、文学・経術の士を登用し華美な宮廷文化を誇る一方で、権力に飢えた儒家官僚や刻薄をこととする法匪を有能と称するものだった。宗族の仲は悪く、淮南王劉安の事変が起こり、また中山王勝は宴席で涙を流して嘆いた。『漢書』景十三王伝には、「建元三年、代王登・長沙王発・中山王勝・済川王明 来朝し、天子 置酒するとき、勝 楽声を聴きて泣く。其の故を問ふに、勝の対へて曰く、『臣 聞く 悲む者は為に累欷する可らず、思ふ者は為に歎息する可らずと。(中略)臣聞く 社[鼠+奚 Unicode : 9F37]は灌せられず、屋鼠は熏せられずと。何となれば則ち託する所の者の然ればなり。臣は薄きと雖も肺附を蒙るを得、位は卑きと雖も東藩と為るを得、属は又た兄を称する。今 羣臣は葭[艸+孚 Unicode : 83A9]の親・鴻毛の重有るに非らざるに、羣居党議して朋友 相為し、夫の宗室をして擯却し、骨肉をして氷解せしむ(中略)』と。具に吏の侵す所を以て聞す。是に於て上は乃ち諸侯の礼を厚くし、有司の諸侯の事を奏する所を省き、親親の恩を加へり。其の後 更めて主父偃の謀を用ひ、諸侯をして私恩を以て自ら地を裂きて其の子弟に分かたしめ、而して漢 為に封号を定制し、輒ち別に漢の郡に属す。漢に厚恩有れども、諸侯の地は稍ゝ分析弱小となると云ふ」とある。
産業とはここでは「生業」のこと。自らまたは人に使役されて稼穡・樵漁・狩猟・牧畜・商工などに従事し、生計を営み家産を成すこと。『史記』高祖本紀に、「高祖の人と為りは、隆準にして龍顔、須髯 美しく、左股に七十二の黒子有り。仁にして人を愛し、施しを喜む。意は豁如なり。常に大度有り、家人の生産作業を事とせず」とあるの類。
■「
名して春秋に明しと為す」は、「特に名を挙げて『春秋』に通暁していると言うことができる」の意。
 伝説によると、晩年魯に帰った孔子は、魯の国史を整理して『春秋経』を著したという。後年、記事の表現・選択に孔子の批判がこめられていると考えられ、その理念は「春秋の筆法」と呼ばれた。しかし『論語』などの信頼できる文献に孔子と春秋とを直接結びつける証拠がないところから、実際には子夏・子張の徒の編纂によるものだろうと考えられている。のちに穀梁赤・公羊高・左丘明らに仮託された学派がそれぞれ解説(伝文)を付し、漢代に伝えられた。その中でも公羊家・董仲舒の学がまず武帝の治世に重んじられたので、『史記』にこの記述がある。
 なお穀梁伝は公羊伝よりも早く成ったと言われるが、漢末に劉向が世に出るまで重んじられなかった。左氏伝(左伝)は『論語』公冶長に、「子の曰く、『巧言令色足恭は左丘明 之を恥づ。丘も亦た之を恥づ。怨みを匿して其の人と友となるは、左丘明 之を恥づ。丘も亦た之を恥づ』と」と記された人物が伝えたものとされるが同一人物ではない。その内容から判断するかぎり三伝ではもっとも新しく成立したものであろう。劉向の子・劉[音+欠 Unicode : 6B46]が若き日に宮中の秘府で発見し、穀梁家の父の説を論難するのに用いたという。もと先秦の古代文字で書かれ、経文と伝文とが別に綴じられていたものを、劉[音+欠 Unicode : 6B46]が経伝が対応するよう編み直した。公羊伝は董仲舒以来、春秋哲学の冠たる地位にあり、後漢に何休が『解詁』を撰して成る。穀梁伝は公羊伝の記述の誤りを補正しようとする志向も見られ、東晋の范[寧−(四+丁)+用 Unicode : 752F]が注を撰して成る。今文二伝が、経文をめぐる師と弟子との問答形式であるのに対し、古文の左氏伝は経文の記事を敷衍するエピソード集になっている。西晋の杜預が『経伝集解』を撰して成る。
〈胡 毋 生〉
 胡毋生は〔原注71〕、斉人なり。孝景の時に博士と為り、老を以て帰りて教授す。斉の春秋を言ふ者 多く胡毋生に受け、公孫弘も亦た頗る焉を受く。
  • 71 〔集解〕『漢書』に曰く、「字は子都」と。
◆現代語訳◆
 胡毋生は斉国の出身である。景帝の治世に博士となったが、老齢を理由に致仕して郷里で教授した。斉地方で春秋を解くものは多くが胡毋生から学問を受けたもので、公孫弘もまた多くのことを胡毋生から学んだ。
〔補 注〕
■『史記』における胡毋生の記述をきわめて簡素であるが、何休の解詁の序に「往者 略して胡母(毋)生の条例に依りて多く其の正きを得」とあり、董仲舒の名が見えないことから、公羊春秋家における胡毋学派の流れがあったことが伺われる。
〈江 生〉
 瑕丘の江生は穀梁春秋を為む。公孫弘の用ふるを得る自り、嘗て其の義を集比し、卒(つひ)に董仲舒を用ふ。
◆現代語訳◆
 山陽郡瑕丘県の江生は『穀梁春秋』を修めた。公孫弘が重く用いられるようになったから、春秋家の学義を集めて比較検討した結果、董仲舒の学説を採用することとなった(ため穀梁春秋家は公羊春秋家の風下に立つことになった)。
〔補 注〕
■「公孫弘の用ふるを得る自り、嘗て其の義を集比し、卒に董仲舒を用ふ」。高祖の法三章の説話が有名であるが、漢代も初期のころから法家の実務官僚が重んじられ、漢律は多く秦律を踏襲するものであった。その意味で、秦代の法制度は高度なものであったと言える。しかし武帝の治世になり、儒教国家として社会の枠組みの改変が進む中で、法務の基礎となる哲学の形成が求められる。このことに当たった公孫弘は思想界の潮流を吟味した上で、公羊家・董仲舒の説く「春秋の義」を採用した。当時、董仲舒は難事件に際して諮問を受けることがあったという。例えば、漢律によると父を傷つけたものは死罪である。問う、甲と乙とは口論の末に武器を取って争った。甲の子・丙は父が辱められてはならないと考え、父とともに争ったが、誤って甲を撃ち傷を負わせた。丙の罪やいかに。答え、丙は無罪。春秋の義は、本人の心がなににあったかが問われる。この事例では、丙は父を思ってともに争ったのであり、その心は孝にあった。
 これは「原心定罪」という公羊家流儀の思想で、こののち中国史に大きな影響を与えることになる。この思想によれば、「考えた」だけで罪に問われ(腹誹の法)、「知っている」だけで同罪になる(見知の法)。腹誹の例:司馬遷の外孫・楊[小+軍 Unicode : 60F2]は若くして宣帝の寵愛を受け宮廷で重んじられたが、たまたま罪を得て蟄居していたとき、甥に向かって「県官(おかみ)は仕え甲斐がない」とこぼしたのを密告されて族殺された。見知の例:のちに丞相となった黄霸が廷尉のとき、武帝の遺徳を讚えるために廟号と廟楽とを定めるべきか取沙汰された。その際、夏侯勝が世祖は功罪相半ばとして反対する。黄霸はそれが不忠であることを知っていながら、廷尉として告発しなかったことに坐して夏侯勝とともに獄に繋がれる。
 中国史において、恣意的に横行したように見られる誅伐の類には、その根底にこの動機主義「原心定罪」が働いていた。その意味でも、董仲舒の存在は大きい。冨谷 至『古代中国の刑罰』中公新書を参照。なお今日に伝存する『春秋繁露』は、董仲舒とその祖述者が著したもの。
〈董仲舒門弟〉
 仲舒の弟子の遂ぐる者は、蘭陵の[衣偏+者(旧漢字) Unicode : 891A]大、広川の殷忠〔原注72〕、温の呂歩舒なり。[衣偏+者(旧漢字) Unicode : 891A]大は梁の相に至る。歩舒は長史に至り、節を持し使(つかひ)して淮南の獄を決す。諸侯の専断を擅(ほしいまゝ)にして、報じざるに於て、春秋の義を以て之を正す。天子 皆な以て是と為す。弟子の通ずる者の、命大夫に至り、郎・謁者・掌故と為る者は百を以て数ふ。而して董仲舒の子及び孫は皆な学を以て大官に至る。
  • 72 〔集解〕徐広の曰く、「殷は、一に『段』に作り、又た『瑕』に作るなり」と。
  • 【索隠述賛】孔氏の衰ふるや、経書の緒 乱る。諸を六学と言ふは、炎漢より始まる。令を著し官を立つれば、四方扼腕す。台を曲げ壁を壊つは、書礼の冠たり。易を伝へ詩を言ひ、雲蒸霧散す。興化 理を致し、鴻猷 克く賛く。
◆現代語訳◆
 仲舒の弟子で高位に達したものは、東海郡蘭陵県の[衣偏+者(旧漢字) Unicode : 891A]大、広川国の殷忠、河内郡温県の呂歩舒らである。[衣偏+者(旧漢字) Unicode : 891A]大は梁国の相に進んだ。呂歩舒は長史に進み、(皇帝の勅命を受けた)持節として淮南王劉安の謀反をめぐる裁判を裁決した。諸侯が勝手な専断によって重要事例を朝廷に報告しなかったため、春秋の義によってそれを正し(て諸侯に示し)たのである。天子はすべて彼の処分を是とした。董仲舒の弟子で学義に通じたもののうち、命大夫に進み、郎・謁者・掌故となったものは百をもって数えるほどだった。そして董仲舒の子や孫はみな学問によって大官に就いた。
〔補 注〕
■「遂ぐる者」とは、立身して世評を得た人物のこと。
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