はじめに
〜別姓のことだけを考えているわけじゃあないんですよ〜
自分らしく暮らせるといいですよね。みんなに、自分を大切にしてもらうと、嬉しいですよね。私たちはみんな、幸せになる権利があります。
けれども、自分の存在を無視されたり、我慢を強要させられたり、不平等な扱いをあたりまえと開き直られたり、納得のいく説明を拒否されたり、自分の気持ちを誰も分かってくれようとしなかったり、本音を話す相手が誰もいなかったり、話す元気もなかったりすると、体も気持ちも、どんどん悪い方向に行ってしまいます。
私たちはみんな、大切にされる権利があります。本来私たちには、自分なりに感じ、考え、話し、聞き、感動する権利があります。幸せを追求する権利があるんです。理不尽な事態に対したとき、何もせずに我慢したり諦めたりすることは、ないんですよね。「仕方ない」とか「しょうがない」とか「どうせ...」とか、口癖になっていませんか?前向きに、いい方向に考えましょう。私たちは、本来自由なんです。自分の生き方は、何者かに決めつけられるものでも、もう決まっちゃっているものでもなく、自分で決めるものなんです。自分で、選び、拓いていくものなんです。
さて、別姓のことです。
どうして、夫婦で同じ姓という暮らし方じゃあ、いけないんでしょう。どうして、別々の姓を名乗りたいんでしょう。
実のところ、夫婦別姓を選択する理由は、人によって本当に様々です。
・仕事上、旧姓を使い続けたい
・改姓したら自分が自分ではなくなったように感じられる
・一人っ子カップルで、どちらの姓もなくしたくない
・「〜家」を守りたい
・自分が嫌なことを、相手に強制させたくない
・旧態依然とした制度に疑問があるので
・姓名判断で、改姓すると、運勢が悪くなってしまうから
・とにかく姓をかえたくない
ときどき
「私の場合、ちゃんとした理由じゃないんですが」
とお話しされる人もいますが、「ちゃんとして理由」も「ちゃんとしていない理由」も、ないんだと思います。
今これを読まれているあなたが、もし結婚改姓した方なら、振り返ってみてください。婚姻届を出すときに、または結婚を決めたときに、
「姓は、どっちにしようか」
と話し合いましたか? そこで二人、合意しましたか?
「普通、女が(姓を)変えるもんだ」
「俺が(それまでの姓)じゃなくなったら、ムコ入りしたのかと思われる」
(...これもまた、一つの差別の実態ですね)
「そんなこと(男が改姓するということ)、考えたこともなかった!」
そんなセリフが出るまでもなく、話し合うことなどせず、「あたりまえに」女性が改姓した場合が、ほとんどではないでしょうか。
結婚するにあたって、二人の生き方を二人で話し合うことは、大切なことです。ですから、どんな理由であれ(「ちゃんとしていない理由」であれ)、姓の選択について二人で話し合う機会を持つということはいいことだと思います。互いを大切にしたい気持ちがあれば、たとえ結果的に男性の姓を選ぶことになっても、傷つかないで暮らしていけるものです。けれども、封建的な時代の結婚(=嫁入り)観を守り続けてしまっている場合、相手の気持ちを理解せず、傷つけてしまったり、傷つけたことに気付かなかったりするようです。別姓を考える会には、別姓に関する相談が多く寄せられますが、このあたりが問題のおおもとになっています。
別に別姓であってもなくても、理不尽な思いをせずに、暮らしていければ、まずはいいのではないかと、思います。あなたは、封建的な時代の結婚(=嫁入り)観を、守り続けてはいませんか?
よく「法律ではどうなっているの」と聞かれます。整理してみましょう。
法律では、どうなっているか。
日本国憲法 第24条【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】
1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。
「婚姻は、両性の合意のみ」というのは、親や「家」などのしがらみに関係なく、当事者が!ということですね。「のみ」と強調されているのは、かつてはそうではなかったから。かつて親や「家」が、結婚を決めていたことへの反省なんです。ちなみに、「両性」ではなく「両者」にすべきという声も聞かれます。異性同士でなければ結婚できないのか?という声です。なるほどと思います。
「夫婦が同等の権利を有することを基本として」とあります。同等なんです。でも...同等じゃないことだらけですね。民法も憲法違反?といいたい気持ちです。
「離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」...ときたんもんだ!って感じです。ほら、ここにうたわれているじゃないですか、個人の尊厳です!両性の本質的平等です!。ですから、現行民法は「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」制定されているか、ちょっと疑問です。
個人の尊重を称えながら、結婚するときは、どちらかの姓を捨てなければならない制度。しかも改姓するのは圧倒的に女性... というのが、現状です。どうして同姓以外を認めないんだろう。どうして女性が改姓することが「あたりまえ」とされているんだろう。そのへんが、選択的夫婦別姓制度導入への出発点になります。選択的夫婦別姓制度の実現は、まず民法750条を改正するところにあります。
民法 第750条
夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。
夫又は妻の姓を選ぶというのが問題なんです。どっちかが必ず、これまでの姓を捨てなければならないんですもの。そこで、私たちは、
夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫若しくは妻の氏を称し、又は各自の婚姻前の氏を称する。
っていう具合に改正しようと活動しています。
夫婦別姓って、選択的夫婦別姓なんです。しかしながら、国会で何度も議論していながら、なかなか法制化されない別姓です。基本的なことなんですけど、私たちが求めているのは、選択的夫婦別姓です。同姓でもいいんです。別姓でもいいんです。どちらかじゃなきゃ駄目!という制度を緩和させたいのです。自分たちで生き方を決められるようにしたいんです。みなさんは、どう思いますか。
今の法律の下でも、別姓を称して暮らすことは、法律違反にはなりません。実際に、既に別姓という暮らし方をしている人は、どんどん増えている状況です。どのような様子なのか、法律婚・事実婚と分けて、整理してみましょう。
法律婚:通称(本名)使用
法律婚は、民法(民法第750条(夫婦の氏) 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。)に基づき、夫婦どちらかの姓を選択することを条件とした婚姻届を出した(その効果として新しい戸籍を作る)形態をさします。法律婚カップルの別姓は、通称(本名)使用ということになります。婚姻届を出し、改姓します。けれども今まで通りの姓を名乗りたいというわけです。いつ今まで通りの姓を名乗りたくなるかは、人それぞれです。改姓したときから、それまでの姓を使おうと考える人もいれば、改姓してから何年もたって、改姓前の自分こそ自分だと気付く人もいます。
法律婚の場合、夫婦で同じ戸籍に、改姓後の姓で記載されています。文書上B谷C子ですが、本人としては「A山C子です」と名乗るわけです。問題は、A山さんという名前とB谷さんという名前の力関係です。文書上でB谷という姓(戸籍名)が幅をきかせてきますので、なかなか苦労も多いようです。
法律婚をしているわけですから、子どもの姓はB谷(戸籍名)になります。通称使用は、本名と戸籍名と名前が二つ生じてしまうので、ダブルネームとも言われます。
ペーパー離婚(法律婚から事実婚へ)
通称(本名)使用は、ダブルネームのしんどさにぶつかります。それから逃れる方法は、現在のところ戸籍名に負けてしまうか、戸籍名を変えるかの二つしかありません。戸籍名を変えるとは、離婚するということです。しかし、パートナーとの関係は今のままでよい...そこでペーパー上の離婚という手段に出ます。要するに離婚届を出すわけです。すると「B谷C子」という人は存在しなくなります。100%A山C子さんになるわけです。紙切れ上では別々。けれど実態は変わりません。法律婚ではなくなります。すなわち事実婚になるわけです。
事実婚
事実として婚姻していれば、すなわち当事者が「結婚してるんだよ」といえば、それは事実婚です。結婚という極めて個人的な事柄に、資格だの条件などと、第三者がとやかく言うのは野暮なものです。ここでは、事実婚は、法律婚の対称となるものとして挙げておきます。
事実婚は、婚姻届は出さない結婚です。かつては「同棲」「内縁」など正式でないものとしてともすると差別的に扱われてきました。「法律婚をしたいけれど、それが許されないので、仕方なく」的発想です。しかし今日においては、積極的に法律婚をしないという意思を持ち、あえて事実婚を選択するカップルが増えてきています。
事実婚の場合、戸籍は別々です。住民票は、事実としての住居形態によります。ちなみに、住民票上では婚姻届を出していなくても「夫婦」であることは、重婚をしていない限り、自己申告で表記させることが可能です(「(未届けの)妻」など:それをよしとする人も、嫌だという人もいますが)。
なお、戸籍上子どもの姓は、母の姓になります。父が認知をすれば、法律上の父子関係は発生しますが、姓は、当然には変わりません。姓を父の姓に変えるには、家庭裁判所に申立をして、「氏(姓)変更の許可」を得る必要があります。また、許可を得て父の姓に変更されると、母の戸籍から父の戸籍に移ります。
法律婚カップルの間では、女性(妻)から生まれてきた子は、当然そのカップル(夫婦)の子とされます。確かに、女性の子であることには違いありませんが、父親がその男性(夫)であるかどうかは、実は確かとは言い切れませんね。他の男性との間にできた子である可能性もあります。法律婚の場合、女性の夫が、その子の父親と推定されるということになっています。これを「父性の推定(民法第772条嫡出性の推定)」といいます。事実婚カップルの場合は、自動的には推定されないというわけなのです。
この「父性の推定」の話をすると、苦笑いする方がいますが、離婚制度の改正を巡る中では一つの大きな課題になっています。夫の暴力に耐えきれず、家を出るという女性が、実は多くいます。...女性は、離婚を希望するけれど、夫は拒否をする。女性は、別の男性と出会い、やり直したいと希望する。その新たに出会った男性との間に、子どもができる。しかし離婚できないので、結婚ができない。多くの場合、女性は改姓している。すなわち暴力を振るう夫(法律上の夫)の姓。「父性の推定」によって、その子は、本当の父親の姓でもない、母親の旧姓でもない、法律上の父親(暴力を振るって母親を苦しめた人)の、姓を名乗ることになる...という問題です。
ここでは、離婚制度については、述べませんが、結婚を取り巻く・家族を取り巻く課題は、たくさんあるということを、知ってほしいと思います。
婚外子差別をなくしていくということ
みなさんのまわりには、妊娠したので結婚(法律婚)することにした、というカップルはいませんか? そう「できちゃった結婚」です。それはそれで、一つのきっかけですから、そして個人的なことですから、とやかくは言いません。けれども、それが婚外子差別を避けるための行為(婚姻届)だとするなら、それは容認しづらいですね。なぜなら、婚外子差別を避けるために、婚外子差別をするということになってしまうのですから。
親がどんな人であったとしても、子ども自身には、何の責任もないんです。子どもへの差別は、絶対に許されないものです。責めるなら、親本人を責めてください。子どもは子どもとして、一つの人格なのです。独立しているのです。「言うことを聞かなければ子どもを責めるぞ」と脅かす制度・社会は、卑怯です。
現在の民法は、子どもへの差別を定めています。これは、国連の人権委員会に改めるよう勧告されているものです。
民法第900条(法定相続分)四項
子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。但し、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の二分の一とする
婚外子差別をはじめとするあらゆる差別に対する問題意識を持ち、その姿勢に忠実でありたいと思います。国際人権規約・子どもの権利条約の批准が実現し、またそれをとりまくたくさんのグループの運動によって、婚外子差別も、法的にはなくなっていく方向にあります。けれども、法律上に留まらず生活の中・意識の中・文化の中からなくしていく運動を進めていかなければならないでしょう。これは、夫婦別姓という選択と切り離せない問題です。関心を持ってほしいと思っています。
戸籍というなくすべきもの
戸籍とは、身分登録簿です。かつての奴隷簿です。奴隷所有者が、自分の所有する奴隷を記録するために作った帳簿なのです。それゆえ、所有者は記載されません。ですから、日本国民(ここでは日本国籍を有する者とします)全てが戸籍に記載されているかと言えば、そんなことはないのです。戸籍に記載されていない(戸籍に記載することができない)人はいるのです。それは、皇族です。皇族は、未だに戸籍上支配者であり続けているのです。その証拠に、皇族には姓がありません。名しかないのです。中学校の歴史の授業で、明治時代に誰もが名字を付けることができるようになったと、まるで権利獲得のように習った記憶はありませんか? しかし実際は戸籍編さんに当って、姓というインデックスが必要だったため(全国民を戸籍に記載し、管理支配する目論見があったため)なのです。姓の文化がなかったアイヌの人々や独自の文化を持つ琉球の人々にも、姓は強制されました。大陸侵略に当っては、創氏改名によって朝鮮の文化を、人々の気持ちを、踏みにじってきました。
戸籍に記載されないのは、皇族ばかりではありません。日本国籍を有していない人を、別の名簿に記載するという差別を侵しています。外国人登録です。たとえ、自分の意志ではなく、強制的にこの列島に連行されてきた(この国の政府に!)歴史があっても、たとえこの列島で生まれても、日本政府は、制度として差別をし続けています。実は、国籍で登録簿を変えるという国は、世界的に見ても希です。南アフリカのアパルトヘイトがなくなり、世界唯一といってもいいほど、差別的です。
戸籍から、権利は生じません。戸籍は、支配者のためのものですから、被支配の者としては、義務(租税・徴兵)しか生じさせないものなのです。不要なものなのです。にも関わらず戸籍を温存させるために支配者は、戸籍によって差別を作り出します。被差別部落差別・婚外子差別・外国人差別など、全て支配者が支配体制(戸籍制度)を守るものとして作り出してきたものなのです。
ちなみに、戸籍は、日本の他、韓国と台湾にしかありません。それぞれ日本の侵略の遺物として残っているものです。韓国では、日本の侵略の遺物として廃止運動が進められてきました。台湾では政権が大陸出身者から台湾出身者に替わってから、新戸籍編さんがストップしています。それは、戸籍が大陸出身者と台湾出身者とを差別するために使われてきたことを証明しています。なお、日本は欧米から批判されている差別的戸籍制度を維持するために、東アジア各国に戸籍制度を定着させようと目論んでいます。具体的には、中国の国勢調査を請け負っています。国勢調査簿は、簡単に戸籍簿に転換できます(台湾がそうでした)。また日本は、朝鮮民主主義人民共和国でも戸籍を作ろうとしています。戦後賠償と引き換えに民法の制定をさせようとしているのです。この民法は、儒教の考えに基づく封建的な「同姓不婚」を撤廃させ、その代わり6親等内での結婚を制限するというものだそうです。そこで、6親等を証明するために、日本政府は戸籍を創設させようとしているのです。また国内の外国人登録法では、家族登録制度を導入しています。これは、家族という概念から、戸籍を基軸にするものとして、警戒が必要とされるものです。
戸籍がなくても、生活はできます。差別的記載(婚外子か否かを記す等)を拒否して届け出た出生届が不受理になっている婚外子の中には、戸籍のない子がいます。戸籍がないということが、とても大変と思われる方は少なくないと思われますが、学校入学も、選挙も、就職もできます。はっきりいって、大きな不利益を被られることなく普通に生活ができます。現在、渡航権(パスポート取得)が懸案になっています。逆にいえば渡航以外の全てに渡って、生活で困ることはないのです。戸籍をなくしていく運動を、推し進めていく必要を感じています。
戸籍は、私たちに何の利益も権利ももたらさないゆえ、マイナスの権利・すなわち差別だけを作っているのですから。国家の言うことを聞かなければ、差別するぞ!という脅しとして、使われてきているのですから。
住民基本台帳法改悪。けれども、諦めないよ。
戸籍と住民票とを、同じようなものと捉えている方も多いと思いますが、戸籍は国が、住民票は地方自治体が管理しているもの、全くの別物です。住民票は、住民サービス(選挙権・就学などなど)のためにあります。ちなみに兄弟姉妹の序列(長男など)の表記はなく、全て「子」になっています。
そんな住民票ですが、住民基本台帳法が改悪され、私は、不安です。住民の生活のためのものではなく、国家のために乱用される危険が、あるのです。
あなたが、いつ、どこに行ったか。何を買ったか。一緒にいたのは誰か。台帳上では、どこで夜を明かすことになっているか。台帳法によって、あなたは、監視されます。あなたが、いつ、誰と、どんな話をしているか。盗聴法によって、あなたは、監視されます。万が一、あなたが、国にとって都合の悪い話をしたり、国にとっておもしろくない挙動をしていたら、きっと検挙されます。根拠は国の管理する枠を逸したというだけで十分です。ガイドライン法で、港・空港だけでなく、学校も役場も公民館も、公園も広場も道路も、「有事」という日常に使われるでしょう。「平和」の名の下に(アメリカ合州国のように)、「正義」の旗の下に、あなたも、動員されるでしょう。コードに付記される一人一人の年齢・技能・体力などが、きっとこの動員に生かされていくのでしょう。そう、動員とは徴兵のこと。「赤紙」が届けられたとき、そこにその人が居住していなければならないように、台帳法は見張るのでしょう。「赤紙」が、FAXで来たら...、E-メールの着信を開いて「赤紙」があったら...。冗談であってほしいと思っています。刃向かうことなく、「平和」のため「正義」のため、そして「オクニ」のために、自らを捧げることができるように、一つの旗や歌を強制して、「国家のために個人を捧げる」という意識を強めるトレーニングをするのでしょうか。また、国にとって都合の悪い者を、法の名の下に、検挙・排除していくのでしょうか。「痛み」などということばに、私は大きな危惧を抱きます。みなさんは、どう感じられますか?
唐突なようですが、管理されるということは、「保護」されるということは、私たちが自分の生き方・暮らし方を選べなくなるということです。一つの生き方を、強いられるということです。
まだ間に合うと信じます。むしろ、今こそ「いろんな生き方」を闊歩していきましょう。これからの時代、思春期を迎え、恋をしたり、冒険をしたり、自分の成長に感動したりする少年少女のためにも、そして何より、もっともっといろんなことをやりたい自分と、自分につながるたくさんの友だちのために「少しくらい我慢しよう」「諦めてまぁいいや」と、自分たちの自由・権利に対して、伏し目がちになるのは、よそうと思います。
個人の、一人一人の暮らしを、謳歌していく空気を、風を、起こしていきましょう。やっぱり「いろんな生き方あっていい」ここから、始めましょう。
いろんな生き方あっていい!
あなたはこの島国で、「日本人」をどのように規定しているでしょうか。またあなたにとって「外国人」とは、どんな人々をさすのでしょうか。「日本人らしくない顔」とか「ガイジンみたいな人」とか、日常の中そんな言葉を聞くことは、少なくありません。でも、「日本人」って、「ガイジン」って、何をもって、誰について語っているのでしょうか。「私たち」って、どこまでをさしているんでしょうか。
この日本列島には、いろんな「私たち」が暮らしています。いろんな民族の「私たち」、いろんな価値観の「私たち」。何かが「絶対正しく」て何かが「絶対正しくない」ということはありません。誰も、絶対否定されることはありません。ないはずです。けれども、「フツー」というイメージから脱している「私たち」を、あなたは差別していないでしょうか。たとえば、在日外国人の私たち、アイヌ民族の私たち、国際結婚した私たち、同性愛の私たち、「障害」を持つ私たちを。
だれもが、生きる権利を平等に持っています。けれども、現実には「ちがうもの」いじめはまかり通っています。この島国の価値観がそうなのでしょうか。皆「長いものに巻かれよう」としています。違いを拒否します。そして、同化を強要します。だから、個人の尊重という日本国憲法の精神は、なかなか実現されません。
別姓も同様です。同姓を選択する権利も、別姓を選択する権利も、結婚しない権利も、同等のものです。いろんな生き方を、自分で選べるようにしていきましょう。
もう15年以上前になりますが、国際家族年がありました。そのときの国際家族年宣言には次のように書かれてあります。
国内、あるいは国によって《理想の家族像》も、大きく異なる。政府は、家族に関わる政策の遂行において、明示的であれ、非明示的であれ、唯一の理想的な家族像の追求を避けるべきである。(1989.12.8.国連総会採択・抜粋)
いろんな生き方あっていい...言うは易し、行うは難し? いえいえ、大丈夫。思ったよりも多くの人が、仲間です。みんな本当は、もっと自由に暮らしたいって思っています。さあ、あなたも、私たちと一緒に、外に出てみませんか? いろんな人と手をつないでみませんか?
(文責:土屋 2004.10.02.改訂)