New Orleans

Air port picture

空港出口の壁には、Jazzの壁画が書かれていた!

フレンチ・クォーター1

フレンチ・クォーター2


Louisianaの歴史

 昔スペイン人たちが、植民のため北アメリカの沿岸に上陸したのはフロリダからメキシコ湾にかけてであった。現在サン・ベルトと呼ばれるアメリカ合衆国の南部地方は、南北戦争の南部連合の国旗を含めて、多くの統治者の「旗」が入れ替わりひるがえった地域である。その中で、ルイジアナは旗の数が一番多い州である。1519年、スペインの航海者の訪れを始めとして、17世紀の後半には有名なフランスの探検家ラサールが、カナダからミシシッピー川沿いに南下して、メキシコ湾に出るという大遠征を行い、その時にこの河川一体の所有権を主張した。彼らは、アパラチア山脈からロッキー山脈に至る広大な土地を、太陽王ルイ14世にちなんでルイジアナと命名し、この地をフランス領であると世界に向けて宣言した。ちなみにこの「ルイジアナ」は、現在のルイジアナ州と言った狭い地域を示したものでは無くもっと広大な地域をさす。
 フランスはこの土地を約80年間守り続けたが、その後、再びスペイン領となる。ブルボン王朝の財政破綻を原因とするのがより正確だと思われるが、他の説に面白いものがあるので紹介する。時のフランス王ルイ15世が、スペイン王との賭金のカタにこのルイジアナを取り上げられたと言われている。(今のアメリカ合衆国の本土の約1/3という広大な土地をである。)もしこの事が本当であれば、流石は太陽王の曾孫、世界一の放蕩息子というか、これ以上のスケールの大きな博打はないと思われる。

American.map,1803 次に金に窮したのはスペインである。1776年、アメリカが独立戦争にはいると、スペイン植民地はこの革命中のアメリカ軍支持に回り、イギリス軍と戦った。その為、深刻な財政危機を招き、1800年またフランスに譲渡してしまったのである。1803年、今度はフランスのナポレオンが、敵国であるイギリスに侵略されるよりは、むしろこの若い共和国に売った方で得策であると考えて、たった1500万ドルという安値でアメリカに押し売りをしてしまった。これが史上最高のバーゲンといわれる「ルイジアナの購入」である。それまでミシシッピー川を西の国境としていたアメリカ合衆国は、この「購入」で領土を一挙に2倍とし、これがその後の西部の発展に大いに影響を及ぼすこととなったのである。およそ現在の地域のルイジアナ州が合衆国の1州として加わったのは、1812年である。そして南部連合の旗のもとで南北戦争を戦い、再び合衆国の星条旗に戻る変遷をたどった。この州が若いアメリカ合衆国の中でも、古いヨーロッパ的な雰囲気に満たされているのは、こういったスペイン、フランスによる植民地統治があって、更にアフリカから連れてこられた黒人文化がミックスされているからだと思われる。

 19世紀の中頃まで、アメリカの大幹線路としてのミシシッピー川、中流から流れ込むミズーリ川をひかえ、ルイジアナは西部と東部を結ぶ交通と商業の一大中心地として栄えた。しかしその後は、南北戦争後の大陸横断鉄道の建設や、その他の鉄道網の発達整備でかつての盛時は既に過ぎ去ってしまった。
 20世紀に入って、ここは莫大な富を引き当てることになった。石油の発見である。現在ルイジアナは石油と天然ガス総生産量ではアメリカで第2位の州となっている。南部であるためルイジアナは一般的には農業中心の州と思われているが、実際は石油とそれに伴う鉱業による工業を中心とした州であり、南部では早い時期から脱農業が行われていた。今日では、科学薬品、加工食品、石油製品、紙等を主要産物としている。

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New Orleansの歴史

 探検家ラサールによるミシシッピー川遠征によって、この大河の河口の軍事的、経済的な価値の大きさがわかると、1699年、フランス人の手でここに十字架が立てられた。それはその後、ヌーベル・オルレアン(ニュー・オーリンズ)となる町建設のための標識としてであった。オルレアンとは、ルイ13世の王子によって創設されたブルボン・オルレアン家、2代目のフィリップ・オルレアンの名にちなんだものとされている。フィリップは前述のBusinessDistrict「博打王」ルイ15世の幼時の摂政という当時の権勢絶大なる貴族であった。命名は1718年である。

 現在では、その扱い量でニューヨークにつぐアメリカ合衆国第2位の大貿易港ニューオーリンズも、当初はフロンティアの最前線、多くのインディアンと蚊柱の立ちこめる沼地に過ぎなかった。その為人は嫌がり入植は困難を極めた。しかし、アメリカ最長の大河とメキシコ湾の接点、なんとしてでもここを強力な植民の拠点としたかったフランスは、無理矢理パリに群がる貧民達や、パリ刑務所の囚人達をかり集めて、強制的に大量にニューオーリンズに送り込んだ。もちろんクレオールの祖先たちが全てこの様な境遇の人たちでは無いことは明白であるが、こう言った尾ひれの付いた話しこそ、ニューオーリンズの街の魅力となって残っていることを説明するのに説得力があるようです。今のフレンチ・クォーターに残る街並みを観るに付け、何となく漂う危ないムードが、北部のプロテスタント的な規律正しいアメリカとは対照的だと感じさせます。北部と南部の違いもあるのですが、ニューオーリンズは、どこか無頼と逸楽の独特のよどんだようなムードが、この街を魅力的に思わせているんだと考えています。ミシシッピー川のクレセントと呼ばれる所で、全米で2番目に大きな規模を持つコンベンションセンター(Ernest N Morial Convention Center)を利用して、アメリカン・アカデミー・オヴ・オフサルモロジー(AAO)のミーティングが、11月8日から11日まで開かれていました。2年前にもシカゴでAAOに出席しましたが、今回2回目のAAO学会に参加してきました。全米は勿論、全世界から集まる眼科関係者で大にぎわいでした。



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1998年12月08日更新