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「なんか臭いな」

 皆が一斉にうなずいた。

「もうだめだッ。じゃ、頼んだぞ」 百山はメモ用の紙ばさみを勘一に押しつけ、小走りに小学校の校舎の方へ消えていった。

 勘一のスタ―ト合図で、五回戦が始まる。そのアクシデントは、勝負が中盤に入ったと見えた時に起こった。 白組側の綱と測定装置を連結しているフックの付け根に亀裂が走ったのだ。だが、白熱する試合に気を取られ、誰一人それに気付かなかった。

「ふー、こんなもんでいいかな?」 勘一がメモをとり終え、顔をあげたその時だった。突如としてフックがちぎれ飛んだ。「あっ!」

 勢い余った白組の選手たちが、いっせいに地響きを立てて尻餅をついた。力の均衡を失って装置が傾き、赤組側の綱もフックからはずれる。悲鳴が上がり、砂埃が舞い、観客は総立ちとなって、大きくどよめいた。

「敵機来襲、敵機来襲」

 スピ―カ―が大音量でわめき始めた。いつの間にやら放送席に仁八じいさんがまたがり、凄まじい勢いでペダルをこぎながら叫んでいる。

 怒号と悲鳴が飛びかい、おまけに犬が吠えながら走り回って、場内は騒然たる空気に包まれた。

 騒ぎを聞きつけた百山が、ズボンをひき上げながらそそくさと学校の校舎から飛び出してきた。会場の真中を見ると、測定装置はフックの片方がもげ、杭ごと横倒しになって、旗のついたバーは二本ともねじ曲っている。 付近では、幾人もの選手たちが尻を押さえ、痛みに顔を歪ませていた。観覧席から大勢の人々が走り出て、負傷者の介抱にあたっている。

「だっ、大丈夫か―っ」 脱兎のごとくかけ出した百山は、怪我人たちを蹴散らし、測定装置へと走りよっていった。倒れている怪我人を飛び越えた拍子にズボンが下がって、派手にひっくり返る。

「みなさん、おちついて下さい。席を立たないで下さい」 ようやくマイクを奪還した勘一が、懸命に呼びかけた。ペダルはまだ、じいさんがこいでいる。

「観客の方は席へ戻って下さい。救護班の邪魔になりますので、席へお戻り下さい」

 勘一の呼びかけと応援団の連中の働きで、会場の混乱は間もなく収拾にむかっていった。観客たちはざわつきながらも席に戻り、怪我をした選手たちには、応援団の手で手当がほどこされた。

「ふ―っ」 大きく息をついた勘一は、汗をぬぐいながら本部席の椅子に腰を落とした。ふと横を見ると、町会長の席が空いている。会場を見ると、手当てを受ける選手たちのそばで、見覚えのある紋付姿が右往左往していた。思わず溜め息がでる。

「町会長! 席へお戻り下さい。町会長!」

 よたよたと本部席へやってきた町会長は、唇をわなわなと震わせていた。「カカカ勘一君。エエエえらいこっちゃ」 紋付の右肩はずり下がり、草履をどこかへ落としたらしく、片方の足は足袋のままだった。

「会長、落ち着いて下さい」

「ケ、ケケ怪我人が、チ、チ、チチを出しとる」

「落ち着いて下さいってば。乳なんて誰も出してません。今、救護班が手当にかかってますから、会長は席についてて下さい」

 その時、応援団長が走りよってきた。

「報告します。選手の怪我は、みな大した事ありません。尻の皮をすり剥いた程度で、赤チンを塗れば心配なさそうです」

「そ、そうか」

 会長は安堵の溜息をつくと椅子にへたりこんだ。くしゃくしゃのハンカチをとり出すと、すだれ頭の汗をぬぐう。 「よかった、よかった。一時はどうなる事かと……」

「ただ……」

 応援団長が身を乗り出し、小声でいった。「アンカ―をやってた運送屋の社長が、後頭部を打って気絶して、うちの連中が病院にかついでいきました」

「なにぃ!」 町会長はまた椅子から立ちあがった。「き、き、傷は深いか!」

「わかりません。白目を剥いてました」

「すぐいって見てきなさい!」

 町会長の声は裏返って悲鳴に近かった。団長は尻を蹴飛ばされたような勢いでかけ出していった。

「まあまあ会長。そう興奮なさらずに」 勘一がなだめ、椅子にかけさせる。

「どうするんです。主催者はわたしなんですよ。どうすんだ。え、どうすんだよぉ」 椅子に腰を落としたものの、町会長はだだっ子のように手足をばたつかせ、唾を飛ばして勘一にくってかかった。

 その時、勘一は町会長の肩ごしに、赤ん坊をおぶり、目をつりあげた運送屋のかみさんが、社員たちを引き連れてこちらへ向かってくるのを見た。

「あ、じゃあ僕、ちょっと先生に報告してきますです」

 そそくさと席を立った勘一は、測定装置の修理にとりくんでいる百山の方へ向かった。「先生、会長が怒ってますよ。何とかして下さい」

「安心しろ。損害はわずかだ。すぐなおるぞ」

「装置じゃありません。運送屋の社長が怪我したっていうんで騒いでるんです」

「なに、あの次郎長気取りの絶倫が?」

 顔を上げた百山が本部席を見ると、町会長は子供をおぶった運送屋のかみさんに胸ぐらをつかまれ、おろおろになって何か申し開きをしていた。その周りを、人相の悪い運送屋の社員たちが取り囲んでいる。かみさんの背中の赤ん坊は、火がついたように泣き叫んでいた。


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