ドローイング考


「美のビー玉」の中を覗く。

いろいろなもの削って行くと、最後に紙と線が残った。
そこで始めよう。

紙の上に線を描く。

線の一つ一つは、
つたなく
儚く
だらしなげだったり
弱そうだったり。

紙面に構造 —権威の象徴— はなく、それはつまり、
パースペクティブはなく、
どこも天地と成り得る構図であり、

とりとめもなく、インクが自律的生物であるかのように増殖してゆく、

故に、無駄な線は一つもなく、総ての、つたなくだらしなさそうな線の一つ一つたちは、
紙面の上に愛されるべきものとして存在し、
増殖を自律のままに進めて行くのである。

そしてとある飽和が訪れたとき、(それは「美」という秩序を形成している)
その増殖を辞め、筆を置き、

「絵」というものに変身する。

それは、人間の価値観や偏見という堆積物を取り除いて掘り下げて行くと見つかるであろう、
美の原石であり

例えそれがビー玉ほどの大きさであろうと
それを覗いた時に

誰しもが一瞬心を貫かれた感覚を覚えるようなものである。

それを私は「ドローイング」と云う事にしている。




そしてその後、その線たちの紙に
色彩という別の存在が加わるであろう。
それにはまだ数十年かかるので
まだ死ぬわけにはいかないのである。

投稿日時: 金 - 1月 30, 2009 at 02:33 午後          


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