アートとアクティビズムのじれん通信:「ぴかぴかのうち」Vol.32掲載より一部修正
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「246表現者会議」発足のきっかけ
今、「246表現者会議」というプロジェクトの発起人を小川てつオくんとともにやっています。 そもそものきっかけはてつオくんの日記でした。引用いたします。 ▼-------引用---------- 渋谷アートギャラリー246による追い出しに注目! 渋谷駅の東口と南口を結ぶ246号、東横線の高架下に、以前からダンボール小屋などで、10人前後の路上の人が住んでいる。その246号の両脇と、地下道に、壁画が描かれた。 日本デザイナー学院のホームページによると、 「渋谷桜丘周辺地区まちづくり協議会より、汚れの激しい高架下を安全に楽しく通行出来る「アートギャラリー」に変えて欲しいとの依頼があり、学生たちがアイデアを提出。テーマは、かつて近くを流れていたという「春の小川」。童謡にも歌われた春の小川を、デザインの力で取り戻す大プロジェクトに挑戦しました。」ということで今年の3月に完成。(ただし、日経などの新聞記事では、公募したコンペに入賞したようにかいてある。これって、公募って言わないだろうと思うけど。) http://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/04topics/h18/20070314.htm ここを見ると、以前の様子がわかるが、今もダンボール小屋がある。(この壁面に落書き、薄暗いイメージ、というキャプションもいやらしいなぁ。わざと、ダンボール小屋に言及しない感じが。) 今、ここで、追い出しが行われようとしている。10月の終わりころに、滞在者各位に対する「移動のお願い」という張り紙がされた。渋谷区2丁目、3丁目、道玄坂一丁目、渋谷アートギャラリー246の連名である。口頭でも、そう言ってきたらしい。 ぼくとして、一番腹が立つのは、アートの名において、追い出しが行われていることである。こういうことは、たしかに、よくある。彫刻物と称するものを作るために、追い出しがあったこともあった。しかし、今回は、製作者ははっきりしている。なんらかの行動を起こしたいと思っている。 日本デザイナー学院は、、そんな一方的で想像力の欠乏したものをアートと呼ぶのか。無自覚すぎるのではないか。行政や法律に認められて、絵を描いたらアートである。というそんな基準でいいと思っているのだろうか。アートって、もっと自立的な価値基準を持っているのでは、と少しも考えないのか。壁画の上から落書きがされて、それを消して、描きなおしているが、そもそも、そこに描かれてあったものを自分たちは消して描いたのだ、という自覚がないのか。消された方から、見たら、落書きしたのはあなたたちになるのかもしれない、という想像は働かないのか。落書きに対するのであれ、路上生活者に対するのであれ、共通するのは、想像力のなさである。そういうものを平然と、アートであると思っている日本デザイナー学院や製作者の態度に、なんとも腹が立つのである。 ちょっと熱くなってしまった。ともあれ、支援団体も動いて、10月30日に、町内会や東急、国土交通省、などと話し合いが持たれ、ただいま、平行線のようだ。住んでいる人に聞いても、どうなるか分からないねぇ、と言っていた。 状況をよく分からないで、書いている部分もあるので、分かりしだい補足していきたいと思います。誤認している部分は教えてください。ただ、この追い出しは、ほとんど知られていないように思うので、注目してほしいと思っています。 今日、Iさんによる「ギャラリー246」での(抗議)パフォーマンスに参加しました。詳しい報告はまた。 (追記 12月17日) 一週間前に、246のダンボールハウスの一つが全焼しました。おそらく、タバコの投げ捨てによる「放火」だと思われます。住人は不在のために、幸い、無事でした。夜中、1~2時くらいの出来事でした。ぼくの知っている人は、かなりショックをうけたようで、元気をなくしていました。 (追記 12月26日) 本文中に「日本デザイナー学院の生徒が路上生活者に「出て行く」ように説得に回ったという話もある」との記述がありましたが、調査したところ、日本デザイナー学院の生徒が路上生活者に「出て行く」ように説得した事実は確認出来ませんでした。よって、その一文を削除するとともに、誤った事実に基ずく話を記載したことを、日本デザイナー学院、生徒の方、読者にお詫びします。 ▲-------引用---------- 2007年12月18日(火)。てつオくんからの電話を受けて現場(渋谷駅南口R246高架下歩道)に出向き、ふたりで路上に段ボールを敷いて話し合いました。 次いで、いちむらみさこさん、遠藤一郎くんが加わり、4人でこのプロジェクトの名前を「246表現者会議」と仮決定しました。 最初の素朴な疑問は「制作者はどう思っているのだろう?」ということでした。デカデカと学校の名前が記される壁画は僕はあんまり見た事がない。美化運動の名を借りた広告、のような壁画の在り方が、よりこの渋谷アートギャラリー246の暴力性を物語っているような気がしたのです。 制作者サイドには「排除」の認識があったのだろうか? なかったのだろうか? そもそも全く違う立ち位置なのだろうか? とにかく日本デザイナー学院の学生、および先生に話しを聞きたいと思ったのです。 そこで話し合いを求めるビラを作り、「場を作る」活動を「第一回246表現者会議」としようと動き始めたのです。 ▼-------ビラの文章---------- 日本デザイナー学院の学生・先生の皆様 第一回 246表現者会議へのお誘い 私たちは、日頃アートについて考え、制作しています。みなさんも同じだと思います。 渋谷駅高架下の「渋谷アートギャラリー246」(制作:日本デザイナー学院)において、現在壁画などの表現物を見せるために、ダンボールなどを使い路上で生活をしている人達が「移動」するように強く勧告されています。 この状況は、アートが「追い出し」の道具として利用されてるようにもみえます。 現場の状況を考えながら表現物をつくるのは、難しいことですが、とても重要なことだと思います。様々な立場や考え方、または誤解もあると思います。 「アートとは何か」を共に考えましょう。 そこで、246高架下の現場にて、継続的に話し合いの場を持ちたいと思います。(みんなで鍋をつつきながら、とか。) まずお互いを理解しあうことからはじめてみませんか。 どうぞお気軽な参加をお待ちしています。 日時:2007年12月26日(水)18時より 場所:R246渋谷駅側高架下(看板が出ています。) 246表現者会議:小川てつオ・武盾一郎 ▲-------ビラの文章---------- ●日本デザイナー学院とのコンタクトを諦める形で「第一回246表現者会議」始まる 2007年12月21日(金)。日本デザイナー学院の前の路上でビラ配りをしました。てつオくん、竹内智彦くん、僕の3人がビラ配りに集まりました。僕はビデオカメラを回しました。 ビラを4枚程配ったところで、ひとりの先生にとがめられ一悶着。「学校側の許可を取ったらどうだ」と云われたので、「それでは」と学校に入ろうとしますが、それも押しとどめられ、先生が校内に入って聞いて来る形で、僕らは入り口の前で佇むことになりました。 しばらくすると理事長ほか2名が現れ、計4名の学校側と僕ら3人でもう一悶着。1時間程小競り合いが続きましたが、撤退を余儀なくされました。 次の日も、てつオくんはiさんと共にビラを配りに出かけます。今度は学校から少し離れた場所でのビラ配りでした。天気も悪く、計20枚ほど配って終わりにしたのですが、日本デザイナー学院に届いたかは手応えのない結果となってしまいました。 そこで、日本デザイナー学院とのコンタクトはいったん諦めて第一回246表現者会議を開催することになったのです。 さまざまな意見、感想を聞く中で、「何か僕もしなくては」という気持ちと、「ここで246表現者会議として場を作ってる事自体が自分の動きではないか」という気持ちの間で揺れ動きます。絵描きなので「作品で表したい」と思うのですが「246表現者会議として場を作ってる事自体が作品ではないか」と思ったり。 僕のその気持ちは246表現者会議の発足の挨拶 でも書いてあります。 ●変容する「246表現者会議」と現場 246 表現者会議発足以前、いちむさみさこさんはパブリック・アートを問うパフォーマンス(2007年11月23日)、現場で火事のあった場所に寝泊まりするパフォーマンス(2007年12月)を続けていました。それを追うようにして246表現者会議も発足されるわけですが、第二回、第三回と会議を重ねるごとに、246表現者会議やR246高架下歩道も少しづつ変わって来たように思います。 引き続き現場で段ボールハウスに寝泊まりしてるいちむらさんをはじめ、フットサルチームを作ろうというアイデア、写真作品を壁に埋め込むTさん、壁画の動物キャラクターから吹き出しを作って「未来へ」と書いた段ボールを貼付けるIくん、カラス虐待をテーマにKKK(カーカーカー・カラスを金網から解放する)を発足させた川木ヤスシさん、アートとアクティビズムを曖昧にさせる動きをするTくん、などなど「話し合う」というスタンスから始まって、有機的流動的に独自の動きが展開されてきています。また、下北沢再開発へのアクトとしてゴミでコスプレして消え行く風景と一緒に写真を撮る「ホー娘。」といったアーティスト、WEBメディアとして認知度の高い「イルコモンズのふた。」の小田マサノリさんといったアナーキスト、のじれん、舞踏家、執筆業、会社員、学生、無職、様々な活動、立場の人たちが、会議の場で同じ時間を共有しながら各々の動きを報告したり、刺激を受け合ったり、コミュニティーとして 246表現者会議は徐々に姿形を浮かび上がらせて来てるように思います。 段ボールハウスも増えてきたようです。ただ、古くからここに居た人は逆に減ってしまったようで、R246住民コミュニティーとしては厳しい状況かも知れません。 コミュニティーをどう形成していくか、が今後の現場と246表現者会議の鍵をにぎると思います。それには住民と僕らのもうちょっと広いコミュニティーを考える必要があると思っています。 ●スクワットコミュニティーの末路 僕は90年代後半、新宿西口地下道段ボールハウス村、東京大学駒場寮、神戸被災地非公認テント村、とスクワットコミュニティーでアーティスト活動を行ってきました。場所も事情も異なるコミュニティーでしたが、とある共通項目がありました。 まずは、(強制)撤去の可能性を孕んでいる事です。そして撤去の可能性がいよいよ現実感を帯びてくると外部からの人間が増え、コミュニティーが膨らみ、一種のアナーキー的な状態が生じる事。その時期に前後して内発・自発的「アート」が生じる事。一瞬ユートピア的な状態になる事。そして、撤去がカウントダウンされ始めると、当事者と部外者、あるいはもっと複雑な内部分裂が起き、(強制撤去といった)外圧より前にコミュニティー自体が内部崩壊してしまう事。とどめ的に(行政等の)外側からの排除が行われる事。などでした。 そこで最もキビシかったのはコミュニティーに思い入れを持つ程、「傷ついてしまう」こと、でした。消滅したコミュニティーを語りたがらない人が多いのも頷けます。このことは案外語られていないので、ひとつ記したいと思いました。 246表現者会議でわかった事はここ渋谷が再開発されるということです。シブヤ経済新聞から引用します。 ▼-------引用---------- 新渋谷駅は「地宙船」をイメージ-安藤忠雄さんデザイン 東急電鉄が進める渋谷駅東口・東急文化会館跡地の再開発事業で、地下化が予定されている新「渋谷駅」の設計が「地宙船」をイメージしたユニークな吹き抜け構造になることが明らかになった。 同駅では、来年6月に開業予定の東京メトロ副都心線と2012年までに相互乗り入れを始める。東急電鉄は駅施設を含む地上33階、地下4階(塔屋1階)の複合高層ビルを建設する計画で、渋谷駅周辺の活性化に向けて新生渋谷駅をアピールしていきたい考えだ。 デザインは、建築家の安藤忠雄さんが担当する。3層構造の駅は「地中の宇宙船=地宙船」をイメージ。下層部のホーム頭上が大きな吹き抜け空間となり、上層部の改札階などから下層部を見渡せるようになる。駅全体は「楕円のカプセル(=地宙船)が地下に沈んだような構造」(東急電鉄)で、ホーム天井部分が球体の「船底」にあたるという。 楕円の直径は約80メートル、短径は約24メートル。ホームを見下ろす吹き抜け部分は高さ約2メートルのガラスで周囲を囲い、安全性も考慮する。吹き抜け構造は「天然ダクト」の役割を果たすことで自然換気ができるのも特徴。駅に通じる地上施設の吹き抜け空間とも連動し、環境負荷を大幅に軽減するという。 駅ではこのほかにも「地宙船」の壁面で放射冷房システムを採用。自然エネルギーの活用などで、ビル全体でも環境に配慮した開発を進めていく方針。 2012年の完成を目指す同ビル内には、10フロアから成る大規模な店舗区画や国内最大規模のミュージカル専用劇場が入り、開業後は多くの人出が予想される。「玄関口」となる新生渋谷駅の動向に今後注目が集まりそうだ。 ▲-------引用---------- 安藤忠雄が「地宙船」なのに対して、R246は「ロケット」です。それは「R246星とロケット」と題した段ボールハウスに寝泊まりしているいちむらさん曰く、渋谷・原宿あたりで野宿してる人たちが段ボールハウスのことを「ロケット」と呼んでるらしい、に由来しています。僕はこの不可思議なイメージ・シンクロニシティに興奮しました。 ただ、ここR246もいずれ全て撤去されてしまうかも知れない。 僕は90年代後半に体験したスクワットコミュニティーの痛々しい結末を繰り返したくない。そうしないことが僕の使命であるかも知れない。あんまり深刻に考えすぎると病気になってしまうけど、なんとかして突破口を見いだしたい。 そうするとやはりアートについて、考えざるを得なくなるのです。 ●芸術について 現在、すでに「アート」を考える事すら不毛である、「アート」という言葉を出すこと自体が既に何の意味もない、という意見も聞きました。確かにそういう側面はあるかと思います。しかし、絵を描く人間が芸術を考えないでどうするんだ? という気持ちをぬぐい去れない自分も居ます。 そこで、僕の芸術観を、私情を交えながら書こうかと思います。 50~70年代にかけて、芸術と運動は連動した形で行われてることが多かったように思います。 昔の草間彌生さんも当時のフェミニズム運動なくしては語れないし、僕の好きなフルクサスも運動との並走というか連鎖みたいな事をしていたような記憶があります。「反芸術」なんて言葉もあり、ある種の対立構造に沿った形で芸術も運動も行われたが故に手を組むことが出来たのかも知れません。ひょっとしたら政治的思考をすることがトレンドだったのかも知れませんが。 80年代に入り、アメリカ、日本ともにバブルをむかえて、「資本主義の勝利」に浮かれる訳ですが、「アート」とやらもそれに参画して行ったようにも思います。 「反なんとか」という正しさを声を荒げて訴えても、金でおおかた決着がついてしまう、どうしようもない現実をほとんどの人たちが、金が入ったことによって体感したんだと思うんです。 この空洞化した状況をかなり破壊的にポップアートは相対化して見せたと思うのですが、「売れるアート」だったことによって、アイロニカルな本質が「売れるからよい」という入り組んだ事象を証明してしまった。というか、「資本主義とはそういうものである。」という破壊的な肯定がアートを席巻したのではないかと思います。「売れる事」が「最大の正しさ」である、と。 確かに「反対」の発想からは何かを生み出すことは難しいと僕も考えています。それは反対する対象にいつまでも縛られるからです。アーティストはそこから抜け出して自由になろうとしたのかも知れませんが、「資本主義的であること以上の自由」をアートは証明出来なかったのかも知れないのです。 その後、猛スピードで世界は変わって行ったように僕は感じます。 Tシャツ1枚とってもギョーザひとつとってもそこには世界中の搾取構造を経て僕らの手に届き、もはや「国家(ネイション)」は有名無実としか思えないほど、いわゆる「グローバル化」している。言い方は悪いけど、もはや資本主義の外側に僕らは暮らせない。 「どこにも逃げ場はないんだ。」9.11のやけにキレイなツインタワー倒壊の映像を見た時に僕は本当にそう思ったのでした。 芸術が「見たこともないものを見えるようにする」から、既存のものをどのようにフェイクし、どのような枠組みで見せるか、という方法論に取って代わり、漫画・アニメ・江戸絵の模倣をすることによって「世界の中の日本を位置付ける」やり方が成功しています。 それはそれで売れるからやるのでしょうが、なんというか、内発・自発的創造というより、サンプリング&ミキシングという組み合わせのバラエティーさで作品を作ってるのは、アートを解放させている、という物言いもあるかも知れませんが、何か一抹の淋しさも感じます。 ところで、この国において「芸術」を考えることの面白さのひとつに、「芸術」という単語が明治時代に「リベラル・アート」の訳語として造語された言葉であり、欧米史観を主軸にせざるを得ない状況から、古来日本の「芸」と交わり、ジレンマを抱え続けて来た点があると思います。しかし、欧米vs日本みたいな、今はもはやそんなことも言ってられない状況なので、やはり芸術を芸術だけ抜き出して考えること自体無理があるのかも知れません。 そこで僕は今、「美しい」という日本語を考えるようになりました。安倍元総理が「美しい国」だとか、G8に向けて「美しい星50」だとか言ったおかげでまるで台無しの言葉となってしまいましたが。 万葉の時代、今から1000年以上前ですね、「うつくしい」とは、自分より弱い者に対して抱くいつくしみの感情を表した、そうです。平安末期頃から「うつくしい」は「きれいだ」という意味を持つようになった、そうなんですね。 そして漢字の「美」は「羊+大」で、形の良い大きなヒツジを表している。これは、中国古代の王朝「周」の人々が、ヒツジを最も大切な家畜としていたためと考えられているそうで、これは「富」ということだと思うんです。富めるもののみ美を扱う事が出来たってことでしょう。 つまり「美しい」とは、富・強者を肯定する意味と、小さいもの・弱いものをいつくしむ意味の両方が同時に備わっているんですね。 この「美しい」という日本語は、強大な資本や権力がこの地球をくまなく覆い尽くすグローバル化・資本主義の外側はないと考えられる状況と、それが故に生じる個々の小ロットネットワーク連鎖が世界同時多発的に各地で起こっている状況、と照らし合わすことが可能であるのかも知れないと考えるのです。 やはり芸術家である以上、「美しい」を考えて行きたい。矛盾と幅広さに満ちた「美しい」を考えて行きたい。そしてそれを実践、作品化して行きたいと思う次第なのです。 ●アートとアクティビズム そこで飛躍しますが、ネグリです(笑)(きちっと読んでもいないのに)。 「帝国」は「美」という漢字の記号のようにも思えます。 「マルチチュード」は日本古語の「うつくしい」を示す意味のようにも思えます。 アントニオ・ネグリの難解な思想は、日本語の「美しい」で象徴され得るようにも思うんです。 そして、「まつり」という日本語もあります。「まつりごと」は「政」とも書きます。そして「祭り」は、踊り、歌い、描く行為であったりします。 そもそも、芸術も政治も「まつり」だったわけです。 そこで、アートとアクティビズムですが、そうやって、古来原初の日本語の意味合いに戻してあげれば、60年代あたりのアートとアクティビズムの連動とはひと味違った融合や恊働、またはそのどれでもない何かが産まれるのではないかと思うのです。 ●これからの246表現者会議 今後は具体的に事を起こして行く感じです。 一つはコミュニティーを作って行くとこです。それは恊働を模索する事でもあると思います。炊き出しを行うという提案もあります、「ロケット」をどうするか、また、フットサルチーム構想もあります。 アクションとしては、街づくり協議会(渋谷アートギャラリー246事務局)にアポを取ることも具体化し始めています。そして、批評として紙媒体を作る事も検討しています。 会議に出席する人たちがまた違ったネットワークを形成し、緩やかな広がりを感じつつ、話し合いを基盤にしながら続けて行きたいと思います。 興味を持ったらぜひ一度、246表現者会議に出席してみて下さい。 ひょっとしたら未来への「見たこともないものを見えるようにする」ことも可能なのかも知れないと思うのです。 (武盾一郎/のじれん通信:「ぴかぴかのうち」Vol.32掲載より一部修正) |
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