暴力の構造


246表現者会議 を小川てつオ氏と発足させました。
ろいろなことを考える。

まず、発足の挨拶 に書いたように、僕は薄気味の悪さを感じたのだった。
それはいったい何なのか、それを考えている最中なのだが、
今はまだうまく言葉に出来ないが、
出来る限り言語化したいと思うし、
不可視化されている巨大な問題がうっすらと垣間見える感じはしてきた。

■痛みの伴わない暴力
今の段階で垣間見えたキーワードは「痛みの伴わない暴力」だ。
誰だって暴力を振るう時は、ふるった側もふるわれた側も痛い。排除も暴力だが、それを振るう時は排除する側にだって痛みは伴う。
プリミティブなコミュニケーションが成立してる場合、こういったことは身体的、生理的、感情的に普通であるし、「あたりまえ」なのだ。

「渋谷アートギャラリー246」の場合、
寛容であるはずの「都市のストリート」という現場で、
「ここはギャラリーになったからグラフィティーも野宿者も出て行ってくれ」
という暴力を突然ふるってしまったことになる。

都市空間に対しても現場の人間に対しても何の取り決めもなく
(ギャラリーを作る側では話し合いがもたれていたのだが、現場とは何の対話もなく一方的にギャラリーであるという決定をしている)、
ストリートからしてみれば、何の段取りもなく、青天の霹靂のような決定がされているのだが、施行側はこの暴力に誰も気が付いてないふしがある。(ひょっとしたら、東急と行政といった巨大資本と権力は知っているのかも知れないが)

町づくり協議会、学校、生徒たちは美しい町づくりのために、心から善意をもって作ったのだろうが、不思議な事に暴力を振るっている事象、そして暴力を振るっている痛みが綺麗にかき消されてるのである。

なぜか知らないが、「そういう仕組みになっているのである」。

薄気味の悪さの一つは恐らくそこだろう。まだ言葉に出来ないもどかしさがあるのだが。

例えは悪いかも知れないが、
アメリカ軍の傭兵部隊の一兵士が、コンピュータにデータを入力して実行キーを押すと、イラクのどこかに爆弾が落ちて一般人までが殺されてしまう、みたいな。
残忍なリアリティーが浮き彫りにならないシステムが片方には用意されているのだが、もう片方の人間存在はまるでぞんざいにされている、というか消去されてしまっている。
そんな現代戦争事情と何かリンクしてるような気さえしてしまうのだ。

そして、それに対して
「それってなんか厭な感じがするのだが」と思い、
「いったいどういうことなんだ?」という
プリミティブなコミュニケーションが成立している場では当然の反応を示すと、
それは即座にテロ攻撃と位置づけられてしまう、
という仕組みになっている。


渋谷アートギャラリー246の出現、これは暴力である。控え目に言うならば暴力の側面が暴力として多少であれ現れている。
暴力の側には自覚がないからなのだろうか、こちら側がわざわざビラを配りに行った行為を、相手は強烈なゲリラ(的暴力)として捉え、こちら側が一方的な暴力を振るっていると解釈し、
この構図にすっぽりとハマってしまうのである。

これがもどかしい。

ビラの文章 が脅迫であるかどうか、読んで欲しい。学校関係者にも再読して頂きたいくらいだ。

そしていろんな人の意見を聞きたい。

この事象、そして動いた事、考えた事、
出来るだけタイムラグが生じないようにエントリーして行こうと思っている。

投稿日時: 水 - 1月 2, 2008 at 11:44 午後          


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