カラオケって。。。



とりあえず、むこう5年くらいはカラオケしなくてもいいくらい歌いまくった武盾一郎です。こんばんは。
というか、数年に1度くらいしか行ってないけど。

ぃやあ、自衛隊の人を目の前にしてルースターズの「CMC」を熱唱しました。「爆撃機が400機〜!♪!」
なんか、カラオケって絶妙に緊張感とリアリティーを醸し出してくれるからスゴイよな。
曲間をあけるのが厭だから知ってる曲を入れてく。けど、曲を選んで行く作業にその人の人となりが出てくる。
荒井由美の「翳りゆく部屋」とか、目についたんで入れてみたらもの凄く気まずい歌だった。「輝きは戻らない。私が 今 死んでも〜」だし。
けど、歌詞より歌う行為なんだよな。とにかく歌ったよ。いやあ、こんなに歌えるんだね。曲知ってるんだね。

しっかし、20代の頃とか「この世で嫌いなものはゴキブリとカラオケだ」とか言ってたりしたんだよな。


僕が小学生の頃にはすでに「カラオケ」という単語があった。
「○○ちゃんのお父さんってカラオケが趣味なんだって!」という使われ方だった。
今で言えば、「アナログカメラ」とか「バス釣り」とかに近いニュアンスだ。
カラオケの機材を買って歌うのだ。「ちょっとおしゃれでハイソなお父さん」って感じだった。
その後、カラオケはもの凄い勢いで低価格化して行った。
僕が成人する頃には「最も俗悪な消費行為」として「カラオケ」は存在していたのだ。
で、資本主義的に浸透し切って随分経ち、もう「カラオケ」という単語は何かしら意味新しい刺激的なものでもなんでもなくなり、
街の機能としてパチンコ屋とか飲み屋とか美容院とかと同じレベルの消費生産ブツとしてフツーに存在してる。

もう、良くも悪くも「文化」ではないのだ。
俗悪だと罵られてるうちは「文化」にカテゴライズされる。


消費行為と排泄はよく似てる。
気持ちよいのだ。
そして、気持ちいいだけなんだ。
その後、その気持ち良さすらも忘れてしまう。気持ち良さは一時のもの。そしてそれをずっとリピートしないとならなくなる。

では、排泄は芸術的ではないか?というと、排泄行為を見せようとした時に芸術性が生じてくるよな。
消費行為を見せても芸術性は生じない。消費行為とは芸術的尺度から見ると「脱糞以下」となる。


心に傷をずっと抱えてる人が居るとするならば、それはそれだけで「芸術的な状態」である。
カラオケという消費行為は低価格化競争されてるだけに虚しさのレベルは低い。
ありもしないものに妄想を描いて巨額を投じることは「芸術的」である。金に価値を起き過ぎる思考も「それによって虚無的になり過ぎれば」芸術的状態だ。

虚しさの深さと芸術はとても関係している。

最近、うつ病の人間が増えまくっているが、「哲学的境地」の「虚無」をかいまみてるケースがある。これは「芸術的状態」だ。
キチガイが増えてるが、これも芸術的状態である。

「芸術的」であることと「芸術」は、これまた凄まじい距離があるのだが。


で、芸術が良いかどうかと言うとそれは全然そうではない。
消費行為が悪かと言うとそうではない。
僕がいいたいのはそういうこと。


カラオケの曲、今、J-POPとか言われてる曲は「カラオケ化」されることを想定して作るらしい。っていうか、カラオケで印税を稼ぐのだ。ビジネスパターンだ。僕は今これらを「作品」と呼ぶより「商品」と呼ぶ方がいいと思う。
「こちらがレミオロメンの商品です。」といった具合に曲を認識する。
マンガや小説もゲーム化することを前提にして構想する。
これらは作品ではなく「商品」だ。あくまでも消費者に脱糞のような快楽を味合せてあげる為の商品なのである。
こういう思考で殆どのものは作られている。

芸術はそことは違う場所にある。どっちが良いとかの問題ではなく。
セグメントする必要があるかどうかは知らんが、芸術とはともかくそんなワケのわからないものである。

カラオケは楽しかった。


で、具体的に。
音楽が商品じゃない場合、キングクリムゾン。
かなり洗練された時期だけど、いわゆる今のJ-POP的な「商品」ではない。(またまた「空想ラビュリントスのブックマーク 」からみっけ)
King Crimson "Elephant Talk"

なんつーか、今日本で流行ってる曲(流行らせる為に製造されてる曲)とかしか知らない人はそもそもここへは来ないんだろうけどさ。

投稿日時: 水 - 2月 21, 2007 at 03:01 午前          


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