言葉にできないのは当然のこと



最近またYou Tubeで遊んでます。僕は独り暮らしを始めた時にたまたまテレビがなくて、それでも全く不自由を感じなかったおかげで以降、生活にテレビが同居していない。今もテレビはないけど何も不自由はない。
You Tubeがテレビ等の映像を大量に削除したのは、おそらくテレビ局とYou Tubeで共同ビジネスが本格化するからだと思う。ホリエモンがやろうとしてたことがアメリカでは実現に向かってるってワケだ。遅かれ早かれこのアメリカグローバリゼーションに押されて日本のテレビ局もネットと共同していくことだろう。自発的にはできないのがこの国の悲しい所だ。
皮肉なことにYou Tubeをいじってるとテレビの話題や流行を察知出来る。尚更テレビが要らない。まあ、けどマスメディアというか大資本は消えないかやっぱ。著作権を振りかざして行使出来るのが結局テレビ局等の強者である所がカチンと来るけどね〜。You Tubeにはがんがんテレビ映像をアップすべきだよ。なんてウダウダ考えてる武盾一郎です。こんばんは。


で、やっぱり前のエントリーを引きずるけど、夢は個人脳内のオリジナルな記憶再編成ビジュアルでしかないので、他人の夢はつまらないと書いたけど、ふと違う事を思い出した。

ひいおばあちゃんが死ぬ何日か前に夢枕に出て来たんよ。当時僕はまだ子供だった。田舎に暮らしてるひいおばあちゃんを日常的に気にかけてはいない。何しろ子供は目の前のことに夢中だし。あれは今思い出しても不思議。

夢にはそんな不可解なことも起こりうる。

しかし、見た夢を説明しようとしたとたん、言葉にしていく程に、夢のあのニュアンスから遠ざかって行く。
夢の中で小学生だった自分が同時に二十歳くらいの自分であったり、田舎の家がとてつもなく大きくなってしまったり、ふと気が付くと隣にあんまり仲の良くなかった友達が座っていたかと思うとその人は今の上司だったり。
言葉にした途端になにやら典型化した記号になってしまう。
夢の中に居た時は、その「事象」よりも、その時の「感じ」の方が重要なのだ。
例えば鷹が出て来た場合は、鷹そのものが重要な訳じゃなくて、「鷹のように見えたその感じ」が夢を見ている時の空気を支配している。

夢とは具現化と抽象化のあいまに居るのだ。
宮澤賢治の云う「不完全な第四次空間」だ。

夢を言葉にした途端、夢の持つ最も重要なエッセンスが消え去り、記号化されたアイテムの羅列になってしまう。これじゃあ今起きて見ている世界認識と同じになってしまう。

要は、「夢は言葉に出来ない。」のだ。


ってなことで、YOU TUBEで見つけた、「言葉にできない」。
言葉に出来ないからこそ人は美しい。
ぜひご覧あれ。

レッツラゴー !!

投稿日時: 土 - 10月 21, 2006 at 10:38 午後          


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