仙台短編映画映画祭としてパブリックに提示する映画祭像
07/01/09 10:00 CategoryPermalink
映画祭という形式で映画上映を行うことの利点の一つとして、映画館の様に商業的価値感に縛られる必要がないという点である。商業的価値観は観客動員数という指標に集約され、そのため劇場では映画の内容如何に関わらず宣伝としてわかりやすくインパクトのある映画の方が上映しやすいことなどから、商業的に成功する映画と面白い(または観客から評価を受ける)映画は必ずしも一致しないと思われる。それに比べ、映画祭に来ようと思う観客は自ら映画が面白いと思っている人たちが多く、映画を全く見ない人に対してもわかりやすい宣伝である必要性は薄い。よって主催する側も主観的な面白さという指標を用いる余地が広い。
また、映画祭は映画の製作ー配給の流れに縛られる必要はなく、あらゆる時代に製作された映画から「今」映画として提示したい考えに基づいて映画上映ができる。そのため、特集などの形でコンピレーションCDアルバムのようにあるテーマに基づいて映画を選択できる。
□短編映画であること
・コンピレーションCDのようにテーマに沿っていくつか映画を上映するという形態がとりやすい
・製作しやすいし手軽にみれる→何らかの目的による作品応募、公表がしやすい
・短編映画という映画の潮流の認知度を高める
・何が(短編)映画なのかという概念に関する問題定義
.....
□映画祭の目的
・世界的な短編映画の認知度を高める、商業映画への若手発掘などの大義名分→そのような規模も予算もないのでは?
・町おこし、観光
・仙台での映画製作者の育成、発掘、仙台の映画を認知度を高める
・観客と制作者が出会う場(どういう観客と制作者?)
・古きor最近のよき映画を見てもらう場を作る
・ある特定のテーマに従ったユニークな映画を上映して楽しむ
・映像として何かを語ること、それについて話をする場を作る
.....
□公募
誰から何をテーマに映画を募集して何を基準に選択して映画祭で何を提示していくかの公募の目的
映画祭のテーマに沿った映画を特定の対象から募集し、そのテーマに沿った「面白い」映画を選定する。
・商業映画への若手発掘(全国、全世界応募)
・仙台or東北での映画製作者の育成(地域限定応募)
・仙台or東北での映画製作の奨励(仙台or東北舞台の映画応募)
・新鮮な実験的な映画の発掘(全国、全世界応募)
・様々な制作者の映画が見たい(全国、全世界応募)
.....
総括
こないだの話では、映画祭として上映、応募、交流を重要な点とし、物語を編み出すとのことだった。
言葉を変えると、商業映画や趣味、素人の映画製作者らとそれを見たり作るのを楽しみにする人たち(映画祭スタッフ、観客)とで広く交流できる場を作りたいということなのだろう。もしこの意味での映画祭ならば、制作者と観客が目に見える位置にくるため、従来の雲の上の製作者ー映画を消費する観客という関係が曖昧になる。そこに様々な視点の人による交流の場が生まれるという面白さがある。これは映画祭の趣旨として十分なものだと思う。
映画祭の包括的なテーマとしてこの交流の場を設定することで曖昧になるのは、細部の目的である。例えばどのようなプログラムを作るかとか、応募作品をどのように選定するか、・・・その点が曖昧になるため、プログラムや応募の選定などで様々な方向性が混在される。もちろんそのように様々な方向性からスタッフが作りたいプログラムを作れることはそれでよいと思うが、回ごとの一貫性がなく、映画祭としてまとまりに欠けるのでは。
そのため、毎年行うシリーズ物のプログラム(他の映画祭のダイジェストプログラムorある日本の映画監督プログラム、今話したい監督プログラムなど。現時点で公募プログラムがそれに当たると思われるが、映画祭の目的と照らし合わせると形式的に行っているというようにも感じられるのではないか)を作るか、回ごとに映画祭の趣旨に沿ったテーマを決め映画祭としての方向をつけるかが必要なのではないか。
なぜ仙台かと言われれば、上記の交流の場を設けるのにちょうど適する規模の町だからという点
たまたま場を作りたい人が集まったのがたまたま仙台だったから
仙台市や東北の人に発信するという意識はあっても経済的に地方に還元するなどの目的は持たない(のか?)
□なぜ公募を行うか
公募をその対象者の業界への発掘や育成が第一の目的で行ってはいないと思うので(というのも公募で上映が決まった人をどう宣伝していくかのような話を映画祭でしていないので視野からずれていると思われるから)、上記の映画祭の目的に照らし合わせるならば、そこに最も興味をもつのが映画を作りたいと思う人であり応募してきた人はまず参加したいと思うはずである。そのため、公募は映画製作者に対する本映画祭の宣伝、あるスタッフの視点からみた面白い才能たちという映画祭内のプログラムの一つとして位置するのみ。また、才能の発掘等の目的がなくとも、映画祭でなぜその短編を取り上げることにしたのかを明確ににするために、審査員がその短編を選択した趣旨等を文章として公表しておくなどはしてもいいのではないか。
仙台短編映画映画祭がどのような映画祭かという特色や他の映画祭と住み分けは映画祭として提示した方がよいだろう。かといって、アイデアをテーマや映画祭の目的に沿わないからという理由のみで切り捨てるような利用の仕方はよくないのではなないか。
また、映画祭は映画の製作ー配給の流れに縛られる必要はなく、あらゆる時代に製作された映画から「今」映画として提示したい考えに基づいて映画上映ができる。そのため、特集などの形でコンピレーションCDアルバムのようにあるテーマに基づいて映画を選択できる。
□短編映画であること
・コンピレーションCDのようにテーマに沿っていくつか映画を上映するという形態がとりやすい
・製作しやすいし手軽にみれる→何らかの目的による作品応募、公表がしやすい
・短編映画という映画の潮流の認知度を高める
・何が(短編)映画なのかという概念に関する問題定義
.....
□映画祭の目的
・世界的な短編映画の認知度を高める、商業映画への若手発掘などの大義名分→そのような規模も予算もないのでは?
・町おこし、観光
・仙台での映画製作者の育成、発掘、仙台の映画を認知度を高める
・観客と制作者が出会う場(どういう観客と制作者?)
・古きor最近のよき映画を見てもらう場を作る
・ある特定のテーマに従ったユニークな映画を上映して楽しむ
・映像として何かを語ること、それについて話をする場を作る
.....
□公募
誰から何をテーマに映画を募集して何を基準に選択して映画祭で何を提示していくかの公募の目的
映画祭のテーマに沿った映画を特定の対象から募集し、そのテーマに沿った「面白い」映画を選定する。
・商業映画への若手発掘(全国、全世界応募)
・仙台or東北での映画製作者の育成(地域限定応募)
・仙台or東北での映画製作の奨励(仙台or東北舞台の映画応募)
・新鮮な実験的な映画の発掘(全国、全世界応募)
・様々な制作者の映画が見たい(全国、全世界応募)
.....
総括
こないだの話では、映画祭として上映、応募、交流を重要な点とし、物語を編み出すとのことだった。
言葉を変えると、商業映画や趣味、素人の映画製作者らとそれを見たり作るのを楽しみにする人たち(映画祭スタッフ、観客)とで広く交流できる場を作りたいということなのだろう。もしこの意味での映画祭ならば、制作者と観客が目に見える位置にくるため、従来の雲の上の製作者ー映画を消費する観客という関係が曖昧になる。そこに様々な視点の人による交流の場が生まれるという面白さがある。これは映画祭の趣旨として十分なものだと思う。
映画祭の包括的なテーマとしてこの交流の場を設定することで曖昧になるのは、細部の目的である。例えばどのようなプログラムを作るかとか、応募作品をどのように選定するか、・・・その点が曖昧になるため、プログラムや応募の選定などで様々な方向性が混在される。もちろんそのように様々な方向性からスタッフが作りたいプログラムを作れることはそれでよいと思うが、回ごとの一貫性がなく、映画祭としてまとまりに欠けるのでは。
そのため、毎年行うシリーズ物のプログラム(他の映画祭のダイジェストプログラムorある日本の映画監督プログラム、今話したい監督プログラムなど。現時点で公募プログラムがそれに当たると思われるが、映画祭の目的と照らし合わせると形式的に行っているというようにも感じられるのではないか)を作るか、回ごとに映画祭の趣旨に沿ったテーマを決め映画祭としての方向をつけるかが必要なのではないか。
なぜ仙台かと言われれば、上記の交流の場を設けるのにちょうど適する規模の町だからという点
たまたま場を作りたい人が集まったのがたまたま仙台だったから
仙台市や東北の人に発信するという意識はあっても経済的に地方に還元するなどの目的は持たない(のか?)
□なぜ公募を行うか
公募をその対象者の業界への発掘や育成が第一の目的で行ってはいないと思うので(というのも公募で上映が決まった人をどう宣伝していくかのような話を映画祭でしていないので視野からずれていると思われるから)、上記の映画祭の目的に照らし合わせるならば、そこに最も興味をもつのが映画を作りたいと思う人であり応募してきた人はまず参加したいと思うはずである。そのため、公募は映画製作者に対する本映画祭の宣伝、あるスタッフの視点からみた面白い才能たちという映画祭内のプログラムの一つとして位置するのみ。また、才能の発掘等の目的がなくとも、映画祭でなぜその短編を取り上げることにしたのかを明確ににするために、審査員がその短編を選択した趣旨等を文章として公表しておくなどはしてもいいのではないか。
仙台短編映画映画祭がどのような映画祭かという特色や他の映画祭と住み分けは映画祭として提示した方がよいだろう。かといって、アイデアをテーマや映画祭の目的に沿わないからという理由のみで切り捨てるような利用の仕方はよくないのではなないか。
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トゥモローワールドにみる日本映画宣伝の病
06/11/27 00:48 CategoryPermalink
「トゥモローワールド」という映画が公開中である。舞台は2027年、イギリス。人類に子供が産まれなくなって18年。全人類が共有しうる悲しみのはずが、醜くも政治抗争を続ける人々。国家対難民という現イギリスを取り巻く社会現象を圧倒的なインパクトを持って描く、未来社会から見た現代。ありきたりな少女神話でもキリストの再来でもない、SFという固定観念を瓦解させてくれる映画である。
トゥモローワールドという映画の原題はChildren of Menである。英語圏ではもちろんそのままChildren of Menという題名であり、デンマーク、ドイツ、スペイン、スウェーデン、メキシコ等でも英語の題名を用いている。そして、お隣の韓国では「칠드런 오브 맨」という題がついているが、これはチルドレンオブマンと発音し、要するに日本でカタカナで「チルドレン オブ マン」という題名をつけるようなものである。また、中国では「人类之子」、フランスでは「Les Fils de l'Homme」という題名がついており、音は異なるものの、人類の子という原題に沿った名前がつけられている。Tomorrow Worldという英語をかカタカナ表記した「トゥモローワールド」という題をなぜか日本の配給会社だけが付けている。
視聴者の一人として推察できる理由は一つしか想定できない。それは、日本ではなじみがなく”わかりにくいと思われる”外国映画の題名を、多くの人を引きつけることが出来るよう”わかりやすそうな”題名に変えたのではないかというものだ。人類の子供たちというこれだけではSFかどうかわからない原題を、明日の世界がどうなってしまうのかという期待を彷彿させる魅力的なSFのイメージを作ろうと苦心して、過去の配給や興行成績のデータなどを参照しながら決定したのだろう。これは日本版ポスターを見ても容易に推測できる。あからさまな苦し紛れの宣伝活動が繰り広げられている。果たして、その結果は実を結んでいるのだろうか。現時点では公開第1週目の興行成績しかわからないが、公開3週目の「デスノート the Last name」が1位、初登場の「プラダを着た悪魔」が2位、「トゥモローワールド」は3位である(興行通信社調べ、2006年11月18日〜19日の劇場公開映画の興行成績)。120億円をかけて制作された映画の収益としては芳しくないのではないだろうか。
映画の題名を変更することは、以前の記事で書いたように作品の改変であるだけでなく、「トゥモローワールド」ではさらに内容と題名が乖離しているように思える点が複数の映画感想を載せている個人ブログで話題に上っている。映画は決して未来は夢のような世界が広がっているというような内容では無い。
また、アメリカの映画のホームページでは、宣伝目的も含まれていると思われるが、劇中にも登場したHuman Projectという組織をかたどって、視聴者が映画の内容だけでなく、映画を見て改めて考えた現代の社会問題に対する意見を議論できる場まで用意されている。日本の茶番と言っても仕方の無いような宣伝方法とはなぜこんなにも違いがあるのだろうか。

日本語版ポスター

英語版ポスター
「トゥモローワールド」ホームページ
http://www.tomorrow-world.com/
「Children of Men」公式サイト
http://www.childrenofmen.net/
Human Projectサイト
http://www.thehumanprojectlives.org/
映画の邦題 原題と落差
http://www.janjan.jp/culture/0610/0610032137/1.php
トゥモローワールドという映画の原題はChildren of Menである。英語圏ではもちろんそのままChildren of Menという題名であり、デンマーク、ドイツ、スペイン、スウェーデン、メキシコ等でも英語の題名を用いている。そして、お隣の韓国では「칠드런 오브 맨」という題がついているが、これはチルドレンオブマンと発音し、要するに日本でカタカナで「チルドレン オブ マン」という題名をつけるようなものである。また、中国では「人类之子」、フランスでは「Les Fils de l'Homme」という題名がついており、音は異なるものの、人類の子という原題に沿った名前がつけられている。Tomorrow Worldという英語をかカタカナ表記した「トゥモローワールド」という題をなぜか日本の配給会社だけが付けている。
視聴者の一人として推察できる理由は一つしか想定できない。それは、日本ではなじみがなく”わかりにくいと思われる”外国映画の題名を、多くの人を引きつけることが出来るよう”わかりやすそうな”題名に変えたのではないかというものだ。人類の子供たちというこれだけではSFかどうかわからない原題を、明日の世界がどうなってしまうのかという期待を彷彿させる魅力的なSFのイメージを作ろうと苦心して、過去の配給や興行成績のデータなどを参照しながら決定したのだろう。これは日本版ポスターを見ても容易に推測できる。あからさまな苦し紛れの宣伝活動が繰り広げられている。果たして、その結果は実を結んでいるのだろうか。現時点では公開第1週目の興行成績しかわからないが、公開3週目の「デスノート the Last name」が1位、初登場の「プラダを着た悪魔」が2位、「トゥモローワールド」は3位である(興行通信社調べ、2006年11月18日〜19日の劇場公開映画の興行成績)。120億円をかけて制作された映画の収益としては芳しくないのではないだろうか。
映画の題名を変更することは、以前の記事で書いたように作品の改変であるだけでなく、「トゥモローワールド」ではさらに内容と題名が乖離しているように思える点が複数の映画感想を載せている個人ブログで話題に上っている。映画は決して未来は夢のような世界が広がっているというような内容では無い。
また、アメリカの映画のホームページでは、宣伝目的も含まれていると思われるが、劇中にも登場したHuman Projectという組織をかたどって、視聴者が映画の内容だけでなく、映画を見て改めて考えた現代の社会問題に対する意見を議論できる場まで用意されている。日本の茶番と言っても仕方の無いような宣伝方法とはなぜこんなにも違いがあるのだろうか。

日本語版ポスター

英語版ポスター
「トゥモローワールド」ホームページ
http://www.tomorrow-world.com/
「Children of Men」公式サイト
http://www.childrenofmen.net/
Human Projectサイト
http://www.thehumanprojectlives.org/
映画の邦題 原題と落差
http://www.janjan.jp/culture/0610/0610032137/1.php
Talking about Title
06/09/08 22:59 CategoryPermalink
タイトルの話のタイトル
ある日の平凡な会話。
A「今日『バッシング』見てきたよ。ありゃないでしょ。」
B「題材はいいのにもったいないよね。」
と、こんなふうに、私たちはある映画についてコミュニケーションするとき大抵はタイトルを使ってその映画を示そうとする。「ところでタイトルってなに?」ともし聞かれて、簡単に答えるとすれば「その映画を象徴することば」となるかもしれない。が、そんな単純にはいかないのだ。なぜなら、上の答えは一見正しいように見えて明らかに矛盾しているからだ。というのも、その映画を見る前に私たちはその映画のタイトルを知っているのである。象徴する対象である「その映画」が、それを象徴している「その映画のタイトル」という言葉の後にきているのだ。何かを象徴しているといっておきながら、その象徴しているものを後で知るなんてことがあるのか?このパラドックスを解決するには、私たちは「その映画」を見る前に、「その映画のタイトル」から「想像したその映画」を象徴の対象として持っているとするのが無難だろう。うう、ややこしい。
要するに、「タイトル」→「その映画の中身」という状態になる前に「タイトル」→「その映画はこんな中身かも」という状態が必ずあるということ。もちろん見る前の映画の中身を想像するのには、あらすじだったり、知り合いの感想だったりいろいろな要素はある。その中でタイトルはその映画を見る前に必ずしっいるものであり、どんな場合でも無視できない要素だろう。そして、「その映画はこんな中身かも」という先入観から私たちの映画への視点は逃れられない。結局、言いたいことは、タイトルによって私たちの映画の見方は大きな影響を受けるから「タイトルを勝手に替えないでほしい」ということなのだ。「死ぬまでにしたい10のこと」は、死ぬまでにしたい10のことの話ではなくて、My life without meの話である。また、「ナイロビの蜂」は、ナイロビの蜂の話ではなく、The Constant
Gardenerの話である。この様なタイトルの変更がされる外国映画はかなりの割合になる。もちろん言語が異なれば翻訳する必要があり、そういうことを含めていくともはや程度の問題でしかないのかも知れない。しかし、明らかな宣伝目的で全く違うタイトルをつける習慣はいかがなものかと思う。
ある日の平凡な会話。
A「今日『バッシング』見てきたよ。ありゃないでしょ。」
B「題材はいいのにもったいないよね。」
と、こんなふうに、私たちはある映画についてコミュニケーションするとき大抵はタイトルを使ってその映画を示そうとする。「ところでタイトルってなに?」ともし聞かれて、簡単に答えるとすれば「その映画を象徴することば」となるかもしれない。が、そんな単純にはいかないのだ。なぜなら、上の答えは一見正しいように見えて明らかに矛盾しているからだ。というのも、その映画を見る前に私たちはその映画のタイトルを知っているのである。象徴する対象である「その映画」が、それを象徴している「その映画のタイトル」という言葉の後にきているのだ。何かを象徴しているといっておきながら、その象徴しているものを後で知るなんてことがあるのか?このパラドックスを解決するには、私たちは「その映画」を見る前に、「その映画のタイトル」から「想像したその映画」を象徴の対象として持っているとするのが無難だろう。うう、ややこしい。
要するに、「タイトル」→「その映画の中身」という状態になる前に「タイトル」→「その映画はこんな中身かも」という状態が必ずあるということ。もちろん見る前の映画の中身を想像するのには、あらすじだったり、知り合いの感想だったりいろいろな要素はある。その中でタイトルはその映画を見る前に必ずしっいるものであり、どんな場合でも無視できない要素だろう。そして、「その映画はこんな中身かも」という先入観から私たちの映画への視点は逃れられない。結局、言いたいことは、タイトルによって私たちの映画の見方は大きな影響を受けるから「タイトルを勝手に替えないでほしい」ということなのだ。「死ぬまでにしたい10のこと」は、死ぬまでにしたい10のことの話ではなくて、My life without meの話である。また、「ナイロビの蜂」は、ナイロビの蜂の話ではなく、The Constant
Gardenerの話である。この様なタイトルの変更がされる外国映画はかなりの割合になる。もちろん言語が異なれば翻訳する必要があり、そういうことを含めていくともはや程度の問題でしかないのかも知れない。しかし、明らかな宣伝目的で全く違うタイトルをつける習慣はいかがなものかと思う。