生物と機械、情報学的考察
・情報学的な違い
情報学的観点から見た生物と機械の違いの考察としては、東京大学大学院情報学環教授西垣通氏の文理融合的観点が目を引く。西垣によれば、情報は生命情報と社会情報、機械情報に分類可能である。生命情報は生物の生存に関わる情報であり、空間認識やその中での獲物や天敵などの認識をさす。社会情報は人間社会において形成された社会システムを維持させるコミュニケーションのことである。また、機械情報は社会情報の中から情報の構成要素である記号と意味内容のうち、記号のみを取り出したものである。例えば、文字等のメディアのような情報のことである。この西垣の情報概念への視点は生物と機械における情報を明確に
区別している。これは生体情報工学という学問の捉え方に関わる重要な点である。なぜならば、このような捉え方によれば、体内の血液循環の電気回路モデルなどの生体機能の一部の機械情報による表現は生体情報を表現したことにならないからである。これに関しては次章で解説する。ここで重要な点は、生体情報の認識の違いは生物と機械の違いを考察する上で考察内容や論法に大きく違いが出るということである。以下では、上記のような西垣の情報学の枠組みを利用しながら生物と機械の違いを生体情報の認識の仕方へも視線を向けて考察する。

・生体システムの特徴
西垣によるnikkeiBPnetのITマネジメントでのインタビュー(http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/int/21/index.shtml)によれば「生物と機械との境界」は「反復システムである機械と、繰り返しのきかない“今”を生きている生物」の違いである。これは、組み込まれたハードウェア上でのプログラミングされたソフトウェアによる反復操作の多重化による機械システムと生体組織の生成、破壊によって絶えずシステムの構成要素を入れ替える常に一つに定まらない生体システムとの違いを的確に表現している。生体システムの認識には生体組織の生成、破壊のメカニズムを取り入れることは必須であるが、機械システムにはそのような認識はない。もし機械システムにそのような枠組みをとりいえるのであれば、一つの機械システムの中に、自らを構成する部品を自発的に取り入れて、体内組織である機械部品の製作工場、エネルギー生成装置を自前でもち、古くなった部品の廃棄をも自ら行うシステムまで取り入れる必要がある。このような概念は技術的限界に伴う私たちの想像を著しく凌駕するものであり、考察するに値しない。上記のような生存という観点から考えられた生体システムの枠組みとしてはオートポイエーシスシステムがある。オートポイエーシスとは、簡単に言えば自己循環するということである。生体システムを考察する場合の循環とは、血液の体内循環のようなシステムではなく、生体システム維持や環境適用のために自己増殖するための細胞の生死を含めた循環のことを指す。オートポイエーシスは生物学から生み出された概念であるが、現在は社会システムや経済システムを考察するためにも用いられるなど、ルーマンの社会理論など自己増殖、自己循環する傾向を持つ様々なシステムをより生物学的な視点で捉える枠組みを提供している。
ここで、前章の生体情報工学における生体情報の認識に戻るが、上記の例ではこれまでの考察のようなオートポイエーシスとしての生体システムの認識が欠如しているのである。血液循環の例では、血管内の血液の体内循環という生体システムの一部をモデルとして取り出し、そこで行われる電子情報や物質、エネルギーのやり取りのみに注目しているのである。もちろん、このようなモデルは、人工心臓弁などの生体情報の一部を制御する機械の開発等には有効な手段である。ただ、生体システムの全体像を機械情報のモデルとして捉える試みは、血液循環のような一部の機能の機械情報モデルを無数に組み合わせるだけでは表現できないのではないだろうか。
このように生体情報という概念の捉え方の多様さは、多方面で混同されて利用されることが多い。多様な面を持つ生体と機械という概念をどう捉えるかという思考は究極的にはその捉え方をどのように利用しているのかという所まで踏み込む必要がある。
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事件、問題、病気
事件、問題、病気という言葉はもはや定義できないほど様々な使われ方をする。
○○事件、△△問題、□□病気という言葉である物事が命名されるとき、その物事は発言者から抽象化されつつ、すぐそばにあるような感覚を持つようになる。それは、一括りの要素として捉えられ、私の核となるものではなくほとんどはねつけるかのような対処をしなければならなくなる。注視はするが、決して相容れないものなのである。
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ホリエモンと私たち
さて、巷では待ちに待ったホリエモンバッシングが続いている。ジャーナリズムが抱える病が最も浮き彫りになるこういう状況は、かやの外にいる自分のような人間にとっては、まるで数百年に一度やってくる彗星を好奇心に満ちた眼差しで眺めるかのように説明のつかない興奮を巻き起こさせてくれるものである。思い返してみれば、ライブドアの成長型の企業形態、ホリエモンのアグレッシブな態度などが相まって彼に対する感情的な評価は極端に2分され、危ういバランスの立場にいたことには間違いない。しかし、このような飽和した触媒の上でホリエモンが摩ったマッチは一瞬で全国に飛び火した。ホリエモン自身、以前から積極的にメディアに露出し、メディアを企業経営に利用していた訳だから、こういうデメリットもわきまえていたはずで、飛んで火にいる夏の虫に何ら同情の念はわかないのだが、恐ろしいのは、多くの人が理解していても一向に改善されないマスメディアのこの状況である。話を広げれば、異物を排除する事に終始する人間という集団自体とても恐ろしいものだ。校内のいじめであれ、オウムであれ、猟奇殺人の犯罪者に対してであれ、9.11のアメリカであれ、異物というレッテルを張るものを意図的に作り出し、排除することによって団結する集団。またそれによって安心感を感じてしまう私たち自身の問題でも無いだろうか?
例えばこうは考えられないだろうか?もし友達と話していてホリエモンを知らない人がいたとしよう。「は?ホリエモンしらないやつなんかいるか!?」と考える前になぜその人はホリエモンを知らないのか考えてみると、「こいつは新聞も取ってないしテレビも見ないのか」となる。テレビも新聞も見ないその人はホリエモンについて知らない訳だからホリエモン騒動にたいして何ら考えももっていないし感情も抱いていない。「ということはなるほどー新聞もテレビも見なければよいのか〜」と結論付けれればよいのだが、そうもいかない。そこで「知る事に対する責任」という考え方を出してみたい。通信技術の発達など様々な要素が相まって個人が得る事ができる情報は時代を経るにつれて飛躍的に増大している訳だが、その情報を極端に
2分し、個人の生活に直接関係のあるものと間接的な関係にあるものとにすると、近年は飛躍的に増えているのは間接的な関係の情報の方ではないだろうか?また、情報の量に加えて種類も多様になってきている。そうすると、多面的に知りえる情報よりも表面的にしか知らない情報が多くなってしまう。加えて、情報の価値というまたべつの要素が出てきたりして、複雑極まりないことになっていくのだが、結論として、今の私たちに「自分のもっている考え、感情は表面的な情報にしか基づいていない」となっていることは無いだろうか?結局言いたいのは、情報を得る立場として多面的に情報を得る責任が自分たちにはあるのではないだろうかということだ。
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