ホリエモンと私たち
さて、巷では待ちに待ったホリエモンバッシングが続いている。ジャーナリズムが抱える病が最も浮き彫りになるこういう状況は、かやの外にいる自分のような人間にとっては、まるで数百年に一度やってくる彗星を好奇心に満ちた眼差しで眺めるかのように説明のつかない興奮を巻き起こさせてくれるものである。思い返してみれば、ライブドアの成長型の企業形態、ホリエモンのアグレッシブな態度などが相まって彼に対する感情的な評価は極端に2分され、危ういバランスの立場にいたことには間違いない。しかし、このような飽和した触媒の上でホリエモンが摩ったマッチは一瞬で全国に飛び火した。ホリエモン自身、以前から積極的にメディアに露出し、メディアを企業経営に利用していた訳だから、こういうデメリットもわきまえていたはずで、飛んで火にいる夏の虫に何ら同情の念はわかないのだが、恐ろしいのは、多くの人が理解していても一向に改善されないマスメディアのこの状況である。話を広げれば、異物を排除する事に終始する人間という集団自体とても恐ろしいものだ。校内のいじめであれ、オウムであれ、猟奇殺人の犯罪者に対してであれ、9.11のアメリカであれ、異物というレッテルを張るものを意図的に作り出し、排除することによって団結する集団。またそれによって安心感を感じてしまう私たち自身の問題でも無いだろうか?
例えばこうは考えられないだろうか?もし友達と話していてホリエモンを知らない人がいたとしよう。「は?ホリエモンしらないやつなんかいるか!?」と考える前になぜその人はホリエモンを知らないのか考えてみると、「こいつは新聞も取ってないしテレビも見ないのか」となる。テレビも新聞も見ないその人はホリエモンについて知らない訳だからホリエモン騒動にたいして何ら考えももっていないし感情も抱いていない。「ということはなるほどー新聞もテレビも見なければよいのか〜」と結論付けれればよいのだが、そうもいかない。そこで「知る事に対する責任」という考え方を出してみたい。通信技術の発達など様々な要素が相まって個人が得る事ができる情報は時代を経るにつれて飛躍的に増大している訳だが、その情報を極端に
2分し、個人の生活に直接関係のあるものと間接的な関係にあるものとにすると、近年は飛躍的に増えているのは間接的な関係の情報の方ではないだろうか?また、情報の量に加えて種類も多様になってきている。そうすると、多面的に知りえる情報よりも表面的にしか知らない情報が多くなってしまう。加えて、情報の価値というまたべつの要素が出てきたりして、複雑極まりないことになっていくのだが、結論として、今の私たちに「自分のもっている考え、感情は表面的な情報にしか基づいていない」となっていることは無いだろうか?結局言いたいのは、情報を得る立場として多面的に情報を得る責任が自分たちにはあるのではないだろうかということだ。
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