Talking about Title
タイトルの話のタイトル

ある日の平凡な会話。
A「今日『バッシング』見てきたよ。ありゃないでしょ。」
B「題材はいいのにもったいないよね。」
と、こんなふうに、私たちはある映画についてコミュニケーションするとき大抵はタイトルを使ってその映画を示そうとする。「ところでタイトルってなに?」ともし聞かれて、簡単に答えるとすれば「その映画を象徴することば」となるかもしれない。が、そんな単純にはいかないのだ。なぜなら、上の答えは一見正しいように見えて明らかに矛盾しているからだ。というのも、その映画を見る前に私たちはその映画のタイトルを知っているのである。象徴する対象である「その映画」が、それを象徴している「その映画のタイトル」という言葉の後にきているのだ。何かを象徴しているといっておきながら、その象徴しているものを後で知るなんてことがあるのか?このパラドックスを解決するには、私たちは「その映画」を見る前に、「その映画のタイトル」から「想像したその映画」を象徴の対象として持っているとするのが無難だろう。うう、ややこしい。
要するに、「タイトル」→「その映画の中身」という状態になる前に「タイトル」→「その映画はこんな中身かも」という状態が必ずあるということ。もちろん見る前の映画の中身を想像するのには、あらすじだったり、知り合いの感想だったりいろいろな要素はある。その中でタイトルはその映画を見る前に必ずしっいるものであり、どんな場合でも無視できない要素だろう。そして、「その映画はこんな中身かも」という先入観から私たちの映画への視点は逃れられない。結局、言いたいことは、タイトルによって私たちの映画の見方は大きな影響を受けるから「タイトルを勝手に替えないでほしい」ということなのだ。「死ぬまでにしたい10のこと」は、死ぬまでにしたい10のことの話ではなくて、My life without meの話である。また、「ナイロビの蜂」は、ナイロビの蜂の話ではなく、The Constant
Gardenerの話である。この様なタイトルの変更がされる外国映画はかなりの割合になる。もちろん言語が異なれば翻訳する必要があり、そういうことを含めていくともはや程度の問題でしかないのかも知れない。しかし、明らかな宣伝目的で全く違うタイトルをつける習慣はいかがなものかと思う。
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