可能性 ― 可能性に生き 可能性に死ぬ
子供の頃、自分の将来について夢を抱いていました。大人になったら何になるのか。多くの人が抱くように私もいろいろな夢をみてきました。警察官、科学者、医者、音楽家、頑張れば何でもできると思っていました。
成長するに従い、その夢も少しずつ変化し、長い学生生活を終えて就職する時点で最終的には自分の設計したロケットを飛ばしたいと思っていました。あの頃には実現する可能性があっりました。でも、実際には私の夢は文字どおり夢と消え、現実の厳しさを思い知らされることになるのです。
そんな頃と前後して「可能性」についていろいろ考えたことがありました。「可能性」とは何であろうか?「あり得ること」は「可能性」があると言い、「あり得ないこと」は「可能性」がないと言います。
では「あり得ること」って何?
その当時自分自身の人生において、確実なこと等は何一無かったし、よく判りませんでした。実現しなかったことは、結果的に「可能性」が全くなかったのと同じと思えませんでした。現実の厳しさを思い知らされていたのです。
たとえ「可能性」が99%あろうが、「可能性」が1%しかなかろうが、結局は実現したことが全てでした。つまり、最終的には現実(結果)が全てであって、現実しなかったことはすべて夢だったとしか思えなかったのです。つまり、結果論から言えば「可能性」は空想の産物だと。
何となく、「可能性」という言葉を自分自身で否定してみせたあと、そもそも、そういう訳の判らないものを「可能性」というのだと、再定義してみました。曖昧で、過去からみてあり得そうだと思えることは全て「可能性」がある。場合によっては、自分自身にはあり得ないと思えるものでも「可能性」があると、定義してみました。
私にはまだ「可能性」はある。努力すれば、勝ち取れるに違いない。「可能性」は素晴らしい。まず一度現実から逃避し、自分の夢に向かって頑張ればいいのだ。全ての実現に可能性はある。よーっし、頑張ろう!
だが、「可能性」についての思考は、その「可能性」自身によって、終止符を打つことになります。
こんな思いが頭をよぎったからだ。
もしかしたら「存在自体ですら可能性を超えられない。」
可能性についていろいろ考えていくうちに、全てのものは「可能性」でしかないと思えるようになり、そのうち自分が本当に存在していることの確信が得られなくなってきたからです。何を根拠に、何を証拠に、自分の存在を確信できるのか?痛いこと?悲しいこと?生きているのを本当に実感している?じゃあ死んだらどうなる?いろいろ考えていくうちに、自分自身の存在自体が、一つの可能性でしかないと思うようになってしまったのです。つまり、あり得ないと思うことも含めて全てに可能性があるということは、逆に確信を持っていることでも一つの可能性でしかないと考えるにいたってしまったのです。
えっ?限りなく100%に近いと思えたとしても、「自分自身の存在が一つの可能性でしかない?」
この思考はショックでした。
ますます、「可能性」が判らなくなっっていきます。
「可能性」について思考している自分自身が「可能性」の上でしか成り立っていない。まるで鶏が先か卵が先か?のように、「可能性」が先か?「存在」先か?という結果にいたってしまったのである。
果たして私の人生に「可能性」はあるのだろうか?「死す」べきか「生きる」べきか。「可能性」という得体の知れないものを胸に、思考を中断させて、しばらく生きてみることになります。
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