人生 ― 生きることの意味
多分ほとんどの人は自分が生まれてきた意味を知りたいと思っていることでしょう。そして多くの人が生まれたからには、何か意味があると思っていることでしょう。なぜなら意味を見いだすことは、その存在を肯定することにつながります。我々は自分の生まれてきた意味を見いだすことができれば、自分の存在を容易く肯定できるのようになるのです。
しかし自分の人生について思いを巡らし、どう生きるべきかを真剣になって深く考えはじめると、全てのことがどんどん曖昧になって、悲観的になっていってしまうことがあります。いや。たいていは悲観的になるのではないでしょうか。そんな時は自分の存在について疑問を持ってしまったりします。「自分はなぜ生まれてきたのか?」ってね。ここでは人生について考えてみたいと思います。
このような悲観的発想は挫折した時に特に強く感じることが多いですね。挫折は苦しいものであり、何度か挫折を感じてしまった人は、なんとか挫折しないように頑張ってしまったりします。だが、よく考えてみるとこれ自体が悪いループであったりします。実に悲しい悲しいループですね。挫折しないための人生ではないのに、挫折が辛かったばかりに自己防衛に一生懸命になってしまうのです。挫折しないように予防することによって、人生の喜びに素直に飛び込めなくなってしまったりしているんです。完全に本末転倒ですが、私はしばしばこのループの中にいます。どっぷりと浸ってたりしています。そんな時は、もうひたすら悲観的に突き進んだりします。
では、人生において、本当に生きる意味は必要なのでしょうか?自分が何の為に生まれてきたのか理由を得れれば、このような悲観的な状態にはならずに、本当に幸せになれるのでしょうか?
私の答えはNOです。
もし、この世に生まれてきた特定の意味を押し付けられたらどうでしょうか。例えば、「東大に行かないと人生に意味が無い。」だったら?「100mを10秒以下で走れないと人生に意味が無い。」だったら?
世の中のほとんどの人が不幸になってしまいますね。私も不幸のどん底です。そんなことで不幸のどん底に陥りたくない私は、そんな勝手に決められることなんて、あってはならないと思ってしまう訳です。
話がかわりますが、我々は成長過程においてゲームを学びます。架空のある特定の条件の上で、勝負するのです。そして、そのゲームには勝ち負けがあり、悔しい思いをすることもありますが、「負ける」ことを学ぶのです。ゲームによっては、または負けた相手によっては、非常に悔しい思いをしますが、たいていの場合死ぬほどではありません。
ゲームでは負けることができるんですね。でも、人生は負けれません。仕事では負けてもいいです。でも、人生では負けれないのです。友人と真剣勝負のテニスをして負けてもいいです。でも、やっぱり人生では負けれないのです。
人生においては、たとえ何かで負けてしまっても、他の何かで勝っていれば耐えられるのです。人間はその勝ったところに特別な意味を見いだすことができるからです。自分が勝ったもののほうが高い価値があると思い込むことができるのです。いや、そうしなければならないのかもしれません。
だんだん話が煮詰まってきました。そう。人生にはそもそも意味なんかなくても、自分で、勝手な解釈をして、自分の人生を最高のものにしていいのです。逆に言えば、意味を強制された時こそ悲劇なのではないでしょうか。どうせ黙っていても、人間は意味を見いだそうとする思考をします。これは人間の習性ではないでしょうか。自分の人生に価値を見いだそうとするのです。そうなって来ると、だんだん人生の意味なんてどうでも良くなってきませんか?
自分の人生に「そもそも与えられたはずの意味」を見いだそうと努力するより、そもそも与えられた意味は無いのだから、自分でその意味を見いだしてやろうと努力する方が楽しくないでしょうか。どうでしょう?
でもきっと、そんなに簡単に意味を見いだせるほど人生は簡単じゃないんですよね。そうなると、最後は「そこを前向きにとらえる」しか無いかもしれません。「自分の人生の意味を見いだそうと努力できるからこそ人生は素晴らしい!」ってな感じで。ゲームでもそうですよね。最後のエンディングが見たくて、一生懸命頑張っている最中が楽しくて、最後まで行ってしまうとつまらない。何かを作ったり、連続ものの映画を見たりしていてもそうです。最後まで到達した時に、達成感はあっても、実はその過程が楽しかったのだと気付くのではないでしょうか。
え?どう考えても、自分の人生が最高の人生と思えない?そうなんですよね。私もそうなんですよ。何かがハッキリしないんですよね。
たぶん、これは他に要因があると思っています。
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