情報 ― 人の幸不幸を左右する
知ることで最も恐ろしいのは、その不可逆性ではないだろうか。つまり、一度知ってしまうと、記憶喪失になるか、ぼけない限り知らない状態には戻れないのである。
若いときの私は知ることは常に正しい方向だと思っていた。確かに優れた人間にとってはそうかも知れない。だが私のような凡人には、その情報の真偽を正しく判断できないし、たとえその情報の真偽が判ったとしても、その情報を正しく処理しきれないのである。
今でも理想的には「全ての情報を得て、全てを正しく処理すること。」だと思っているが、実際にそんなことできるであろうか?少なくとも私にはできない。私の身近で起きる事象に対応するのが精一杯で、処理しきれない情報がどんどんオーバーフローし続けているのである。
ある時期から私は、「知りたい!」という強い欲望とは裏腹に、情報の流入を自分でコントロールし、遮断することを心掛けてきていた。それにもか関わらず、私は既に情報過多になってしまっているのである。
では情報過多の一番の弊害はなんであろうか?
私は、情報過多により、人生の潤いを感じにくくなってしまっていることだと思っている。しかも、世の中にあふれる全ての情報が常に操作されていて、正しい情報ではなくなっているのである。そんな情報に我々は惑わされているのではないだろうか。
確かに情報はあくまで情報で、真実でも事実でもなくてもよい。あくまで情報なのである。我々は自分にとって、意味のある真実・事実のみを情報として処理していいのである。それが情報だ。
しかし現代社会において、情報メディアが犯した罪は、大きすぎる。多くの新聞やテレビがその影響力を利用して、まるで自分たちが正義の使者であるかのように装って、情報を操作し続けている。
ニュースにしても。ドラマにしても。スポーツにしてもである。
例えば、私は気がついたときには巨人ファンだったが、それはテレビで巨人戦しか放映していなかったからだ。もし、他のチームの試合をたくさん放映していれば、そのチームのファンになっていただろう。今の私は巨人ファンでも何でもないが、子供の頃はやっぱり結果的には操作されていたのである。
私はドラマを見ない。恋愛ドラマの表現はあまりにもお粗末だと思っている。人の心はもっともっとどろどろしていると思っている。もっともっと葛藤に苦しみ、もっともっと、美しいものだと思っている。しかしテレビでのドラマでは心の表現があまりにも貧弱だ。かつてはドラマを一生懸命見ている時期があったが、百害あって一理無しだと思っている。恋愛のシミュレーションをやって、恋愛について勝手に妄想してしまい、実際の心と心のふれあいの阻害要因にしかなっていなかったと思っている。
わかりやすい例として、スポーツとドラマを取り上げたが、その他全ても一緒だ、我々は未だにウサマ・ビン・ラディンにしてもサダム・フセインにしても彼らの真の姿を私は知らない。今だにである。
うらやましいと思ってしまう世界のいろいろな情報を知れば知るほど、自分の人生がたわいもないものに思えてしまうのは、本当にくだらないことだと思うのだが、実際にそうなってしまっている自分がいまここにいる。たとえ今自分が素晴らしい生活を送っていたとしても、他人をうらやんでしまったりするのである。「なんかいいことないかな〜。」なんて発言してしまうのである。しかも、もう知らない状態へは戻れない。実に不幸なことである。なぜこうなってしまったのであろうか?
全ての情報が人を不幸にするわけではないが、やはり情報は諸刃の剣なのではないだろうか?
私は知らなくていいことは知らないままでいようと思っている。それは正しい選択であると思っている。
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