マルチエージェントシステムの個体レベル分析の方法論的研究

高階 知巳
電気通信大学
2000

[要旨]

知性を持った主体の社会の振舞いをモデル化するマルチエージェントシステム は、分散人工知能の文脈で提案され、その初期の研究においては研究室内の実 験が中心であったが、その後産業分野を含む人工システムの構築に応用されて いる。また、人工生命、人工社会といった複雑系の表現モデルとしても盛んに 用いられている。この様に、様々な分野でマルチエージェントシステムが用い られている理由としては、注目しているシステムが多数の自律的なエージェン トから構成されるという見方を提供することにより、相互作用を積極的に用い た複雑な振舞いが容易に実現できることや、自由度の高い記述能力を持ってい ることなどが挙げられる。

マルチエージェントシステムの構成の方法論において、問題点になっているの は、マルチエージェントシステムの振舞いが本質的に複雑でありその分析が困 難であるということ、及び、記述の自由度が高く検証が困難であり、かつ恣意 性を含みやすいということがあげられる。

前者のマルチエージェントシステムの振舞いの本質的な複雑さという問題に対 する解決策としては、統計物理学的な手法やゲーム理論を応用した手法などが あるが、理論モデルと実際のモデルの対応付けは容易ではないという問題があ る。また、後者の検証の困難さと恣意性の入り易さという問題に対する解決策 としては、基本的なアルゴリズムの評価方法としての標準問題やテストベッド に関する研究や、パラメータ設定を探索アルゴリズムにより決定する方法の提 案がなされている。しかし、前者、後者とも、構成したシステムそのものの評 価については、個別の現象の解析に偏りがちであり、それらの結果を客観的に 評価するための分析手法についてはあまり取り上げられてこなかった。

本論文では、マルチエージェントシステムの振舞いを理解するための理論が、 人工システムの構築、現象の理解の立場の両者にとって、今後不可欠になるで あろうと言う見通しから、そのような理論構築を助けるための実験ツールを提 供することを目指し、マルチエージェントシステムを構成する個々のエージェ ントに注目して分析する、個体レベル分析という新しい枠組を提案し、評価を 行なった。

個体レベル分析は、個体レベルの特性を各エージェント毎もしくは全エージェ ント間の分布として調査し、パラメータの影響の評価やモデル間の比較をする ものである。環境から情報を取り込むセンサ、行動を決める意思決定器、実際 に環境に働きかけるエフェクタの3階層から成っているエージェントにおいて、 個体レベルの特性として、それぞれの階層についての複雑さに注目する。本論 文では、センサと意思決定器の2階層について、それぞれの複雑さを情報論的 に定義し、その有効性を疑似生態系の実験への適用結果、及び、人工株式市場 の実験への適用結果により示す。

まず、適応能力を持つ人工システムの実現という文脈において、集団のマクロ な構造とエージェントが情報を獲得する方法の関係を個体レベル分析により明 らかにすることを目指した。そのようなシステムとして、有限オートマトンに よる意思決定モデルと進化論的計算手法を用いた、植物、草食動物、肉食動物 から構成される疑似生態系の計算モデルを示し、そのシミュレーション結果に ついて、センサに関する複雑さの分析を行なった結果、センサのレベルと意思 決定器のレベルの両者のインタラクションが集団の適応能力において重要な役 割を果たしているという結論を得た。

次に、エージェントの学習過程の客観的な定量化手法を個体レベル分析の枠組 みの中で提案し、人工株式市場モデルを用いて評価を行なった。人工株式市場 は、自律的に意思決定・学習を行ない株式を売買する複数のエージェントと、 市場メカニズムというエージェント間の調整機構から成り立つ。

人工株式市場の実験結果の分析では、意思決定の情報量により、入力の属性の 組み合わせと行動の間の相互情報量の分布を調べ、入力情報により意思決定が どれだけ影響を受けるかを定量化する。意思決定の情報量を用いてクラシファ イアシステムによるエージェントの学習過程を解析し、行動ルールが初期のラ ンダムな状態から規則性を獲得していく過程を定量的に把握し、エージェント の初期学習期間の妥当性の評価ができるということを示した。また、各時刻に おいて、入力の属性の組み合わせと行動の相互情報量の分布から、エージェン トの行動決定に最も影響を与える属性の組み合わせを抽出することにより、学 習の推移をおおまかにとらえることが可能であることを示した。

次に、マルチエージェントシステムを用いたシミュレーションの方法論におい て、記述の検証が難しく、また、恣意性が入り易いという問題を、個体レベル 分析を行なうことにより解決できるという例を人工株式市場のモデルを用いて 示した。ここでは、株価というシステム・レベルでは差異が認められない2つ のモデルについて、エージェントの行動の曖昧さに注目した方法を用いて分析 することにより差異を明確にできることをモンテカルロ・シミュレーションに より示した。従って、システム・レベルでは同等であっても内部構造の違いを 定量化することにより、モデルの恣意性を調べる1つの判断基準を得ることが できるということ、及び、個体レベルの特徴を観察することにより、設定した パラメータとシミュレーション結果の間の因果関係の客観的な説明を与える事 が可能であるということの2つの結論が得られた。

以上の実証例により、個体レベル分析の枠組みが、a) 適応システムにおける エージェント集団の構造とエージェントの性質の関係を調べる際の評価基準、 b) 学習過程を客観的に分析し、相互作用を設計するための評価基準、c) マル チエージェントシステムによるシミュレーションの質を高くするための評価基 準という3つの基準として用いることが可能であることが示され、その有効性 が検証された。

提案手法は個別の問題領域に依存せず一般的に応用可能である。このような分 析手法と実験を積み上げ、個体レベル分析により得られた各特徴量間の関係を 調べていくことにより、実際のシステムと理論モデルとのすき間を埋めること ができ、かつ、特定の問題に依存しない一般的な知見が導かれ新しい理論構築 へと繋がることが期待できる。本研究は、個体レベル分析という新しい枠組み を提供することにより、マルチエージェントシステムの設計・分析の方法論の 確立において部分的に貢献できたと確信する。