本日読んだ本何て穏やかな時の流れなんだろうと思う。
言ってみれば今日から昨日までとは違う新しい日常が幕を開けたと言うのに。 朝から仕事にも行かずに本を読んで過ごして居ても良い。 独りで本に没頭していると食べる事も眠る事も忘れて気がつくと西の空が赤く染まり、細く長くなった陽の光りが窓から差し込んでいる。 それさえ無視していると今度は読書スタンドの明かりだけが煌煌と眩しく、部屋は暗闇に包まれている。 iTunesのお陰で音楽は目覚めた時からずっと控え目に時間と一緒に流れている。 運命と言う大河の右岸を歩く男と左岸を歩く女の半生の物語。 数年のインターバルで橋が現れ、運命は交錯するけれども間に流れる大河は決して枯れることはない。 この形式のコラボレーションに興味を持って『冷静と情熱のあいだ』『愛のあとにくるもの』と読んだけど、完成度は回を重ねる毎に進歩している。 今回の『右岸』『左岸』はそれぞれが異なるのタイトルを付けた通り完全に独立しており、どちらかがどちらかの物語を補完するという関係を脱却している。 片方しか読まなくても十分に一つの物語として成立する。 それでも両方を読むと運命という1つの大河を右岸から見た風景と左岸から見た風景がこんなに異なって見えるんだ!?という現実を上手く捉えている。 橋が現れた瞬間に目にする光景から連想する背景は必ずしもその通りとは限らない。 ポジティブな見方もネガティブな見方も。 橋に至るまでの右岸で起きた事、左岸で起きた事は反対岸を歩む者には決して経験する事のできない時の流れ。 時の流れは無数の分岐をカオスの如く進み、容易に想像のできない物語を紡いで橋に出くわす。 橋が現れた瞬間に反対岸の時の流れを理解することなど到底不可能な事で、橋の向こうに見えた光景に思いを巡らす想像力はネガティブな方向に思考を誘い、橋を渡って反対岸に渡る勇気を奪ってしまう。まるで運命という見えない力に操作されているように。 物語のような大河ではなくても現実世界の小さな小川にかかる橋にだって多かれ少なかれそういう側面はある。 向こう岸を眺めて想像する出来事と向こう岸を歩んで経験する出来事はほとんど一致していない。 それなのに人は想像力に囚われて自分を苦しめる。そしてこんな小さな小川なのにその流れを枯らして道を一つにしてしまうことができない。 埋め立てたように見えても基礎工事が甘ければ再び亀裂に水が流れ始め、いつしか橋のかけられぬ大河に育ててしまう。 手抜き工事はマンション建設ばかりではなく、男女の関係構築の中に余りに多過ぎる。 『右岸』『左岸』に話を戻す。 主人公の超能力はちょっとやり過ぎだと思う。スプーン曲げくらいに留めておけば良いのに、テレポーテーションまでやってのけてしまうと現実味が薄れて興ざめしてしまう。 そしてどちらの作者にも共通して言える事だけど、あまりに人の死が身近過ぎる。 確かに死は至る所に有り触れてはいるんだけど、あまりにも物語の展開に死を利用しすぎる嫌いがある。 世の読者はジェットコースター何とかと表現するように早い展開を望んでいるのかもしれないけど、早く進み過ぎて感情移入が追いつかないシーンも多い。 Posted: 土 - 12 月 27, 2008 at 01:11 午前 | |